―1―
「おぉ、やっと理解出来たぜ、ダンケ!菊」
ノートにびっしりと書きこまれた方程式を見ながら、ギルベルトさんは今度はセンキュー、ありがとございますっと続けてお礼を言った。
「いえいえ。ギルベルトさん、自身が思ってるよりずっと数学の才能がありますよ。私が少し道を教えただけで直ぐに説いてしまいましたし」
次回からは、真面目に授業聞いてみてはいかがですか?っと提案すると、ギルベルトさんは思いっきり唇を曲げた。
「はー、ありえねぇよそんなん。俺勉強嫌いだし。……あ、でも菊の教え方は上手だからな。つまづいても、わかるまでキチンと教えてくれるし、なにより解りやすいしな。もしかしたら菊、カテキョとか、センコーになれんじゃね?」
「そうですか?まぁ、家でよくあの子に勉強を教えてるので、人に教えるの慣れてはいますけど……」
「あー」っと、ギルベルトさんが気まずげに語尾を伸ばす。
「そう言えば、菊の妹は……」
その言葉は最後まで言わなかった。言わないでも、彼が言わんとする事はわかった。私は「外の世界はあの子にとって、少々刺激の強すぎる処みたいです」と、兄らしく、そしてちょっと苦笑を交じわせた。
二年三組―――、このクラスの中には一人問題児がいる。とは言っても、教室で暴れて困るとか、誰々を殴ったとかじゃない。
彼女はそんな事はしない。いや、出来ない。何故なら彼女はけして、その姿をみせないのだから。彼女の名は本田桜。俗にいう、ひきこもりと言うやつだった。
私は彼女が羨ましかった。親に甘え、兄に甘え、それを甘えだとも感じていない、その愚鈍な姿が、どうしようもなく愛おしかった。
彼女は、まるでもう一人の私だった。私の理想形。私の願望をそのまま形にしたような子だった。羨ましい。羨ましい。もし、私が「桜」で彼女が「菊」だったならば、私たちの立場はまるで正反対だったのかも知れない。そんなありうる筈がなかった未来を、私は夢みては直ぐに消した。
私が家に帰ると、彼女は何時もの同じく、真っ暗な部屋の中にいた。部屋で何をしていると言われれば、何もしていないと答えるのが妥当だろう。だけど、きっと彼女は答えのでない難題に挑んでいるのであろう。彼女はその事について何にも言わなかったが、私にはなんとなくわかった。多分、私が彼女の兄だからだろう。
彼女の姿はベットにあった。ベットで、虚空を見つめ、体を横にしていた。
長い長い、彼女の髪。彼女の歴史ともいえるその髪を手にとった。
手入れのいき届いたその髪は、音もなく私の手から逃げるように落ちていった。私はその髪に、自らの唇をこっそりと落とす。
暫くすると、彼女が振り向いた。ようやく私の存在に気づいたらしい。
兄さん、とその唇から、私を形象する言葉が漏れた。あやふやだった私の形は、彼女の言葉によって徐々に形どられていく。
「おかえりなさい、兄さん」
「えぇ……ただいま。桜、元気にしてましたか」
そう訊くと、桜を目を伏せ「変わりありません」と言い、微かにうなずいた。まぁそうだろうと思ったが、私は何も言わなかった。
「ねぇさくら……。もっと、私の名前を呼んで下さい」
「兄さん」
「もっと」
「きく……兄さん。兄さん、どうしたの?」
ありがとう、と礼を言うと、彼女は小首を傾げた。そんな無知な所もまた可愛い。私はこの無知の理由を知っている。ヒトと接していないからだ。だから彼女は無知で純粋で美しい。
永遠に、私の宝物。
永遠に、愛しい、愛しい、私の影。
―2―
私の名前は、本田菊。優しくて、明るい彼女の兄。
私は彼女の兄とだけして存在し、それ以外には存在しない。彼女以外といる時は、私はとたんに自分の影を失う。影を失うと、私は息が出来ない。声が出ない。何も考える事が出来ない。
あの仲の良いギルベルトさん相手でも、私は彼女なしじゃ存在を保っていられなくなる。怖い。不安なのだ。自分が其処に一人で存在する事が。
だから私は言葉の端々に、彼女を登場させた。けして押しつけがましくなく、出しゃばらないように、彼女の存在を彼らの世界に定着させていった。
そうして、ようやく私は息をつける。
だけど、そんな私にも彼女がなくても生きていける時間があった。毎週火曜日の五限目。そこで私は、影を手にいれる。
理科の授業は選択式で三、四組の合同で授業を行う。席は自由。私が教室の中に入ると、すぐさま大きな腕が宙を舞った。
「菊っ!」とびきりの笑顔で、私の名を呼ぶ。
私は気づかないふりをして、教室に視線を彷徨わせる。そうすると、また「きくー」と、今度は拗ねたような声を出す。私はたった今気づいた振りをして、彼に向って微かに笑みを返した。
アルフレッドさんの隣の席に腰掛けると、理科室のほこり臭いに交じって、何か甘い香りが漂ってきた。
「おやおや、飴ですか」
「リンゴ味。菊も食べるかい?」
「いえ。もう直ぐ先生が来ますから、早く処理した方がいいですよ」
「こんなもんバレないんだぞ」
「聞く処によると、あの先生最近医者に間食を止められたそうですから、甘い物なんて見つかったら大変ですよ」
ちなみに、あと二分程度で来ますよっと言うと、彼は音をたてながら飴を噛み砕いた。
その後、授業中にチョコを食べていたギルベルトさんが、先生に怒られた。アルフレッドさんがほっと息をついて、「Thank you、菊」と耳元でささやいた。私は髪をいじりくりながら「いえ……」とだけ応えた。
私はアルフレッドさんの前では、不思議と最初から彼女を影に使う事はなかった。相手のペースにのまれて、彼女の存在をにおわす事が出来なかったからだ。だけど、今はそれでよかったと思っている。
この時間、私に「妹」という影はいらない。
この時間、この時の中で……、私はアルフレッドさんという、影に変化する。
正直いうと、私は彼に淡い恋心のようなものを抱いる。だけど、私は彼にそれを悟られるような行為はしていない。顔に出ないよう、行動に出ないよう、自分の思考回路を徹底させた。
彼はストレートの人間だった。だからと言って、特別私みたいなヒトに偏見を持ってはいない(ように見えた)。だけど偏見を持っていないからといって、別に男を抱く事が出来るわけではない。私はその事をよくわかっていた。
だからこの事は、自分の身の中にひっそりと隠しておいた。
そうやって、桜の影を借り、アルフレッドさんの影になった。そして私は必死に、私を保っていた。あの日までは――…、
その日、会うなり彼は怒ってた。いや、真剣な顔をしていた。もしくは、子どものように目をキラキラと輝かせていた。どれが正解だっただろう。わからない。全部かもしれない。
とにかく、彼はこう言った。
「菊、なんで言ってくれなかったんだい?」
私は薄々感づきながら、「なんの事でしょうか?」とワザととぼけてみた。
「だから」と彼は言う。彼の口から、私の妹の名が形象された。……君の妹、「桜」のことさ、と。
彼は何処で、それを知ったのだろう。いや、思えば彼女はずっと私の影だったのだ。私が彼女の存在をもらす前に、彼女の存在を知る機会など幾らでもあった。だけどこれは、とんだ誤算であった。
彼は私に大量の質問を浴びせた。私はその中から、辺り触りのない事を幾つかこたえた。彼は私に言った、「彼女にあわせてくれよ」っと。
もしも、もしも、私が「桜」であり、彼女が「菊」であったなら。菊は一体どうしただろうか。もしも彼が女であったら。もしも私が女だったなら。
何故、何故私は菊なのだろう。
―3―
その後の流れは、まるで物語の終息のようにあっさりと進んでいった。
「お姫様は王子様のキスによって目覚めました。そして、お姫様は王子様のお城で、幸せにくらしましたとさ」と、まさにこんな感じであった。
それでも詳しく事の次第をと言うなら、こうだ。
お姫様と王子様は、まるでドラマチックな演出もなく、私というおまけ付きで出会った。だけど、二人がお姫様と王子様である限り、そんな出会いはどうだっていいのだろう。何故なら彼らはどう出会おうと、もう運命が決まっているのだから。
そして王子様こと、アルフレッドさんの強引な行動に背中を押されるように、桜は再び学校に行くようになった。
登校日前日、彼女は長い髪をバッサリと切った。
何だか慣れませんね、と自身の髪を撫でながら彼女は呟いた。そこに以前の彼女はいなかった。私は彼女が王子様のキスで穢れてしまった事を悟った。
アルフレッドさんの隣には、自然と彼女の姿を見かけるようになった。
初めこそ、周りがガヤガヤうるさかったものの、そこは私がうまく立ち回った。周囲は自然と、彼らを認めるようになった。
もっと、誰か反発しないものか、と思ったが、なかなかその一歩を踏み出す人間がいなかった。まぁそれだけ私が、上手く、そつなく、立ち回ったという証拠だろう。
私はまるで、彼女の影のようになってしまった。
私は「桜」という「妹」を持つ人間でも、アルフレッドさんの影でもなく、「桜」の「兄」になってしまった。
もしも私が「桜」だったなら。
もしも私が「桜」だったなら、私はアルフレッドさんと普通に恋愛ができたのだろうか?
好きだと言って、キスをして、愛を確かめ合う事ができたのだろうか?
もしも私が「桜」だったなら。
私はその可能性を提示しては、現実味のないそれを消していく。
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腐向けです。菊→アル桜描写があります。