No.362808

正月

natsubiさん

シリーズもの2作目。 http://www.tinami.com/view/361157 と同じシリーズになります。

2012-01-13 20:21:50 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:373   閲覧ユーザー数:373

「これとこれ、ください」

 指差されるのは学業と家内安全のお守り。

「娘さん、今年受験ですか?」

 背後から話しかけて笑うのは、高嶺神社の神主、高嶺松壱である。日本人には珍しい淡い髪の色をしているが、意外と和装が似合う。

「ええ、そうなの。うちの子は松ちゃんみたいに頭が良くないから、神頼みしないといけないのよ」

 そう答えて笑う中年の女性に、沖は袋に入れたお守りを渡した。

「そんなことないですよ。マツイチはヤマはりが得意なだけなんです。お嬢さんのほうが努力家でしょうから必ず志望校に受かりますよ」

「そうだといいけどねー。沖ちゃんこそ、毎年この時期は従兄のお手伝いなんて偉いわよ」

 ありがとうございます、と告げて沖は松壱を見つめた。

(望んで手伝ってるわけじゃないんですけどね)

(黙って働け)

(ていうか、従兄ってなんですか。誰ですか)

(うるさい)

 間に品台を挟んで、神主と売り子は睨みあった。

 そんな二人を無視して、沖の隣の青年が話しかけてくる。

「おい、沖。つり銭が足りないぞ」

「品台の下の箱に入ってる」

 黒髪の青年は、そうだったと手を叩いて台の下を覗き込む。それを見下ろしながら、沖はため息をついた。

「黒刀(こくと)、いい加減覚えてくれよ。何年、ここの手伝いしてるのさ」

 そう言うと、青年――黒刀は手を止めた。箱を持つ手が力むのが見て取れる。そして黒刀は紫黒の双眸でこちらを睨んできた。

「覚えてどうしろというんだ。俺はお前らの手足じゃないんだぞ。毎年毎年、こき使いやがって」

 不満げに答える烏天狗――今は人の姿をしている――を見下ろして、松壱は冷ややかに言い放った。

「毎年毎年、大晦日に年越し蕎麦をタダ食いしてるのは誰だ」

「沖じゃないか?」

「お前だ。そのまま泊まった挙句、雑煮まで食べやがって」

「そんなこともあったな」

 はぐらかす黒刀に松壱は突き刺すような眼光を向けた。

「黙って働け」

 周りの者には聞こえないほどの声だった。だが人ではない黒刀と沖には十分な声量で、それだけ告げると松壱は身を翻して人の波の間を去っていった。

「……ったく」

 黒刀の呟きを聞いて、沖は苦笑した。

「懲りないね」

 仏頂面でこちらに向き直る天狗に沖は続けた。

「黒刀がうちの世話になったのは間違いないんだから、手伝いくらいしてもいいじゃないか」

 黒刀は品台の下で長い足を窮屈そうに組み直すと、ついでに腕も組んだ。

「頼まれるにしても、あいつは実によくやる気をそいでくれる」

「まあ、可愛げはないけど」

 適当に返しながら、沖はこの男に店番に対する「やる気」なんてものがあっただろうかと疑った。疑惑の眼差しには構わず、黒刀は相手の笑顔に眉を寄せた。

「お前のその緩い笑みも、やる気をそぐ」

 きっぱりと言われて沖は苦笑した。自分の頬を引っ張ってみせる。

「そうかな?」

 そう言ってまた笑う狐に黒刀は胡乱(うろん)な眼差しを向ける。

「無自覚ならなお悪い」

「……え?」

 意味が分からず沖は首を傾げて見せるが、彼はそれ以上答えなかった。追求してさらにやる気をそいでも仕方ないので、沖はそのままこちらに向かってくる客に視線を移した。

 

 そういえば、と沖が切り出したのは、一時的に客が減った頃だった。

「年末あたりにさ、ボヤ騒ぎが何件かあっただろ?」

「知らん」

 黒刀は短く答える。

 揺草山の裏側にある小さな庵で暮らしている彼に、人間側の情報はあまり入ってこない。彼の中で最新の情報といえば「白が勝った」である。

「あったんだよ」

 沖は青い双眸を細めて続けた。

「まだ大した被害にはなってないけど。どれも普段は火の気のないところで発生しててさ……」

「火の気のないところは、そして、人気のないところでもあったんだろう?」

 指摘すると、沖はこちらを向き、その青い瞳に浮かぶ光を強めた。

「犯人はまだ捕まってない」

 ほとんど睨み合うような格好で沖と見つめ合っていた黒刀は、やがて息を吐いた。

「なるほど。それで最近、高嶺神社の御神体様は機嫌が悪いわけだ」

「……ああ」

 先ほどの黒刀の言葉を理解して、沖は「バレバレ?」と聞き返す。不機嫌を隠して作った笑顔だと見抜かれていたのだ。黒刀は頷く。

「チビがうろついてないのがいい証拠だ。あれでも多少は使えるのにな。おかげで仕事が増える」

 彼の言う「チビ」とは銀狐ユキのことを指す。沖は苦笑を返した。

「家で留守番をしてるんだよ」

「まあ、いいさ。お前より高嶺のほうが機嫌悪そうだしな」

 聞こえないとはいえ、周りに大勢の人がいるのにあのように毒を吐く高嶺など、らしくないにも程がある。よほど気に障ることでもあったのだろうと黒刀はあたりをつけていた。

「高嶺もそれでああなってるのか?」

 黒刀は両方の人差し指を頭の横に立てて見せた。もちろん鬼の角を示している。

 笑いながら、沖は首を振った。

「放火のニュースを見てもマツイチは無関心だったよ。……マツイチが理由も見当たらないのに不機嫌なときは風が悪いときなんだ」

「ああ、例の?」

 石段を駆け上がってくる風、それが悪いと嫌なことが起きるらしい。松壱の予知ともただの勘ともとれるその感覚は、沖と黒刀には理解できないものだった。

「で? 急にその話をして何を」

 言いかけて、黒刀は顔をしかめた。

「高嶺の不機嫌とお前の不機嫌の原因が重なったりする、とか言わないだろうな」

 沖はにっこりと笑う。今度は機嫌の悪さなど垣間見ることさえ出来ない笑みだ。

「嬉しいなあ。黒刀は察しが良くて」

 狐の言葉は更なる労働の要求と等しい。黒刀は耐え切れず、またため息をついた。

 売り子の格好のまま、黒刀は鳥居の上に立っていた。背中には黒い翼。今の彼は人間の瞳では捉えることは出来ない。

 腕を組んで紫がかった黒い双眸を細める。

(ようするに、近くで怪しい奴を探せばいいんだろ)

 沖は店番をしている。さすがに二人して抜け出せば、高嶺からの制裁は計り知れない。そこで店番に慣れている沖のが神社に残ることになったのだ。一応ユキも呼び出している。不機嫌な沖を避けていた彼女であるが、その原因を始末するための呼び出しであるならばと思ったのか、案外素直に出てきた。

(……というか、なぜ俺がこんなことをしなければならないんだ?)

 揺草山の天狗として生まれて六百二十年。自分なりに山を守ってきたつもりだ。

 四百年前に沖が高嶺神社にやってきた。それ以来、どうも自分は天狗としての威厳を失っている気がする。

 神社のお守り売りに座っている天狗など聞いたことがない。少なくとも、自分は聞いたことがない。

(特に、現高嶺は人使いが荒い)

 もちろん、現高嶺――松壱のことは彼が生まれたときから知っている。

 何があって、ああいう性格になったのかは。

(分からないでもない)

 黒刀は組んでいた腕を外すと、ゆっくりと下界を見渡した。

 灰色の居住区とせわしなく動く車、地平線はかすんでいる。都会とまでは言わないが、間違いなく人間達によって開発されてきた町だ。

 そのなかで揺草山だけは遥か昔から変わっていない。

 自分と、そう、自分だけではなく、高嶺一族もまた守ってきたからだ。

 黒刀は息をついて、頭を掻いた。

(不審人物……ね)

 鳥居を蹴り、宙に舞う。

 沖は揺草山及びその周辺に放火魔がいるはずだと言った。気配がする、と。

 もともと玄狐の一族は高い妖力を誇る妖狐の一族だ。そのうえ沖は高嶺神社のご神体としてまつられたことにより、飛躍的にその能力を伸ばしている。

 特に神社を中心とする揺草山一帯は沖の妖力で覆われているのだ。何か異変が分かればすぐに彼に伝わる。

(だからと言って、放火魔かどうかまでは分からない……と)

 主従揃って人使い。そう思いながら、黒刀は山肌に沿って滑空していった。

 

「黒刀はどうした?」

 先ほどまで黒髪の青年が座っていた場所に銀狐を見つけて松壱が眉を寄せた。参拝者はピークを過ぎ、ひと段落着いたところだが、まだ暇だというには無理のある状況である。

「ああ、ちょっと用事だって」

 沖は笑う。その笑みに胡散臭さを覚えて松壱は眉間のしわを深くした。

「用事か。で、どんな用事を頼んだんだ?」

 ぎくり、と動きを止めた狐を冷ややかな双眸が見下ろす。

「くだらない用事で労働力を手放したんじゃないだろうな?」

「く、くだらなくなんかないよ!」

 沖は声を大きくして松壱のほうに身を乗り出した。

「山の周辺でおかしな気配を感じるから、それを確認しに行ってもらったんだ」

「……おかしな気配?」

 表情を変えた松壱に、沖は頷いてみせる。

「悪意に近いんだ……」

 二人のやり取りを見ていたユキが口を挟んだ。

「……もしかして、噂の放火魔ですか?」

 沖はユキのほうを振り返って、首を縦に振った。

「確信は出来ないけど、そういう可能性もあると思ってる」

 そして背筋に冷気を感じて肩をすくめる。ユキもぴたりと動きを止めた。沖は恐る恐る背後を振り返ってみた。そして後悔した。

 松壱が笑んでいる。

 商売用の笑みでも、沖たちをバカにした笑いでもない。凄絶、そんな表現のあう笑みだった。

「……揺草山(うち)に火をつけようとは、随分と豪気な放火魔だな……」

 その言葉に足がすくむ自分に、沖は気づいた。

 この山で一番恐ろしいのは、風と雷を操る烏天狗でも、大鬼すらも打ち倒す妖狐でもない。信じがたいほどに高い霊力を有する、この宮司である。

「……あー、マツイチ、放火魔じゃないかも……しれないから、ね」

 沖は両手で押さえるようなポーズをしながら、なんとか笑顔を作ってみた。

「……そうだな」

 頷きながらも、ブラウンの瞳に浮かんだ光は冷え冷えとしている。沖は貼り付いた笑顔に冷や汗を浮かべた。

(火に油を注いだのかも……)

 松壱には高嶺神社の宮司として、揺草山を守ろうとする意思がある。自分の進みたい道を選んでいいんだぞ、そう言った先々代に彼は首を横に振って見せた。進みたい道は祖父の歩んできた道だ、と。

 そんな松壱がとりわけ不機嫌だった日に、山に火を放とうとする者がいるのだと聞けば、どう考えるかは想像に容易(たやす)いだろう。

 沖は松壱を見た。

(……なんで宮司を継ごうなんて思ったんだろう)

 高嶺神社の宮司になるということは、すなわち沖の主人になるということである。人外の領域との交わりとなるのだ。もちろん霊力の低い者には務まらない職である。

(自分の力を自分が一番疎(うと)んでるくせに)

 それでも、守りたいものを守るためならば――。

(それがマツイチの強さ、かな)

 黒刀は放火魔を見つけたら、すぐに対処してくれるだろうか。沖は空を見上げて、天狗の気を探ってみた。変化が見られないことからすると、彼はまだ山を探索しているのだろう。

「ありがとうございまーす」

 嬉々とした高い声に沖ははっと我に返った。横に視線を転じると、ユキが若い女性に紙袋を渡しているところだった。

「ぼけっとしてないで、沖様も手を動かしてくださいよー」

 こちらを振り向いて、ユキは唇を尖らせた。沖が思わず苦笑する。

「正月ばかりはさすがのユキもマツイチの味方をするんだな」

「仕方ないじゃないですか。ユキはお蕎麦もお雑煮も食べちゃったんですからー」

 働かざる者喰うべからず。雑煮を頬張っていた子狐と天狗に発した松壱の一言である。二人は箸を持ったまま固まっていた。

 毎年繰り返されるその一場面を思い出し、沖は眉を下げた。

(学習能力がないと言うかなんと言うか……)

 それとも、それでも食べずにはおれない松壱の手料理のなせるわざか。

 沖の表情を見てユキは頬を膨らませた。

「あ、沖様、ユキのことしょうがないなーって思ってるでしょ。沖様なんかお蕎麦の油揚げ二枚も食べちゃったくせにー」

 沖は両手を上げて降参の意を示した。

 そして松壱を視界の端に入れながら、笑顔で答える。

「分かったよ。しっかり働かせていただきますとも」

 中空でぴたりと立ち止まって、黒刀は目を凝らした。

(まさか、あたりか?)

 よれよれのコートを着て、マスクをつけた男が、山の裏手側にあるもう一本の道の辺りを歩き回っていた。何かを探しているのか、きょろきょろと周りを見回している。髪はぼさぼさでもう何日も櫛を通していないように見えた。

 男は山に入ろうとするわけでもなく、かと言って草むらを掻き分けて探し物をするわけでもない。はっきり言って挙動不審だ。

(見てる奴がいないかを探してるんだな)

 ほぼ確信して、黒刀は男に近づいた。そして哀れな男は背後に天狗がいることにも気づかない。

 誰もいないことを確認すると、男はコートのポケットからごそごそとライターとしわくちゃの広告紙を取り出す。それを見て、黒刀は姿を現した。もはやこの男が放火魔だということで間違いない。

「おっさん、寒い日にする焚き火にしちゃ、ちょっとばかり場所が悪いんじゃないか?」

 背後から声をかけられて、ぎょっとして男は振り返った。あきらかに神社の関係者だと分かる格好の黒刀を見るなり、更なる驚愕で顔を染める。

「なっ!? いつの間に!?」

「さっきからいたんだけどな。まあ、あの高慢宮司ならともかく、お前には見えてなかっただろうな」

 訳が分からないと言った様子で、男は眉を寄せる。黒刀は構わず男の手の中のライターを蹴り上げた。

「うあ!」

 男は悲鳴を上げ、ライターはくるくると飛んで道端に落ちる。

 蹴られた手を庇って背を丸める男を見下ろして、黒刀は腕を組むと、冷たい声で告げた。

「お前のせいで、俺は高嶺に八つ当たりされたんだよ」

 八つ当たりなどと言えば、松壱はそれこそ機嫌を損ねるだろうが、この場にいないならば問題ない。そして自分がしているのも八つ当たりと大して変わらないということは棚に上げて、黒刀はそのまま続けた。

「だいたい何だって火付けなんかやるんだ。どうせ付けるなら、コンロに付けて鍋でもしてろよ」

「……楽しいんだよ」

 男がぼそりと呟く。眉を寄せる黒刀に、男は濁った双眸を向けた。

「炎はいいよ。すべてに対して絶対的強者だ」

 生ぬるい風が足に絡んでくる。風は男のほうから吹いていた。

「お前……」

 相手の正体を悟った黒刀の妖気がゆらりと濃くなる。

「なあ、天狗だって例外じゃないんだぞ。炎には勝てないだろう?」

 男の声が二重にぶれる。黒刀は冷ややかに告げた。

「雑魚が何を偉そうに……。その体から出ろ!」

 にやりと笑った男の顔が歪んだかと思うと、次の瞬間には地面に倒れている。

 代わりに陽炎のように揺らめく青白い坊主が立っていた。白と黒の簡素な服は僧特有のものだが、ひげを生やして下卑た笑みを浮かべるその男は破戒僧としか見えない。

 まとう炎は地獄の炎だ。罰を受けながらなお、現世へ執着する男が妖怪へと変じたのだろう。

「やだねえ、火付けの楽しさが分からない妖怪は」

 しわがれた声でそう言って笑う妖怪を、黒刀は睨みつけた。

 

 神社の店番をしていた沖とユキは客足が途絶えて休憩しているところだった。

 茶を啜っていた沖が突然立ち上がる。側のユキがびくりと跳ねた。松壱もそれを見て、表情を険しくする。

 狐耳を生やして、気配を探る様子を見せた沖の青い双眸が山の裏手を睨んで止まる。

「どうした、沖」

 宮司の声に振り返り、沖はためらいがちに答えた。

「……妖気だ」

「何?」

 松壱が片眉を上げる。彼は霊力が高いながらも、霊的知覚能力の方はさほど高くない。妖気だと言われても、それがどの方向に感じられるのかが分からないのだ。それなりに近づかない限りは、松壱は妖怪を察知することが出来ない。

 沖は側頭部を撫でて耳を人間のものに戻した。目線を上げて松壱を見つめる。

「放火魔は妖怪に取り憑かれていただけだったんだ」

「……黒刀が見つけたのか、場所はどこだ?」

 問いながら、松壱は頭につけていた烏帽子を外した。

(行くなと言っても聞かないだろうな……)

 沖はため息をついた。

「……山の裏手道。言っとくけど、黒刀が応戦してるからね」

 だから行ってもムダだと言外に含めるが、松壱は意に介さなかった。

「構うか。そろそろ参拝客の相手も飽きてきたところだ」

「あ、それずるい。マツイチ!」

 宮司の思惑に気づいて沖もあとを追おうするが、松壱は極上の笑みでそれを制した。陽光に淡い色の髪が美しく輝く。

「あとは頼んだぞ、御狐様」

 唖然とする沖にじゃあなと告げて、松壱は狩衣姿のまま駆け出す。

 その姿が見えなくなって、沖はやっと我に返った。

「ああ、もう。俺だって……」

 と、走り出そうとした沖の袴を、小さな手が捕まえる。

 振り返って見下ろすと、今度は銀狐が小悪魔的な笑みを浮かべた。

「沖様は店番ですよ」

「そ、そんな……」

 訴えるまなざしを向けるが、ふるふると頭を横に振られ、沖はがっくりと肩を落とした。

 青白い炎が矢のように飛んでくる。

 黒刀は呼び出した錫杖でその炎を横薙ぎに消し払った。

「おおー、やるねー! さっすが天狗様だ」

 手の平に新たに炎を作り出しながら、坊主の姿をした妖怪――火餓坊(ひがぼう)というらしい――は笑う。手裏剣を飛ばすようにして、火玉を黒刀に向けて撃つ。

「狐に山を取られても、さすがは山神の従者だ。強いねえ!」

 嘲りに黒刀は奥歯を噛み締めた。怒りを錫杖を握る手に込め、一閃で炎を消す。

「取られてねえよ!! 貸してんだ!」

 叫んだ黒刀の上を風が走る。静かな声が彼の耳を撫でた。

「借りてなどいないぞ」

 暗い山道にはっきりと見える狩衣が宙で舞い、放たれた蹴りが火餓坊の頭を直撃した。

「ぐうっ」

 一瞬白目をむいて、火餓坊がよろめく。

「高嶺!?」

 地面に降り立つ宮司に驚いて、黒刀が声を上げる。

「何をしに来たんだ!」

 叱り付ける天狗に、立ち上がった松壱は冷めた視線を向けた。そしてしれっと言い放つ。

「ストレス発散」

「なっ!」

 松壱はうるさいとでも言うように明るい色の双眸を細めた。黒刀がぐっと押し黙る。

 その横で立ちくらみから脱した火餓坊が歯を剥いた。死人色の体が陽炎のように揺れている。

「人間ごときが……」

 体の小さな坊主を松壱が見下ろす。

「どうにも傲慢なくせに狡賢そうな、卑屈を背負ったような顔だな。――醜い」

「きさまっ!」

 青いはずの妖怪の顔が赤黒く染まったように黒刀には見えた。

(それにしても、やはり口が悪い)

 ちらりと松壱に視線を移す。なまじ端正な顔の持ち主だけに、彼に嫌味を言われると腹が立つことこの上ない。

「その格好、神社の神主か」

 火餓坊は茶髪の青年を睨み上げながら、片手に炎を宿した。

「人間が妖怪の戦いに手を出せば、火傷だけではすまんぞ。それを、教えてやろう」

 松壱は口元に薄い笑みを浮かべた。

「俺を凡人と同じにすると、自分の火で身を焼くことになるぞ。懇切丁寧とは言わないが、授業料がもらえる程度には教えてやろう」

 火餓坊がかっと目を見開く。まさに火に油を注ぐとはこのことだ。

 黒刀はため息をついて、頭を掻いた。

「高嶺、あんまり煽るなよ」

「分かってる」

(分かってない)

 振り返らずに答える松壱にもう一度ため息をつく。そして銀色に燃え上がる霊力が黒刀の目に映った。

(大したもんだ)

 思い出すのは初代高嶺、名は松韻(しょういん)といったか。黒刀の覚える限り、松韻は人間の中では最高の術者であった。四百余年、その力は衰えることなく脈々と受け継がれているらしい。

(まあ、使い物にならない奴もいたりしたけど……)

 先代高嶺は十分に力を持っていた。松壱はその力をしっかり受け継いだようだ。

 その先代高嶺のことを思い出し、唇を歪める。

「食らえ!」

 火餓坊のしゃがれた声が耳を打ち、黒刀は顔を上げた。

 複数の妖火が松壱を襲う。松壱は袂を翻しながら、宙に何か描くかのように腕を振った。パパッとその軌跡が光り、浮かび上がった陣が飛んでくる炎を打ち消す。

 ぎょっと目を丸くする火餓坊を一瞥し、松壱は指先でその陣を撫でた。明るい瞳は更に輝きを増し、内側で光を弾いているようにも見える。

「反拍」

 ぐるりと円が右に半回転し、先ほど自身に放たれたものと同じ炎を吐き出す。ゆらゆらと青い火玉。

 ついに火餓坊は声を上げた。

「なっ、ちょ、ちょっと待てー! お前、人間のくせに術を使うのか?!」

 きょとんと、松壱は両手をこちらに向けて待ての姿勢をしている妖怪を見た。

「お前も元人間だろう?」

「今は妖怪だ!」

 さらに松壱は答える。

「俺は人間だ」

 火餓坊は唾を飛ばしながら声を荒げる。

「だから! なんなんだ、お前! 人間で術を使える奴なんか今はもうほとんどいないんだぞ! それを見るからにまだ人生二分の一も生きてないようなお前が、使えるんだ!」

 松壱が眉間に皺を刻むのを見て、黒刀は小さく苦笑した。

 確かこの高嶺神社宮司は今年二十一を数えるはずだ。現在の日本人の平均寿命を考えれば、二分の一というのは明らかに多すぎる。

(火餓坊から見れば、二十歳にも届いていない童だということなんだろうけど)

 どちらにしろ、松壱にとっては癇に障る言葉だっただろう。

「……飛拍」

 ぽつりと。

 宮司の呟きが漏らされた瞬間、それまで宙で静止していた火玉が火餓坊を目指した。

 ぎゃっと悲鳴を上げて火餓坊が飛び上がる。が、火の妖怪だけあってそこは無様に焼かれたりすることはない。

 彼が悲鳴を上げたのは松壱に対してだった。人差し指を突きつけ、叫ぶ。

「滅茶苦茶だ! ああもう、お前滅茶苦茶だよ! こんな人間がいるなんて聞いてない!」

 松壱は腰に手を当てて、大仰にため息をついた。

「これくらいで慌てるな。せっかく遊びに来たのに興が醒めるじゃないか」

 火餓坊は両の拳を震わせた。

「だーっ、俺は遊びに来たんじゃないぞ! 火の妖怪としてのアイデンティティを行動に表しに来たんだ!」

(火付けは楽しいという発言をしていた気がするんだが……)

 黒刀は心中でそうツッコミを入れつつも、二人を静観しようと思った。この不毛な言い争いにあえて身を投じる気はない。

 が、その望みは断ち切られた。相手の言葉に興味を持ったらしい松壱が首を傾げる。

「今どき妖怪もアイデンティティを気にするのか。黒刀はどうだ?」

 話を振られて黒刀は組んでいた腕を緩めた。

「……えーと」

 表情を曇らせた黒刀に、思わず火餓坊が助け舟を出す。

「ああ、だんなあ、アイデンティティは自己同一性って言ってな。自分の存在を自覚……まあ、自分はこのために生きてるんだって言う気持ちのことだよ」

「そんなことは知っている」

 格下の妖怪に丁寧に、しかもなぜか親しげに説明されて、黒刀はむっとして言い返した。そして呆れている松壱を睨む。

「白い目で見るな。だいたい俺の存在意義はお前が食いつぶしてるだろうが」

 黒刀の役割、それはこの揺草山を守ることだ。

 そもそもアイデンティティについてすぐに返事が出来なかったのは、下手な言葉では松壱に揚げ足を取られると思ったからである。

 松壱は不本意だというように唇を曲げた。

「お前の存在意義を脅かしてるのは俺じゃなくて、沖だろう」

 しゃあしゃあと自分が奉るべきご神体に責任転嫁をする宮司に、黒刀も火餓坊も思わず口を閉じた。

「それはさておき」

 と言ったのは話を振った当の松壱だったが、残りの二人は口を挟むこともできず、彼の一挙一動に警戒をしている。

「お前が放火魔の正体であったことは間違いないようだし」

 宮司の言葉に火餓坊は愛想笑を浮かべてみせる。松壱もそれに笑みを返した。

「一発殴るくらいはしても罰(バチ)は当たらないよな」

 そう言って黒刀を見やる。黒刀は何故自分が指されたのかを理解しながら、頷いて見せた。

 罰を当てるのは神である。ここで松壱が言う神とはやはり揺草山の山神を指すのだろう。そして黒刀はその山神の従者だ。

「問題ないと思う」

 宮司が暴力を振るうなど本来ならば決して良いことではないのだが――宮司でなくても暴力を振るうのは問題だが――、山に害なす妖怪が相手では山神も目をつぶるだろう。

「そ、そんな! だんな! 妖怪のくせに人間の味方をするのかい?!」

 黒刀は眉を寄せて、縋りついてくる火餓坊を見下ろした。

「妖怪だからとか人間だからとかじゃなくて、更に言えば正義の味方を気取る気もない。ただ、俺は悪い奴の味方はしない」

「悪い奴! そりゃあ、まさにあの神主のことだぜ! 挨拶もなしに人の頭に蹴り入れて、その上殴ろうってんだから」

「お前は放火未遂犯だろう。ああ、既に未遂じゃないところもあったな」

 松壱が口を挟んで、拳を握る。

 火餓坊は跳び上がって黒刀の後ろに隠れた。顔をしかめる天狗の陰から頭だけ出して喚く。

「そんな霊力の詰まった拳で殴られたら頭に穴が開いちまうよ! まったくどうしてあんたの霊力はそんなに馬鹿でかいんだ!」

 それは、――禁句だ。

 松壱の双眸が燃え上がる。黒刀は火餓坊の首根っこを掴むと、地面を蹴った。

「爆拍!」

 前振りもなく、さっきまで二人が立っていた地面が爆砕した。爆音が轟く中、火餓坊が聞こえない悲鳴をあげる。その悲鳴を聞きながら、松壱が更に攻撃を仕掛けようと腕を上げる。

 黒刀は舌打ちをして、錫杖を松壱に向けた。

「起風!」

 落ち葉を巻き上げる突風が吹き、松壱が両腕で防御の姿勢をとったため、黒刀と火餓坊への次の攻撃はなかった。

 着地して火餓坊を放り出すと、黒刀は立ち上がって錫杖を構えた。

「高嶺、落ち着けよ」

 松壱がこちらを睨む。舞った木の葉で切ったのか、手の甲からは血が流れていた。

(沖にどやされるな)

 内心でため息をつき、黒刀は続けた。

「殺すのは、駄目だ」

 血に濡れれば松壱はきっと宮司の資格――すなわち、沖の主としての資格をなくす。

 そのことは彼自身も分かっているはずだ。深く息を吸い、止めて、松壱は長くそれを吐き出した。

「……自制心が足りない」

 ぼそりと小さく呟かれた声が黒刀の耳に届く。彼は苦笑を浮かべると、錫杖を引いた。

「気にするなよ。お前、そんなんだからストレスがたまるんだよ」

「……そうか」

 疲れたような表情で、松壱は火餓坊を見た。

「……殴っていいか?」

 えっ、と戸惑う火餓坊に黒刀が低く囁く。

「死ぬかコブかだ」

 火餓坊は息を呑むと、すごすごと立ち上がった。

「分かったよ。ああ、確かに俺が悪いしな……」

 そうして自分の前に立った妖怪を見下ろして、松壱は微笑んだ。新春の肌を刺すような寒さの中で、それは蕾がうっかり開いてしまうような笑みだった。

 思わず唾を飲んだ火餓坊に、松壱は笑顔のままこう告げた。

「じゃあ、遠慮なく」

 火餓坊がさっと青褪める。

「あっ、やっぱ待っ!」

 

 鈍い打撃音は木々に吸い込まれて短く消えた。

 

「開門、双刻の暗」

 地面に突き立てられた錫杖を軸に細い線が上方へと伸びる。それから線は扉を開くようにして広がり、三人の前に四角く穿たれた闇が現れた。

「ほら、さっさと帰れ」

 黒刀に顎で示されて、ぶつぶつと言いながら火餓坊は前へ進んだ。

「あーあ、せっかく現世に来れたのによお。ボヤばかりで大火事にもならなかったし」

「よかったじゃないか。大火事になってたら、それこそご神体自ら、お前を殴りに来てただろうよ」

 火餓坊の背を押しやりながら、黒刀は同情気味にそう言ってやった。

「だんなも苦労するね。……じゃ」

 最後に火餓坊はにやりと笑って、こちらに手を振ると、跳ねて闇の中へ消えていった。

「余計なお世話だ。――閉門」

 異界と現世を繋ぐ扉を閉めて、黒刀は松壱を振り返った。錫杖はしゅるりと消える。

「そういえば、お前神社を放ってきてよかったのか?」

「『オキツネ様』がいればいいだろ」

 松壱は風で乱れた前髪に手を差し込んだ。そしてちくりとした痛みに気づく。

「……」

 手の甲の傷を見下ろして黙り込んだ宮司に、黒刀は頬を引き攣らせた。

「えーと……、客が来て、沖たち忙しいかもしれないし、さっさと戻ろうぜ」

 山道の上方を指差しながら、そう促す天狗のほうは見ず、松壱は傷を舐める。その無言に黒刀は圧迫感を覚えた。

「……松壱」

「帰るぞ。お前、途中サボったんだから、残り時間きびきび働けよ」

 さっさと歩き出す松壱の後姿を見たあと、黒刀は視線を移動させて地面に倒れている男を見下ろした。松壱がその男に関して全く触れなかったのも頷ける。男はただ眠っているだけだった。

(妖怪にとり憑かれていたんだから疲労してるのは分かるが……、情けない)

 コートも着込んでいるし、今日は晴天だ。放っておいても、そのうち起きて自力で街まで帰っていくだろう。こんなことで、人間と関わる気にはならない。

 男の事はもういいだろうと決めて、不意に黒刀は気づいた。

「俺、サボリなのか!? 沖だぞ、俺に行けって言ったのは!」

「雇ったのは俺だぞ。雇い主への断りもなしに抜ければ、それはサボリだろう」

「雇われてなんかない!」

 叫ぶが、松壱は無視してさっさと細い道を登り始める。ふん、と鼻を鳴らして黒刀は後を追った。

 無言で進むうちに黒刀はいつの間にか、薄暗い道に時折落ちてくる光の筋を松壱の茶髪が弾く様を注視していた。その異国の色が高嶺に混じったのは先々代の頃だが、黒刀にとっては未だ珍しい色である。

(綺麗な色だと思うんだけど、な)

 激昂した松壱を思い出す。

「お前さ、そんなに自分の力の『元』が嫌いか?」

 松壱は一度足を止め、そしてまた歩き始める。黒刀が無視されたかと思った時、小さな声が返ってきた。

「嫌いだ」

 呪うような響きさえ帯びたその声に、黒刀は視線をそらした。

「先代高嶺はいい奴だった。そいつのことだけ覚えておけよ。嫌いな奴なんか忘れちまえ」

「バカ天狗」

 即座に返された言葉に黒刀は呆れた声を上げた。

「お前なあ」

「先代高嶺の血は、高嶺の血じゃない」

 こちらの声を遮って漏らされた声は、表情は怒っているようで、腹の底では泣いているような声だった。

 「高嶺」であることのアイデンティティ。

 それはまず松韻の血を引いているということが、松壱にとっては前提のようだ。

 黒刀はため息をついた。

 矜持が高くて、意地っ張りで、口が悪くて、そのうえ綺麗な顔をして頭も切れる。自分の武器を利用して、相手に攻撃する隙を与えないこの宮司は、それなのに自らの傷を癒やせない奴だった。

「あのな、高嶺……いや、松壱。お前に流れてるのは高嶺の血だ。つまりお前が、先代高嶺の高嶺じゃない血を高嶺の血にしてるんだ」

「……訳が分からん」

 不貞腐れた声にもめげず、黒刀は続けた。

「こだわるなって言ってるんだよ。六花(りつか)が高嶺松壱の母親だってことは、すなわち彼女はどうしようもなく高嶺の人間なんだよ」

 黒刀が説明する間にも、松壱は休まずに進み続ける。伝わっただろうかと首を傾げる間も、彼は止まらなかった。

(別に返事なんか期待しないけどさ。高嶺は素直じゃないから……)

 黒刀は分かっていた。松壱が反論しないときはちゃんと伝わっている時だということを。

 そして神社がそろそろ見えるだろうという頃、松壱がこちらを振り返った。

「お前、慰めるの下手だな」

 黒刀は目を瞬いた。

 逆光を浴びながら、松壱は意地悪げに笑う。

「俺は母親のことでは悩んでないんだよ」

「だから、父親が嫌いなら忘れろって! 最初に言っただろうが!」

 怒鳴る黒刀に怯まず、松壱は問うように笑みを微妙に変化させた。

「じゃあ、俺は誰を父親だと思えばいいんだ?」

「……それは」

 黒刀は言い淀む。

(慰められたのが恥ずかしいからって……)

 ふつふつと湧き上がってくる怒りを抑えて、黒刀はがむしゃらに答えた。

「よし、お前の親父は沖だ!」

 予想していない答えだったのが、松壱が目を見開く。

 勝った!――と黒刀は思った。何か勝負をしているわけでもないのに、そう思った。

「……あんな狐が父親なんて冗談じゃない」

 松壱はそう答えて、前を振り返った。その声が笑いを含んでいるのを、黒刀は聞き逃さず、満足感を覚えて、歩き出す宮司のあとを追った。

 

「何これ」

「いらないなら、返せ」

 すっかり日も落ちたころ、帰りがけに黒刀は松壱に呼び止められていた。

 返せと差し出された手から守るように、受け取ったものを握り締めながら、黒刀は疑問を発した。

「いる。いるけど、……この袋はなんだよ?」

 それは毎年貰っている給金であるが、入れ物がいつもの白いのし袋ではない。なにやら可愛らしい狛犬の描かれた黄色い小さな袋に入っている。

 声をかけてきたのは沖だった。

「何ってぽち袋じゃん。黒刀ってば、そんなことも知らないのか?」

 本日二度目のシチュエーションに、黒刀のこめかみに血管が浮かぶ。

「知っている!」

 予想以上の怒号が返ってきて、沖が目を瞬く。

「嬉しくないのか? お年玉だぞ。マツイチがお年玉をくれたんだぞ」

「沖!」

 連呼する狐を睨んでから、松壱は身を翻して去っていく。

 それを見送りながら、沖は黒刀の肩に腕を乗せて小さく笑った。すっかり機嫌のよくなった狐に黒刀はなんとなく面白くない気がした。

「それ、可愛いよな」

 沖は笑いながら、黒刀の手の中のぽち袋を指差す。

 悪戯そうな光を浮かべた青い瞳を怪訝に思いながら、黒刀は首をかしげた。

「なんで、こんな袋に」

 ぽち袋に入っていても、これはお年玉ではない。売店アルバイトの給金だ。そんなことは分かっている。「阿」と口を開けた狛犬をじっと見つめる。

「それ、実は松壱を不機嫌にしてたもう一個の原因」

「は?」

 もうたまらないという様子で笑い続ける沖の横で、いつからいたのかユキが同じ黄色のぽち袋にキスをしているのが目に入る。

「高嶺ってば意外と庶民派だから」

 そう言って沖と同様に笑みを浮かべる。

 訳が分からないと二人と松壱を見比べる天狗に、沖がこそりと囁いた。

「商店街の福引。マツイチ、本当は新しい掃除機が欲しかったんだ」

 黒刀はガックリと肩を落とした。

 狛犬のぽち袋は残念賞の粗品というわけだ。松壱にすれば、ティッシュのほうがずっとマシだったのだろうが、おそらく福引のオバサンに神主だからとそれを押し付けられたのだろう。

 営業スマイルでそれを受け取る松壱を簡単に想像することが出来てしまった黒刀は、今年初めての笑い声を上げたのだった。


 
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