第一章 チョルル港(パート2)
「真理?」
そう訊ねた少年の姿を見つめてしかし、フランソワは全身を強張らせたように、まるで呼吸を忘れてしまったかのようにただ呆然と、少年の姿を見つめていた。否、正確には彼の瞳に吸い込まれるような感覚を覚えていた、というほうがより正しい表現であろう。ミルドガルド大陸には珍しい、闇夜を照らし出すような完璧な黒目。それに、その髪。港で倒れている男という観点に注目しすぎて観察を怠っていたが、改めてよく見てみれば、完璧な、漆で染め上げたかのような漆黒の髪を彼は有していた。
「どうなされました、お嬢様。」
ややあって、硬直して動かなくなったフランソワを案ずるように、グレイスがフランソワの背中越しにそう尋ねた。
「黒髪、黒眼。」
自身の鼓動が早くなっていることをフランソワは自覚しながら、フランソワは呟くようにそれだけを口に出した。黒髪の少年はだが、その言葉に不審そうに瞳をしかめる。
「君は、一体?」
黒髪の少年はやがて、仰向けに倒れた格好のままで、いつまでも動かないフランソワに呆れた様子でそう尋ねた。真理と言う人は彼にとって近しい存在の人間なのだろうか。そのようなことを考えながらフランソワは漸く金縛りから解放されたように血色の良い、ふっくらとした唇を開いた。
「私はフランソワ。起きられる?」
身体の位置を脇にずらしながら、フランソワは黒髪の少年に向かってそう答えた。その言葉に少年は軽く頷くと、予想よりもしっかりとした動きで上半身を起こす。念のために彼の背中に手を添えようとしたフランソワであったが、どうやらその必要は無かったらしい。
「大丈夫?」
続けてそう訊ねたフランソワに対して、黒髪の少年は軽く頷くと、状況を確認するように黒々とした瞳を周囲に向けた。その瞳が、時間の経過と共に険しく、そして不審に満ちたものになってゆく。
「ここは、どこだ?」
状況が飲み込めない。不安げな表情でそう訴えながら、少年はフランソワに向かってそう訊ねた。
「チョルル港よ。」
「チョルル港?」
首を傾げながら、少年はそう言うと、記憶を弄るように右手を自身の額の上に軽く当てた。そのまま、思索に耽る様に沈黙する。
「これは、まさか。」
背後から様子を覗き込んでいたグレイスが、息を飲みながらそう言った。グレイスも気が付いたらしい。彼が完璧な黒髪黒眼を持ち合わせていることに。そのグレイスに向かって頷きながら、フランソワは決意して話しかけた。この少年のことを、黒髪黒眼の少年のことを、もっと深く知る必要がある。そう考えたのである。
「良かったら、お名前を。」
フランソワのその問いに対して、少年は視線をフランソワに向けながら、微かに震える声で答えた。自分の状況が理解できずに、混乱しているのかも知れない。フランソワはそう判断した。確かにそうだろう。もし、伝説が本当ならば。
「青木。青木、詩音。」
「シオンさまとおっしゃるのね。」
フランソワがそう答えると、詩音は心底驚いた様子で、割合大きな黒眼を眼一杯に見開いた。
「そんな、大層な人間じゃない。」
その答えに対して、フランソワは瞬間に思考を回転させる。
「では、シオン殿と。」
「殿、もいらないよ。呼び捨てで構わない。」
どうやらシオンと名乗る黒髪の少年は堅苦しいことは苦手らしい。フランソワはとりあえずそのように結論付けると、軽く息を吐き出して、自身の気持ちを落ち着かせながらこう言った。
「では、シオン。少し訊ねたいことがあるの。」
「俺も、訊ねたいことがある。」
藁にもすがる、溺れかけた人間のような不安一色に染まったシオンの瞳を見て、フランソワは軽く微笑んだ。なんであれ、笑顔は人を安心させる。そのまま、落ち着いた、優しい口調でフランソワは詩音に向かってこう言った。
「では、先にどうぞ。」
「ここは、一体どこだ?」
「ミルドガルド大陸、アリア王国よ。そしてこの場所は、チョルル港。」
改めて、そして即座にそう尋ねた詩音に対して、フランソワはゆっくりと、詩音が聞き逃すことがないように丁寧にそう言った。その言葉にしかし、詩音はその表情を益々不安そうに、いや、恐慌を起こす直前という様子にまで歪めさせた。思った通り、シオンはこの場所のことを何も知らない。やはり、この少年は伝説の。そう考えてフランソワは一度、逸る心を抑えつけるように胸元に右手を置いた。まずは今のシオンを落ち着かせること。それが先決であった。
「心配しないで。まずは状況を整理しましょう。構わない?」
既にフランソワは普段の冷静さを取り戻していた。その真摯に紡がれる言葉に、詩音も何かを感じたのだろう。素直に、了解とばかりに頷いた姿を見て、フランソワはもう一度口を開いた。
「私が伝えた地名に、なにか聞き覚えはある?」
その問いに対して、詩音はもう一度、記憶の底を掘り起こすかのように、口の端から軽い呻き声のような息を吐きながら考え始めた。その間、フランソワはじっと詩音の顔を見つめ続けて、ただ沈黙のままに答えを待つ。やがて、詩音は諦めたようにこう答えた。
「ない。一切、聞き覚えがない。」
やはり。フランソワはそう考えた。更に質問を続ける。
「わかったわ。では、シオンは何と言う場所にいたの?」
「日本。東京という街に。」
「ニホン。」
ぴくり、とフランソワは反応した。その言葉、確か耳にしたことがある。勇者が住まうと呼ばれる、伝説の場所。日のいずる国。
「知っているのか?」
フランソワの反応に、詩音は一歩、フランソワに迫った。その詩音に対して、万が一のことを考えたのだろう、グレイスが軽く身構える。だがフランソワはその動きを片手で制し、そして同じような冷静な口調で答えた。
「日のいずる国、ニホン。間違いはない?」
その言葉に、詩音は妙な違和感を覚えた。日のいずる国。確かにそう呼ばれていた時代が日本にあったと言われている。だが、それは一体何百年前の話であるのだろう。今の日本なら、もっと別の。そう、自動車やゲームなど、別の側面の方が強いはずなのに。
そう感じても、今は他に頼る人間もいない。そう考え、詩音はフランソワに向かってゆっくりと頷いた。確かに間違えてはいない。そう考えたのである。そしてその言葉に、フランソワは確信を持ったような笑みを見せた。緩やかだが、だが強い信念を持った笑顔を。そして、こう言った。
「やはり、勇者様なのね。」
その言葉は、詩音の予想を遥かに超える言葉であった。面食らった、という言葉通りに詩音は瞳を見開き、慌てながら答える。このどの角度から見ても可憐で美しい娘は、出会い頭に一体何を言っているのだろうか。
「勇者とか、そんな人間じゃない、普通の人間だよ。」
「そうね・・。」
詩音の答えに、フランソワはもう一度思考するように、形の良い指をその口元に当てた。化粧もしていないのに妙に色気のある、美しい唇であった。
その時である。
けたたましい羽音と共に、一羽の鳩が空中から詩音たちに向かって降下して来た。純白の、鳥獣ながらに気高さを保ったその鳩は羽ばたく速度を緩やかに落としながら、詩音から見ても優雅にフランソワの肩へと見事な軟着陸を行う。
「まぁ、シーズ。どうしたの?」
どうやら、フランソワの飼うペットであるらしい。詩音はその様な推測を立てながらシーズという名前であるらしい鳩の様子を眺めた。シーズはくっくるくっくる、とまるでフランソワに囁くように耳元で囀っている。やがて。
「もうビックスが来たの?早いなぁ、相変わらず。」
その言葉に対して、詩音は意味が分からない、という様子で瞳を瞬かせた。今一度鳩の様子を観察する。伝書鳩という存在を思い出してシーズの足首あたりをじっくりと観察してみても、手紙のようなものが据え付けられている様子は見えない。
「それで、今はどこに?・・そう、商船区域ね。なら、そろそろ戻ったほうがよさそうね。」
声だけを切り取ればフランソワがまるで独り言を言っているように聞こえたことだろう。だが、その言葉の合間に、フランソワに合わせるようにシーズが何事かを囀っている。まるでこの二人、いや、一人と一羽、会話しているようにしか見えない。
「フランソワお嬢様は、不思議なお力をお持ちなのだ。」
驚愕と不審をミキサーで混ぜ合わせたような表情をした詩音を見かねたのか、グレイスが詩音に向かってそう言った。そのまま、更に続ける。
「フランソワお嬢様は、動物たちの会話が分かると言われている。」
「動物の会話って・・。」
そんな、御伽噺の様な事が現実にありえるのだろうか。詩音がそう考えている内に、フランソワはそれまで詩音の視線に合わせて屈めていた膝を伸ばして立ち上がると、シーズを空に放つように、白くそしてしなやかな腕を軽く天に差し出した。陽光に照らされて、後光が差すように見えたフランソワの腕から純白の羽が飛び立ってゆく。ひらり、と一枚の羽がシーズの身体から毀れて落ちた様子がまるで映画の一場面であるように詩音の記憶に強く残った。
「話の途中でごめんね、シオン。ちょっと家の者が来てしまったみたいなの。でも、もう少しシオンに話さなければならないことがあるし・・。」
おどけるように舌を軽く出しながら、フランソワは悪戯っぽくそう言うと、ふわりとした笑顔を見せ、そして続けてこう言った。
「こんな場所で話すのも何だから、一度、私の家に来て欲しいの。もう少し、状況の整理が必要でしょう?」
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第三弾です。
よろしくお願いします。
作品ジャンルは良く考えれば異世界ファンタジーですね・・。
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