「ねえ、おじさん」
そう呼ばれたのは、渋谷駅をみつめるハチ公の前を通りすぎ、道玄坂にむかって交差点を渡ろうとしたときだ。ちなみに
声の主は、まだ幼い少女だった。幼稚園児ぐらいだろうか。真白なポンチョで上半身を包み、髪を耳の上で結んだ姿が雪ウサギを連想させる。愛らしい少女ではあるが、宗也をみつめる瞳には意志の強そうな光が浮かんでいる。
そこまで観察してから、宗也は首をかしげた。時刻は夜の八時をすぎている。子供がひとりで出歩くような時間でも、また場所でもない。しかし少女の連れらしい人物はどこにも見当たらないのだ。他人にしてみれば、宗也こそが彼女の保護者と映るのだろう。若すぎる父親に、皆が奇異な視線を投げていく。
「……俺になにか用でもあるの?」
人々の誤解を解くには、一刻もはやく少女と別れるしかない。そう悟った宗也に問われて、少女はうなずいた。
「あたし、ねえ。あなたのチョウチョが欲しいの」
「チョウチョって……蝶々?」
思わずそう聞きかえしながら、あたりを探る。しかし真冬の夜空の下。蝶々など飛んでいるはずもない。
「あなたのは、とてもキレイなのよ。透きとおった羽がキラキラ光っているの。とても珍しいから、どうしても欲しくって」
だから声をかけたのだと言いたいのだろう。瞳を輝かせて、その蝶がいかに美しいのかを説明してくれる。
いつの間にか、宗也が渡るはずだった交差点は信号が変わっており、駅からあふれ出た人々で、あたりの人口密度があがっていた。鈴の音のような少女の声は、当然、彼らにも聞こえているのだろう。そこには、渋谷という街にそぐわない和やかな雰囲気が漂いだしていた。
「ねえ、いいでしょう?」
観客たちを味方につけて、少女は懇願し続ける。否、そんな可愛いものではない。宗也は苦虫をかみ潰した。少女のそれは、否定を許さない脅迫にも似ていた。
「わるいけど、俺は蝶なんて持ってないから」
言い切り、少女に背をむける。タイミング良く歩行者用の信号が青に変わり、一斉に人々が動きだす。その波をすり抜け、宗也は小走りに交差点を渡りきった。しかし道玄坂に入っても、後ろから笑い声がついてくる。イヤな予感を覚えて、宗也はふりむいた。
「ねえ、チョウチョ」
ポンチョと髪を揺らしながら、少女は右手を差し出してくる。
「あのなあ」
脱力しながらも、宗也はひざを地面につけて、少女と目の高さをあわせた。
「バカなこと言ってないで、さっさと家に帰りなさい。ガキが遊ぶ時間じゃないぞ」
「おじさん、家まで送ってくれるの?」
……だれが、いつ、そんなことを言ったのだ?
怒鳴りたくなるのを堪えながら、ひきつった笑みを少女にむける。
「お兄さんはね、これからキレイなお姉さんとデートなの。だから君を送ってあげる時間はないんだ」
「あら。だったらそのお姉さんと一緒でもいいんだけど」
あっさりとかわされて、宗也はかえす言葉を失った。そのとたん、はじけるような笑い声が響いてきた。声の主はフェイクファーのコートを着た女で、交差点を渡る前から少女と宗也のやりとりに肩を震わせていた人物である。
非難めいた宗也の視線に気づいたのは彼女ではなく、彼女の友人らしいショートボブの女だ。たしなめるように友人のコートの裾を引いているが、彼女の態度は変わらない。どうやらかなり酔っているようだ。
「それなら、わたしたちが家まで送ってあげるわよ!」
叫んで、少女の肩に手をまわす。強引に抱きよせられて、少女は呆気にとられたような表情で女を見上げた。
「お家、どこなの? お母さん、きっと心配しているわよ」
少女を安心させようとしたのだろう。もう一人の女がやさしげな表情をうかべて、少女の腕を握りしめる。そして、ちらりと宗也を盗み見た。この子は自分たちが引き受けるから、どうぞこのまま行ってください。彼女の目はそう告げていた。
この手を逃す他はない。一歩、二歩と少女から後ずさって、踵をかえす。しかしその気配を悟られた。
「待って、おじさん!」
背中につき刺さる少女の声に体を強ばらせた後、宗也は脱兎のごとく逃げだした。
「……と、いうわけでさ。もしあの子たちが助けてくれなかったら、あのままどこかに連れて行かれそうだったんだ」
湯気をたてるカフェオレに砂糖を混ぜながら、宗也は肩をすくめてみせた。閉店まぎわの喫茶店は閑散としており、宗也の前に座る緋沙子も、無言でキリマンジャロを口に運んでいる。サロメという名のこの店は、タロット占いを生業とする緋沙子の仕事場でもあった。
少女から逃れた宗也がサロメにたどり着いたとき、緋沙子はまだ仕事中で、自分の順番を待つ客が何人も店にいた。それを確認した宗也はカウンター席に座り、顔見知りのマスターと会話を交わして暇を潰した。その間も緋沙子の客は増える一方で、途絶える様子がない。結局、仕事にうんざりした緋沙子が閉店を宣言して客を追い払ったのは、宗也が店に来てから約三時間後のことである。
緋沙子はもともと口数がすくなく、客商売にはむかない女だ。言葉を紡ぐという行為に、すでに飽きてしまったのだろう。疲れたわ、と最初につぶやいたきり、宗也の話に相槌ひとつ打とうとしない。だが宗也も緋沙子のそんな態度には慣れていて、いちおう聞いてはいるのだろうと、勝手に話を続けていく。
「だけど、いるはずのない蝶をくれだなんて冗談、いったいどう切りかえせば良いって言うんだよなあ」
生意気な少女の声が聞こえてきたような気がして、宗也はため息をもらした。なにか言いたげな緋沙子の視線を感じたのはそのときだ。
「たしかに、あなたの蝶は綺麗だわ」
漆黒の双眸に宗也を映したまま、かすかな笑みを唇に結ぶ。
「別に、からかうつもりはないけれど」
にらむような宗也の視線を受け流し、緋沙子はテーブルに置かれたタロットへと腕をのばした。カードの束を崩して、その間から一枚だけを抜きとる。
「気をつけなさい、宗也。こういう存在があなたの蝶を見たならば、きっとまた手に入れたいと思うでしょうから」
緋沙子がめくって見せたカードに、描かれていたのは巨大な鎌。それは『死神』を象徴するカードだった。
「ほら、来たわ」
……なにが?
そう言いかけた宗也の前に、現れたのは二羽の蝶だ。宗也の頭上を旋回するそれは、モンシロチョウによく似ていた。だがかすかに青みがかった羽は弱い光を放っていて、自然界に生息する蝶とはどこかちがっている。
「あのお姉さんたちのチョウチョなの」
少女の声はすぐ近くから響いてきた。
いつの間にやって来たのか。なぜこの場所が分かったのか。無人だったはずの隣のテーブルに、あの少女は座っていた。両腕で頬杖をついて、見下したような笑みを宗也にむけている。
宗也は息を飲みこんだ。その後ろで、店のドアにとりつけられた金属製のチャイムが、新たな客の訪れを告げた。
「まいったよ。事故で渋滞しててさあ」
大声でマスターに話しかけたのは常連客のひとりで、個人タクシーの運転手をしている男だ。
「渋谷駅の南口から、玉川通りを越える歩道橋があるだろう? そこから、車道に飛び降りたらしい。ああ、自殺だ。それも若い女がふたり一緒だって言うんだから、世も末だよなあ。こっちはいい迷惑だよ」
口汚く罵る運転手を、マスターがなだめる声がする。その会話に耳を澄ますこともなく、宗也は少女をみつめていた。少女のふてぶてしい表情を見れば、それ以上の説明を聞く必要はない。
「あんまりキレイじゃないけれど、ついでだから採っちゃった。あたし、おじさんの蝶をもらいに来たのよ。でも」
ちらり、と視線を緋沙子に投げる。
「そっちのお姉さんが恐いから止めておくわ。じゃあ、またね」
一方的に言い放ち、少女が椅子から飛び降りる。つられて宗也も立ちあがった。店の出口へと走りだした少女にむけて、腕をのばす。背後に流れる髪を握ったつもりだった。しかしなにかをつかんだ感触はなく。髪は腕をすり抜けてしまう。宗也は足を止めた。
少女の姿は、宗也から遠ざかるたび、まるでその存在自体が幻だったように薄れていく。そしてドアをくぐる前に、煙のように消えてしまった。
茫然と立ちつくす宗也に、マスターが不思議そうな顔をしている。おそらく少女の姿すら、その目に映っていなかったのだろう。
「まだ子供のようだから、多少のいたずらは仕方がないのかもしれないけれど」
磁気を帯びた緋沙子の声が、宗也を現実へと引き戻す。ふりむくと、緋沙子の視線はテーブルの上で舞う蝶にむけられている。
「それほど欲しくなかったのなら、わざわざ採らなければいいのに、ねえ?」
告げながら、のばした指が蝶に触れる。同時に、それが『蝶』としての形を失い、あわい光の粉となって弾けた。そして咲き終えた花火のように、しずかに宙に消えていく。
……古来、死んだ人間の魂は蝶になると言われている。
そんな伝承を思いだしながら、宗也は舞い落ちる光の残がいをみつめていた。
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「あなたの蝶が欲しい」と宗也を呼び止めたのは、あどけなさの残る幼い少女。
だが「蝶など持っていない」と言っても聞かずに、少女は宗也についてくる。
はたして少女が求める「蝶」とは。