第一章 チョルル港(パート3)
「姫さま!お探ししましたぞ!」
チョルル港を再び横断して、再び商船区域へと戻ってきたフランソワを目撃した瞬間、一喝するような大声で叫んだ人物がいる。鎖帷子を着込んだ初老の偉丈夫であった。腰には当然とばかりに、やや細身の直刀も装備している。まるでロールプレイングゲームの世界から飛び出してきたかのような衛兵らしいその服装に、詩音はもう一度その瞳を丸くさせた。どうやらこの人物がビックスであるらしい。
「今日はいつになく早いね、ビックス。」
呆れたようにフランソワはそう言った。それに対して、ビックスは深い皺が刻まれた表情をむん、と絞り上げ、その年からは想像出来ないほどにしっかりとした口調で答えた。
「無論でございます、姫さま。特に本日は嵐の後。姫さまの身に何かあれば、儂は公爵さまに死んでお詫び申し上げなければなりませぬ!」
「大丈夫よ、何もないわ。」
「姫さまはもう少し、ご自身の立場をですな・・。」
「姫さま?」
どうやら終わりそうな気配もないフランソワとビックスの様子を眺めながら、詩音は隣でにやけ面を見せていたグレイスに向かってそう訊ねた。
「ああ。」
詩音の問いに対して、グレイスは失念していた、という様子で頷いた。
「フランソワお嬢様はこのチョルル港を治める、シャルロイド公爵家の次女なのだ。」
「公爵家?」
ということは貴族なのだろうか。詩音はそう考えて、納得できないという様子で眉を潜めた。貴族の娘といえば、もう少しおしとやかというか、世間知らずというか。そう言った存在ではないのだろうか。
「・・あのような貴族は、俺もお嬢様しか知らないがね。」
少し声を落としながら、グレイスがそう付け加えた。それに頷きながら詩音は周囲を見渡す。どうやら巨大な港であるらしいこの場所に働く港湾業者たちも、フランソワとビックスのやり取りに特別気を払う様子もない。二人の喧嘩は最早見慣れた光景なのだろう。
「詩音、こっちに来て!」
やがてフランソワが振り返り、詩音に向かってそう言った。漸く言い争いが終わったらしい。その言葉に引かれて一歩前に出た詩音は、ビックスが先程のフランソワと同様に驚きの表情を見せている事に気付いたのである。
「ね、言ったでしょ?」
勝ち誇るように、フランソワはそう言った。
「むう、これは確かに。なんとまぁ・・。確かに伝説に聞く様相と瓜二つですな。」
どうやらビックスも詩音のことを勇者とでも言うつもりらしい。そんなことよりも、どうにかして自分に起こった状況を理解したいということが詩音にとっては最優先課題ではあったのだが。
「とりあえず、シオンを家に連れて行こうと思うの。いいでしょう?」
「致し方ありませぬ。勇者殿となれば、公爵さまもご興味を引かれるでしょう。」
話がどんどんと進んでいくことを実感しながら、詩音は思わず溜息を漏らした。その後もフランソワとビックスで何事かを話し合っている。やがて結論が出たらしく、帰還の旨を伝えたフランソワに対して、グレイスがにやり、と笑みを漏らしながらこう言った。
「その前にお嬢様、今日のランチは海鮮料理など如何でしょう?丁度昼時、先程午前方の漁船が戻ってきたとの事。ビックス殿も是非。シオン殿にも、郷土の味というものを提供したい。」
「おう、鮮魚とは久方ぶりですな。酒があれば尚良いが。」
小さく舌なめずりをしながらそう言ったのはビックス。それに対してフランソワはむっ、とするような表情を見せた。
「昼間から飲まないの。」
「いや、姫さま、これは失礼を。」
苦笑しながらビックスが白髪に包まれた頭皮を軽く掻いた。
「なに、軽く舐める程度なら構わんでしょう。丁度いい酒があるのですが、まぁ一献だけ。」
「グレイス!余計な事を言わないの!」
フランソワが強い口調でそう言った。その言葉にフランソワの二倍はあるだろう巨漢が首根っこを掴まれた犬のように首をすくめた。その意外な態度にくすり、と笑みを漏らした詩音に向かって、何かに気付いたように小さく声を上げたフランソワが、少し不安そうな表情を見せながら、シオンに向かってこう言った。
「シオン、生魚は問題ない?」
「大丈夫。普段から食べているし。」
「そう、良かった。」
フランソワはそこで安心したような笑顔を見せた。続けて、
「大陸の人で生魚を食べる人が少なくて。アリア王国くらいかな、積極的に食べるのは。」
「そうなんだ。」
どうやら、アリア王国というらしいこの国の食文化は日本に近いものがあるらしい。詩音がそう考えている内に、準備のためと、グレイスが一度一行から離れていった。
「といっても、生魚を食べるようになったのは大陸戦争の後と言われているけれど。」
「大陸戦争?」
「うん。さっき言った、勇者さま。彼の故郷は海の幸が豊富で、よく鮮魚を食べていたそうよ。アリア王国の人間が生魚を食べるようになったのは、勇者さまの影響と言われているわ。」
そっか、と詩音は答えた。深い話は自宅に、貴族というから館と言った方が正確かも知れないが、とにかく戻ってから行うつもりらしい。フランソワはそこで勇者の話題を打ち切ると、相変わらずの愛らしい笑顔を見せながらこう言った。
「せっかくだし、調理の現場を覗きに行きましょう。」
そうして向かった場所は商船区域から程近い、小振りな、どうやら漁船らしい船が並ぶ一角であった。既にいくらかの集団が波止場でなにやら作業に勤しんでいる。その中でも一際大柄な男が、包丁を片手に見事な手つきで青魚を三枚おろしに仕立て上げていた。その男がグレイスであることに気付いて詩音は軽い衝撃を覚える。まるで本職が料理人なのではないかと疑わせるその手つきに詩音が感心していると、ぐつぐつと心地のよい音と、腹の虫が騒ぎ出すような食欲を煽る香りが詩音の鼻腔を付いた。見ると、いくつかの竈の上に大鍋が目一杯に並べられている。
「お嬢様、もう少しで完成ですぜ。」
グレイスの言葉に今一度振り返った詩音は、新鮮味溢れる三枚おろしが並べられている様子を確認して、軽い感動を覚えることになった。まな板に綺麗に並べられた魚はどうやら青魚、鯵か鰯か、或いは秋刀魚か。まさかこんな、何処とも知らぬ場所で刺身にありつけるとは予想すらしていなかった詩音にとって、新鮮な海鮮料理は感動を与えるに十分な食材であった。そのつややかな魚肉に、グレイスが慣れた手つきで刃を入れ始めた。詩音の想像しているそのままに、刺身が造りあげられてゆく。
できたわよ、という声に振り返ってみれば、漁師の妻なのだろう、中年の女性が飯ごうの蓋を開けているところであった。その中身を見ると、なんと白米である。
「コメだ。」
「うん。あれも勇者さまの影響なの。今のアリア料理は元来のパン食から、米食まで、いろんな食材が取り揃えてあるわ。」
「なんだか、日本みたいだな。」
詩音のその言葉に、フランソワはにっ、と瞳を細めた。そして答える。
「詩音の国も、色々な食材があるの?」
「基本はお米だけど、パンも麺も食べるな。」
「そう。でも美味しさなら、アリア料理もきっと負けてはいないわ。」
そのような会話を行う最中に、先程の女性がお椀を片手に、フランソワに近付いてきた。そして椀を差し出し、フランソワに尋ねる。
「フランソワさま、鯵のあら汁ですわ。食器はいかがいたします?」
「ありがとう、エイダ。でも、気を使わないで。自分で動くわ。」
エイダと呼ばれた中年女性はそこで椀だけを手渡すと、そそくさと大鍋へと戻って行った。既に昼食にありつこうと大勢の人間が竈のあたりに並んでいる。見事に飢えた男共を裁くエイダの様子を詩音が見つめていると、フランソワが詩音に向かってこう訊ねた。
「箸とフォーク、どっちがいい?」
「箸があるの?」
「うん。ちなみに、箸も勇者さまが伝えた、とされているわ。」
フランソワの言う勇者とは日本人の誰かなのだろうか。当然の如く詩音はそう考えながらも、妙なきっかけで和食に程近いアリア料理を堪能することになった。メニューは簡素で、炊き立てのご飯に鯵の刺身、そして鯵のあら汁の一飯二品である。あら汁はどうやら味噌ではなく、海水をそのまま煮込んで塩味に仕立てているらしい。風味には多少欠けるものの、素材の旨みが良く生きている汁物であった。また、合わせて提供された、醤油らしき黒い液体はほんの少し生臭い。魚醤の類だろうか、と考えた詩音がフランソワに尋ねると、フランソワは苦笑しながらこう答えた。
「少し生臭いのが欠点だけどね。」
いつしか漁師だけでなく、港湾業者たちも大勢がその場を訪れ、それぞれ思い思いに用意された昼食を胃の中に掻きこみ始めていた。当然、港湾の一部である以上、十分な着席スペースは確保されていない。フランソワも平然と立ち食いをしているのだから、行儀はともかく、それがこの場所での礼儀なのだろう。見ると箸を使うものが半分、フォークやスプーンを使うものが半分、といったところだろうか。食器の類に関しては随分と緩やかなお国柄であるらしい。
やがて新鮮な刺身を存分に堪能した詩音が食後にと提供された紅茶を飲んでいると、食事の間港湾業者たちと交流を行っていたフランソワが詩音の元に戻り、そしてこう言った。
「それじゃあ、そろそろ行きましょう、詩音。」
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第四弾です。
よろしくお願いします。
追記 12月10日本文手直ししました。
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