No.361157

肩こりの少女

natsubiさん

シリーズもの1作目です(1話完結)。自サイトにも掲載しています。

2012-01-09 21:29:19 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:679   閲覧ユーザー数:679

 揺草山と呼ばれる山に高嶺神社がある。そこはご神体として「御狐様」をまつっており、願うと悩み事が解決するという評判だ。

 町のはずれにある長い長い石段、それを昇るとまず赤い鳥居が見えるだろう。それをくぐり、そのまま真っ直ぐ進めばお社だ。途中、狐の石造なんかが置いてあったりする。

 もしよく分からなければ、近くにいる男に聞けばいい。この神社の神主で、きっと人のよい笑みで案内してくれるだろう。実際、参拝客の中には彼の笑顔が目当ての女性も少なくはないと言う噂だ。

 そうして今日も悩める乙女が一人、社の前で手を叩く。

 ショートヘアで、笑えば可愛いだろう普通の少女である。紺のジャケットに緑のネクタイリボンは、ふもとの町の高校の制服だ。

「オキツネ様、最近肩こりがひどいんです。助けてください!」

 ずるっ。

「……何か滑った?」

 奇妙な音に目を瞬く。布の擦れる音だった気がする。そしてそれは目の前の社の中から聞こえたようだった。

(やだ、神主さんでもいたかしら)

 少女は口元を手で覆って軽く頬を染めた。

 しかし実際、悩みは深刻なのだ。肩は重く、きつくて勉強にも身が入らない。湿布を貼っても、母にマッサージをしてもらっても、肩の凝りは治らない。かと言って専門職に払うほどの小遣いはない。

 だめもとでの神頼みである。

 中に人がいても構うものか。彼女はもう一度声を上げた。

「本っ当に辛くて仕方ないんです!」

 言い切って、ふうと息をつく。

 そこへ風が吹いて落ち葉が舞った。爽やかで心地のよい風に少女は目を閉じた。

「君、口は堅い?」

 風に紛れて声。

「……え?」

 少女は目を丸くした。誰の声なのか。

「まあ、そういう目はしてるかな」

 再び響いた声に、少女は何度か瞬きをして社を見つめた。中から声が聞こえた気がする。そしてそれは男の声だった。

(やっぱり、誰かいる?)

 訝しげに見つめていると、かたんと音がした。続けて軋んだ音を立てて、木の格子扉が開かれる。

 少女は言葉を失った。

「これから見ること聞くこと、誰にも口外しちゃいけないよ」

 中から現れたのは青年だった。

 年の頃は高校生か大学生くらいに見える。黒い髪を腰よりもさらに下に垂らし、袴をはいている。ふわりとまとった沙は手触りがよさそうだ。

 だが、注目すべきはそんなところではない。

「耳……」

 呆然と呟く。

 青年の頭には黒い、獣の耳が生えていた。

「肩こり、ね」

 少女の言葉を無視し、呆れた口調で呟いて、青年がこちらを見つめる。澄んだ水色の瞳。

「あの……あなた誰ですか?」

 口にしながら、それはなんだか間抜けな質問に思えた。尋ねられた青年もそう感じたらしい。片眉を動かして、笑う。

「肩こり治してあげるよ。なんだか深刻そうだし」

 質問の答えにはなっていないが、それで十分だった。

「オキツネ様?!」

 思わず声を大きくする。

「ああ、待って。声が大きいのは勘弁」

 眉を寄せて青年が黒い耳を押さえる。やはり人間よりもよく聞こえるのだろうか。

「え、……ほ、本当に? あれ、でも、耳、黒いですよ?」

 狐の耳は狐色――つまり黄色っぽいものだというのが少女の思い込みであった。

 だが目の前に立つ自称オキツネ様の耳はふさふさと、黒い。うなずいて、青年は自分の胸元を指した。

「ん、俺はね、玄狐(げんこ)。黒い狐なんだ」

 少女は首を傾げた。

「そんなのいるんですか?」

「や、聞かれてもそれ俺だし。まあ、珍しいことに間違いはないんだろうけど?」

「天然記念物?」

「いや。ていうか、たぶん公式記録にはないと思う」

 青年は自分のあごを撫でて小さく首を唸った。

「妖怪だし」

 開いた口がふさがらないとはよく言ったものだ。

 オキツネ様は実際に存在し、しかもその正体は妖怪だという。

 祈願成就の神を頼りにして、あの長い石段を足を棒にしながら昇ってきた自分。そして自分と同じようにしただろう多くの人――。神は姿が見えないからこそ自分の良いように期待を持てるのであり、それが「妖怪だし」なんてあっさり言葉を発するような青年ではダメなのだ。

 少女は自分の中の今まで信じていた何かが音を立てて崩れていくような気がした。

 その彼女の横をふわりと青年が横切る。体重を感じさせない動作。とん、と足袋を履いた足が地面につく。

 思わず少女は硬直した。

 今更だが、そばで見る青年は驚くほどに美しかった。黒髪は艶やか、長い睫毛はうらやみたいほどである。造作については文句の付けようもない。切れ長の瞳は澄んでいて、口元に浮かべた笑みは清楚というか、どこか上品な感じがした。

 妖怪というよりも、やはり神様のほうがしっくり合うと少女は思った。崩れたものが再生していく。

「小鬼かな、これは」

 狐は少女の顔の横をまじまじと見つめる。

 それから彼女の肩の上でひょいと「何か」を摘む仕草をした。少女には「何か」は空気にしか見えなかった。摘んだ空気をもう一方の手の平の上に載せ、笑う。

「軽くなった?」

「え……あ、ほんとだ」

 少女は肩をまわした。冗談のように軽い。

「すごい……わあ! 本当にすごい」

 狐は満足そうに頷いて見せた。

「肩に妖怪がのってた。悪い奴じゃないんだけど、やっぱり人間には重いかな」

 少女は青年の手に目をやった。

「そこに、いるんですか?」

「ああ。見えたりはしない? 小さな鬼なんだけど」

 尋ねて狐は片手を上げて見せた。のせている物を落とさないようにする手つき。少女はじっと目を凝らした。

 手の平の上にぼんやりと。

「言われてみれば、いるような……? あれ? なんか太ってる?」

 ふと、狐が目を細めたような気がした。何かを図るように。

 少女が小さく首を傾げると、狐はもう一方の手を振った。

「まあ、いいや。とにかく、これで大丈夫だから」

 不思議に思いながらも少女はとりあえず肩こりが治ったことを喜んだ。

「はい、ありがとうございました」

 笑って礼を言う少女に狐は頷いて見せた。

「名前はなんて?」

「あ、優です。羽山優」

「じゃあ、優。もう妖怪なんてくっつけるんじゃないぞ」

 狐は笑って優の頭を撫でてやった。優しい手つき、昔は父にもよくこうしてもらったことを思い出し、優は目を閉じた。

 そして不意に思いつく。優は遠慮がちに口を開いた。

「オキツネ様は? ちゃんとした名前、ありますか?」

 狐はきょとんとして、それから微笑んだ。

「身内には沖って呼ばれてる。オキツネのオキ」

 意外と安易な名前だと思いながら、優は頭を下げた。

「沖様、ありがとうございました」

 さよならと付け足して、来た道を引き返し始める。

 狐が見送っている気配があったので、振り返ってみる。すると沖は笑みを返してきた。

 嬉しくなって、優は足取りも軽く長い石段を降りていった。

 

 少女の姿が見えなくなってから、沖は指先で頬を掻いた。

「沖様、ね」

 そう呼ぶ者は滅多にいない。彼女を合わせてやっと二人。

 自分を敬う大抵の人々は沖という名を知らないし、その名を知る者は敬ってはくれないのだ。

「沖!」

(ほらな)

 背後から響いた声に振り返る。声の主はどうやらずっと裏の庭にいたらしい。

 視界に入ってくるのはすらりと背の高い青年。日本人にしては淡い髪の色をしており、箒を片手にこちらを睨んでいる。この神社の宮司である高嶺松壱(たかみねまつひと)だ。

 爽やかな笑みで評判の神主だが、その実彼が神社のご神体である沖に微笑みかけることなど皆無に等しい。つまり外面だけは立派な神主だということだ。

「何? マツイチ」

 あだ名で呼んでくる狐に、松壱は不機嫌そうに眉根を寄せた。

「何であんな簡単に姿を見せるんだ。バカ狐」

 叱咤の言葉に沖は眉を寄せた。

「あの子は大丈夫だよ。言うなと言われれば、言わない」

 それから手の平にのせた小鬼を松壱に見せる。

「それに放っておけない。こいつはずっとあの子の生気を食べてたんだ」

 優には害はないといったがそれは嘘であった。

 ぷっくりと顔を丸くした鬼。餌がなくなったうえに、妖狐に捕らえられて冷や汗を流している。

「お人好しめ」

 松壱が呻く。

「それがいるってことはもっと大物がいるってことだろう。あの女の傍には」

「そういうことになるね」

 沖は頷いて、手の中の太った小鬼に視線を落とす。この妖力も乏しい小鬼は普段は大鬼など格の高い鬼についてまわり、そのおこぼれに預かるのだ。

 では、この小鬼の宿主は今どこにいるのか。

(優の家、かな……)

 妖怪としての視点から見れば、優は美味そうな人間であった。若く健康で、明るい性格の少女。

(それに俺の気配も分かるほどの霊力を持ってる。小鬼だってその気になれば見えたんだ……)

「沖」

 思考を邪魔する呼び声に沖は顔をしかめた。松壱もまた渋面を浮かべている。

「神社からは出るな」

「なんだよ、それ」

 沖は片目を細めて、宮司を睨んだ。松壱は動かない。

「どうせ女を助けに行こうとか思ってるんだろう。だめだ」

「見捨てろと言ってるの? このままじゃあの子は死ぬ」

「死ぬとは限らない。食い尽くす前に妖怪のほうが飽きるかもしれない。むしろそっちの可能性が高い」

 松壱は沖に近づいた。相手の胸元に指を突きつけながら続ける。

「だが、お前が手を出せば、間違いなく相手は反撃してくる。危険は増すんだ」

「少しでも彼女に害があるなら俺は放っておかない」

 ありがとうと言った声が耳に残っている。

 妖怪である沖を見ても怯えない、命のあるがままを受け入れることのできる少女だ。今ではもう少なくなってしまった清らかな心。

 二人はしばらく睨み合った。どちらにも譲る気はない。

 その間を風が吹き抜ける。集めた落ち葉が舞い、松壱は思わず渋面をひどくした。

 と、視界に沖の紗が広がる。

「沖!」

 松壱は制止の声を上げた。

 ふわりと鳥居の傍まで跳んだ沖が振り返る。

 黒髪はすっかり短くなり、狐の耳も人間の耳に変わっている。着物は白いパーカーとジーンズに。清流の瞳だけをそのままに、狐は人間の若者の姿に変わっていた。

「出かけてくる」

 笑って、また跳ぶ。

 微笑は十分に魅力的だったが、松壱は罵声を発した。

「この、バカ!!」

 箒を振るが、沖は振り返らない。石段を軽やかに飛び越え、一気に数十メートル下の地面に到達する。

 周りに木々の生い茂った暗い石段。下からでは頂上にいる宮司の姿は見えない。

 自分の跳んだ高さを確かめるように振り仰いでから、沖は町へと向けて足を踏み出した。

 さて、どうしたものか。

(行くなら行くで作戦を練ってからにしろよな……)

 心中でそう零して、松壱はひとつため息をついた。

 黒い狐。四百年、この高嶺神社で暮らしている妖怪。ふらふら出歩くご神体。どう言い換えようとしても、あの狐を敬うような単語は出てこない。

 沖の顔を思い出し、無意識にもう一度ため息をこぼす。

 人間に甘い、お人好し――いや、お狐好し。

(……仕方ない……)

 松壱は神社の裏に向かった。生い茂る雑木林の前に立つ。

 揺草山は小さな山だが自然が多い。人間が作った書類の上ではそのすべてが高嶺の所有物で、山を切り開くことを代々の宮司が拒んできたのだ。

 おかげでこの山にはいまだに妖怪たちが生活している。最近では住処を追われて棲み移ってきた者もいるくらいで、むしろ妖怪は増えていた。それに沖も毎朝この森に散歩に出て行くくらいなのだから、よほど居心地のいい状態なのだろう。

 ――というか、そんな沖を見ていると、この山の自然は彼のために残されたのではないかと思えてくる。

(……つまり、俺の先祖はそれだけ沖が可愛かったってことだよな……)

 あんな生意気な狐のどこがいいんだか……。なんとなく、肩に虚脱感を覚えながら松壱は森の奥を見つめた。

 あれは今日ここに出ているはずだ。息を吸い込む。

「ユキ!」

 声は木々の間に吸い込まれていく。間もなく風が吹いた。葉を舞わせながら遠くからこちらへと向かってくる。松壱はそれがやってくるのを待った。

 やがて近くの草むらががさがさと音を立てる。最初に見えたのは銀色の獣の耳だった。続けて、幼い少女が葉を掻き分けて姿を現す。

「呼んだ? 高嶺?」

 背の高い青年を見つけて、首を傾げてみせる銀色の狐の妖怪。頷いてやると、少女は尻尾を振りながら辺りを見回した。

「……沖様は?」

 呼び出した本人はちゃんといるのに、沖を捜すのか。松壱はうんざりしながら答えてやった。

「出掛けてる」

「えー、なんで置いてくのー。高嶺、ちゃんと呼んでよ」

 何で俺が呼ぶんだと松壱は小さく呟く。

 この幼い狐の妖怪は沖の扶養家族である。交通事故で母を失い、さ迷い歩いて倒れていたところを沖が拾ってやったのだ。それ以来、ユキと名乗ったこの少女は沖を慕い続けている。

「じゃあ、今からでも追いかけてこいよ」

 言って、鳥居の方を指差す。

「町へ降りた。今頃、鬼付きの女を捜してるはずさ」

「え? 鬼付き?」

 きょとんと首を傾げるユキに松壱は肩をすくめて見せた。

「そう。またいつものおせっかい」

「えーっ」

 不満の声を上げて、また沖様は……とユキがごちる。それから彼女は松壱をきっと見上げた。

「なんで止めないのよ」

「止めたさ」

「どうせまた『行くな』とか『バカ』とかしか言わなかったんでしょー。そんなんで沖様が聞くはずないじゃない」

 意外と鋭い指摘に松壱が片眉を動かす。沖のこととなると強いこの仔狐は腰に手を当てて、眉を寄せた。

「沖様のこと心配じゃないの?」

 ユキの問いに、松壱は視線を空へ投げ、それからもう一度彼女に向き直った。

「心配してるさ。あれがいないとうちは商売上がったりだ」

「もー、沖様をなんだと思ってるのよ」

「ご神体、もというちの大事な客寄せマスコット」

「沖様はマスコットなんかじゃないわよっ」

 ぷいっと顔をそむけるユキに、松壱は苦笑を漏らした。

「理由は何であれ、心配はしてるんだ。お前、あいつを見張ってろよ」

「高嶺みたいな外面ばっかりいい守銭奴神主に言われなくったって、ユキは沖様を傍でサポートするわよ」

 実際、沖を補助するほどの能力がこの少女にあるわけではないのだが、何かあったときの連絡係としては十分だろう。

「じゃあ、頼むぞ」

 いつもの営業用の笑みを見せて、松壱はユキの頭にぽんと手を置いた。ユキが緑の双眸を細める。

「……あいかわらず胡散臭い笑みねー。なんで人間はこれにだまされるのかしら」

 少女の疑問に、松壱はさあなと軽く答えてやった。

「まあ、いいわ。ユキは沖様のところに行くわ」

 嘆息混じりにそう言って、とぼとぼと鳥居のほうへ歩き出す。それを最後まで見送らず、松壱は落ち葉掻きを再開した。

 だが、すぐに視線を感じて顔を上げる。鳥居の傍でユキがこちらを見つめていた。

 松壱が怪訝な顔をすると、少女は口を開いた。

「本当は、本当に心配してるんでしょ?」

 思わせぶりな言葉で、ユキは続ける。小悪魔的な笑みを浮かべて。

「だってそうじゃなきゃ、わざわざ私を呼んだりはしないもんね?」

「別に……」

 松壱が反論しようとするが、ユキはそれを遮って笑った。

「ひねくれた愛情ねー。素直にならないと、沖様に愛想尽かされちゃうわよ」

「ばっ」

 バカ言うなと、松壱がみなまで言う前にユキは石畳を蹴った。沖同様に、石段を一段ずつ降りるようなことはしない。ただし、彼女の場合は最下段までに二、三歩を要する。

 逃げるように去っていった少女に、松壱はまたため息をついた。

(バカ。本当に心配なら自分で行くに決まってるだろう)

 誰もいない鳥居に向かって無言で告げ、そして彼は再び掃除に取り掛かったのだった。

 

 紺色のブレザー。

 羽山優の通う学校を見つけて、沖はその前で足を止めた。

 終業したのだろう。帰る者と、運動着姿でどこかへ走っていく者、校舎内にまだ残っている者など、その動きはばらばらだ。夕日に染まったグラウンドは人が多いのにも関わらず、見る者にどこか寂寥感を与える。

 しばらくそれらを見つめてから、はたと気づいて沖は頭を掻いた。

(よく考えたら、優は俺のところに来たんだから、もう学校は終わってたんだよな……)

 優はすでに学校にはいない。つまり彼女の自宅を探さなければならないのだ。

(右かな、左かな)

 校門の前で左右を見比べる。

「あの……道に迷われたんですか?」

 背後から声がかかり、沖は振り返った。声の主は眼鏡をかけた少女で、遠慮がちにこちらを見上げている。紺の制服、学生だ。

「いや、迷ってはいないんだけど……ああ、羽山優って子の家知ってる?」

 尋ねてみると、少女はわずかに眉を寄せた。

「……彼女に何か?」

 警戒されてしまった。そのことを悟り、沖は唇を曲げた。不用意に少女の名前など出すべきではなかったかもしれない。

(そりゃ、そーだよな……)

 しかし「彼女」と言った。この眼鏡少女は優の知り合いなのだ。沖は気まずそうに手を振ってみせた。

「ああ、ええっと、俺、高嶺っていうんだけどさ……」

「あ、神社の方ですか?」

 思い当たるところがあったのか、すぐに少女が聞き返してくる。沖はきょとんと目を瞬いた。

 優はこの眼鏡少女に神社に行くことを話していたのだろうか。

(でも……ネクタイの色が違う。そりゃ、後輩や先輩に話しても構いはしないけど……)

 沖は水色の双眸を細めた。まさか、と思う。

「……そうだけど」

 肯定すると、途端に場の空気が変わった。

 不穏な空気が辺りを覆い、足元に生ぬるい風がまとわりつく。沖は素早く身構えた。

 少女の眼鏡の下の瞳が金に光る。ついで彼女の口から漏らされたのは低い男の声だった。

「どこの下賎だ、おぬし……」

 しゃがれていて、どこか深いところから響いてくる不気味な声。

 沖は思わず口元を歪めた。やはり。

 鬼だ。

 自分が人でないことは最初からばれていた。それでこの鬼は話しかけてきたのだ。

 鬼は予想通り強い妖力を持つ大鬼であった。人間の姿をしているにも関わらず、周囲の空気が圧迫感を伝えてくる。こんなところで戦うことになれば、近くの学生も巻き込まれてしまう。

 沖はゆっくりと口を開いた。

「……妖狐だ」

「妖狐? 神社の使い魔ではないのか……?」

 答えると少女姿の鬼が眉を寄せた。沖をじろじろと見やってから再び口を開く。

「祓いではなく、餌の横取りが目的か?」

 どちらにしろ不愉快そうに問う。沖は媚びるような笑みを見せてみた。

「横取りなんて……飽きていたら譲ってくれないかなーなんて……」

 狐の申し出に、鬼はふんと鼻で笑って返した。

「たとえ飽きていたとしても、狐なんぞにくれてやりはせんよ」

 腕を組んで、高慢な視線で沖を見やる。

 妖気が少女の周りで渦巻いた。双眸の輝きが増す。ぶわっと吹き付けた風に沖は思わず顔を覆った。

「立ち去れい。妖狐如きがいつまでも私の前に立つな」

 尊大な声は自信に満ちている。よほど位の高い鬼か。

 沖はぱっと跳んで後ろへ下がった。くすりと笑みを浮かべる。

「では、失礼」

 短く答えて、姿を消す。

 狐の消えた後を見つめて、鬼は腕組を解いた。

(……逃さず喰ってしまったほうがよかったかのう……)

 なかなか美味そうな狐ではあった。それに下手な態度を取って見せてはいたが、決して揺るがない青い双眸が癇に障りもした。黙って帰す必要はなかったかもしれない。

(ここらでは見かけぬ顔だったが……高嶺を名乗ると言うことは、揺草山の妖怪か……)

 取り憑いている女は、母に揺草山にある高嶺神社に行くと話していた。その山で彼女を見かけた妖狐が生気欲しさについてきた――大方そんなところだろう。

 所詮雑魚よ、と呟いて鬼は羽山家へと足を向けた。

 

(雑魚呼ばわりとは失礼な奴だな……)

 沖は電柱の上に立ち、頭の中で抗議した。

(高いのは位じゃなくて気位だったかな)

 眼鏡をかけた少女の姿をした鬼の後姿を見つめて、沖は皮肉げに笑みを浮かべた。

 優に自分のおまけで憑いていた小鬼――これは妖力が乏しいために神社の聖域にも入れた――、それがなぜいなくなっているのか、大鬼は考えるだろうか。

 神域で似非神主にでも祓われたのだろうとでも、思うのだろうか。

 夜の始まりの風が、沖の短い髪を揺らす。電柱に直立したその姿は、夕日の逆光を浴びて、あたかも黒い獣のようである。

 しなやかなその影は、電柱から電柱へと飛び移った。

 鬼はおそらく羽山優の家へ帰るだろう。目を覚まし始めた闇に混じるように気配を消し、沖は彼女のあとをつけた。

「おーきーさーまっ!」

「うあっ」

 背後から飛びつかれ、沖はバランスを崩しながらも振り返って、声の主を見下ろした。

「ユキ?」

 名を呼ばれて、銀髪の少女が相好を崩す。服は淡い桃色のワンピースをまとっている。

「はい、沖様。ユキが来たからもう大丈夫ですよ」

「ははは……」

 やる気に溢れたユキに、沖は苦笑を浮かべた。

(今回は一人のほうがやりやすいんだけどなあ)

 少女を連れたままでは自由に動き回れない。経験から言えば、むしろ通りすがりの人々に不審な視線をいただくはめになる。昨今では犯罪が起きないことのほうが珍しいらしい。

 そんな沖の心境は分かっていないのか、見つめられてユキが照れ笑いを返してくる。

(ま、いつものことか)

 なんとなく悟った思いで、沖は暗い夜空を仰いだ。

 二人が今いるのは小さな公園である。闇夜に浮かぶ遊具は誰も使っていない。酔っ払いがブランコに座っていることを除けば、だが。

 羽山優の家は分かった。この公園のすぐ近くの団地。そこに踏み込む直前、鬼は霊体と化した。あの小鬼同様、人間には不可視の状態で取り憑いているのだろう。

 あとはいつ仕掛けるか、である。大鬼に正面から挑む気はない。できれば鬼のいない間に優に結界を張れるといい。結界さえ機能すれば、鬼はもう彼女に手出しできなくなるのだ。

(もちろん、それだけでは終わらないだろうけど)

「沖様、今日は帰らないんですか?」

 思考を遮る高い声に、沖は逡巡して近くのベンチに腰を下ろした。ユキもそれに倣って腰掛ける。

「帰らないつもりだよ」

 答えると、ユキはうつむいて足をぷらぷらと揺らした。沖は眉尻を下げて続ける。

「夕飯、食べてないんだろ。帰ればマツイチが用意してくれるよ」

「別にお腹が空いてるわけじゃないです……」

 小さく呟く。背後の電灯に照らされて、少女の銀髪がきらきらと輝いている。

「それに帰るなら沖様も一緒じゃなきゃ嫌です。……高嶺にも怒られるです」

 沖は目を瞬いて首を傾げた。

「怒るかな」

「怒りますよ。高嶺は……」

 そうかなーと沖はベンチの背もたれに寄りかかる。ユキはベンチの上で膝を抱えた。

(怒りますよ。高嶺は……沖様が心配だから。ユキだけで帰ったら怒る)

 松壱が沖に面と向かって心配だと言ったことは一度たりともない。沖以外に言うときも、今日のように皮肉を交えて冗談めかす。

 新緑の瞳を動かし、横に座る狐の青年を見やる。

 考え事をしているのだろう、わずかに伏せられた睫毛は長く、瞳に影を落としている。闇色の髪はしっとりと絹のようだ。そして湖面に浮かぶ青い月の瞳。

(沖様、綺麗だもんね)

 和服以外ではゆったりとした服を好む沖だが、その布の描く緩やかなラインと袖から覗く白い手はどこか儚げで、大丈夫だと分かっていても見守らずにはいられない。

 松壱だってそうであるはずだ、ユキは勝手にそう思い込んでいた。沖を放っておける者などいない、と。

 ユキはうつむいて自分の足を見つめた。白い靴を履いた足。靴は足が痛くなるから本当は好きじゃないのだが、人間に混じるためには仕方ない。

「じゃあ、できるだけ早く済むようにしようか」

 沖が呟いて、ユキは顔を上げた。彼はこちらを見て笑った。

「俺も長期戦はごめんだし。あんまり神社を空けると、それこそマツイチ怒るから」

 そう言ってから、なぜかよしよしとユキの頭を撫でる。

 まるっきり子ども扱いだったが、実際子どもなのだから仕方ない。ユキはならばとことん子どもして甘えようと決めていた。

 そしていつもどおり沖の懐に入り込んで、頬を摺り寄せる。暖かい陽だまりの匂い。

「お父さんになったみたいだ」

 微笑の混じった声が心地よく耳に届く。彼はいつもこう言う。

 沖は家族というものに憧れているのだ。

 そのことを改めて噛み締めながら、腕の中、ユキは静かに目を閉じた。家族の温かさを望む気持ちは自分も良く知っているから。

 

 下から吹き上げて来る風は不穏。

 もちろん、いつもこうだと言うわけではない。

 早朝、松壱は鳥居の下から石段を見下ろした。今日は和服ではなく、黒いハイネックのトレーナーに、同じく黒のジーンズを穿いている。

(大鬼、まさか沖が負けるとは思わない。だが)

 不安要素とは決してゼロになるものではない。百パーセントの安全など存在しようはずもないのだ。『偶然』の存在するこの世界では。

 特にこんな風の吹く日は、必要以上に心がざわつく。何かある、と。

 長い石段を見下ろしながら、松壱はしばらく思考を巡らせた。

 

「学校に行くみたいですね」

 公園から向かいの歩道を見ながら、ユキが優の姿を視認する。

「本当だ。大鬼が憑いてる」

 制服の少女の背中に、寄り添うように黒い影。目を凝らせば異形であることが知れる。

「ああ。でもいつでも憑いているわけじゃない。実際、奴は神社には来なかった。それは神域に入れないと言うのもあるけど、神社から戻った彼女にすぐに接触したわけじゃない」

 目を離す時間がないわけではないということだ。

 沖は遠くを歩く少女を見つめた。小鬼の分だけでも負担が減ったおかげか、昨日よりも顔色がいい。

(だがいつまで持つか……)

 鬼をじっと見据える沖を見上げて、ユキは不安げに首を傾げた。

「沖様……?」

 沖は動かなかった。青い瞳が静かに陽光を弾いている。

 やがて彼はぽつりと漏らした。

「牽制する」

 え、とユキが小さく声を漏らすと同時、沖の足元で風が巻いた。彼の視線に妖力が絡む。

 大気が震えた。

 それは突風そのものだった。音はなく、ただ真っ直ぐに鬼を貫く。

 一瞬ののち、金の視線が返された。

 鋭い針。それが沖の風の合間を抜けて飛んでくる。

 微動だに出来ないユキを、沖の腕がかばった。長くはなく、視線は逸らされ、やがて鬼の気配も遠のいていく。

 狐め、そう吐き捨てる声が聞こえた気がした。

「……っ沖様!」

 少女の姿が見えなくなってから、ユキが悲鳴にも似た声を上げる。白いパーカーの袖の片方がばっさりと裂けていた。

「大丈夫、体には当たらなかった」

 答えながら、沖は破けた部分をそっと指で撫でた。静かに生地が繋がっていく。

「沖様、何であんなことをするんですかっ。完全に敵視されちゃいましたよ!?」

 信じられないと喚く少女に、沖は笑って見せた。

「だって、そのほうが早いだろ」

 元に戻った袖を確かめながら続ける。

「結界を張ってから奴を追い払うつもりだったけど、やめた。奴がいなくなるのを待つより、こちらから仕掛けたほうがずっと早い」

 ユキは両手をわななかせて、沖を見上げた。

「でも、これで相手はいつでも警戒態勢ですよ? 不意をつけば無傷でだって倒せたかもしれないのに」

「そうだけどさあ」

「もう! 沖様は無鉄砲なんですよ! あの女子高生さんだって巻き込んじゃうかもしれないですよ?!」

「ああ、それは全力で守るから、っい…っ…!」

 少女に足の甲を踏み抜かれ、沖が語尾を呻きに変える。それだけではすまさず、ユキはバランスを崩した沖に体当たりした。あっけなく沖は地面にひっくり返る。

「……いって……あ……ゆ、ユキ?」

 痛みに顔を歪ませながらも、自分の腹の上に乗った仔狐を見やる。

 ユキは潤んだ目でこちらを見ていた。唇を震わせる。

「……全力で守る、なんて……言わないでください」

「ユキ……」

「半分は自分を守るために使ってください」

 言葉遊びだ。

 そう頭を過ぎるが、ユキは本気で言っているのだろう。沖は上半身を起こして、ユキの頬を撫でた。

 緑色の瞳がじっとこちらを見つめている。

「どきませんよ。……ユキは重石ですから」

 ぽつりと漏らされた言葉。

 一瞬目を見開き、それから歪んだ笑みを浮かべる。沖はそう言った自分を思い出した。

「……そうだったな」

 頷く青年に、ユキはぎゅっとしがみついた。

「……沖様……」

「ああ、分かってる」

 答えて、沖はユキの体に腕を回すと、そのまま抱き上げて立ち上がった。

 朝のまだ冷たい風が二人の髪を撫でる。

「行こうか」

 沖が優の去っていった方を見やる。遠くに体育館の緑色の屋根が見えている。彼女の通う学校だ。

 青年の服をきつく握り締めて、ユキは小さく頷いた。

 

 黒板に羅列された癖のある字、読みにくいそれをノートに写し取っていた優は、ふと手を止めた。窓のほうを見やる。

(なんだろう)

 つい先ほどまでなんともなかったのに、急に動悸が激しくなってくる。

 外は晴れていて、初秋の高くなり始めた空は果てもなく美しい。遠くの揺草山も今日ははっきりと見えていた。紅葉にはまだ時間がかかるだろう緑の山。

 日差しにはまだ夏の名残があった。暑くなったのか、窓際の男子生徒が手を伸ばして窓を開ける。

「……!」

 思わず、優は立ち上がった。

 急に起立した女子生徒に、教卓の教師が目を見開く。周りの生徒たちもざわめいた。だが、そんなことは気にならなかった。

 頬を撫でた生ぬるい風に、優は体が震えていた。

「……優? 具合悪いの? 真っ青よ」

 後ろから友人が小声で問いかけてくる。その顔色の悪さに教師も気づいたらしい。

「大丈夫か、羽山。保健室に行くか?」

 喋ることも仕事である教師の声は、友人のそれよりも大きく、優ははっとして顔を上げた。逡巡する。

「はい、ちょっとおなかが痛くなって。行ってきます」

「うん、一人で大丈夫か?」

 ありがちな嘘も信用されるほど、自分の顔色は悪いらしい。

「はい、大丈夫です」

 答えて、優は静かに教室から出た。

 扉を閉めたあとも続くざわめきと、それを静める声が聞こえる。だが、優は気にせず駆け出していた。

 なぜ自分が走るのかは分からない。でも行かなければいけない。

 これは自分が原因だから。

 ユキを連れて歩いていた沖はぴたりと足を止めた。

 羽山優の通う高等学校、その目前。正門の前に、黄色いネクタイリボンをした女子生徒がこちらを見て立っていた。

 始業時間はとっくに過ぎていて、授業の始まった今、学校の周りは人気がない。校内には驚くほどの人がいるのに――静かだった。

「待ったぞ」

 こちらを確認する動きにあわせて、薄い眼鏡のレンズが陽光を弾く。

「なんでその格好なのさ」

 どうでもいいことだったが、沖は薄い笑みを浮かべて続けた。

「趣味?」

 尋ねると同時に、突風が顔を打った。

 反射的に目を閉じる――閉じながら、沖はユキの首根っこを掴んで後ろへと大きく跳んでいた。

 先ほどまで立っていた位置には、鬼が立っている。その手を赤く光らせて、切り裂く形で前へ突き出している。

 赤い腕はもはや少女のものとは言えなかった。筋肉が盛り上がり、手の平は少女の顔の二倍はあるだろうか。鬼の腕だ。

「避けたか……。まあ、よい」

 金の双眸が剣呑に光る。ぺろりと舌なめずりをして。

「そのほうが、狩り甲斐がある」

 濁った声。だが、妙にはっきりと耳に届く。

 その声に合わせるように、生暖かい風が吹いた。鬼の内から溢れる妖力の余波か。

 ユキを背後に隠し、沖は片足を引いて構えた。

「簡単に狩られるわけにはいかないな」

 答えながら、頭の中に力の線を描く。

 妖しの血が作り出す妖力。それが全身を巡るイメージ、頭から肩へ腕へ指先へ、胸へ腹へ足先まで。妖力は常に生産され、妖術はいつでも発動できる。

 戦闘体勢に入った沖を見て、ユキは後ろへ下がった。懐から昨日摘み取った葉を取り出す。それを手の平にのせ、妖力を吹きかける。葉は緑の光と化し、ユキの周りに降り注いだ。簡単な防御結界である。

 ユキは沖の戦闘には手を出さない。手を出すことはすなわち彼の足を引っ張るということだからだ。

「沖様、頑張ってください!」

 結界の中でこぶしを握る。

 振り向きはしなかったが、沖はその声援に対して微笑を浮かべた。

 そして地面を蹴る。鬼は腕を振った。縄を投げたかのように、その赤い腕が沖へと向かって伸びていく。沖は地面を強く踏み、跳び上がってそれを避けた。

 宙での一瞬の無重力状態。真横に鬼がいた。口が裂けるほどの笑みを顔に貼り付けている。そして先ほどの腕は地面に放り出したまま、もう一方の腕を伸ばしてくる。

「っく!」

 空中で体勢を変える事は困難だ。その鋭い爪の生えた手を沖が避けられたのは、天性――獣のしなやかさゆえだろう。

 完全に頭から落ちる姿勢にありながら、沖は片手を突き出した。全身の力を一度手に集中させ、叫ぶ。

「抜光!」

 光が迸る。抜き放たれた刃のように。

「こざかしい!」

 鬼の一吼えで、光刃が掻き消される。舌打ちして、沖はくるんと回転し、地面に降り立った。

「……ふう」

 息をついて、伸ばした腕を引き戻している鬼を見やる。

(やっぱり、完全な人間の姿じゃ厳しいな…)

 少女の姿をした鬼は余裕の視線でこちらを見返す。

「どうした、こんなものか。やはり、ただの妖狐は弱いのう」

「自己過信は褒められないよ。なあ、ただの大鬼さん」

 間髪入れず毒を吐く沖に、鬼が眉間にしわを刻む。双眸の輝きが増す。

「まずは、その口から切り裂いてやろう」

 挑発に乗りやすい相手だ。そう思いながら、沖は待ちの構えを取った。

 意識を集中しようとした、その瞬間だった。

「沖様!!」

 両者の緊迫を貫いて響く声。

 ユキではない。

 沖は目を見開いた。

 なぜ――理解するより早く、視界に少女の姿が飛び込んでくる。紺色のブレザー、緑のネクタイリボン、そして短い黒髪と澄んだ瞳。

「優!!」

 意識する前に、喉に声が走る。

 鬼が、金の双眸が、彼女の姿を捉えた。

「ちっ、出てきたか……」

 姿を見られてはもう容易には取り憑けない。優のような、霊感の強い人間には。そしてそれで諦めるほど、鬼の独占欲は弱くはない。

 鬼の舌打ちが耳に届くと同時に、沖は駆け出していた。

「優、逃げろ!!」

「ダメ、沖様!」

 背後から止めるユキの声があったが、それはもう沖の耳には届かなかった。

 なぜ、叫ばれるのか。なぜ、見ず知らずの少女がこちらへ向かってくるのか。優の頭の中は間違いなく混乱していた。

 

 視界が反転して、明滅する。聴覚はまったく働いていなかった。どこかを地面にぶつけた。いや、壁かもしれない。ぶつけたところが痛む。だが、どこが痛いのか分からない。全身が痛いような気もした。

 ――何も分からない。

 

 目を開けると、誰かが自分に覆いかぶさっていた。

 誰なのか逆光で判別できない。ただ、何か温かいものが手を濡らしている。

 その感触に違和感を覚えながらも、優の思考回路は回復した。自分は仰向けに近い状態で、校舎を囲む塀に寄りかかっていた。ひどく痛むのは背中で、おそらく壁にぶつかってから、ずり落ちたのだそう。

 自身の状態を理解してからだった。塀に手をついた形で、自分を庇う者が誰なのか分かったのは。

「大丈夫……?」

 昨日も聞いた、柔らかく響く声。だが、掠れてひどく弱々しい。

 のろのろと見上げると、髪の短くなったオキツネ様がいた。こちらを見下ろして、笑んでいる。

「沖さ……」

「沖様!!」

 自分と重なる甲高い声。

 その声の主が誰なのか、それも確かめようと視線を動かす。

 が、できなかった。視線は途中で止まり、そして動かせなくなった。

 目の前の青年の服から、ぽたぽたと何かが滴っている。優の手を濡らしていたのはそれだった。

 彼岸花のように鮮烈な赤。暖かいまま手に落ち、そしてあっという間に冷える。

 血だった。

 ひゅっと喉が掠れた音を立てた。急に体が震えだす。

 沖の背中は鋭い何かで引き裂かれていた。

「……お……沖さ、ま……」

 声もどうしようもないほど震えたが、それでも相手には通じたらしい。

 大丈夫だから、と小さく呟かれた。

「……なぜだ……」

 低い、ホラー映画で聞くような不気味な声が聞こえてくる。

 優がそちらを見やると、眼鏡をかけた少女が、驚愕の色で染まった顔をこちらに向けていた。

「……なぜ、人間を庇った?」

 問いに、沖が振り返る。動作はひどく緩慢で、水色の瞳がだるそうに光った。

「……守りたいと思ったから」

 男の声をした少女の顔が奇妙に歪む。優は不思議な気持ちでそれを見た。彼女は人間じゃないのだと、心のどこかが勝手に認識する。

「馬鹿な」

 眼鏡少女が続けて叫ぶ。

「馬鹿な! 人間は餌だ! それを庇うなど……っ、貴様は、どうかしている!!」

 鬼の叫びに、沖は笑った。乱れた黒髪が、その笑いを酷く退廃的に見せる。

 それは自嘲だった。

「……知ってる。俺は壊れてる」

「沖様!」

 ユキがやめてと叫ぶ。だが、掠れた声はぽつりと漏らした。

「……あの日、壊れた……」

 意味の分からない独白に、鬼も優も眉を寄せる。ユキだけが泣きそうな顔をしている。

 長い間があった。誰も動かない。上空の雲の影だけが場を流れていく。

 一番はじめに動いたのは鬼だった。口を開いて告げる。

「何のことかは知らんが、壊れたものは戻らない。簡単なことだ。……私が廃棄してやろう」

 その言葉に、沖は今度は挑戦的な笑みを返した。

「それは困る。死んだら許さないと言われているから」

 立ち上がる。滴る血が、先ほどより激しく地面を打った。

 思わず、優は沖の服を掴んだ。

「大丈夫だよ」

 振り返ってそう言う沖に、優は首を振った。

「……どうして……」

 何が壊れてるとか、そんなことはどうでもいい。彼は正気だ。それだけでいい。

 ただ、何故彼は顔を知っているだけの自分を守ってくれるのか。そのことが分からず、分からないから傷つく彼を見過ごせない。

 沖の手が優の頬を撫でた。

「……誰も死なせない。俺はそう決めたから。だから」

 分からない。

「どうして……」

 同じ質問を繰り返す少女におかしくなったのか、沖は場違いな明るい笑みを見せた。

「そりゃあね、四百年も生きてると色々あるんだよ」

 優は目を見開いた。

 彼は人間ではない。人間の何倍もの時を生きる妖魔だ。そこに理由がある。

 掴む手を放した優に、沖は頷いて鬼を振り返った。

 ゆっくりと構えを取る。だが。

「だめー!」

 ユキが走ってきて、沖の足にしがみついた。

 優が目を見開き、鬼もどこか間の抜けた顔をしている。

「……ユキ」

「だめです! それ以上は無理です!」

「そうも言っていられないだろう……」

 困ったように言ってくる沖に、銀髪を振りながらユキが叫ぶ。

「嫌です!」

 青年の血で顔を汚して、更に涙でぐちゃぐちゃになりながら、それでも離れない。

 場が困惑してきたそのとき、酷く冷めた声が響いてきた。

「ユキ、そのまま離すなよ」

 優はその声を知っていた。昨日道を尋ねたから。その声はとても親切に道を指し示してくれた。

 沖がはっと声のほうを振り返る。その先にいる人物は、声同様に冷たい顔をしていた。

 思わず、この人だっただろうかと優は自分の記憶を疑った。もっと優しそうな顔をしていた気がする。そう、温かい笑みを浮かべていたはずだ。

 高嶺神社の宮司は――。

「バカが」

 苦々しげに言い放ってくる。

 黒い衣服に身を包んだ宮司は、和服の時とはかなり雰囲気が違った。むしろ、まったくの別人と言えた。

「マツイチ……」

 沖が呆然と呟く。

 松壱は鬼のほうを一瞥し、それからすたすたと沖の傍まで歩んだ。その横に倒れている少女を見下ろす。

 陽光を弾きやすいブラウンの瞳。明るいその双眸に見つめられて優は息を呑んだ。

 足に仔狐をくっつけたままの沖を無視して、松壱は膝をつくと少女の手を取り、起きるのを助けて壁に寄りかからせた。

「大丈夫ですか?」

 そして、優の記憶にある柔らかい笑みを見せた。陽だまりのような、ふわりと温かい笑み。

 うぇっと背後で沖が呻いたが、ともかく、優はその笑顔にほっとして頷いた。

「はい」

 少女は打ち身だけで、特に目立った外傷はない。そのことを確認して、松壱は立ち上がった。

 次に、明らかに重傷である狐に向き直る。と、その足元の仔狐に気づく。

「ああ、ユキ。よくやったな」

 松壱に褒められるのが癪なのか、ユキは少しばかり唇を尖らせた。

「やるわよ。ユキは沖様の重石だもん」

「……なるほど」

 優には分からなかったが、松壱はその言葉に頷いて、今度こそ沖の顔を見つめた。

 ユキは沖の足から離れ、彼の顔を見上げた。わずかながら沖は動揺しているようだった。

「……マツイチ」

「よくもまあ、こっぴどくやられたもんだな。見せてみろ」

「あっ……いたた!」

 腕を引っ張られて、傷が引き攣ったのか沖が声を上げる。それでも松壱は構わず、相手の傷口を覗き込んだ。

「まったく、手を抜くからこんなことになるんだ」

 そう言って、松壱は沖の傷に手を触れた。

「っ……!」

 痛みに沖が目を固く瞑る。その表情にユキがつられて眉を寄せた。

 松壱の手がぼんやりと光る。優は目を凝らして、それに見入った。

 なんと言っているのか聞き取れない、日本語なのかさえ怪しい言葉を、高嶺神社の宮司がぼそぼそと呟いているのがかろうじて耳に届く。やがて光が強くなり、分裂して沖の背中を飛び回った。

「ねえ、あれ何してるの?」

 尋ねると、ユキは顔をしかめたままだったが、答えくれた。

「傷を治してるんです。応急処置ですけど」

「そんなこと、出来るの? すごい……」

 感心して優がそう呟くと、ユキは不満気に唇を尖らせた。

「ユキだって出来ます。ただ、高嶺の方が上手いから役目を譲ってやるんです」

 少女の不満は焼き餅にも近いだろう。沖の傷が癒えると知ってほっとした優はユキの様子に小さく笑んだ。

 やがて宮司の手から光が消えた。

「終わりだ」

 短く告げて、相手の肩を軽く叩く。沖は小さく息をついて、松壱を見やった。

「乱暴だ」

「感謝しろ」

 高慢な物言いに、沖はため息をつく。

 それから礼を言うこともなく、鬼のほうを振り返った。少女姿の鬼は腕を組んでこちらを見ていた。

「終わったか」

「ああ、そっちが待っててくれたおかげで」

 沖が肩をすくめてそう言うと、鬼は鼻先で笑った。

「そのほうが面白いかと思ってな」

「後悔するよ。そんなこと言ってると」

 言い返して、沖は一歩進み出た。

「沖」

 背後から呼ぶ声に沖が振り返る。塀に背を預けて、すっかり傍観を決め込むつもりらしい松壱がこちらを睨んでいた。

「真名(まな)で命じたいところを堪えてやる。ギャラリーが多いからな」

 もう飽きたとでも言うようなやる気のない口調であったが、ぴくりと沖の表情が変わる。

 真名、この単語に反応したのだろう。妖怪の唯一絶対の弱点である。真名を呼んだ者の命令には逆らうことは出来ない。

 ふう、とあからさまに嘆息して、松壱は見上げるように首をかすかに傾けた。陽光を弾きやすい明るい瞳が、金色に光る。

「沖、お遊びの時間は終わりにしろ」

 蒼穹を映したような澄んだ瞳が一瞬細められる。その視線を真っ直ぐに受け止めながら、松壱は続けた。

「一日で二度も俺に治癒能力を使わせてみろ。ただじゃおかないからな」

 ただじゃおかない、とは抽象的な言葉ではあったが、その凄みのきいた声に優は冷や汗の出るような心地になった。

「心得ておく」

 短く答えて、沖は鬼に向き直った。

 二人のやり取りを聞いていた鬼が、嘲笑を浮かべる。

「貴様、人間なんぞに真名を知られたのか。情けないのう。同じ妖しとして恥ずかしくもなるわ」

 沖の表情に変化はなかったが、そのパーカーが淡い光をまとうのを優は見た。

「好きなだけ恥じ入るがいいさ。これから妖狐に負けるんだ。大鬼であるあんたは」

 完全に光と化したパーカーはしゅるしゅると縮んで、次にふわりと広がった。淡い、月光の青をした紗。

 優とはじめて会った時も、沖はその紗を身につけていた。

「負ける? 私が? 狐に?」

 沖の言葉に疑問符をつけて、鬼が反芻する。

 そして、ばっと彼は腕を伸ばした。速い。

「口を慎め!」

 怒号とともに鋭い爪が沖の体に到達する。その瞬間、ふわりと、本当にふわりと沖は跳ねた。紗が広がって、鬼の腕はそれに吸い込まれるようにして狙いを外される。

 それは場違いなほどに優雅な跳躍に思えた。

 視界を遮る紗の向こうから静かな声が響く。

「何度も同じ手を喰うと思うなよ」

 鬼の舌打ちが耳に届く。

「ならば! 違う手をくれてやろう!」

 振り向く鬼の髪が伸びた。波打ちながらも沙を打ち抜く勢いで伸びていく。

 紗を巻きこんで、あっという間に沖の体に巻きつく。きりきりと手足を締め付ける大量の髪。

 相手が動けなくなったのを確信して、鬼は狐をねめつけた。獰猛な眼光にも沖の表情は揺るがない。

「さて、次はどうして欲しい?」

 鬼の問いかけに、沖は口角を吊り上げた。

 紗が輝き、沖の黒髪が伸びた。いや、元に戻ったと言うべきか、同時に耳も狐のものに変化する。

 優がはじめて神社で見たときの姿。ただ服だけが洋服のままである。

 鬼は表情を歪めた。大きく、驚倒の表情へと。

「……黒い……狐……」

 しゃがれた声が明らかに震えている。

「……っ嘘だ! まやかしだ!」

 がっと沖の胸倉を伸ばした腕で掴み取る。唾を飛ばす勢いで、鬼は叫んだ。

「黒い狐の一族は、四百年も前に絶滅したはずだ!」

 優が目を見開く。

 体を吊り上げるほどの力で締め上げてくる腕を、沖は掴み返した。ぎょっとする鬼に、にやりと勝ち誇った笑みを浮かべてみせる。

「悪かったな。生き残りだよ!」

 鬼が金色の目を見開く。沖は掴んだ腕に、手の平を通して妖力を叩き込んだ。

「ぐあ!」

 声を上げて、鬼は腕を振り払った。赤い腕は黒く焦げていて、煙を上げている。

 髪の毛が緩んだので、沖は絡んだそれを引っ張りながら地面に降り立った。

「おのれ!」

 鬼の怒号と同時にばっと少女の皮が破れた。中から真っ赤な鬼、少女姿であったときの倍はゆうに越える高さの、巨躯の妖怪が現れる。

「最初からそうしてればよかったんだよ。……もう『今更』だけど、さ」

 そう言う沖の手が夜光虫の緑に発光した。

 びりっ、と背中が緊張する。優はその光に凄まじい気配を感じた。

「いちいち癇に障る狐だ……。だが、ひ弱な人間の皮を脱いだ以上、もう好きにはさせぬぞ」

 鬼が地面を蹴る。巨体にもかかわらず、その動きは速い。

 だが、それよりも早く、沖は地面を手の平で叩いた。

「開け! 双刻の暗!」

 地面が波打つ――いや、波打ったのはその上の空間だ。

 やがて真っ黒い何かが溢れ、ペンキをこぼしたように広がっていく。それはまるで地面に丸い二次元の闇が出現したかのようだった。

「なっ、開門したのか!?」

 揺れる地面に踏みとどまり、鬼が青褪める。

「まさか、こんなことが……っ!」

 ずぶりと足が闇に浸かり、鬼は悲鳴じみた声を上げた。その間にも闇は容赦なく彼を呑み込み続けている。

「もといた場所へ帰るんだな」

 沈んでいく鬼を見下ろしながら、沖が無表情に告げる。

 ぎっと鬼がそれを睨みつけた。捨て鉢になって嘲笑を浮かべる。

「……途絶えた血族の残り香が……今なお、生き恥を晒してどうする?」

 それは負けを認めた者の小さな反撃だった。

 捨て台詞と言えばそれまでかもしれないが、その言葉は確かに最後の玄狐を貫いた。沖の手が強く握り締められて白く震えるのを、松壱は黙って見つめた。

 沈んで姿の見えなくなった妖怪の低い声音が、闇の中から不気味に響く。

「人間に飼われて、それでもまだ生に執着するのか……」

 小さく掠れていく声とともに、地面に広がった黒い染みも収縮していった。

「……閉じろ」

 沖がそう呟くと、一滴の闇がぴしゃんと跳ねて、そして消えた。

 風が吹いた。先ほど優が教室で感じた不穏なものとは違う、爽やかな風だ。

 だが、優は言葉を発することが出来ないでいた。

 

 黒い狐の一族は、四百年も前に絶滅したはずだ!

 

 まあ、珍しいことに間違いはないんだろうけど?

 

 元通りの無口なアスファルトに戻った地面を見つめたまま、動かない青年。長い黒髪が風に巻かれて揺れている。

 優は地面に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。背中が痛んだが、切り裂かれた沖のことを思えば、これくらいですんだ事を彼に深く感謝するべきだろう。

 

 そりゃあね、四百年も生きてると色々あるんだよ。

 

 一歩、沖のほうに踏み出す少女を、松壱は壁に背をもたれさせたまま一瞥した。取るに足らないちっぽけな少女。その声。

「……沖様、ありがとうございました」

 その声に振り返って、沖は笑った。

「なんてことない、狐のおせっかいだよ」

 返ってきた言葉は想像よりもずっと明るくて、優はほっとした。微笑を返す。

 その横を高嶺神社の宮司が無言で通り過ぎた。後ろに銀髪の少女がついてきているが、彼は気にしていないらしい。

 その手がぺちんと沖の額を叩いた。

「おせっかいで怪我してりゃあ、表彰ものだな。――帰るぞ」

 叩かれた額に手をやりながら、沖はそばに寄ってきた仔狐の頭をもう一方の手で撫でてやった。

 それから、優に向き直って手を振る。

「じゃあね」

「はい……、さよなら」

 答えて手を振り返し、沖が前を向いて進みだすと、優は静かに頭を下げた。

 古い神社へ繋がる長い長い石段。苔のある、その神社同様に古い石段を今日は少女が軽やかに駆け上っていく。

 とんっと、最後の段を蹴り、優は肩で息をした。学校から家に帰り、荷物だけを持ち替えてこちらへ来たので制服姿である。

 鳥居をくぐり、まっすぐに狐の社を目指す。と、ふと空を仰いだところで、彼女の目は止まった。

 社の近くには銀杏の巨木が生えている。その枝。

「えーっと……」

 無意識に呟く。

 まだ緑をしている葉の茂った枝の生え際に、黒い獣がのっている。優は眉根を寄せて、目を凝らした。

 柔らかそうな尻尾をだらり垂らして、それはすやすやと眠っているように見えた。

「……お、沖様?」

 小さな声で自信なさげに呼んでみる。

 ぴくりと、黒い耳が動いた。

「沖様?」

 再度呼びかけると、黒い獣は首を上げた。ぴくぴくと耳を動かしながら、下を見下ろす。

「……あれ……優?」

 やがて漏らされた声は間違いなくあの青年のものだったが、どこかぼんやりと寝ぼけた響きを帯びていた。

「はい。あの……沖様、お昼寝ですか?」

「うーん、でももう起きるよ」

 答えて、黒い狐はふわりと跳んだ。途中で一回転して、地面に降り立つ。

 目の前にやってきた狐に、優はおずおずと尋ねてみた。

「いつも、その格好で寝るんですか?」

 すると狐は左右に首を振った。どことなく愛らしい動きに、思わず優は笑いをこぼしそうになるのを堪えた。

「久しぶりに人間に完璧に化けてたからさ、ちょっと疲れたみたい。やっぱり靴はダメだね。足がむくんじゃってさ」

 言いながら座って、前足で後ろ足を撫でる。

 目を閉じて声を聞いていると、黒髪の青年の姿が容易に想像できるのだが、優はもう我慢できなかった。彼女は犬や猫はもちろん、動物全般が大好きなのだ。

 自分も座り込んで、狐の頭を撫でてみる。

「……優?」

 手の中の、毛並みの良い頭が小さく傾げられる。優ははっとして手を放すと、あははと笑ってごまかした。

「えーっと……、あっ、沖様、今日はお礼を持ってきたんですよー」

 ぎこちない笑みを浮かべながら、優は包みを引っ張り出した。ぴくんと、沖が反応したのが分かった。さすがに鼻が良いらしい。

「優、もしかして……」

「はい、お稲荷さんです」

 ぱたぱたと尻尾を振る沖に、優は笑いながら母が用意してくれた風呂敷を開いた。中から黒い重箱が二段現れる。沖は目を輝かせた。

「やったー!!」

 御狐様の好物が稲荷寿司であることは高嶺神社の案内板に書かれている。しかし、御狐様の存在自体が偶像的であったので、優はこのときまでそれが本当だとは信じてはいなかった。

(よかった、お寿司にして)

 しかし、ほっとしたのも束の間であった。

「やったー、じゃない!」

 跳び上がるように喜ぶ沖の背後から、不機嫌な声が響く。

 優が目をやるとそこには、袴を穿いた宮司が箒を片手に仁王立ちしていた。

「あ、高嶺さん、こんにちは」

「こんにちは」

 うっかりいつもの癖で微笑み返してから、松壱はさっと眉を吊り上げた。

「って、違う! 沖!! いつも人から物をもらうなって言ってるだろう!」

「なんだよー、犬のしつけじゃあるまいしー」

 振り返った沖が、松壱に文句を言う。

「犬のしつけで上等だ。ったく、餌付けされてんじゃねぇよ」

「餌付けじゃありませんよ」

 さすがの優も立ち上がって、宮司に言い返した。

「一昨日のお礼です」

 松壱のブラウンの双眸が、ブレザー姿の少女を捉える。それからにっこりと微笑んでみせる。

「それはどうもありがとうございます。お気持ちだけで十分ですので、その妖怪狐に勝手に餌を与えないでもらえますか?」

 宮司の笑みは完璧だったが、その言葉には間違いなく棘があった。彼はすでに目の前の少女に愛想を振りまく必要はないと悟っているのだろう。浮かべている笑みは挑戦的なものだ。

 やはり、と優は思う。

「あなた、二重人格ですね?」

 びしっと指を差して、言い切る。

 不意を突かれたのか、宮司が目を瞬く。足元で沖が噴き出したのが気配で分かった。

「誰が二重人格だって?」

 宮司は頭を抱えてそう呻くと、優を睨んだ。

「愛想を使って何が悪い? 立派な処世術だ。君がその狐に礼を渡すようにな」

「じゃあ、こっちのことも放っておいてください」

 松壱がこちらに歩み寄りながら、答える。

「癖になるからダメだ」

「マツイチはけちだ」

「うるさい。稲荷寿司の食いすぎで腹を壊すたびに、迷惑かけられてるのは俺だぞ」

 ぽつりと呟いた狐を松壱が一睨みで黙らせる。そこへ明るい声が響いた。

「わーい、お稲荷さんの匂いだあ」

 そばの草陰から、銀髪の少女が飛び出してくる。

 が、その首根っこはさっと松壱に捕まえられた。宙で足をばたつかせながら、ユキが泣く。

「あーん、放してよう」

「育ての親に似すぎなんだよ、お前は。なんで野生育ちの癖に寿司なんか食べるんだ」

 少女のお尻に、昨日はなかった銀色の尻尾を見つけて、優は首を傾げた。

「あれ? その子も狐?」

「そう。銀狐」

 沖が頷く。その黒い前足が重箱のほうに伸びているのを優は見た。

 あ、と声を上げる間もなく、ひょいっと器用に爪を引っ掛け、宙に上がった稲荷寿司をぱくんと狐が食べた。

「あっ! てめえ!」

 松壱が怒りの声を上げる。

「いいじゃん、たまにはさ」

「そうよー、頑張ったんだからご褒美ちょうだいよー」

 二匹の狐に鳴かれて、松壱はついにため息を吐き出した。

「ああ、もう好きにしろ……」

 呟いて、仔狐を掴む手を放す。ぱっと地面に降り立ち、ユキはとことこと重箱のほうに駆けてきた。

「わーい、いただきます」

 嬉しそうに手を合わせて、挨拶をする。

 その横で尾を振る沖は、しかし松壱に後ろから抱えあげられた。

「わ、放せよ」

 じたばたと暴れる狐に、松壱は顔をしかめた。顔を引っかこうとする前肢を避けながら、言いつける。

「だめだ。ちゃんと手で食べろ」

「えー」

「えーじゃない。ガキか、お前は」

 言いながら、沖を両手で抱えたまま、松壱は神社からやや離れたところにある自宅のほうに足を向けた。

 狐を連れて去っていってしまった宮司を疑問に思って、優はユキに尋ねた。

「ふたりともどこへ行ったの?」

 口の中の稲荷を呑み下して、ユキは男二人が去っていったほうを振り返った。

「んとね、沖様の服を取りに行ったの」

「服って、人間に化けたときに出てくるものじゃないの?」

「うーん、不可能じゃないけど、ムダに妖力を消費しちゃうから」

 答えながら次の稲荷へと手を伸ばす少女を見やり、優はそれからもう一度、ここよりもいくらか低い位置に建つ宮司の家を見つめた。

 そうしていると、やがて和服の青年が歩いてきた。黒髪が風になびく。

「靴はダメだけど、洋服はいいね。和服は着るのに時間がかかってさ」

 だるそうに言いながら、沖は優に笑いかけた。

 それからせっせと稲荷を口に放り込む仔狐を抱き上げる。

「こら、地べたで食べちゃダメだよ」

 先ほどとは打って変わった沖の物言いに優は目を瞬いた。沖は少女を片手に抱え、もう一方で重箱を持ち上げると社のほうへ歩き出す。

「どうもな、狐の姿のままだと本能のほうが強いらしい」

 ぼーっと沖を見送っていた優の背後から、宮司の冷めた声が響いた。

 振り返ると、松壱が疲れた双眸を向けてきた。

「だから、狐姿のあいつに餌をやるなって言ったんだ」

「……そういう理由があるならちゃんと言ってくださいよ。あんなふうに言われたら、誰だって反発しますよ」

 唇を尖らせながら言い返すと、宮司は苦笑をこぼした。

「まいったな。ユキがもう一匹増えたみたいだ」

「……え?」

「なんでもない」

 首を傾げる少女にそれだけ答えて、松壱は沖の後を追って社のほうへ足を踏み出した。

 その後姿を見ながら、悟って、優は嘆息した。

「なんだ。ひねくれてるだけなのね」

 呟く。

 その声は誰にも聞こえなかったらしい。稲荷を食べる二人はもちろん、言われた当人もこちらを見ない。

 優は笑って、空を仰いだ。沖の瞳のような、綺麗な青が広がっている。

「優!」

 心地よい風に目を閉じようとしたところへ、沖の声が響いた。

 こいこいと手招きしている。片手に持った稲荷寿司を高く掲げて見せたところから、一緒に食べようと言うことなのだろう。

 思わず笑みがこぼれる。優は三人のもとへ駆け寄った。

 狐の社はその日は珍しく人間の客を迎えて、いつもより少しだけにぎやかに一日を終えた。

 

「そういえば、沖、おまえ小鬼はどこにやったんだ?」

 部屋を掃除しながら、廊下に座っている狐に松壱が問いかける。廊下は縁側に面しており、沖の背後は庭になっている。晴天のために背中側が温かく、心地よいので、沖はもう長い時間そこに座っていた。

「んー、いるよ?」

 沖は膝の上に乗せた松壱の本を読みながら、顔も上げずに答える。

 優が初めて神社に来た日以来、松壱は小鬼を見た記憶がなかった。怪訝そうに眉を寄せて尋ねる。

「どこに?」

「マツイチの肩の上」

「……」

 掃除機を止め、自分の肩に手をやる。それから松壱はふっと笑みを浮かべると、投球姿勢をとった。

「この、バカ狐!」

 投げつけられた小鬼は見事にストライクを決めた。沖の顔面に当たって、ずるずると落ちる。

 沖はぽてっと本の上に落ちたそれを拾い上げた。涙をこぼす小鬼の頬をつつく。

「全然、気づかなかったくせに。霊力有り余ってんだから、少しくらい分けてくれたっていいじゃないか。なあ?」

 手のひらの上でこくこくと頷く小鬼に笑って、沖はそれを自分の肩に乗せた。

「ま、これで一件落着、かな」


 
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