その果によりて彼らを知るべし。茨より葡萄を、薊より無花果をとる者あらんや。
(マタイによる福音書 第七章十六節)
咲くならアザミ
人生の在り方を花に例える時がある。
咲くならアザミ。そう決心したのは十六の夏。
「私、ちょっと礼菜ちゃんを探してきますね」
あのひとにそう告げてから、私、間宮律子、いや間宮リナは外に出た。
仰ぎ見れば無風。影を残す蟻の列。
呼吸をすれば草いきれが肺にこもる。
やはり田舎は好きになれない。
あの夏もこんな夏だった。
私と母が可愛がっていた老犬が死んだ。
間もなく、そのついでのように父が死んだ。
私は父に甘えた記憶がない。
父は身体の弱い人だった。
それゆえか、とても自分に厳しく、またそれを他人にも強いる人だった。
連日、無理を押しての深夜残業、休日出勤。
たまに私と顔を合わせれば、会話は学校の成績。
いつしか良い子の演技も板に付いた。
母は良妻賢母の鑑で、何も言わず、黙って父に従っていた。
それが当然の時代だった。
そんな家庭が大嫌いだった。
父が死に、いくばくかのお金が我が家に入ってきた、と思う。
思う、という曖昧な言い方になるのは、そのお金が我が家の生計に役立つ事がなかったからである。
母は貞淑の仮面をかなぐり捨て、派手な化粧と衣服に身を包み、良人の元へと入り浸るようになった。
どうやら、父が死ぬ前からの付き合いであるらしかった。
私は朝、一人でトーストを焼き、学校へ行き、夜は一人で冷めたお惣菜を口に運んだ。
思えば、父の死よりも老犬の死が、家庭の崩壊を暗示していたような気がする。
そんな生活が長く続く訳はない。
親戚は勿論、近所から果ては学校でまでも、我が家の話が持ち上がるようになった。
非難されるべきは父と母であって、私ではないはずだ。
しかし、「家族であるならば」という理由だけで、私も当然の如く矢面に立たされた。
それが当然の時代だった。
そんな家庭はとうに無くなってしまったというのに。
咲くならアザミ。そう決心したのは十六の夏。
私は家を出た。
田舎を飛び出して都会にやって来ても、学歴もない一介の小娘が陽の当たる生活を送れるはずもないことぐらい、まだ幼い私にも分かっていた。
アザミは夜に咲く。
つまらないものは捨ててしまえ。
一切の躊躇も未練もなく、名前を変え年齢を偽り、私は夜の国の住人となった。
女が一人で生きていくには、何より必要なのは金だ。
そう割り切れば、どんな汚れ仕事も出来た。
学歴はないが学はある、と自負していた。
それとも元々お水の世界が性に合っていたのかもしれない。
どこの店でも可愛がられた。
馴染みの客もついた。
だが、男運は良くなかったかもしれない。
小金を持てば、騙した騙されたは日常茶飯事、あげくに他の娘の客を取ったの取られたのと男絡みのトラブルは続く。
女が一人で生きていくには、何より必要なのは金だ。
仕事は誰よりも出来るのに、何故つまらない男の問題で店を辞めねばならないのか。
いつだってそうだった。
男なんざ騙してやるものと相場は決まっているのに。
いつしか悪女の演技も板に付いた。
男相手に夢を見るな。
流れて鹿骨市、興宮。
「ブルーマーメイド」という店に勤めて半年。勤務態度を評価されてか、フロアマネージャーに抜擢された。
フロアマネージャーの主な仕事は接客ではなく、店の女の子の監督だ。若い娘からは「お姉さん」と慕われていた。もうそう呼ばれる年齢になったのかと、我ながら苦笑する。
興宮でも、早速男が寄って来た。どうして男という生き物は、小金を持っている女には嗅覚が働くのだろう。
名前を鉄平という。
例によって例の如く、女は怒鳴って手を上げれば言う事を聞くモノだ、と信じ込んでいるどこの場末にでもいる小心者だ。地元の田舎娘ならともかく、さんざん都会の水を泳いできた私には、取るに足らない相手でしかない。
ただ、雀ゴロを気取っているせいか、異様に顔が広いのには驚かされた。さらにこの男、私の財布だけではなく、私自身に惚れていると見た。
これを利用しない手はない。
美人局の手管も私が仕込んだ。
相手から脅し取るだけではなく、絞れるだけ絞り上げる。
鉄平との関係は、私が完全に主導権を握った。
フロアマネージャーとはいえ、仕事であれば接客もする。お店の常連さんや、初見のお客さんには必ず挨拶をする。
特に初見の客は大切だ。私への印象一つで店の評価まで決まってしまうと思うと、今でも緊張してしまう。
名刺と、その裏に手書きのメッセージ。さらに一輪、添えるのはアザミの花。
「いらっしゃいませ、ブルーマーメイドへようこそ。私は当店のフロアマネージャー、間宮リナと申します。御用の際はなんなりとお申し付けください」
名刺を受け取ったその客を見て、私は一瞬息を呑む。
老いた犬のような目をした男だった。
それが、あのひと。
なんと甘やかな日々だったのだろう、と回想する。
あのひとと出逢ってからの日々。
最初はいつも通りだった。
笑顔と甘言で弄し、貪れるだけ金を貪るつもりだった。
優しい恋人の演技も板に付いた。
「こんなモノしか思いつかなかったのだが・・・」
あのひとからの最初のプレゼント。
今時の学生でも敬遠しそうな、野暮なデザインのパールのピアス。
気の利いたという言葉とは程遠いその野暮ったさに、あのひとの心が透けて見えた。
老いた犬のように、朴訥で不器用。
およそ私には似合わない、どこかへ置き忘れてきた感情がふいに押し寄せた。
先に心が折れたのは私だった。
このひとと一緒に暮らしたい。
私は夢を見た。
あのひとには娘がいた。
名前を礼奈という。
あのひとの娘らしく、穏やかで人当たりのいい少女だった。
だが、人を見抜くのは私の仕事だ、
彼女は私を疎んじている。
気が付けば、濁った沼の底の目で私を見ている。
気付かぬ振りで話しかければ、慇懃に身を硬くして言葉少なに立ち去る。
あの夏の自分に似ている、と気が付いたのは何故だったろうか。
それでも、私はあのひとの甘さにすがった。
寝物語に部屋の好みを語ったことがある。
程なくして、あのひとの自宅の居間がその通りに模様替えされていた。
笑顔の裏で涙を隠した。
こんな、莫迦が付くぐらい世間知らずで他人を疑わない人が、無事に生きられる保証はない。
私が一緒にいなければ、あのひとはいいように食い物にされる。
それが当然の時代なのだ。
だが、そんな家庭に私が納まることができるのだろうか。
家庭に捨てられ、家族を捨てたこの私に。
それは一週間前。
「おめでとうございます。三ヶ月ですね」
そんなにこやかな医者の宣告。
その時、私は自分の夢の終点を悟った。
あのひとは、ますます見境がないくらいに私を甘やかした。
だが、礼奈は違った。
あの子の私を見る目がますます昏く沈んでいく。
私のお腹にあのひとの子供がいる。
そう告げたら、彼女はどうなってしまうのだろうか。
あのひとの恋人を演じる自信なら、私にはある。
しかし、彼女の母を演じる自信など、私にはない。
潮時、という言葉が脳裏をかすめた。
男相手に夢を見た、最初で最後の時間が終わる。
女が一人で生きていくには、何より必要なのは金だ。
子供が出来たならなおさらのこと。
鉄平と相談して、いつも通りに悪女を演じよう。
鉄平に暴力を振るわせ、あのひとから有り金を巻き上げよう。
そして最後には鉄平をも裏切り、全ての金を持って姿をくらまそう。
その前に礼奈と話がしたかった。
最低の女と罵られたかった。
もう顔も見たくないと嘲られたかった。
そして、その通りに人としての最悪を演じたかった。
それでようやく踏ん切りが付くだろうから。
自分が母と呼ばれるか、その瀬戸際でようやく私は思い至る。
母は結婚前に女を楽しむ時間がなかったのだろう。
だから父が死んだ後、母は母であることよりも女であることを選んだ。
母の世代なら、女は結婚できる年齢になれば、有無を言わさず見合いをさせられ、嫁に出されたに違いない。
それが当然の時代だった。
父に至っては男を楽しむ時間さえなかった。
家族のためではなく、会社の発展のために命を削った。
父の世代なら、貧しい家庭の生まれであれば、働ける年齢になったらすぐに就職し、遊びを覚えることもなく仕事に没頭したに違いない。
それが当然の時代だった。
母はいくばくかの金を手にして、ようやく女に戻ることが出来た。
世の中は金。私も女。母は幸せになれただろうか。
父はそれさえ出来なかった。
報われない人生。
実の娘にさえ憐れまれる、そんな男の生涯。
私は父に甘えた記憶がない。
私はあのひとの甘さにすがった。
私は……あのひとに恋人や夫ではなく、父の姿を映していたのかもしれない。
礼奈に嫌われるのも当然だ。
私は彼女から父親を奪おうとしている。
それもあのひとを私自身の父として独占するために。
私は。
私が捨てた家庭という在り方に報復されようとしているのではないのだろうか?
ふいに嗚咽。咽の奥から込み上げる声。引き絞り引き絞り、口にする言葉。
「お……とう……さん」
あなたに愛してもらいたかった。
遠雷。錆び始めた西の空。
背いたのは家庭、求めたのは家族。
この子は独りで育てよう。父がいないと恨まれよう。
あのひとからもらったピアスを、父の形見として渡してやろう。
その分、倍愛してやろう。
そして、この子が立派に育ったなら、黙って私は世を去ろう。
手折られて美しく咲く花ではなく。
荒地をしのいで、泥の中に朽ちる花でありたい。
それだけが、今の私に見られる夢。
夜に咲いて、昼には枯れる。
咲くならアザミ。そう決心したのは十六の夏。
散るのもアザミ。そう決心するのは今年の夏。
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「ひぐらしのなく頃に」より、原作きっての悪役キャラ間宮リナ。彼女の隠された過去の物語です。