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「君とこうして飲むのは珍しいね。」
目の前の男はそう言って笑った。
確かに珍しいことかも知れない。
思い返してみれば、この男を追い回したことこそあれ、静かな時を過ごした覚えはあまりなかった。
一年の終わりと始まりを夜通し祝う宴の片隅でひっそりとした酒飲みが始まる。
長江から初日の出なるものを見ようと男が企画した宴は、船上にて行われていた。
月が、仄かに照らし出したその男の横顔は、大いに赤みを帯びていた。三国の人間が集まる酒宴では仕方のないことかもしれない。
人に好かれることに掛けては天性の才を持つ男である。あれよあれよ、と言う間に飲まされて此処に避難してきたのだろう。
そんな男の笑顔を、自分は気に入らないと思った。
誰彼と構わずに振り撒かれる其れは、男を想う数多くの人間を蔑ろにしているように思えて仕方がないのだ。
実際はその様な事実はないのだが、気に入らないものは気に入らない。
況してや、その慕う人間の中には自分が敬愛して止まない主君もいるのである。そう易々と割り切れるものではない。
自分自身も眼前の男を、頭では嫌いだと言いたくても、気持ちの方ではそうはいかなかった。儘ならないものである。
「貴様に少々言いたいことがあるだけだ。」
多少、感情が表に出てしまっていたのかもしれない。
いつも通り、ぶっきらぼうに返したはずの自分に、男は僅かながらも怯えの色を見せた。
「えっと……また何か俺がしたかな?一応、自分でも問題は起こさないように気を付けてたつもりなんだけど……」
そうした自信の無さも気に食わなかった。疾しいことがなければもっと堂々とすればいいはずである。
見方によっては、他人を慮ることのできる美点としても取れるかもしれないが、自分には唯唯、軟弱な仕草にしか映らなかった。
以前にも述べたが、男は人に愛されることに関しては天賦の才を持つ。
蜀の、劉国王も似たような魅力を持つという。
事実、あまり力を持たないように感じられる彼女の周りには、五虎将軍を始めに、臥竜、鳳雛と称された英傑や天下の飛将軍までもが
集っている。
ただ、決定的に違っているのは彼女が女である、という点である。
基本、女の魅力にやられてしまうのは、特異な趣味を持つもの以外は男であるのが相場であろう。
そのため、彼女の人間性や主君としての甘さなどに惹かれる者こそいれども、恋愛の対象としている者は、全く、ではないが、いない。
その点厄介なのが眼前の男である。女性の多い、国の重鎮達の中心にいるのだ。男の魅力に、好いた惚れたとなるのもやむなしだろう。
そんな男なのだ。
そう、そんな男なのである。
そのくせ、男自身は他人から向けられる好意に鈍いところある。
いいかげんに、貴様の目の前にいる、私がどう思っているのか気付いてもいい頃ではないか。
多くの人々は知らないだろうが、人に愛されることが才能であるように、他人に笑みを見せるのも才能のうちでないかと思う。
男に向け、微笑むことが出来ないのは自覚しているつもりだ。
だからこそ、自分を見るたびに気弱な面を覗かせる男が余計に苛立たしく思えるのかもしれない。
前国王の雪蓮様の様に、奔放に笑顔を見せながら、眼前の男を振り回せたらどれだけ良いかと、思い馳せたこともあった。
頬をどうしようも無い程に緩ませた男の隣にいる、腕を組みながら、それ以上にだらしなく頬を緩ませた自分に腹立たしくなった。
可笑しなことである。
本当に、儘ならないものだ。
「別にたいしたことではない。」
良くもそんなことを口に出せたものである。
そんなたいしたことが言えずに年の暮れまでずるずると引き延ばしてきたのだ。男の女々しさを笑えなかった。
「もう、一年が終わる。年が明ける前に貴様に言っておきたかっただけだ。
色々と世話になったな。普段の私が私だ、あまり感じられないかも知れないが……」
争いのない国から来た、という男は多くの犠牲と血路の元に開かれた道を歩み抜け、今では国を背負う立場にまでも上り詰めている。
そこにはこの国の住人である、自分たちには想像も出来ない程の苦難と過酷が立ちはだかった茨の道であっただろう。
そんな旅路を進む男に、自分は何も出来なかったに違いない。自己満足に違いないがせめて気持ちだけでも伝えておきたかった。
これでも貴様には大いに感謝している。
そう告げられた時の男の顔は、実に面白いものであった。
男の言う、鳩が豆鉄砲を、というのは正にこの顔のことだろう。
その反面、多少の苛立ちもした。
私の謝辞は鳩にとっての豆鉄砲だということを物語るには余りにあり過ぎる表情である。
「そっか……」
弱々しく微笑みを浮かべた男がそう呟くのを最後に、再び静かな時が流れ始める。
騒がしいはずの宴の喧騒は、何処か遠く、長江の果ての出来事のように思われた。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
月は水面に落ち、替わりに浮かび揚がる日輪があたりを仄かに、それでも月光よりははっきりと照らし始めた。
僅かに白み始めた空を眺めたまま、男は口を開いた。
「もうすぐ、夜が明ける。新しい一年が始まるんだな。」
そんな男の言葉に、そうだな、と何処かで聞いたような言葉を呟く。
朝日を受け、白銀に輝く衣を纏った男は、正しく天の御遣いといった所だろう。
「ありがとう、って君に言われて少しだけ楽になったよ。」
時折、考えるんだ。本当に俺がしてきたことは正しかったのかな、ってね。
歴史を変えてしまったこともそうだけど、戦乱のない世のために力を、というのは矛盾しているんじゃないか。
割り切ったつもりではいたけど、やっぱり中々ね。
そう零した男の顔はまだ弱々しいままであったが、
「俺の驕りかも知れないけど、少なくとも感謝してくれる人がいる。支えてくれる人がいる。好きになってくれた人がいる。」
此方に向け堂々と言い放った姿は、誰かが語った、日輪の輝きと呼ぶに相応しい風貌であった。
「きっと、俺は数えきれない人達のお陰で、こうして立っていられる。
乱世は終わった。でも、俺達はまだまだやらなくてはいけない事が山積みだ。
支えてくれた人達に、少しでも恩返しできるように頑張っていかなくちゃならない。」
こうして不意に見せる男の強い眼差しが嫌いだった。
視線を向けられた自身の胸の高鳴りに、この男に特別な感情を抱いているのが、まざまざと思い知らされているようで。
激しく脈打つ鼓動の音が、そのまま相手に聞こえてしまいそうで。
「だから、今年も、これからも宜しく頼むよ。思春。」
そう手を差し出す男に言葉を閊えながらも握り返し答える。
「っ。貴様は自分の心配をしていろ。少しでも問題を起こしたら即座にその頸を刎ねてやる。」
自身が分かるほどに赤く染まった頬では説得力がなかったのであろう。
そいつは怖い、と男はさして気にしてないように笑った。
そんな男の穏やかな微笑みは嫌いになれそうになかった。
ただ、染めた頬以上に、自身の感情を伝える術を持たない自分が嫌いになりそうだった。
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本来、総選挙に応援作品として投稿するはずだったものです。
漢女の波動のせいでああなってしまいましたが。
こちらはちゃんと乙女の作品なので目を通して頂ければ幸いです。
最後に私事で申し訳ないのですが、
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