No.363041

真夏の死

kanameさん

閃光のナイトレイド:葵×葛

――たぶん俺も夏に死ぬだろう。父や母、そして西尾と同じように。
秋を夢見ながら、この秋のような男を恋しく思いながら……。
葛は射干玉の瞳を瞼の奥に隠して、意識を闇に沈めた。

続きを表示

2012-01-14 09:40:44 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:483   閲覧ユーザー数:483

 

 

「もういいのか?葛」

 

 

写真館の自室の扉を開こうとノブに手を伸ばした。すると、ふいに背後から問う声が耳を打つ。

否応もなく慣れ親しんでしまった気配。それに気づかぬとは、我ながら、らしくないと思う。

 

背を向けたまま西尾を見送った時とは、また別種の苦さが葛の胸に広がった。

 

背後が甘いんじゃないのか、と、揶揄の言葉を放られれば、つい、つられて振り向いてしまう。貴様には関係ないと突っぱねて、部屋に引きこもるという選択肢は、これで消されてしまった。

 

詮索するのは趣味ではないと、殊勝な口を聞いておいたくせに。       

 

やはり葵は、無遠慮で、実に厚かましい男なのだ。秘しておきたい人のうちを暴こうとするとは。葛の射干玉の瞳に険がこもる。

 

天窓から差し込む月明かりが、暗闇の奥からくっきりと葵の姿を映し出していた。からかう響きの声音に反して、葵の瞳はやけに真摯な光を宿している。

 

その光に気圧されて、返す言葉も、取るべき所作も、闇に溶けて失った。

 

「……葛。本当に、もういいんだな。もう、お前の中でケリはついたんだな」

 

もう気は済んだのかと、一語一語区切るようにして、再び問われた。それは質問というよりも、聞き分けのない子供を諭す色合いが濃い。

 

心配という名の葵の無神経さに、ぎりぎりで押しとどめていた何かが、胸のうちで静かに破裂した。

 

脊髄反射的に、身体が動く。一気に距離を詰めて、葵の胸倉を掴んで強引に引き寄せた。殺しきれぬ勢いのまま、葵の唇に己のそれをぶつける。

 

がつりとした鈍い音が、合わせた唇の間から生じた。じんとした痛みが唇から頭の後ろへと抜ける。何を思っているのか、葵は僅かに眉を顰めただけで、葛のするに任せている。

 

そんな葵の態度に胸が凪ぐどころか、かえって得体の知れない衝動は、狂暴さを深くした。

 

葛は葵の唇に思い切り強く歯を立てる。

 

そして、葵が怯んだ隙に舌を口内に忍ばせた。上顎や頬の内側に、ゆるゆると舌を遊ばせていると、錆びた鉄の香が鼻腔を擽る。

 

先ほどの接触で、口のどこかに傷を負ったのであろう。どちらのものとも知れない血液が、互いに纏いついた舌を伝って、唾液と共に唇の端を彩った。

 

くちづけの間、双方の瞳は閉ざされることがなかった。

 

互いの胸のうちを探りあうかのように、互いに相手を逃さぬかのように、視線はきつく絡み合ったままだ。瞬きすら許さない張り詰めた空気の中で、くちづけだけが、ただ激しさを増していく。

 

先に瞳を閉じたのは、意外にも葛のほうであった。

 

ぴんと張った睫毛の束が、白くまろやかな頬に影を落とす。空恐ろしいほどに澄んだ葵の眼差し。あまりにも真っ直ぐなそれに、心の最も柔らかな部分を貫かれる気がしたのだ。

 

青い血管の透ける薄い瞼の下に、葛は一体何を隠したのか。葛自身にさえも分かりはしなかった。

 

葛から視線を断ち切られたことを契機にして、今度は葵が葛を引き寄せた。乱雑な動きに耐え切れなかったシャツのボタンが、ひとつふたつ零れ落ちて、からからと床を鳴らす。

 

「誘ったのは、あんただからな。逃げるなよ」

 

どこか切実に響く葵の声が、熱い舌とともに葛の形のよい耳朶にねじ込まれた。瞳は伏せたまま、存外に長い睫毛を微かに震わることで、葛はそれに応える。

 

しっとりとした重い黒をした睫毛は、月の光を受けて、水を含んで濡れているかに見えた。

 

先刻までの手荒さが幻であったと思うほどに、丁寧に慎重に壊れ物を扱う所作で、葵は葛を月の届かぬ廊下の闇へと落とした。

 

そっと触れてきた葵の唇には、まだ血の味が残っていた。

 

高い体温を有していると思っていた葵の唇は、思いのほか冷たい。闇にほの白く浮かびあがる葛の肌。そこを軽やかに滑る葵の唇は、薄赤い名残を刻んでいった。

 

低くやんわりとした温度は、夏特有の熱気に火照る肌に沁みて、とても気持ちがいい。葛の目元が知らず知らずに甘く滲んでいった。

 

喉を侵して、肺腑をじわじわと焦がしていく夏の大気。ひとつ呼吸をするたびに、一歩、彼の岸へと近づく心地がした。

 

あるいは、おがらに灯された迎えの明かりの如き蛍火に惹かれて、彼岸を住まいとする人々が、こちらへと渡って来るのか。

 

いずれにしろ、熱せられた大気は、生臭い死の気配を含んでいる気がした。

だからこそ、夏の空気はどこか冷めた昏さがあるのだ。あてつけがましい陽光とは裏腹に。

 

あらゆる生あるもの達において、夏は最も命が漲ると同時に、最も死と近しくなる季節でもある。

 

伊波葛の、いや、岸田琢磨の一番古い記憶は夏にあった。大方にとっては、色鮮やかであろう季節。しかし、琢磨にとってのそれはモノクロームで満たされている。

 

忙しなく降り注ぐ蝉の声。煙突から空へとすらりとした煙が昇る。

 

細くたなびくそれは女性的な優美さを備えている。そしてまた、潔く実直に一途なまでに空を目指す様は、滅私奉国の志を思いださせた。

 

その煙は、かつては母であった人なのかもしれない。かつては父であった人なのかもしれない。まだ幼く死というものが理解できなかった琢磨は、父と母は煙に変じたのだと思った。

 

少し離れたところに、祖母のしゃんと伸びた背中が見える。常と変わらぬ誇り高い立ち姿に、悲しみの気配を見出すことはできない。

 

ふいに墨色の着物に包まれた祖母の肩が、瘧のように震えた。

 

祖母の背がやけに小さく見えたのを、今でもはっきりと覚えている。武士の家に生まれたものは、ああして涙を流さずに泣くのだと、今ならわかる。

 

銀版写真のざらついた風情を有したそれらの光景は、常に鈍い感傷と共に、夏の空気によって想起された。

 

白黒の記憶のなかで、西尾だけが色彩を持って存在している。互いの足から流れる血の赤さだけが、網膜に焼き付いて離れない。痛みに強張る頬を撫でる西尾の手が、燃えるように熱くて、ひたすらに苦しかった。

 

西尾が夏のような男だとしたら、葵は秋のような男だ。

 

脳裏にふと浮かんだその考えは、悪くないものに思えた。

 

 

夏の太陽にあぶられ疲弊した肌を宥める秋風に似た愛撫。枯れた葉の色をした髪。

そして、優しく朗らかな趣を持つのに、時折ひどく淋しい影を引くところが、秋を思わせるのだ。

 

ふと瞼を開くと、気遣わしげにこちらを見つめる葵と目があった。

 

葵の手が伸びて、情交の甘いきざしに熟した葛の頬を包む。ひんやりとした薄い掌は、やはり気持ちがよかった。

 

ほっと息を吐き出すと、葵が安堵したかのように唇を笑みの形に歪ませる。

 

無理矢理に組み敷いて、好き勝手に人の身体を暴きたてようとするくせに。容赦なく血肉を貪る肉食獣の目をしているくせに。

 

こういう表情をして見せるは、葵のずるいところだ。思わず絆されそうになる。

 

頬を包む葵の手が耳朶の形をなぞって、乱れた前髪をかきあげた。

額に触れる葵の唇の温度に、ふいに瞳が緩む。

 

じわじわと熱い液体が瞳の表面を覆った。葛はそれが零れ落ちぬように、再び瞳を閉ざす。

 

 

 

 

 

 

――たぶん俺も夏に死ぬだろう。父や母、そして西尾と同じように。

 

 

 

 

 

 

 

秋を夢見ながら、この秋のような男を恋しく思いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

END

 

 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
0
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択