#62
戦も終わり、両軍の将が顔を突き合わせていた。
「………………」
じっと押し黙るは敗戦の将―――とはいえ、まだ年端もいかないような少女である。瞳は赤く、つい先ほどまで泣いていた事が窺えた。
「………………」
そんな少女を見ながらも声をかけないのは、これから少女が主として仕える人物である。殺気など込めようはずもないが、表情もなくその瞳は、目の前の少女にじっと視線を注いでいた。
皆が沈黙を保つなか、1人の女性が口を開いた。
「いやぁ、負けてしまいましたね、お嬢様」
少女に仕える大将軍、張勲であった。彼女は周囲の雰囲気など気にする素振りも見せず、笑顔で少女に声をかける。
「ほら、ちゃんと言わないといけない事がありますよ、お嬢様」
「う、うむ…」
その言葉に後押しされ、袁術は顔を上げた。
「孫策…殿、此度の温情、誠に感謝する………致します」
「………」
雪蓮は何も答えない。ただ、じっと次の言葉を待った。
「えと、これからは、わら…袁術以下、南陽の軍は、はく…孫策様にお仕えし、心よりの忠誠を捧げ―――」
そこが限界だった。少女の口からたどたどしい敬語が紡がれる間、雪蓮は下を向き、肩を震わせ――――――
「ぶぷっ!」
――――――そして噴出した。
「もう駄目、無理!あはははははっ!」
「雪蓮!」
「姉様っ!!」
腹を抱えて大笑いする雪蓮に、冥琳と孫権が制止しようとするも、止まらない。そして袁術も両手を上げて、頬を膨らませた。
「な、なんじゃ、伯符!折角妾が部下になってやろうとしておるのに、笑うとは何事じゃ!」
「あっははは…ごめんごめん!だって、袁術ちゃんの言葉遣いがあまりに可笑しかったから………ぷぷっ」
「七乃!やっぱりもう一回戦をしてもよいか?」
「ダメですよ、お嬢様。負けちゃったんだから、帝の勅の通りにしませんと。でも、孫策さん?流石にそれはどうかと思うんですけど?」
少女を窘めながらも、張勲は指を立てて雪蓮を弾劾する。もう少しだけ待ってと右手で腹を抱え、左手で留める雪蓮に、仕方がないですねぇと溜息を吐いた。いや、彼女だけでなく、冥琳や孫権も頭を抑えている。
「いやー、笑わせてもらったわ」
ようやく笑いの納まった雪蓮が、眉尻を下げながら口を開く。目尻には涙まで浮かんでいた。
「ふんっ!もうよいわ。さっさと終わらせるぞ」
「はいはい。でもね、袁術ちゃん。私は貴女をどうこうするつもりはないわ」
「………どういう事じゃ?」
雪蓮の言葉に、袁術は首を傾げる。
「もちろん形式上は私の配下という形にはなるけど、私はね、袁術ちゃん。貴女と友達になりたいの」
「友達?」
「そ、友達。舌戦の前に、貴女はこれまでの事を謝罪してくれた。その時思ったの。今の袁術ちゃんとなら仲良くできるかも、ってね」
ぽかんと口を開く袁術の頭に手を遣る。最初はびくっと肩を震わせた少女もその撫で方に何かを感じたのか、気持ちよさそうに目を瞑り、されるがままになっていた。
「貴女の気持ちはしっかりと伝わったわ。だから、貴女にはこれまで通り、南陽の街をお願いしたい。もちろん他との戦になったら手伝ってもらうし、貴女の街が狙われたら助けに行くわ」
「ほ、本当か?」
「えぇ。蓮華に言った言葉も、あの娘から聞いたわ。貴女になら任せられる。張勲と一緒にしっかり勉強して、街を守って頂戴」
「伯符……」
じっと見上げる少女から視線を外して、雪蓮は冥琳に問いかける。
「どうかしら?」
その問いに、冥琳は溜息を吐いた。
「駄目だと言ってもどうせ押し通すのだろう?だったらこちらは異を唱える事もない」
「あら、優しいのね」
「お前ほどではない………いや、ひとつ条件をつけよう」
「条件か?」
「そうだ。袁術が善政に励んでいるとの噂も、街の実情も聞いている。だが、張勲だけでは心配だ」
「ちょっと、どういう意味ですか」
ぷんすかと怒った表情を作りながらも、張勲の声音はそれほどでもない。
「お前は袁術を甘やかし過ぎるからな。という訳で、穏」
「はぁい」
「お前には袁術の指導と内政の手伝いに南陽へ向かって貰いたい」
「私は構いませんよぉ?袁家の方のお城ですし、うちにはない本もたくさんありそうですからぁ」
本音を隠そうともしない部下に苦笑しながら、冥琳は主に視線を戻した。
「どうだろう?」
「亞莎ではなくて穏を選んだ理由は?」
「亞莎は生真面目過ぎるからな。なんだかんだと張勲に騙されて彼女を甘やかしそうだ」
「はぅぁっ!?」
「あら、やっぱり公瑾さんもなかなか酷い御方ですねぇ」
亞莎は袖で顔を隠し、張勲はニコニコと笑って毒を吐いている。
「後は、うちとの連携だな。火急の際には、穏ならばこちらの動きも理解できるだろうし、いちいち時間をかけて連絡をとる必要もない。戦後処理と内政の引継ぎに加え、連れていく穏の部隊の編成もあるからしばらく先になるとは思うがな」
「ならいいわ。袁術ちゃん、そういう事になったから、お勉強頑張ってね。穏は厳しいわよ?勉強中に間違えでもしたら――――――」
「間違えでもしたら?」
「――――――秘密。その時に味わいなさい」
「うぅ…伯符はやっぱり怖いのじゃ」
「いいじゃないですか。お勉強、頑張ってくださいね」
「七乃ぉ…」
忠臣にまで見放され、終戦間際とは別の意味で涙ぐむ袁術だった。
――――――夜。
「ごめんなさいね、美羽。蜂蜜水じゃなくて」
「かまわん。今では3日に1回まで減らしておるからの。このくらいは我慢できる。帰ってから呑めばいいだけの話じゃ」
「あら、成長したのね」
「当り前じゃ」
孫策軍本陣での会合も終え、いま、雪蓮と美羽は天幕の中で2人きりであった。雪蓮はいつものように酒を酌み、袁術は水の入った器を両手で抱えている。
「それよりどうしたのじゃ?2人で話がしたいなどと………ま、まさか、さっきのは嘘で本当は妾を殺すつもりか!?」
「何逃げてるのよ。真名を交わしてまでそんな事する必要ないじゃない」
「そ、そうか…」
勘違いして後ずさった美羽は、再び雪蓮の前のゴザに座り直す。
「とりあえず、はい」
「うむ、乾杯じゃ」
2人は、それぞれ手に持った器を打ち合わせた。
※
別の天幕では、2人の女性が向き合っていた。
「それにしても……なかなか上手い事やるものだな」
「何がですか?」
先の2人とは違い、この場には酒の入った徳利と2つの杯が使われている。言葉を交わすのは、呉の大軍師周瑜と、南陽の大将軍張勲であった。
「先の戦だ。わざと負けただろう」
「やっぱり冥琳さんにはバレてましたか」
眼鏡の奥から覗く視線に、七乃は苦笑する。
「わからぬと思ったか。いかに美羽の軍とはいえ、あれだけの数だ。あれほど簡単にこちらの策が決まれば、そちらが合わせているとしか考えられん」
「確かに、そうですけど………」
「腐っても大将軍の肩書きを持つお前だ。やりようによっては、こちらを負かす事もあったのではないか?」
「そうですねぇ。数だけで考えれば、いくらでもありましたよ?例えば楯隊で将をそれぞれ封じて、その隙に1万の兵で本陣への特攻隊を編成するとか」
「………流石にそれは多すぎだろう」
無茶苦茶な事を行ってのける七乃に、冥琳はずれた眼鏡を直す。
「だから数だけで考えれば、です。楯隊で、例えば雪蓮さんの動きを封じて、5人がかりで抑えにいけば、雪蓮さんを討つ事も可能ですし」
「雪蓮がたった5人で抑えられるとでも?」
過小評価とも言える言葉に、すっと彼女の眼が細まった。だが、七乃はそれをさらっと受け流し、笑いながら応える。
「そんな事できる訳ないじゃないですか。5人で同時に斬りかかって、彼らが斬られる瞬間を狙って楯をさらに圧縮、押し潰して身動きの取れなくなったところで、首でも胸でも槍で突けばいいんです。ですが、誰がそんな事できますか?自ら進んで生贄になるなんて。戦の終盤ならまだしも策の途中段階で、お前達はそれぞれ敵将に斬られてこい、なんて言ったらそれこそおしまいですよ。それに、呉は義に厚い方ばかりです。1人将が倒れれば、その分士気が上がりますから」
「確かに」
「あと、こちらとそちらの兵の練度を考えれば、1万の兵で本陣に向かって、7割が途中で倒れ、残りの3割も本陣で相討ちがやっと、と言ったところですしねぇ」
相変わらず恐ろしい女だ。心の中でそっと呟く。理論上は可能な策。だがしかし、それ以外の事を考えれば不可能に近い策。袁術の大軍でも、1万という数の損失はやはり大きい。そんな大それた策をさらっと言ってのける彼女に、冥琳はある種の畏れを感じていた。
「話を戻すが、何故だ?何故、お前は敗北を選んだ。いや、敗北だけならまだいい。どうして美羽を連れて逃げようともしなかった?お前ならそれをやり得ると考えていたのだが」
最初の話題に戻る。問われた方は、何と答えようかなぁなどと独り言を呟く。
「んー…やっぱり、お嬢様の為というのが1番正しい理由ですね」
「ほう?」
「なんと言いますか、お嬢様は………馬鹿なんですよ」
「は?」
突如主を貶める発言をする七乃に、再び冥琳の眼鏡がずり落ちる。
「読んだ事があるはずなのに、孔子を孫子と言えば孫子と思い込み、蜂蜜がちょうど切れてたいので甘い餡かけを作って『珍しい蜂蜜ですよ』って言えば『やっぱり蜂蜜水は美味しいのじゃ』って言いきっちゃいますし、他にも――――――」
「待て待て。袁術が馬鹿なのはわかったから―――」
「あら、人の主を指して馬鹿だなんて、冥琳さんも酷い人ですねぇ」
自分を棚に上げるとはまさにこの事である。
「まぁ、いいです。お嬢様は、まだ子ども過ぎるんですよ」
「………」
「冥琳さんだって知っているでしょう?代々帝が即位する年齢が下がっていってる、って事は」
「………まぁな」
「即位の低年齢化に伴って、政は酷くなっていきます。そりゃそうですよ。まだそんなに知恵も知識もない帝なんですから。文官たちのいいように祀り上げられるに決まってます………話を戻しますね。お嬢様は、まだ人の上に立つほど成長していないんです。ですが、先代の袁逢様が亡くなられ、お嬢様が太守の座に就かざるを得なかったんです………既にその頃の城は腐っていました」
先ほどとは打って変わって真面目な表情で語り出す七乃。ころころと表情と話の内容を変える彼女に、冥琳は頭を抱えたくなる衝動を必死で抑え込む。
「まわりの文官たちは、何もわからないお嬢様を利用してやりたい放題。私は先代の頃からお嬢様の世話係をしていました。妹のように思ってる娘が、穢れて欲しくなんかなかったんです」
「それで…」
「はい。だったらこっちも上手く彼らを利用してやろう、と。それこそ死にもの狂いで勉強しましたよ。政も軍略も、必死で。お嬢様の世話係をしながら勉強を続けて………そしてお嬢様を上手く騙して、大将軍に就かせて貰ったんです」
「最後の言葉は聞かなかった事にしておこう」
「あら、何か変な事言いましたか、私?……まぁ、いいです。ですが、私が善政に尽力なんてしちゃったら、暗殺されてしまいかねません。だから、私は道化になったんです」
「………………」
「お嬢様を守る為に、文官の口車に乗せられた振りをして、民が最低限の生活が出来る位には残しながら増税し、他所に攻められないように軍備を増強して………その繰り返しでしたね。ただ必死でしたよ」
「七乃……」
言葉尻は軽いが、その声音は重い。冥琳ですら、かける言葉を思いつけない。
「でもお城で、そして此処でお嬢様の言葉を聞いて、考えを変えました。勝てば確かに、お嬢様の地位も権力も強くなります。ですが、強くなった分だけ、まるで禿鷹のような連中が喜ぶんですよ。だから、私は賭けに出たんです」
「賭け?」
「はい」
頷き返し、七乃は酒で喉を潤すと、言葉を続けた。
「もし雪蓮さんがお嬢様を討たなかったら、お嬢様をまっとうな、それこそ名門袁家の当主に相応しいと言える御方にして差し上げよう、と」
「それで、昼の言葉か………」
彼女は昼の会話を思い出す。七乃が美羽をからかって喜ぶ事は知っている。雪蓮と共に謁見に行った時にもよく見た光景だ。だが、今日の彼女は違っていた。たしかに美羽を追い詰めるような物言いはしていたが、その言葉が真っ直ぐ過ぎたのだ。
「はい。だから私は穏さんにお嬢様のお勉強を任せるつもりですし、その間は内政の方を片づけて、お嬢様を手助けするつもりもありません」
一緒にいられないのは寂しいですけど。そう苦笑しながら言葉を続ける。
「ちょうどいい機会と思ったんです。それに、賭けに勝つ自信もありましたし」
「なんだと?」
その言葉に、冥琳は素直に驚きを露わにする。先ほどの雰囲気からは想像も出来ない程の自信が、その彼女の言に含まれていた。
「説明してくれ」
「えー、メンドクサイです」
「………」
「わかりましたよぅ………まず、最初に布陣した時は、思春さんの旗がありませんでした。彼女は江賊の出ですし、水軍の指揮を執っていた事は知っていましたから、彼女が水軍で河を渡って来るであろう事はすぐに予想されました。でも、この後がおかしいんですよ」
「ほう?」
燭台の光によって、冥琳の瞳が眼鏡の奥に隠れる。声音もひとつ、低くなっていた。
「本陣を急襲したのは蓮華さんと思春さんと、そして明命ちゃんでした。この事自体はおかしな事ではありません………最初に、2つ目の孫の旗と周の旗を見ていなければ」
「続けてくれ」
「はい。次に、舌戦から開戦までの間に孫と周の旗が消えていました。つまり、別働隊、あるいは伏兵として消えたという可能性が浮かびます。ですが、そんな分かりやすい事を、あの周公瑾さんがさせる筈がありません。という事でこれは、あの時点でそちらの方針が変わった事を意味します」
すらすらと流れ出る言葉に、冥琳は舌を巻く。彼女の内心を知ってか知らずか、なおも七乃は説明を続けた。
「そして、もっとおかしいのは蓮華さんと明命ちゃんが消えた事です。思春さんの蓮華さんに対する忠誠心は凄まじいものがあります。まぁ、私の美羽様への忠誠の方が上なんですけどね」
「………」
「………続けます」
無言の圧力に屈する。
「その事は皆さんの方が十分に承知でしょう。もし最初からあの編成を考えていたのなら、何故蓮華さんが思春さんと行動を共にしなかったのか、という事です。これは個人的な想像ですが、今回の戦は孫家の皆さんにとっては、これまでの恨みを孫家の象徴でもある武によって晴らす為のものでもあります。言い換えれば、雪蓮さん、あるいは蓮華さんが自ら戦に幕を下ろす事でその意味を成しうるとも言えるくらい、大切な戦だったと思います」
「確かにその通りだ。こちらの方針では雪蓮と祭殿が先陣を切り、思春の水軍で背撃して混乱を作りだし、最終的には蓮華様が率いる本隊がそちらを討ち取る事になっていたからな」
「お墨付きも頂いたところで、続けますね。その蓮華さんが、途中で陣を抜けた。つまり、布陣を変えざるを得なくなった事がわかります。そちらの本拠地に問題が生じた可能性も考慮しましたが、冥琳さん達は時間をかけて豪族の人たちを説得してましたからね。それはないと思いました」
ひと目では分からない程に、消えた兵は少なかったですし。彼女は思い出したように付け加える。
「よく知っているな」
「そりゃ、こっちだって細作を放ってますからね。まぁ、明命ちゃんやあの娘の部下の皆さんがいますから、城の中までは無理でしたけど。
そして思い至ったのが、戦を早く終わらせようとしているのではないか、という事です」
「………………」
「先ほども言った通り、この戦は孫家の皆さんにとっては大切なものです。仇敵を討つと同時に、大軍を打ち破ってその武を示し、かつての孫呉の姿を取り戻すという意味も込められていました。それは、舌戦の時の雪蓮さんの口上にもあった通りです。
ですが、その武を十分に知らしめる筈の戦を、早急に終わらせようとしている。それも、武に関しては他の将よりも劣る、孫家の次女を使ってまで………そこで確信しました。
お嬢様はお馬鹿さんですが、それでも袁家の人間です。そのお嬢様と蓮華さんが対面する状況が必要になったのです。ただ討ち取るだけなら、策を変える必要もありません。つまり、袁家の人間に対して礼を払う状況を作り出そうとしている。孫家の次女が戦の場面で礼を払う………私には、降伏勧告以外に思い当たるものがありませんでした」
どうですか?笑顔を向けると、これで終わりだとばかりに杯を空にし、再びそれを酒で満たした。
しばしの沈黙。そして今度は冥琳が口を開いた。
「では、それを踏まえたうえでの指揮だったという事か?」
「はい」
「雪蓮や祭殿に対して楯隊で対応したのは―――」
「流石に一般兵の皆さんでは相手になりませんからね。こちらの被害を減らすという意味でも、時間稼ぎという意味でも今回は大楯を用意していたんです」
「亞莎の中央への横撃を止めようとしなかったのは?」
「同じ理由です。まぁ、元々うちは数の利もあったので、自分の配置から大きく外れるような事はしないようにと昔から言ってあったのもありますけど」
「まさかとは思うが、横撃の前に一度退いた雪蓮や祭殿の部隊に突撃させ、中央を伸ばしたのは………」
「はい。文武両道の亞莎ちゃんが右翼を率いていましたからね。そちらの本陣からの銅鑼がなくても、彼女ならば動いたでしょう。ですので、どうせ動かれるのなら、さっさとその状況を作っちゃおうと思いまして」
そこまで聞いて、冥琳は溜息を吐く。
「今回ばかりはやられたよ。戦に勝って、勝負に負けたという事か。結局はすべてお前の手のひらの上だったのだな」
「そんな事ないですよ?思春ちゃんなんて殺気ビンビンで睨んできますし、怖いったらありゃしないです。最後の最後で、『あ、間違えたかも』って泣きそうになったくらいですから」
「よく言う」
そう返す冥琳の眼には、先ほどの射抜くような、あるいは見定めるような視線はなかった。彼女も杯を空にし、再び満たす。
「素直に感服だ」
「あら、おだてたって何も出て来ませんよ?」
「そんなつもりなどないさ。だが、少しだけこちらも方針を変えさせてもらう」
「はい?」
「穏に加えて諸葛瑾と、他の文官も何人か送ろう。一刀の………『天の御遣い』の知識を知っている者もいる。彼らがいれば、南陽の状況改善も早まろう」
「大盤振る舞いですねぇ」
「なに、私が持っていた印象を一変させてくれた礼というものだ。それに、形式上はうちの領だからな。善政が敷かれる事に是非もない」
「素直にお礼を言っておきましょう」
「そうか」
冥琳が杯を掲げ、七乃もそれに倣う。
「見誤っていた。お前は確かに、名門袁家の将に相応しい」
「馬鹿と天才は紙一重。私は紙を1枚めくっただけですよ」
2人は、再度杯を打ち震わせた。
※
「―――あらら、冥琳にあそこまで言わせるなんて…七乃って本当は凄かったのね」
「……………」
幕外。そこには大小2つの影。眠そうに瞼を擦る美羽を、雪蓮が七乃へと送ろうとしていたのだ。幕を開こうとしたところで中の会話が聞こえ、2人はじっと耳を澄ませていた。
雪蓮は感心したように眼を細め、袁術はただ黙っていた。
「どうしたの、美羽?」
「………雪蓮よ」
「?」
押し黙る少女に声を掛ける。少女はじっと俯いたまま口を開いた。
「今日は呑むぞ!これが呑まずにやっておられるか!」
器用にも小声で叫ぶと、美羽はそのまま来た道を戻る。
「あんなに顔を真っ赤にしちゃって。よっぽど嬉しかったのか、照れてるのか………ま、いっか。私ももう1杯飲みたい気分だし」
軽く笑いながら、雪蓮はずんずんと前を進む少女を追いかけるのだった。
――――――翌朝。
それぞれ整列を終えた陣の中央で、両軍の将が対峙していた。
「それじゃ、これからよろしくね、美羽」
「うむ。穏の勉強は怖いが、頑張るぞ」
「えぇ、期待してるわ」
そんな会話のなか、美羽がふと思い出したかのように問いかけた。
「そういえば、孫家の末妹は今回の戦には来ておらんのか?」
「え?シャオなら美羽が蓮華を建業に飛ばした時に、一緒に健安に移されたままだけど?」
その問いに、問いで返す雪蓮。2人は同時に首を傾げる。
「いやな?反董卓連合からしばらく経った頃じゃったか、あやつ、妾の城に来たぞ?」
その言葉に、雪蓮は固まった。
※※※
洛陽から戻った美羽は、少しずつ勉強をするようになっていた。
「『ぶっ、無礼者!妾を何と心得るか!』『ふふふ、貴女様は帝ですよ』『分かっておるなら何故―――』さらに問う空のそれを捻りあげ、その言葉を遮る。『あぁぁあっ!?』それと同時に、空の喉から悲鳴が飛び出た。だが、俺にはわかってしまう――――――。『ふふっ…気持ちいいみたいですね、劉協様?』『そ、そんな事ふわぁっ!?』………………なんじゃ、この書は?七乃は叙事詩と言っておったが、ようわからん」
この日、物語を通して義や情を学ぶという名目で七乃の持ってきた本を音読していた美羽だが、その理解不能な内容にとうとう本を投げ出した。と、そんな時、扉が開く。
「お嬢様、ちょっといいですかー?」
「七乃かや。どうした?」
「はい、お嬢様にお客さんです」
「そうか、勉強もちょうどキリがよいし、向かうとしよう」
「はぁい」
流れ出るような嘘を吐き、美羽は立ち上がった。
※
「なんじゃ、客とは主じゃったか」
「なんじゃはないでしょー。それより、今日はお願いがあって来たんだけど」
玉座の間。美羽の前に1人の少女が立っていた。桃色の髪を、器用に円を描くように結わっている。美羽の第一声に、頬を膨らまして怒った表情を作るも、すぐに用事に入る。
「ふむ、どのような願いじゃ?」
「反董卓連合が終わってから、蓮華お姉ちゃんも長沙に戻ったんでしょう?」
「そうじゃったか?」
「はい、建業には戻らずに、そのまま孫策さんについていきましたよ」
孫家の末姫、孫尚香だった。
「そのようらしいの。それで主は何が言いたい?」
「お姉ちゃんが戻ったんなら、シャオも戻っていい?お姉ちゃんだけずるいよ」
「ふむ…確かにそうじゃな。よし、主も戻ってよいぞ」
「えっ!いいの!?」
「さっすがお嬢様!状況もよくわかってないのに即断するなんて、凄いです!」
「そうじゃろ、そうじゃろ?もっと褒めてたも!」
「よっ!大陸一の考えなし幼女!可愛い!舐めちゃいたい!」
主の言葉をまったく否定する事無くもてはやす七乃。美羽も有頂天になって喜んでいる。その様子に呆れながらも、シャオは口を開く。
「ねぇねぇ、本当にいいの?」
「うむ、妾が許可するぞ!孫尚香、伯符の下に戻るがよい!」
「ありがと!じゃぁまたね、袁術!」
「うむ、また遊びに来るのじゃ!」
「うん!あ、でも真っ直ぐ戻ったらすぐにお勉強とかになりそうだから、ちょっと遊んでから帰る事にする」
「遊ぶのもまた勉強じゃ。お主の好きにするがよい」
「そうだよね。それじゃぁね!」
そして少女は、跳ねるような足取りでその場を後にした。
※※※
「なんじゃ、まだ戻っておらんのか。まぁ、適当に遊んでから帰ると言うておったし、いずれは戻るじゃろう」
「………マジ?」
どうやら、孫家の受難は別の形で続いているようだった。
あとがき
という訳で、今回はずっと七乃さんのターンでした。
七乃さんの名言(勝手に一郎太がそう思ってる)がわかったら、当ててみてください。
そしてようやくシャオ様が登場しました。
ずっと出すタイミングを逃していたのですが、とりあえず引っ張ります。
あとはあのキャラだけですね、出てないのは。
特に書く事も思いつかないので、今回はこの辺りで。
あ、ひとつあった。
英文学史のレポートをピー〇ー・ラビットで書いたけど、大丈夫だよね?
この後提出だけど、たぶん怒られないよね?
バイバイ。
Tweet |
|
|
85
|
12
|
追加するフォルダを選択
今回はずっとあのキャラのターン!
書いててふと思ったんだが、ある御方のセリフで名言が生まれた気がする。
これだと思ったらコメントで当ててみておくれ。
ではどぞ。