No.363042

いつか晴れた日の縁側で

kanameさん


閃光のナイトレイド:高千穂勲×伊波葛。空白の三ヶ月妄想。
2011.08.22発行『上海ナイトショウ』寄稿


2012-01-14 09:52:25 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:629   閲覧ユーザー数:629

 

 

それは、あまりにも穏やか過ぎた日の出来事。

 

 

激しく流転する日々に、つかの間、訪れた優しい時。落ち着かなさを覚えながらも、この時間が続けばいいと、願わなかったと言えば嘘になる。

 

いや、自分たちの行動の果ては、静かで安らかな未来へ繋がると葛は信じていた。この日と同じ、和やかな時間へ至ると。

裏切りという形を取らざるを得なかった仲間たち、護るべき祖国、敬愛する祖母、皆に平らかな時間が降り注ぐと思っていた、願っていた。

 

そう、高千穂大尉が約束をくれたから。

 

執務室の扉をこんこんっと、小気味よく二度叩いて、葛は来室を告げる。柔らかな陽光が差し込む昼下がり。しんっと密やかな空気が積もる場に、ただ紙を繰る音だけが微かにあった。

 

書面に注がれる真剣な大尉の眼差し。そこにどんな未来があるのかと、葛は興味を惹かれた。

 

そっと後ろから覗きこんでみようか。淡い企みが葛の胸に浮かぶ。けれど、葛はすぐにそれを打ち消した。葵相手でもあるまい、そんな無礼なことをと、魔が差しかけた己を律する。

 

袂を分かった今になっても、共にした時間を葛に思い知らせるかの如く、思考に、行動に、葵の存在がふとよぎる。ああ、毒されている……と葛は苦く思った。

 

求めるものはここに、高千穂大尉のもとにあるというのに。だからこそ、自分は彼らを……葵を裏切ったというのに。

葵の気配が深部にまで浸みている自身を嘲りながら、心中にあった面影を踏み砕いた。

 

手にしていた盆にのった茶の表面が、ほんのわずか、ゆらりと動く。それは、葛のうちに起こった揺らぎを反映していた。

平静さを取り戻すために、葛は射干玉の瞳を薄い瞼の奥に隠す。己が作り出した薄闇に、もう葵の影がないことをはっきりと確かめた。そして、葛は再び瞳を開く。

 

そこには、先ほどと寸分違わず、ひたすらに未来を思う大尉の姿があった。

陽光の欠片を纏いつかせる姿に、どうしてか、葛は深い安堵を得た。あてもなく漂う小舟が、灯台を見つけた時は、こんな心地であろうか。

 

ほっと息を吐くと、できるだけ己の存在を消して、執務机へと近づく。大尉のお邪魔にならぬように……と、細心の注意を払った。

葛の心配りは功を奏したようで、湯呑みを卓上に置いても、大尉の視線は己が手にある未来に向けられたままであった。その一途さに、葛は可憐な唇を、我知らず綻ばせた。

 

退室の言葉を物静かな空気に溶かして、葛は辞去しようとする。そこに小さな呟きが不意を突いて落とされた。

 

――おや、茶柱だ。

 

鼓膜に触れた響きが、扉のノブに手をかけようとしていた葛の所作を制した。耳朶に流れた含み笑いに釣られて、葛は瞳を彷徨わせる。

 

すると、ついさっき置いた湯呑みを手にする大尉の姿に行き当たった。大尉が思い描いていたはずの未来は、湯呑みと引き替えに机上にある。

 

笑みを含んだまま、大尉は茶を一口啜った。「伊波くんは、茶を淹れるのが上手だね」と、向けられた言葉には、悪ふざけじみた響きがあった。

 

大尉に対する細やかな配慮も、取るに足らない企みも、看破されていたことを葛は悟る。それどころか、一瞬胸を過った、微かな惑いさえも見透かされている気がした。

 

いたたまれない思いに、葛は駆られる。けれど、立ち去る頃合いを葛は完全に逸してしまっている。

意識せぬままに、葛の柳眉がよった。葛の秀でた額。その滑らかな肌に刻まれた皺に目をとめて、大尉は楽しげに笑みを深める。

 

「ふふ、いつもの凛々しいのもいいが、困り顔もいい。実に可愛らしいよ、伊波くん。…………立ったまま、というのも、何だね……。ほら、こちらへおいで」

 

耳慣れない褒めの言葉に、どうしてよいか判じかねている葛へ、大尉が手を伸べる。その挙動に、葛はますます困惑して立ち尽くした。

 

次の身のこなしを奪われた葛に、大尉は急いた気配もない。むしろ葛の様子に愉楽を覚えているようだ。

ほら、こっちだよ……と、聞き分けのない幼子に、噛んで含める調子で誘う。そして、もう一方の手で、自分の隣の椅子を、ぽんぽんっと鳴らした。

 

執務室とは言っても、少人数での会合の場も兼ねている。机もそれにふさわしい広さを持っているし、椅子の数も十分だ。

ただ、大尉と大尉が示す椅子の距離が、近すぎる気がする。主と客分というよりは、ごく親しい者同士が語り合うような……、有り体に言えば、恋人同士が睦み合うような距離である。

 

「なに、取って食いはしないさ。……ああ、でも、そんな風に警戒されると、うっかり悪戯をしてしまいたくなる」

 

本気がわずかに内包された大尉の声音に背を押されて、葛は少々慌ただしく席に着いた。

失礼します。と、忘れかけていた断りの言を遅れて述べる。葛らしからぬ態度に、くっくっと噛み殺した笑いを大尉は唇の隙間から漏らした。

 

葛に素通りをされて、宙に浮いた手をひらひらと舞わせながら、振られたか……と、冗談めかした音を大尉の唇が形作る。そして、ことさらにゆっくりと「君は本当に可愛い子だ」と囁いて、葛の白皙の面を薄く染めさせた。

 

まろやかな輪郭を有する葛の白い頬が、紅を帯びて、水蜜桃の風情を醸し出している。目に甘いそれを、お茶請け代わりにして、大尉はまた湯呑みを口に運ぶ。

 

「…………君の淹れてくれる茶は、とても上手い。私が知るなかで、二番目の味だよ。けれど、すまないね。客分ということをなしにしても、本来なら君がすべきことでもないだろうに……」

 

「二番目の味」と言われて、では、一番目は誰だろうと、ほんの少しだけ対抗心めいた興味が葛にわいた。だがしかし、それを問うことは、ひどく恐ろしいことに思えた。

 

間近に見た大尉の艶消しの瞳。その漆黒があまりにも穏やか過ぎて、葛は深淵を覗き込んだ心地がした。

凪いだ表に気を許して、うっかりと踏み込めば、どこまでも深く深く、引きずり込まれてしまう。そして、二度と這い上がることはないだろう。

 

思わず知らで震える葛の唇。可憐なそれが採択したのは、詫びは不要という飾り気のない応えであった。

 

「いえ、私が勝手にしていることです。大尉が、お気に病むことではありません」

 

書生や従卒の真似事は、葛が望んでしていることだ。大尉はもとからいた部下と同様に葛を扱うことはない。

大尉が多忙な折りは、ここにある本に目を通しておきなさいと、大尉の個人的な書斎に通された。また、大尉の身体があいた折りは、今、祖国が置かれている現状、進むべき道を語って聞かされた。

 

上官と部下、主と客分というよりは、教師と教え子という関わりのほうが近い気がする。あるいは、カリスマと崇拝者か。

大尉の唇から綴られる言の葉のひとつひとつ、放られる声の音までが、葛を惹きつけてやまない。

 

まして、葛が最も欲していた、けれど、葛が最も欲してはならぬもの。『岸田琢磨』から奪われたものを与えられてしまえば、なおさらに離れがたい。

 

御国の防人となるよう育てられたこの身と心。桜井機関では無用とされたそれらのものを必要とされて、葛は誇らしかった。純粋に嬉しかったのだ。

 

身に過ぎた扱いを受けている自覚は、葛にもある。

――こういう話に目を輝かせる相手が、あの人にはまだ必要なようだ――という久世少尉の言葉通り、大尉が望むままに、その役割を受けようとも思った。

 

けれど、満たされれば満たされるほど、――高千穂勲のもとに何がある?――という葵の叫ぶような問いが鋭さを増した。耳に残る葵の声が、抜けない棘となって、葛を苛む。

 ――未来だ。と、答えた言葉に嘘偽りはない。ただ、あの時は自分の足で、自分の意志でそこに向かっていると思い込んでいた。

 

とんでもない自惚れだ。実際は大尉から与えられるばかりで、何ひとつ自分では選び取っていない。

 

それを息苦しく感じて、飛び出そうとしても、どこへ行けばいいのか、葛にはわからなかった。

耳に優しい大尉の声音。大尉の語る言葉だけが、葛のくすむ視界に彩りを添えてくれた。大尉の傍でだけ、楽に呼吸ができる。まるで、重度の中毒患者だ。

 

しかし、大尉の情けを享受するばかりの自身を、葛は許容できない。大尉の傍らにいるための、正当な理由が必要だった。葵と共にいるのに、仲間という理由が必要だったように。

 

茶を淹れるのも、寝所の支度を整えるのも、身支度を手伝うのも、すべてが高千穂大尉のすぐ近くにいるための方便であった。

あまりにも身勝手な言い訳だ。自身の狡さに眩暈がする。大尉からの詫びの言葉など受け取れるはずがない。

 

頑なに詫びを拒む葛を、大尉は、何とはなしに、困ったように笑んで、見つめていた。自己嫌悪に尖った葛の心を、大尉の優しさの過ぎる視線が撫でる。

 

そして、大尉の眼差しが、葛の奥底に沈んでいた純度の高い感情を、ふいにさらう。大尉に引き出されるままに、それは、葛の唇から零れ落ちた。

 

「…………少しでも、大尉のお役に立てるなら、その……ぁ、とても、嬉しく……思い、ます」

 

自分のものとは思えないほど、たどたどしく綴られた台詞によって、葛は自分の感情を自覚した。

初めて茶を淹れた時も、身の回りの世話をした時も、「ありがとう」と返される大尉の言葉が、ただひたすらに嬉しかった。

 

それは、『岸田琢磨』として祖母に教えられ、『伊波葛』となっても、捨てきれなかったものを、高千穂大尉に欲された時の喜びと、根を同じくしている気持ちであった。

 

後付けの理由が取り払われてしまえば、葛の献身の構造はひどく単純なものだ。

 

ただ、必要とされたい。『岸田琢磨』『伊波葛』という表層の呼び名を超えて、自分自身を。

 

それだけのことでさえ、言い訳が必要であった自分の回りくどさに、葛は呆れた。桜井機関での最初のミッションの時、葵の手を取るまでの心持ちに、よく似ていた。

 

大尉と葵。対極に在るような二人。けれど、確かに葛の中では重なる部分があった。

一体どちらに自分はより多くを浸食されているのか。

 

ひとりで立っているつもりが、いつのまにか依存させられていた。必要とされる快楽に、目隠しをされて気がつかぬままに。己の愚かさを、葛は、ひそりと嗤った。

 

自らを嘲る笑みは、どこか切ない。軽く噛みしめられた唇が、なおさらに哀れだ。苦しい風情の葛は、大尉の庇護欲をそそった。

 

「……どうしたものかな。私は今、とても君を抱きしめたいよ。伊波くん」

 

抱きしめて、慰めてやりたい……。と、甘く瞳を滲ませながら、鼓膜に触れた言の葉は、葛の芯を柔らかく溶かしていく。ぐらりと視界が揺れて、力が抜ける。

 

逃げ出すことも、ましてや大尉の腕の中に、この身を晒すことなどできやしない。混迷が、葛の眉間の皺をまた深くする。

 

「ああ、そんな風にしたら、跡が残ってしまうよ。いけない子だ……。せっかくの可愛い顔がもったいない」

 

瞳よりも、なお甘い声音が葛の耳朶を濡らす。大尉の手がそっと葛の頬にあてられた。その思いの外、高い体温に気を取られている隙をついて、葛の額に、儚い熱が落とされた。

 

驚きに開かれた射干玉の瞳に、大尉のくっきりとした喉仏が映っている。それは、焦点が合わぬほど近くにあった。葛は、額に触れる柔らかな熱が、大尉の唇だと知った。「ぁっ……」と喘ぐように、葛は吐息を零す。

 

額にあった大尉の唇が、耳朶を掠め、頬を滑り下りていく。唇の表面に、かすかに湿った呼気を感じた。大尉の品の良い唇が、葛の可憐なそれに被さろうとした。

 

あっと思う間もない。力を失っていたはずの葛の腕が持ち上がり、手のひらで大尉の口元を覆った。虚を突かれて、大尉の瞳は見開かれている。

 

自分の所作が拒絶を表していることに、鈍くなっていた葛の思考が、ようやっと至った。

 

「っ…………も、申し訳、ありません。大尉」

 

思わず、謝罪の言葉が口をついた。慌てて手をどけようとしたところで、逆に大尉に手首を掴まれ、阻まれた。

ふっと笑う息が、葛の手のひらを擽る。ぴくりと指先が跳ねたところで、一本一本、順に口に含まれ、丁寧に舐めあげられていく。 

 

大尉の瞳は、常の穏やかさを取り戻している。しかし、その奥には艶めかしい光が宿されていた。その瞳に絡め取られて、葛は視線を逸らすことができない。

 

「……っ、ぁ、大尉。もう、おやめください」

 

指先から走るぞくぞくとした感覚を堪えながら、葛は解放を乞うた。小さく笑って、葛の手の甲に貴婦人に対するが如く優雅な所作で口づけると、大尉はその願いを叶えた。

 

「ふふ、まだ、私に本気で口説かれるのは、困る。……ということかな?」

 

葵くんは意外に強敵のようだね。と、戯れめいた言葉をよこされる。唐突に示された葵の名に、葛はまた、眉をよせる。そして、返答に窮した挙句に発せられた声は、拗ねた気配を多分に含んでいた。

 

「高千穂大尉は、存外に……意地が、お悪い……」

 

「伊波くんが、あまりにも可愛らしいから、つい、ね……。まあ、いい。今はここまでにしておこう。――我々も、そろそろ動かなければならない」

 

葛を包んでいた大尉の物柔らかな空気が、冷たく、硬質なものとなる。部屋に差し込んでいた光は、落暉へと移り変わっていた。

不安を煽るような赤が、これまでの穏やかな時間の終幕を告げている。

 

椅子から立ち上がると、一歩下がり、葛は身を正す。そして、真っ直ぐに高千穂大尉を見つめて、静かに敬礼をした。

 

軍人然とした葛を瞳に映して、大尉は淋しげに、唇を笑みの形に歪めた。

 

「すべてが終わってから、先ほどの続きをしようか。また、こうして君の淹れた茶を飲みながら、桜でも眺めて。いつか、晴れた日の縁側で……」

 

 

――妹に、吉蔵、それに葵くんもいる前で、堂々と君を口説き落としてみせるよ。葛、……いや、岸田、琢磨くん。

 

 

疾うに失ったはずの名を呼ばれて、葛の心臓がどきりと、ひとつ脈打った。なぜ、自分の名を……と、問おうとして、大尉の和やかな瞳にぶつかる。

 

落暉が溶かし込まれた瞳に、雪菜、棗、大尉……。そして、葵と一緒に花見をしている自分の幻を垣間見た気がした。あまりにも、優しい幻影に、葛は問う声を忘れた。

 

その代わりに、葛は思う。こんな安らかな光景の一部になれるなら、大尉に口説かれてみるのも、悪くはないかもしれない……と。きっと、困り果てることになるだろう。けれど、その困惑すらも愛しく思えるだろう。皆と共にいるならば。

 

いつか、晴れた日の縁側で、もう一度、葵と同じ時を過ごすことがあるならば、その時は……。高千穂大尉のついでに、葵に茶を振舞ってやってもいいかもしれない。

 

夢のようにあてもないことを考えながら、葛は大尉に微笑みを返した。伊波葛でも、岸田琢磨でもなく、ただ、素のままの自分自身の笑みを。

 

 

 

――いつか、晴れた日の縁側で……。

 

 

 

 それを祈りの言葉のように、何度も胸に唱えながら。

 

 

 

                          【終】

 

 

 
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