第二章 海賊 (パート1)
乾いた空に鳴り響いた音は、固い材木が真正面からぶつかる音だった。
木刀を押しながら、詩音は交錯したビックスの視線を静かに見る。力は詩音よりも衰えているとはいえ、流石経験豊富な老兵、相変わらず、一筋縄では対処できそうもない。ゆらり、と圧力が弱まる。ビックスが手にした木刀を引く。瞬時の直後に、右斜め上から振り下ろされる剣撃を詩音は切先を僅かに揺らしながら当てた。もう一度、強い音。瞬間、目にも留まらぬ僅かなその間だけ、ビックスの頭上ががらりと空く。ここだ、と詩音は考えるよりも早く、直感だけを頼りにビックスの頭上へと目掛けて剣を振り下ろした。呼吸を止め、下腹部に気合を込めて振り下ろされた剣が、風を斬る。鋭い風圧が詩音の鼓膜に触れる。そして。
とん、と当たる直前に威力を緩めた攻撃が、ビックスの防具に触れた。
「ふむ、流石。」
そこでビックスは全身から力を抜くと、詩音に向かってそう言った。
「ありがとうございます。」
詩音もそう言いながら、ビックスの頭上に置かれた剣先をそっと放した。
詩音がミルドガルド大陸に降り立ってから、既に一ヶ月の月日が流れていた。日本へと帰還する方法を探したいという思惑がそう簡単に上手く行くわけもなく、今はシャルロイド公爵の食客として、詩音は比較的落ち着いた日々を過ごしていた。そうした日々の過ごし方の一つとして、ビックスと剣の訓練を行うようになったのは詩音にとっては自然のことであった。どんな状況であっても、剣の腕を鈍らせたくない。そう考えた為である。
「ところでシオン殿。」
小休止とばかりに腰かけた場所はシャルロイド公爵館の中庭であった。詩音とビックスだけではなく、公爵家直属の衛兵たちが軍事教練をする場所でもある。
「なんでしょう?」
軽く噴き出した汗を拭いながら、詩音はそう訊ねた。時は既に秋の半ばを迎えているが、激しい運動をすれば流石に身体が火照る。
「シオン殿は、人を斬ったことはありますかな?」
唐突に投げかけられた言葉に、詩音は一度瞳をぱちくりと瞬かせた。
「いいえ。」
詩音がそう答えると、ビックスはむう、と頷いた。そのまま、口を開く。
「シオン殿の剣はどうも、そう、スポーツか何かのようでしてな。」
そこまで述べて、ビックスは一度言葉を止めた。言葉を選ぶように、言葉を空間に置いてくるように、ゆったりと言葉を続ける。
「確かにシオン殿の技術は素晴らしい。正直、儂もここまでの使い手と手合わせするなど、久方ぶりにて、正直シオン殿には太刀打ちできぬ。だが、本来打撃とは人に当てる瞬間にこそ力を込めるもの。あれでは、真剣であったとしても相手に致命傷を与えることは難しい。」
「おっしゃるとおり、確かに、俺が学んだ剣は実戦向きではないでしょう。」
剣道は道を究めるもの。剣術とは似て非なるもの。それは詩音自身が、祖父からも何度も聞かされた言葉であった。本来、剣術とは人を如何にして斬るか、それを求めた技術であると。
「シオン殿の世界は相当平和な世界だったのでしょうな。」
「ええ。」
「だが、ミルドガルドは異なる。今はひと時の平和を享受しているように見えて、海には海賊、山には山賊が跋扈している世界です。無論、国家間の戦争が皆無であるわけでもない。」
ビックスの言葉に、詩音は深く頷いた。この一ヶ月で、フランソワからミルドガルドの現状については何度か話を受けている。
「特に、復興したビザンツ帝国が何をしでかすか、わかったものではない。」
ビックスの言葉に、詩音はもう一度、以前フランソワから聞いた言葉を思い起こした。
八百年前の大陸戦争の終結後、戦勝国となったアリア王国、シルバ教国、フィヨルド王国の三カ国はミルドガルドの国際協調を目的としてミルドガルド西部同盟を締結した。その西部同盟の初の協議が、大陸戦争に敗北したビザンツ帝国の独立に関する項目であった。再度の戦争を恐れた西部同盟はビザンツ帝国の分割を決定した。その結果ビザンツ帝国は部族ごとの小国家に分かれて独立することになり、旧帝国内におけるゆるやかな結合を保ちつつも、西部同盟により強大な国力を持たぬように監視されながら、細々とした国家運営をつづけていた。
だが、現在から60年ほど前のミルドガルド暦954年、その状況に変化が生じる。
「アドルフ・ヒトラー。ブラウンという女性を伴って現れた壮年の男が、全てを変えた。」
以前詩音に語ったとき、フランソワは重々しく、そう言った。その言葉の衝撃を思い起こしながら、詩音は秋風とは違う理由で、びくりと肩を震わせた。その後の経歴を見ても、この男はどう考えてもあのヒトラーであったからだ。
ヒトラーは旧ビザンツ帝国帝都が位置したビザンティオン周辺を治めていたビスタ王国へと突如降り立つと、その天性のカリスマ性を遺憾なく発揮し、たった五年でビスタ王国の実権を握るようになったのである。その後、形式上禅譲の形をとりながらビスタ王国国王となると、その後の僅か十年間の間に外交力と、時に武力を用いながら、ビザンツ帝国に属していた小国家を次々と統合していったのである。
その完成がミルドガルド暦969年のことであった。ビザンツ帝国の旧領土の完全回復を確認したヒトラーはその年、ビザンツ帝国の復活として第二ビザンツ帝国の建国を宣言、自らビザンツ皇帝に即位したのである。だが翌年、流石のヒトラーも寿命には勝てず崩御、ビザンツ皇帝の座は息子であるアルフレッドに引き継がれることになった。若干十三歳で皇帝に即位したアルフレッドであったが、彼は類稀なる外交感覚を発揮した。即ち、これ以上の戦闘行為の放棄を宣言したのである。このように国際協調を訴えたアルフレッドに対して、西部同盟もそれ以上の干渉は出来ず、その後暫くの間は平穏な時代が過ぎることになったのである。
だが五年前、ミルドガルド暦1015年にその状況が再び変化した。ビザンツ帝国第四代皇帝ハインリヒの即位である。ハインリヒは即位と同時に軍事力を格段に強化させた。そして昨年、ミルドガルド大陸東端に位置するグロリア王国に対してハインリヒ自ら率いるビザンツ帝国軍が突如侵攻、半年間の攻防の末にグロリア王国を滅亡させ、グロリア王国をビザンツ帝国の支配下に収めたのである。
それに対して、ミルドガルド西部同盟はビザンツ帝国との国交断絶を宣言、対抗したビザンツ帝国はアリア王国の対岸にある半島国家、コンスタン王国との軍事同盟を締結、それ以降、現在に至るまで、東西に分かれた陣営による一触即発の緊迫事態が発生したのである。
「シオン、剣の訓練は終わった?」
ぼんやりと思考していた詩音の作業を止めた声は、最早聴きなれたフランソワの急かすような言葉だった。この頃になると、詩音の中にも日課のような流れが出来ていた。午前中は剣の鍛錬、そしてそれが終わるとフランソワと共に港へと向かい昼食をとりながらの造船作業、という具合である。その合間を縫って、詩音はフランソワからミルドガルド文字についての講習を受けていた。日本へと帰還する術を探すにも、書物を読めなければ話にならないからだ。
「もう行くのか?」
「ええ、もうすぐ完成するもの。」
シャルロッテは既に内装部分の整備を殆ど終え、後は最終点検を残すのみとなっていた。初めての自作船に対してフランソワはここの所興奮を隠し切れない様子で、早く海を走らせたいという想いが詩音にもひしひしと伝わってくる。
「しかし、姫さまにも困ったものじゃあ・・。」
深い溜息をつくように、ビックスは重々しくそう言った。ビックスとしては、年端もいかぬ少女が、それも公爵家の娘がのこのこと街へと出てゆくことに深い憂慮を抱えているのだろう。心配のしすぎ、というよりもこの時代としては当然の心理であった。それが大目に見られるようになったのも、護衛代わりとして詩音の腕を信頼している為であるのだが。
「遅くなる前に帰るわ。」
ぺろり、と舌を出しながらフランソワはそう言った。その言葉に合わせるように詩音も立ち上がり、フランソワと共に歩き出す。
「くれぐれもお気をつけなされよ!」
歩き出した二人の背後から響いた、痛切なビックスの声がほんの少し、詩音の心に堪えた。
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第十弾です。
今回から第二章に入ります。よろしくお願いします。
黒髪の勇者 第一話
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