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少女の航跡 短編集09「神々の詩 Part1」-2

少女の航跡の秘められたストーリー。太古の昔、アンジェロ族という者達が栄華を誇っていた時代、一人の子供、ガイアが誕生するところから物語は始まります。そしてそれは悲劇の始まりでもありました。

2011-11-19 17:26:01 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:951   閲覧ユーザー数:395

 ヘラは、真っ白な世界で目覚めた。

 その世界は一点の曇りも無いかのような白い世界であり、彼女はその世界に設けられている寝台の上に横たわっていた。

 全てが純白に覆われている宮殿の中。そう形容する事ができる場所だった。ここは病院でも無ければどこでもない。彼女の知らない世界だった。夢の中にしてはあまりにも現実味があり過ぎる。

 自分は一体何をしているのか。ヘラはそんな疑問と共に身を起こした。ここでは何も音も聞こえてこない。自分が出す音だけが異様に響き、呼吸音さえも巨大な音として反響して聞こえてくる。

 ヘラはじっと動かずその場で待っていた。誰かが来るかもしれない。それまでに何かをしようとする事が恐ろしかった。

 気が付くと、自分は初めて目にする世界で目覚めた。こんなに恐ろしい事があるだろうか。寝台から脚を下ろし、床に足をつけるという事さえも恐ろしい。

 自分の呼吸音が、巨大な音として聞こえてくる。耳を塞ごうとしてもその音だけが巨大なものとして聞こえてきた。

 そのまま、恐ろしさに身を震わせながらヘラはしばらく待っていた。

 すると、どこかから軽い足音が響いて聞こえてくるのをヘラは聴いていた。その音はヘラの呼吸音よりは小さいものだ。

 この宮殿の部屋の方へと誰かが近づいてくる。音が聞こえてくる方へとヘラは顔を向けた。

 すると、続き部屋になっているずっと向こうから、真っ白な何者かが歩いてきている。しかもその姿は子供のものだった。

 真っ白な肌、そして真っ白な髪を長く床まで垂らしている少女が歩いてきていた。黄金色の瞳を持ち、それは輝いているかのように見える。

 ヘラはその少女に畏怖ともいえるような恐ろしさを感じた。だが少女はというと、ヘラがいる寝台のすぐ近くまで迫ってくると、彼女へとお辞儀をした。

「ご機嫌麗しゅう、お母様。また会えましたね」

 その少女が言って来た言葉の意味を、ヘラは理解する事ができないでいた。

「何を言っているの?あなたは?」

 少女は目を見開くかのようにしてヘラに視線を向けて来ている。彼女と会ったのは初めてではない気がしてきた。この黄金色の瞳をヘラは知っている。彼女の姿があまりにも様変わりしてしまっている為に、ヘラには分からなかった。

 この少女はガイアだ。生まれて数日しか経っていないガイアが、年の頃、十歳ほどの少女の姿となって、自分の目の前に現れている。

「あなた、ガイアなの?」

 ヘラはまだ信じられないといった様子で、目の前に現れた少女に言った。

「仰せの通りですわ。お父様とお母様が、ガイアと名づけられた娘が私です。ここの世界以外では、私はまだ赤子でしかありませんけれども、それではお母様と口を開いてまともにお話ができるようになるまで、数年の時を待たなければなりません。

 ですので、この姿で現れる必要があったのです」

 そのように言葉を並べたててくる少女。彼女は外見こそ10歳ほどにしか見えないような少女でしか無かったが、異様に言葉の使い方が大人びており、洗練されている。そんな彼女の意識はどこからやってきたというのか。

 もし、今目の前にいる存在が本当にガイアだったとしても、彼女はまだ赤子でしかなかったはずだ。それなのに、彼女はヘラの前に少女の姿で現れていて、しかも立派な人の言葉を介しているではないか。それは饒舌とも言える口ぶりだった。

 その出来事にはヘラは恐怖と言うものさえ感じていた。

「あなたが、ガイア?そんな事は信じられないわ。一体、何がどうしてそうなったって言うのよ?だって、ガイアはまだ私が産んでから数日しか経っていないのよ。こんなのは、私が見ている夢にしか過ぎないわ」

 ヘラはそのように言い放ったが、ガイアと名乗る少女は一歩その脚を進めてきた。彼女は白い装束を纏って、立派な靴まで履いている。

「ええ、確かにお母様が、わたしと共にいらっしゃるこの世界は現実のものではありませんの。ですが、これは幻でもありません。実在するものなのです。わたしはお母様の意識の中に入り込み、あなたに伝えたい事があったのです」

「何を言っているのか分からないわ?私の意識の中?それはどういう事よ」

 ヘラは迫ってくる少女から距離を取ろうと、横たわっていた寝台から降り、彼女と対峙する。

「ここにいるわたしが、ガイアであるという事は、お母様にもはっきりと分かっているはずですわ。認めたくない事も分かりますけれども、それは真実です」

「ガイアはまだ赤ちゃんなのよ。言葉を話す事もできないし、あなたはただの幻でしか無いわ」

「そう思われるのは残念ですわ」

 ヘラの言葉に覆いかぶさるかのようにガイアはそのように言葉を発する。そして彼女は自分の手を差し伸べてきた。その手はガラス細工のように繊細であり、真っ白な色をした無垢なる手だった。赤ん坊のように汚れが全くなく外の世界と、一切触れた事が無いような手だ。

「ですが、お母様は感じられるはずです。わたしの意識は、お母様の中で生が発生した時からありました。言葉はすでにその中で覚え、わたしの中にはお母様の記憶も意識も、感情も流れ込んできていました。ですが、まだ生まれたての赤ん坊のままでは、お母様と会話する事もできません。

 ですので、大切な事を伝えるために、わたしはお母様の意識の中に入り込みました。わたしが生まれ持った才能は、皆の意識の中に入り込む事ができるという力です。そこで、お母様に伝えたい事があるのです」

 ガイアは言葉を並べてくるが、ヘラはまだ警戒していた。これは単なる夢にしか過ぎないかもしれない。周囲の光景、そして目の前の少女の並べ立ててくる言葉は、現実のものと変わらないほど明確な存在感がある。

 だが、全てが幻であるという可能性もある。

 ヘラは恐る恐る、ガイアを名乗る少女へと手を伸ばした。少女のガラスのように繊細な手は、ほのかな光を放っており、それは金色の光だった。

 ヘラはその光に触れる。もしこれが幻でしか過ぎないのならば、光に触れたとしても何も起こらないだろう。

 しかしガイアの持つ光に触れる事には抵抗があった。何故彼女がこのような光を発せられるのか分からない。ガイアはただの赤子に過ぎないはず。なぜこのような力を持っているのか。

 ガイアの持つ手のひらに触れた瞬間、ヘラには、彼女の持つ記憶が流れて来ていた。

 胎内にいる時の音、感触、そして、暖かい体温で守られているという胎児の感覚が流れてくる。そして声さえも聞こえてきた。

(ガイア。あなたはガイアよ。アンジェロとして生まれる事ができる奇跡の子。幸せに育ててあげたいわ)

 それはヘラ自身の声だった。くぐもって聞こえてきているのは、人の胎内から聞こえてきている声のせいだろうか。

 これが誰の人の胎内であるのか、すぐにヘラは理解した。これは自分自身の胎内だ。ガイアがまだ生まれる前、胎内にいる彼女に話しかけていた声なのだ。

(お前は素晴らしい子だ。アンジェロの力の結晶。この社会に新たな幸福をくれるかもしれない)

 そう聞こえる低い声は、ヘラの夫のゼウスの声だ。

(よして、あなた。この子は、アンジェロの子である以前に私達の子なの。私達が、幸せに育ててあげなければならないわ)

 再び自分自身の声を聞くことになったヘラ。そこでガイアの記憶は途切れた。

 思わずヘラは、ガイアの光っている手から自分の手を離した。これは幻覚などでは無い。はっきりと意識と意識同士が繋がり、それが流れてきたのだ。

「これは、あなたの記憶?」

 ヘラはガイアの方を直視する事は出来ずにそう言っていた。ガイアの方はと言うと、その金色の瞳を見開いて、母の方を向いてくる。

「そうですわ。私は意識を自由に行き来することができます。これはお母様から授かった力、そうでしょう?お母様は隠されていますが、あなたは自由に人の記憶を行き来する事ができる魔法の力を持っているはずです。

 アンジェロの持つ超人的な力、そして、恐ろしい力。何万、何十万という時を生きるアンジェロだからこそ手に入れる事ができる忌むべき力」

「それを、あなたも持っているというの?ガイア?私からそのまま授かって?」

 自分の言っている言葉が何を意味しているのか、ヘラは自分でも分かっていた。彼女はこの能力の恐ろしさを自分でよく知っている。

 ただ他人の意識の中に入り込むのならば、それは所詮は空き巣程度のものでしかない。しかし、ヘラはそれ以上の力に応用する事ができる事を知っている。

「ご安心なさって、お母様。お母様をこのまま、意識の牢獄に閉じ込めておくつもりはありませんわ」

 その言葉が信用できるものかどうか。ヘラはまだ不安だったが、少女に向かって一歩近づく事はできた。

 だがヘラはまだ安心できない。もしこの力をガイアが使っているものであったら、それはあってはならない事なのだ。

「あなたは分かっているの。この力の恐ろしさが。そして、これが他のアンジェロ達に知られることになったら、どれほど恐ろしい事になるのかと言う事も」

「分かっていますわ。お母様から頂いたこの力。自分ではどうする事もできません。母から娘へと受け継がれる才能というものは、自分では抑えようのない事ですわね。しかしながら、わたしもアンジェロの一員として生を受けた存在である以上、自分自身を滅ぼすわけにはいきませんでした」

 ガイアが言ってくる。その言葉が何を意味しているのか、ヘラは少し考える。この生まれながらにして口達者で好奇に溢れたような態度を取る娘が、一体何を考えているのだと。

「滅ぼす?それは一体?」

「もし、わたし達、アンジェロの子らが、恐ろしい力を有していれば、わたしは滅ぼされてしまいます。それこそ、太古の昔に起きた出来事の再来であると言われ、わたしは忌み子としてこの世から抹消されてしまうという事くらいは、お母様の胎内にいる時にすでに聞いていましたわ。

 わたしがこの世から抹消されるだけではなく、お父様とお母様の名誉を著しく汚すことになってしまう。わたしはそうした事からも、自らの生を断ち切る事も出来ました。他のアンジェロの子らがそうしてきたように」

「何を、言っているの?あなた?」

 ヘラは思わずガイアの方へと身を乗り出してそう尋ねた。この娘は、一体何を言っているのだ?

「お母様はご存じありませんか?どうして、アンジェロの子は、何千年に一度の割合でしか生まれないのかと言う事を。

 アンジェロの子らは、生まれてくる可能性を失ってしまったから、生まれて来ないのではありません。アンジェロの子らは、自らの命を断っているからこそ、生まれてくる事ができないのです。

 誕生する前から、子供達は両親の声を聞き、自らの運命を知ります。恐ろしい力を有しているアンジェロの子は、全て抹消されてしまう事になる。そしてほとんどのアンジェロの子はその声から、自分の両親を守ろうと、自らが誕生したという事を親に知らせるよりも前に命を断ってしまうのです」

 ガイアはいつしか母親の側に寄り添いながらその話をしてきていた。この娘が、本当に自分の娘であるのか、ヘラには正直まだ分からない。もしかしたら自分が作りだしている虚像でしかないかもしれないのに。

 だがヘラは、ガイアの姿をした少女に尋ねた。

「何故、あなたはそんな事を知っているの?生まれてくる前の子供たちの事なんて、あなたは分かりようもない」

「いいえ、分かります。何故ならわたしはお母様の力を受け継いでいますの。意識の中に入り込み、その人の声を聴く事ができます。

 ああ、生まれながらにして、両親の名誉を守るためにこの世から消えてしまう選択をする子らの何とも哀れな事。わたしが意識と言うものを持ってからというもの、わたしは数人のアンジェロの子らの声を聞きました。

 彼ら彼女らは、両親の力と知恵をそのまま受け継ぎ、世の中にいるアンジェロの大人たちよりも数段多くの知識を持ち生まれるはずでした。しかしながら、その賢さが、彼らに悲しい選択をさせてしまうのです」

 ヘラはガイアの頭をなでてやりながらも、彼女の並べ立ててくる言葉に恐ろしさを隠せない。

「そんな。あなたの言葉が正しいとしたら、私達、大人のアンジェロ達が、生まれてくる子供を恐怖している為に、生まれるはずだった子供達は皆、命を断っているというの?この3400年もの間ずっと?」

 本当にここにいる存在がガイアであり、彼女の話している言葉が現実であったとしたら、それは何とも恐ろしく、そして罪深い事だった。アンジェロは生まれてくる子供らを恐れるあまり、その子供たちに死の選択をさせているという事になる。

「アンジェロは賢く、そして長命な存在ですわ。お母様。一度でも恐ろしい悲劇が起こされれば、彼らはそれを二度と引き起こさまいと、確固たる意志を持つことになるでしょう。自らの生の安全のためであれば、生まれてくる前の子供にさえ、その存在を許さない。それがアンジェロのしている選択ですわ」

 ヘラは寝台の上から立ち上がった。そして、ガイアに向かって目を下ろす。

「あなたの言っている事が本当だったとしたら、それはアンジェロ全てに対して知らせなければならない事だわ」

 しかしながらそんなヘラに、ガイアは金色の瞳を見開いて言った。

「そして、このわたしの力の事も知られます。わたしが、存在しているアンジェロ全ての意識の中に介入する事ができる力を有している事が知られるでしょう。そして、アンジェロから生まれてくる子らは、全て、大人のアンジェロよりも聡明であり、すでに何らかの能力を有している事も知られるでしょう。

 このかわいそうな子らに、慈悲をかけて下さるアンジェロが多いという事も、わたしはお母様を通じて知っておりますわ。ですがどうでしょうか。アンジェロ全ての安定のために、今生きているアンジェロ達の命だけを優先する大人のアンジェロが多いという事もわたしは知っております。

 彼らが恐れている、セーラの悲劇がどういうものか、お母様の記憶を辿ってわたしは知る事ができました。確かにそれは恐ろしい悲劇であり、アンジェロの人口の半分をも失わせてしまうほど、恐ろしいものだという事も理解しました。このわたしを消滅させるという事もまた、判断の一つなのでしょう。残酷な事だとは思いません。アンジェロ全ての命をこのまま安定させるのならば、わたしの命など儚いもの」

 ヘラの見るガイアは、とても生まれたばかりの赤子とは思えないものだった。彼女は全てを知っている。赤子だというのに、大人を超えんとするほどの知性が彼女にはある。これが幻覚などではない事もヘラにははっきりと分かっていた。

 だからこそ、ガイアの話にはしっかりと耳を傾ける事ができたのだ。

「お母様、アンジェロの真実を世に伝える事を優先するか。それともこの私の存在を優先するかはあなたの判断に任せますわ」

 ガイアはヘラに問う。しかしながらヘラとしてはすでに答えは決めているつもりだった。

「この話を聞かされた以上、私はこの事を世に伝えなければならないという義務があるわ。私達大人のアンジェロのせいで、赤子達が、自ら生まれてくる命を消しているという事を伝えなければならないという義務が」

 ヘラは本心をガイアへと告げた。しかしガイアは言ってくる。

「そして、お母様の話を果たして大人達に信じてもらう事ができるでしょうか?仮に信じてもらう事ができたとして、お母様には覚悟がありますか?子供のアンジェロが大人達よりも遥かに聡明であるという事が世に知られることによって、大人達がどのような行動に出るのか。それを目の当たりにする覚悟があるのですか?」

 ガイアは再びその眼を見開いてヘラに尋ねてきた。

「真実は、知らなければならない事よ。もしあなたが私にこの重大な事実を教えてくれなかったら、アンジェロは永遠に自分達の子供を自殺させている事になるわ」

 そう言いながら、ヘラは自分がいまいる部屋の天井を見上げた。

「わたしは、この大切な事を教えたく、お母様にアンジェロの子らを代表して現れる事にしました。わたしは自らの命を露と消す事ができませんでした。この事実はお母様とお父様に伝えなければならない。そう思ったのです」

 ガイアが言ってくる間も、ヘラは天井を見上げていた。

「ガイア。この世界から私を解放して。この大切な事を人々に伝えなければならないわ」

「それは、今はできません」

 ガイアはそのように言ってくる。

「どうして?」

「人々は今、恐れを感じています。特にある人物が、このわたしの事を知らないにもかかわらず、わたしを消そうとしている事を、お母様の記憶、そしてお父様の記憶を辿って知りました」

「タルタロス評議員の事を?」

 ガイアが言いたげである人物の名前をヘラは挙げた。この娘には驚かされる。たとえ精神の中の世界であるにもかかわらず、会った事がない人物を知っている。

「私は、彼の抱いている、わたしに対しての憎悪、畏怖、恐れの全ての感情が手に取るように分かります。いかに離れていても、わたしは、どんなアンジェロの感情をも手に取るように分かるのです。彼は、わたしがこの世に生まれなかった事とし、またアンジェロの世界に平穏を取り戻すつもりなのです」

「そんな。あなたが危険な子だという保証は何も無いじゃあない」

 ヘラはそのように言い放つのだが、ガイアはその眼を見開いて言ってくるのだった。

「彼の基準からしてみれば、わたしは恐ろしい存在ですわ。そして、わたしのお母様もろとも、あの方は消し去ってしまおうと思っていられる。無理もありませんわ。わたしは、全てのアンジェロの意識の中に入り込む事ができ、そして、その力、記憶を全て自分のものとすることができるんですもの」

 ガイアは両手を広げてそのように言う。ヘラにとっては何の事やら分からないほどだった。

「何を、言っているの、ガイア?」

「お母様達を守るために、わたしは、タルタロス様の意識の中にも入り込もうとしました。ですがそれは逆に逆手に取られてしまったようです。タルタロス様の意識は何重にも守りの障壁が張り巡らされ、わたしからの干渉を拒んでいるのです。

 そして困ったことに、わたし達の今のこの会話も聞かれているのです。タルタロス様の配下にいる者の一人は、わたし達の意識の中に介入してくるだけの精神力をお持ちの方がいらっしゃるようですね。

「どういう事なの、それは?あなたの言っている事が、さっきから、とてつもなく突拍子もないようなものの気がして…」

 ヘラはそう言うものの、ガイアは彼女に背を向けて振り向いた。そこには延々と続いている館の続き部屋が伸びている。

「あなたも出ていらしたら、いかがですの?わたしはあなたの意識の中にも入り込みました。ですが、あなたはわたし達に対して、本来は害を及ぼしたくないと思っているはずですよ?」

 ガイアはそこで初めて第三者に向かって声を投げかけた。ヘラは思わず警戒する。この妙に広い空間の中にいるのは、自分とガイアのただ2人だけだと思っていたからだ。

 続き部屋が連続するこの空間には、その区画ごとに柱が立っていた。真っ白な柱は、大人のアンジェロが一人隠れるには十分なほどの大きさがある。

 そこから、ちらりと、黒い影が覗くのをヘラは見つけた。

「逃げるのではなく、出ていらしたら?わたしは本当は誰にも害を及ぼすつもりはありませんの。あなた達と和解をして、お互いに理解をしたいだけ、それだけですの」

 そう言いつつ、ガイアは不気味なほどに音が反響する空間に音を立てながら、その柱の陰の方へと突き進んでいく。

 すると、まるでガイアの目の前に立ち塞がるかのようにしてその男は姿を見せた。黒い影の正体は、背の高い大柄な男だった。

 彼もアンジェロの一員だという事はヘラも知っていた。会話をした事があるわけではない。だがこの男は確か、タルタロス議員の第一秘書の男だ。

「あなたのお名前は、サトゥルヌス様とおっしゃいましたね?」

 ガイアはその男に向かって早速そう言った。すると男は、その鋭い眼光を持った目を、ガイアへと見下ろして言ってくる。

「ああ、その通り、良く知っているな。ではわたしが、タルタロス議員の命令でお前達を探っている事も知っているのか?」

 サトゥルヌスという男を、ヘラは何か恐ろしいもののように思えた。思わずヘラはガイアの元へと駆け寄り、何も恐れを抱かないかのようにサトゥルヌスの目の前に立つガイアを、庇うかのように彼女の前に立つ。

「全てを知っていますわ。サトゥルヌス様。あなたの事も、そして、あなたが、わたし達に対して恐れを抱き、慈悲をも抱いている事も、全てわたしは知っております」

「慈悲?それはどうだろうか?例え、私があなた達に慈悲を感じていたとしても、タルタロス議員の命令は絶対だ。破る事はできない。それについても分かっているのか?」

 サトゥルヌスはそのように言ってくる。

「ええ、分かっていますわ。でもなぜ、あなたはここにいるのでしょう?」

 ガイアはそのように男に向かって言った。彼女は全くサトゥルヌスに恐れを抱いてもいないようだ。

 サトゥルヌスは何も答えない。代わりにガイアが口を開いた。

「あなたはわたしについてくる事無く、元の世界で、タルタロス議員に報告すれば良いだけですわ。しかしあなたは、わたし達の意識にしがみつくようにして、このお母様の意識の中にまでやってきて、わたし達の話を聞いていた。それは何故ですの?」

 するとサトゥルヌスはガイアの方は見ずに、視線を別の方向へと向け、話した。

「それは、あなた達について、私はもっと知る必要があったからだ。タルタロス議員の命令だけで私は動いているわけではない。アンジェロの一員として、あなた達の話を聞く必要があった」

 するとガイアは、サトゥルヌスの方に手を伸ばし、彼の腕に触れた。すると、彼の腕の部分からはほのかな光が放たれる。

「あなたは、迷っておられますわ。サトゥルヌス様。タルタロス議員の命令に疑問を持ち、わたし達をどうにかして助けようとしたいと思っておられる」

 そのようにガイアは言うのだが、

「信用ならないわ。この男は、タルタロス議員の第一秘書よ。彼の命令には絶対のはず」

 ヘラはそのように言ってサトゥルヌスを一蹴しようとしたが、

「いいえ、お母様。相手の意識に触れることで、感情を読みとる事ができる力は、お母様から授かったものですの。だから彼が信用する事ができるかできないか、それはわたしがはっきりと理解しました」

 ガイアは母に向かって呼びかける。しかし、

「でも、どうやって、私達を助けてくれるというの?あなたは、タルタロス議員を裏切り、こっそりと私達を逃がしてくれるとでも言うの?アンジェロの世界に逃げ場など無いわ。私達の住む場所も何もかもが、完全に管理されている以上、逃げ場など無いのよ」

 ヘラはサトゥルヌスに向かって言い放つ。彼が何とも言えないような表情を見せている時、突然、部屋の天井の方から声が響いてきた。

 皆が顔を上へと向ける。

「サトゥルヌス。どうしたというのだ?答えよ。サトゥルヌス!」

 その轟雷であるかのように響き渡ってくる声は、タルタロス議員のものだった。

「あなたに、呼びかけられていますわ。すぐに戻った方がよいのではよろしくて?」

 ガイアはサトゥルヌスにそう言った。すると、

「ああ、どうやらそのようだな」

 そう言ってサトゥルヌスは意識の世界から元の世界へと戻ろうとした。ガイアに意識を掴まれているのではなく、彼女についていっただけの彼は、簡単に元の世界に戻る事ができた。

「サトゥルヌス!いい加減に眼をさませ」

 タルタロス議員の言葉で、まるで眼を覚ますかのようにしてサトゥルヌスは、現実での意識を取り戻した。

 そして彼はすぐに彼の方へと向き直った。タルタロスと彼は、乗り物の中におり、ある場所へと向かっていた。

「議員の意識に干渉してこようとした者を追跡しましたが、逃げられました。何しろ、意識の世界というものは、あくまで相手の支配下にあるも同然なので…」

 サトゥルヌスはそのように言い、自分が見てきた事を偽った。しかしながら、タルタロスは彼の眼を見つめて、あたかも心の中を探るかのように見つめてくる。

 その眼はあまりにも鋭く、そして深く心の中をえぐってくるようなものだった。だからタルタロスには見破られてしまった。

「ゼウスの娘のせいだな。隠そうとしても無駄だ。あの娘は、我らの意識に干渉する能力を有している。あの娘の母親がそのような力を持っていた事はすでに調べが付いている。

 よりによって、最高評議院の議員であるこの私の意識を攻撃して来ようとしているとな」

 タルタロスは恐ろしげな声を発し、彼の感情の中には怒りさえ含まれているかのようだった。

 サトゥルヌスにそれを止める事はできない。せいぜい彼の言葉に口をはさむ程度の事しかできないのだ。

「しかし、攻撃と判断するのはどうかと。相手は生まれたばかりの赤子」

「いいや、赤子だからこそ危険なのだ!限度を知らず、己が欲望のままに人々の意識を支配する事ができる。そんなに恐ろしい力を野放しになどできん!セーラの悲劇をそのまま蘇らせるつもりか!」

 タルタロスのその言葉は、サトゥルヌスと共に乗りこんでいる乗り物の内部に響き渡ったが、それは彼が自分自身に向けた言葉であるようだった。

 あくまで彼は自分の目的のために動かんとしている。

「議員のおっしゃる通りです」

 サトゥルヌスは彼に逆らう事はできなかった。アンジェロの世界では全てのアンジェロは同等の身分とされている。しかしながら、最高評議院に属する彼の命令は絶対であり、しかも力も彼は有している。

 どのようなものであろうと、タルタロスはその気になれば消し去ることができるのだ。それは恐ろしいものであり、彼の権力の象徴でもある。

 サトゥルヌスは彼に対しては何も答えられないまま、このまま自分がどうすべきかを考えた。秘書とてアンジェロであり、考えの自由は持たされている。タルタロスに従い、幼子に手をかける事が自分にできるかどうか。彼は考えを巡らせた。

 しかもその幼子は大人以上の知識を持ち、はっきりとした意志を持っているという事を、サトゥルヌスはすでに知っていたのだ。

 ヘラが目覚めた時、彼女の目の前にはゼウスがいた。彼は顔を近づけ、妻の身を案じている。

「良かった。君が意識を失ったと聞いて、急いで駆け付けたのだよ」

 ゼウスは心の底から自分を心配してくれている。いつもの堂々たる声と、全てに対して自分の意見を通そうとするような口調でも無い。彼は意識を失って倒れた自分の心配をしてくれたのだとヘラはすぐに理解した。

 不思議と目覚めは穏やかだった。夢からそのまま現実に繋がっているかのように彼女は目覚め、眠気の不快感なども一切感じられない。

 ヘラはふらつきながらも寝台から立ち上がった。彼女は今では病室の寝台の上に寝かされていたのだ。

「ヘラ!まだ眠っていなさい!きっと、出産の影響で倒れたのだと医師は言っている!」

 命令するかのようなゼウスの声。だが、ヘラはふらつきながらも、自分達の側にいた、小さい赤子用の寝台の上にいる、ガイアの元へと向かった。

 ガイアは眠っている。そこにいるのは、自分が意識下で出会ったような年の頃10歳ほどの少女の姿では無い、れっきとした赤子の姿でしか無かった。

 あれは幻覚だったのか?そうではない。ヘラは自分でも知っている。意識下に働きかける能力はヘラ自身も持っている魔法だ。

 ガイアはそれを受け継ぎ、眠りながら自分に呼びかけてきたのだろうか。

 眼を閉じ、恐れも何も感じないような様子でガイアは眠りを続けている。この幼子が本当に自分に話しかけてきたのか。

「ヘラ!」

 ゼウスはそのように言いながら、彼女の肩を掴んできた。本気で心配をしてくれるという事はヘラにも分かるが、掴み方はとても乱暴だった。

「この子が、私に話しかけてきたの」

 ヘラはつぶやくかのようにそう言った。

「何?何を言っているんだ?」

 ゼウスは訳が分からないといった様子でそのように答えたが、

「あなたも知っているでしょう?私の秘められた魔法の力を。人の意識の中に入り込み、それを見る事も話しかける事もできる。この子は、今、わたしの意識の中に入り込んできて、会話をしていたの。だから私は意識を失ったんだと思うわ」

 ヘラの言ったその言葉に、ゼウスは思わず後ずさりをしていた。

「君のその言葉が、どういう事を言っているか、分かっているのか?」

 ゼウスはそれを信じたくは無いという様子だった。だがヘラは信じるしか無かった。意識の下で出会ったあの少女は、確かにガイアであるという実感がある。

 今は赤子の姿にしか見えないが、ガイアは確かに意志を持ち、自分に話しかけてきたのだ。それがはっきりとした実感として分かる。

 ヘラはガイアの肌に触れようとした。そうすることで、自分からも意識に働きかけ、彼女と会話をすることができる力がヘラにもある。

 彼女はこの力の使い方も知っていたし、その危険性も知っていた。だから滅多なことでは彼女はこの力を使わない。自分の中ですでに何百年と封印してきた力のつもりだった。

 しかし今は必要だった。ヘラはガイアに触れ、彼女からその思考を読みとった。

(お母様。危険ですわ。すでに間近にまで迫ってきています)

 その声がヘラの頭の中に響き渡った。それはとても大きな声が、警鐘として鳴らされたような衝撃をヘラへと与えた。

(一体誰が?)

 ヘラはガイアに向かってそう言った。それは口に出した言葉ではなく、彼女へとそう話しかけようとする意志があれば伝える事ができる。

(お母様達が、最も恐れている者達ですわ)

 ガイアはすやすやと眠っているようにしか見えないのに、はっきりとした声がヘラの頭に響き渡る。

「彼らが、来るわ!」

 ヘラは声を上げつつ、ゼウスの方を振り向いた。

「どうした?何故それが分かる?」

 ゼウスはヘラの肩を握り、その眼をしかと彼女の目線と合わせて言った。

「この子が、教えてくれたのよ。私と同じ魔法の力で」

「そんな力を使わせたのか?最高評議会の連中が、ここを見張っていて、いつ来てもおかしくないというのに?」

 まるでゼウスはヘラを非難するかのようにそう言い放ってくる。そんな彼の調子に面喰いながらも、ヘラはすぐにガイアの体を抱きかかえた。

「とにかく、ここは危険よ。この子を連れて逃げましょう」

 ガイアはヘラに抱きかかえられ、眼を覚ましたようだった。その金色の瞳をゼウスの方へと向けた。

 ゼウスは彼女の金色の瞳を見つつ言ってくる。

「逃げるだと?一体、どこに逃げるというのだ?この世界のどこに行っても、全てはアンジェロが支配をしている。私達に逃げ場など無い!」

 そう言い放ち、ゼウスは自分がヘラの前へと立ち塞がった。

「あなたが、来なくても、私はこの子の言う事を信用するわ!」

 ヘラも負けじと言い放った。

(危機が迫っていますわ。逃げるなら今の内ですわよ。お父様、お母様)

 突然、そんな二人の夫婦の間に響き渡る声。その声はガイアのものだった。今度はヘラだけではなく、ゼウスにもその声が聞こえたようだった。

「何だ。今の声は?その子か?ガイアが言ったのか?」

 ゼウスはガイアに指を突き出してそう言ってくる。

 ガイアの方は、口を開き、その瞳を自分の父親に向けるばかりだった。彼女は口を開き、何かを言おうとしているが、それはゼウスには届かない。

(もう、逃げる事はできません。わたし達はあたかも籠の鳥のよう。お覚悟を決めて下さいまし)

 更に声が響き渡った。

「ガイアよ。お前は本当に、そんな力を持ってしまっているのか。母と同じ、得てはならない禁断の魔の力を持っているのか!」

 ゼウスはそのように言い放ち、ヘラの抱えているガイアの体を強く揺さぶる。すると、ガイアがまるで赤子が泣くかのように泣きだしてしまう。

「止めて!何をするの!あなた!」

 ヘラがそう叫んだときだった。突然、病室の部屋が開け放たれ、そこに黒衣の者達が現れる。今まで、家族だけが立ち入る事を許されていた場に、次々とその黒衣の者達は侵入してくる。

 そして黒衣の者達の向こう側に現れたのは、最高評議院のタルタロスだった。第一秘書であるサトゥルヌスの姿もそこにあった。

「話は途中からだが、聞かせてもらったぞ。ゼウスとその妻よ」

 そう言いながら、タルタロスはゼウスの方へと足を進めてきた。

「タルタロス議員。これは…」

 ゼウスはそのように言いかけるが言葉が出ない。今のやりとりをタルタロスに聞かれてしまっていては、もはや彼らに逃げ場は無かった。

「その赤子は恐ろしい魔法の力を有している。それはもはや明白だ。何しろ、この私の頭の中にまで入って来ようとしていた。最高評議会の議員であるこの私の頭の中に入り、攻撃をしかけようとしていたのだ」

「攻撃だなんて。そんな!」

 ヘラはタルタロスの言葉に思わず叫んだ。しかし、

「いいや、これは明白な攻撃だ!その娘は確かな意志を持ち、私に対して精神的な攻撃を仕掛けようとしてきた。もし私がそれに耐える事ができなければ、今や、その娘の精神的な攻撃に襲われて身動きさえ取れなかっただろう!」

 タルタロスはそう言いつつ、更にヘラとガイアの方へと足を進めてきた。

「あなた達は、知らないでしょう!このアンジェロの子達が、一体、どんな重い荷を背負って来たかという事を」

 ヘラはタルタロスから、ガイアの体を隠すような位置に持っていき、彼に向かってそう言い放つ。

「何を言っているのだ?その娘に何か吹き込まれたのか?どうやら、見た目は赤子だが、相当に聡明な頭を持っているようだからな」

 タルタロスはガイアの方へと手を伸ばす。その視線は、すでに恐ろしげなものへと変わっており、明らかに彼はガイアを手にかけるつもりである事が分かる。

「ええ。この子は、いえ、アンジェロの子供達はとても聡明な頭を持っているわ。それこそ、私達が想像する事ができないほど、聡明な頭を持っているのよ。だからこそ、彼女達は死を選んでいる。

 どういう事か分かる?恐ろしい魔法の力を持って生まれる事によって、彼女達はアンジェロの社会にとてつもない混沌が生まれるのだと判断しているの。そして、彼女達は生まれるよりも前、それこそ、子を宿したという事が親に分かるよりも前にすでに、命を断っているのよ。

 アンジェロの子供達には精神的なつながりがある。彼女達は親の中にいながらにして、お互いに会話をする事ができ、そして外の社会を知る事が出来、自分達の命さえも左右する事ができているの。

 子供達は、自分達が生まれてくる事よりも、親の名誉、アンジェロの平穏を優先し続けているのよ。少なくとも3,400年の間、生まれるはずだったアンジェロの子供達は、全てが命を断っているという事になるの!

 その責任は誰にある?あなた達のように、生まれてくる子供に対して恐れをなし、徹底的に排除しようとしている権力者のせい。この子供達は、この世に生まれてくるはずだった!」

 ヘラの声が病室の中に響き渡る。その言葉を聞いたゼウスは、信じられないといった様子で、ヘラへと近づいた。

「それは、本当の事なのか、ヘラ」

 ヘラは変わらず、ガイアをかばうような姿勢をしたまま答えた。

「ええ、この子から直接聞いたのよ」

 しかしそんなヘラの叫びは、迫ってくるタルタロスによって遮られた。

「信じられんな。ゼウスの妻よ。その言葉すら、お前の娘が考えた、ただの絵空事でしかないとは思わなかったのか?

 そんな言葉では、我々を動かす事はできんぞ。もっとましな言い訳を考えるのだったな」

 そう言いつつ、タルタロスはヘラの方に向かってその手のひらを広げて向ける。その手の平が何を意味しているのかはヘラにも分かっている。タルタロスは魔法の力を使おうとしている。それこそ、彼自身が忌み嫌っているはずの、恐ろしい力だ。

 彼は、子供達がそうした力を持つ事は恐れているが、自分自身は有している。

「もし、この子達の言っている事が真実だとしたら!」

 ヘラはガイアを抱きかかえ、必死になって彼女を守ろうとしていた。しかしながらタルタロスは容赦なく迫る。

「真実だったとしても同じだ。そもそも、何故その娘は死を選ばずにこうして生まれたのだ?お前の言う通りならば、その娘も、親の名誉を傷つけまいと死を選ぶはずなのに、こうして生まれてきているのは、一体どういう事なのだ?」

「それは、この子が、その真実を伝えるために!」

「いいや、嘘だ嘘にすぎん。お前も全て騙されているのだ!それに、この私は考えを変えるつもりなどない!たとえ、お前の娘の言った事が真実であったとしても、全てを抹消する!それは全てのアンジェロの安定にとってなくてはならない事だ!」

 タルタロスはそのように言い放つなり、自分の手のひらにどす黒い球体のようなものを生みだした。それは空間のひずみであり、全てを呑み込む存在だった。

 ヘラもそれを見るのは初めてだった。どんな黒よりも更に黒い色をした空間が、空宙に穴をあけている。

 そこに呑み込まれれば、外に出る事はできない。待ち受けているのは死だけだ。その中で物が存在する事はできない。例え、アンジェロのような強大な生命であったとしても、そこに呑み込まれれば、この世から消え去ってしまう。

「やめて!お願いだから、この子の話を聞いて!」

 ヘラの悲痛な叫びが響き渡る。彼女はガイアのためだったら、自分がこの世から消え去っても良いと思っていた。だが、タルタロスは、ヘラもガイアも共に呑み込もうとしている。

「できん!」

 タルタロスはそのように言い放ち、更にヘラ達の元へと近づき、その手に集中しているどす黒い空間を広げた。

 しかしそんなタルタロスの手を掴む者がいた。

「申し訳ございません。私も、ただ妻と娘が、その空間に呑み込まれているのを見ている事はできません」

 ゼウスが、タルタロスの伸ばした手を掴んでいた。ゼウスの体躯はタルタロスに比べて頭二つ分も大きい。

「何だと。ゼウス。貴様はこの我に歯向かおうと言うのか!最高評議会のこの私の命令に背くと言うのか!」

 タルタロスは憎悪の表情に歪ませ、ゼウスの方を向いてきていた。しかしゼウスはただじっとタルタロスを見つめる。

「全ての民は平等。それがアンジェロの掟です。あなたとて、私達の家族を滅ぼす事はできないはず」

「何を言っているか!我に逆らうと言う事は、アンジェロ全てを裏切るという事だぞ。それは断じてならぬ!」

 ゼウスは力を篭め、タルタロスの腕を握りしめた。ゼウスの力は怪力と言ってもよいほどのものがあり、彼の腕をへし折ってしまうのは簡単だった。

 だがゼウスにも誤算があった。タルタロスの手の中で作り上げられていた、暗黒の球体は、すでに十分なほどの大きさとなっていたのだ。

 例えタルタロスの腕がへし折れたとしても、その大きさが小さくなり、かき消されてしまうのではなく、逆に、抑えが利かなくなったかのように、急激に巨大化した。

 暗黒の球体は全てを呑み込まんとする勢いを見せた。実際、病室にあった、固定されていないものが次々と、その暗黒の球体の中へと呑み込まれていく。

 球体の吸引力は凄まじかった。その場にいた者達は、何かに捕まらなければ、暗黒の球体に呑み込まれてしまいそうだった。

 吸引力が、ヘラ、ガイア、ゼウス達の体をも呑み込まんとしている。次々と物体を呑み込んで行く球体は、どんどん大きなものとなっていき、次々と物体を粉砕していた。

 球体に呑み込まれれば、あっという間に消滅してしまうだろう。それは明らかだった。

「議員!やめて下さい!この球体を消して下さい!」

 次々に物体を呑み込んで行く球体の吸引力は凄まじい。何かに捕まっていたとしても、それをひきはがしてでも吸い込もうという勢いだった。

「いいや。このまま忌子もろとも貴様らも呑み込んでやろう!」

 タルタロスはそのように言い放っていた。彼はゼウスの体にしがみついている。ゼウスが彼の体を振り払おうとすれば、先にこのタルタロスを球体の中に呑み込ませる事だってできただろう。

 だが、それはできなかった。ゼウスには最高評議員であるタルタロスを助けなければならないという意識があった。

 たとえ腕はへし折ったとしても、命までは奪えない。

「ガイア!ガイアを!」

 それよりもゼウスはガイアの心配をしていた。彼女は大丈夫なのか。吸い込まれていく先を見ると、ガイアの体を抱えたヘラの姿がそこにあった。

 ヘラは、今にも黒い球体の中へと呑み込まれようとしている。

 ゼウスはヘラに向かって手を伸ばしたが、とても届きようが無い。

「この球体を止めてください!タルタロス議員!」

 ゼウスは再度叫んだ。だが、タルタロスはすでに勝ち誇ったような顔にゆがめている。

「無駄だ。貴様らを呑み込むまで、この球体は消さんぞ!」

 そんな中、ヘラはもう限界だった。足元でどんどん巨大になって行く黒い球体に呑み込まれまいとしている。彼女は寝台に掴まっていたが、その寝台ごと、巨大な黒い球体に呑み込まれていこうとしているのだ。

 しかもガイアを抱えているような状態では、どうしようもない。片方の手で自らの手を支え、片方の手でガイアを抱えている状態では、できる事は一つしか無かった。

「あなた!ガイアを!」

 そう言ってヘラは渾身の力を込めて、ガイアの体をゼウスの方へと投げ渡そうとした。

「何を!」

 ゼウスは思わず驚くような表情を見せた。

 ヘラは両手を離し、ガイアの体をゼウスへと向かって投げていた。ヘラの体はそのまま黒い球体の中へと呑み込まれていく。

 ヘラは最期の瞬間、ガイアの金色の瞳と目を合わせていた。ガイアはその瞳を見開いていて、赤子ならではの純粋な表情を見せていた。

 だがガイアは理解しただろう。自分の母親に何が起こっているのかが分かったはずだ。

 ヘラは黒い球体の中に呑み込まれ、肉体も意識も全てが消失した。

 黒い球体が何もかも呑み込もうとしている。そんな中、ヘラからゼウスに向かって投げ渡されたガイアの体。それは、もう少しの所でゼウスにまで届かずに、再び黒い球体の中へと引き戻されていく。

 ゼウスは声を上げていた。それも雄たけびの様な声。怒りを篭め、それをそのまま声として発したような声だった。

「おのれ!よくもヘラを!」

 ゼウスの言葉はすでに憎悪へと変わっていた。彼は自分の足を掴んでくるタルタロスに向かって、強烈な足蹴りを食らわせていた。

 タルタロスはそれでもゼウスの脚にしがみつく。

 自分へと投げ渡されたガイアへも手を伸ばすが、ぎりぎりの所で届かない。しかし、すぐに何者かが過って来て、それがガイアの体を掴んできた。

 それはサトゥルヌスだった。

 サトゥルヌスはガイアの体を、大切なものを抱えるかのように掴んでいた。彼の体は床を転がり、一瞬、黒い球体の中に呑み込まれそうにはなったものの、すぐに彼は壁へと掴みかかる。

「サトゥルヌス!何をするか!」

 そう叫ぶタルタロスの声が響いた。だが、ゼウスにとっては彼はもはや、怒りの対象、そして早くも妻の命を奪った、復讐の対象でしかなかった。

 ゼウスは自らの足を振り払い、タルタロスの体を自分の体から引き離していた。

「何をするか!」

 ゼウスの行動が信じられないと言うかのように、タルタロスは声を上げた。中空を舞った彼の肉体は、そのまま黒い球体の中に吸い込まれていく。

 自らが作りだした球体の中に、タルタロス自身がそのまま呑み込まれていくのだった。

 彼の顔は、驚きと絶望に満ちていた。

 タルタロスのその顔は、暗黒の球体の中で、粉々に粉砕され、消え去っていった。

 しかしながら、破壊はそれだけでは収まらない。タルタロスが自ら生みだした暗黒の球体は、更にその大きさを増していく。

 ゼウス達はふらつきながらも、何とか暗黒の球体からその距離を離していく。

「おのれ!何という事だ!ヘラが!」

 ゼウスはそのように声を上げた。彼の言葉には怒りがこめられており、全てが怒りが占めていた。

 ヘラを失ったと言う悲しみよりも、ゼウスは怒りに全てを任せていた。

「おのれ!タルタロスめ!我が妻を!」

 そのタルタロスはたった今、自ら生みだした暗黒の球体の中に呑み込まれ、粉々に粉砕された。そしてヘラも同じ運命を辿っていった。

 だが、声を上げたのはゼウスだけではなかった。

 サトゥルヌスにその体を抱えられていた、ガイアも奇声を突然上げていた。

 彼女も、自分の母親に起きた事を理解したのだろうか。

 それは赤子が発する奇声にしては、あまりにも異質なものであり、そしてどのようなものよりも大きかった。ゼウスの怒りの声よりも、暗黒の球体よりも、何もかもよりも大きな巨大な奇声が上がっていた。

 その場にいた者達は、自分達の頭の中に響き渡る声に気が付いていた事だろう。

「お母様!お母様!」

 その言葉が、何度も何度も連呼され、巨大な鐘が鳴り響くかのように自分達の頭で鳴り響く。

 やがて、ガイアからはまばゆいばかりの光が放たれ始めた。

 その光は全てを包みこんでいく。サトゥルヌスの体も、ゼウスの体も、全てを呑み込みながら膨れ上がっていった。

 タルタロスが生みだした黒い球体さえも呑み込んでいき、辺りは一面の白い世界に包み込まれていく。

 


 
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