No.255965

スロウ

siroさん

Gプリ♀。現代設定で不倫もの。バッドエンドなんで注意。

2011-08-02 22:25:14 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:436   閲覧ユーザー数:431

 

 

求人内容は住み込み家事手伝い。月三十万。男女問わず。

留学を終え帰ってきたのはいいものの、就職活動をする気も無かった俺だったが驚きの仕事を見つけ飛び付く。

それは数年ぶりに来た、婆がやってるタバコ屋の硝子に手書きで貼ってあった。

「婆、これ……。」

「ああ、ジョットちゃんとこさ。」

「ジョットちゃん?」

聞き慣れない名に、さっきまでの高ぶりが治まっていく。

「そう。隼人くんは知らないかもね。最近引っ越して来た外国人さん。これが別嬪さんな上、日本語上手なのよ。」

婆が自分の事のように話すわけだが、いまいち信じられない。外国人が日本で家事手伝いを探してるとは……。

「なんかねえ、病気らしいの。だから手伝いしてくれる人が欲しいって。」

「いやでも三十万は嘘だろ。」

「嘘つくような子じゃないよ。行ってみなさい。」

「いや、やるって決めたわけじゃあ……。」

婆の手には既に受話器。螺子を巻くような音を立てながら、黒電話の番号を回す。

「おい。」

「ジョットちゃん?働きたい人が来たわよ。すぐに行かせるからね。」

「婆!」

よくよく考えてみれば、職無しの俺にこの素晴らしい仕事口を断る理由はない。ジョット、という女主人はイタリア人で、俺もイタリアの血が入ってはいるが……。

この不思議な縁をなんと呼べばいいのか。

 

 

電話を終え、すぐに向かえと婆に急かされ致し方なく俺はジョットの家に行く事になった。場所は駅前のマンション五階。多分並盛界隈ではなかなかの値段がする分譲マンションだ。

月三十万が現実的になってきたせいか、不快な気分など吹き飛んでしまう。

「家事手伝いなんざたかが知れてるよな。」

話がついてるので重いセキュリティーも難なく通り抜け、五階へと登る。部屋は二つしかなかったが、もう一つは空いていて、間違える事なく目的の部屋のインターホンを押した。

「獄寺ですが……。」

「……ああ、……今行く……。」

か細い女の声。あれ?もっと歳取ってると思ったのに。

いや婆の奴、「ジョットちゃん」て……。

「待っていたよ。」

ドアが開く。眼の前な現れたのは、まだ十代にも見える小柄な女だった。

留学先で色んな女を見てきたが、はっきり言って、この女程美しく、可愛らしい、かつ妖しさを持つ人間に会った事がない。

「君か。入りなさい。」

淡い青の和服を来た金髪外国人が招く中、俺は三秒遅れて靴を脱いだ。意識がどっかに飛んでたらしい。

「面接でもしようかと思ったが、なんだかしなくても良さそうだ。君を採用しよう。名前は?獄寺なんて言うんだい?」

「隼人……。」

「隼人か。さ、そこに座って。お茶でもしよう。」

 

誘われるままソファに座り茶を飲み、話を聞いていると、このジョットとかいう女の目的が何となく解って来た。多分話相手が欲しかっただけ。若いし、慣れないこの地で信頼出来る人間を自ら作ろうとしているのだろう。俺にゃあそんなもんどうでもいいし、女と親密になる気はない。

とにかく金と職が欲しいのだ。この女は雇い主(これから主人と呼ぶ事にする)。俺は従業員。割り切って行こう。

「では、君の部屋は廊下の右奥。家具はある。キッチンは勝手に使いなさい。手が足りなくなったら呼ぶ。」

主人が投げて来たのは最新型スマートフォン。

「今日から住んでも構わない。後で給料を振り込む為の銀行口座を教えてくれ。それが嫌だったら手渡しで。以上。」

果たしてこれは仕事と言えるのか。ヒモと言っても間違いではなさそうな。……金の為とはいえ、俺と主人の奇妙な生活が始まったのである。

 

病気とは聞いていたが、主人は特に問題無く生活をしている。もしや肉体的ではなく精神的にアレなのか……?と勘ぐったが至って普通の人間だ。

おかしいのは日本語が上手すぎる、それだけ。普段は仕事があるらしくパソコンで何かバチバチ打ってたり、忙しく電話していたり。

俺はその間に家事をしたり、たまに茶を出したりする。正直暇だ。暇過ぎる。これで三十万だなんて嘘じゃないのか。

されど一月経った所で、口座にマジで金が振り込まれていた為現実だと納得する。

いやいやいや、甘い汁を吸わせておいて、臓器やら何やら売られるのでは……。

主人が変に優しいから尚更不信感が募る。三十万持って逃げてしまおうか、と三日は悩んだが四日目あたりになると金の誘惑に負け「もうどうにでもなれ」と開き直った。人の適応力とは恐ろしいものだ。

どうせ死ぬなら、死ぬまでいい暮らししてやる。

となると主人と仲良くしていて損は無い。

「酒でも飲みませんか。」

人と仲良くなるには、酒を飲むに限る。どの国も同じだ。出不精な主人だから、家でいい酒を飲ませて貰おう。

「どうした急に。」

「ここで働きだして、一月経つので記念に。」

主人は「面白いな、お前は」と笑い快く了承してくれた。ついでに、酒を買って来いとカードを渡して。

 

 

 

早速買い出しに行こうと、部屋を出て一階まで降りた頃、俺は変な野郎と出逢った。

自動ドアを出ると、脇の呼び鈴の前に突っ立って、番号を押し、呼ぶかどうか迷い指を出しては引っ込めている。

その番号は主人の部屋だ。珍しい。客人か仕事仲間か……。せっかくだ、声を掛けてみた。

「しゅ……、ジョットさんの友人ですか。」

「あ?」

睨むように見られ、眼光そして入れ墨に驚く。右頬から上へ燃え上がるような赤い炎。明らかにカタギではない。

最近まで忘れていた、この高額バイトの真実「臓器売買」が真実味を帯びてきたと、俺は覚悟を決めた──。

「お前、ジョットの何だ。」

「使用人?ですが……。」

「使用人だって?」

男は、上から下まで、俺を測るみたいに眺めた。品定めか?

「ご友人なら、お通ししますが……。」

「……。」

舌打ちが聞こえ、俺を無視し男はマンションから出て行った。

一体誰なのか、当時の俺には解らなかったが五年後、何者か明らかになる。

更に言えば、俺は男を無理矢理主人に会わせなかった事を猛烈に後悔するのだ。

あの時、男に合わせていれば主人が苦しむ事は無かったし、待ち受ける最悪の事態に喘ぐ事も無かった。

……偶然かは解らないが、酒を飲むその前に主人は倒れ、五年、床に伏せる事になるのだから。

 

 

主人が自らの半生について語り始めたのは、俺が働きだして二年目の秋の事だ。

その頃には病状が悪化し、仕事も出来なくなり布団に横になる時間が多くなっていた。

病気を治す薬は日本では認可されておらず、金が余計に掛かってマンションも手放し、小さなアパートで朝日を待つ毎日。

俺に払われる賃金もぐっと減り「もう他の仕事を探せ」と言われたが、どこかへ移る気は無い。

今主人を見放したら、誰が話し相手になってくれるだろう。二年一緒に過ごしてきて、これといった友人を見た事が無かった。酒飲みなど誘いは数え切れない程あったが、主人はあえて断ってきたと感じる。

この人は人間が嫌い、いや怖いのだと考えた。俺には解る。

俺だって留学先で人種差別を受け、人間という生物の在り方を疑い今でも嫌いだ。そして恐ろしい。

主人にも嫌いになるきっかけがあるのだろう。使用人ではなく話し相手として、主人の本音を聞きたくなったのが同じく二年目の秋だったのだ。

 

その日、主人は布団から置き縁側に静かに座っていた。

アパートの一階には六畳程の小さな庭が一部屋ずつフェンスにより区切られていて、やりようによっては家庭菜園も可能である。

主人は体調がいい時、庭に作った小さな花壇の手入れをした。生きているからには、毎日でも土を触るべきだと。

だが今の庭は、夏場には咲き誇っていた向日葵も茶色く枯れ花壇の肥やしになるのを待つのみで終焉を表すような光景だ。

夕方、俺が買い出しから帰ってきてそんな庭を見つめる主人に気付き、買い物袋を台所に置いてから寄っていった。

「ただいま帰りました。」

「ああ……おかえり。ご苦労様。」

本当に調子が良さそうで、穏やかな顔をしている。隣に俺も座り、庭を眺めた。

しばらくそのままでいたが、主人が急に口を開く。

「隼人、聞いて欲しい話があるんだ。」

「なんですか?」

「本当に、下らない事なんだけれど。なんだかお前に話したくなったんだ。とても詰まらないだろうが、いいか?」

はい、と答えた。今まで何一つ自分の事を語ろうとしなかった主人。……少し嬉しかった。

「まずは、私が子供だった頃から……。」

 

 

**

 

 

私は我が儘な人間だったと思う。

自分の存在を過大評価していたし、そこから生まれた可哀想な自尊心と虚栄心をせめぎ合わせては惨めな幸せに酔っていた。

誰よりも知識はあったし、何よりも見目が美しいと。恥ずべき幼少と青春の時代。この時代に私は大きな間違いを犯し続けていた。

更に私には一人、幼なじみがいた。私達は不明瞭な出生、誇られない地で暮らし、お互いを支えて生きたよ。

いや違うな……幼なじみの──Gと言うんだが、そのGが私の全てを許してくれていただけ。あいつは素晴らしい男だった。何故私の隣にいたのか不思議でならない。いや……、解っていた。

Gは私を愛してくれていたのだ。

はっきりと言える。しかし私が、それを、拒絶した。彼をひどく傷付けた。隼人、予想が付くだろう?己をいかに立派に見せるかにだけ必死だった私だ。

天の邪鬼と化し、Gの思いなど一切汲み取らなかった……。

後悔したのは十八になってから。奴が結婚すると言った。

あの時程衝撃を受け落胆し後悔の涙を零したのはない。私が勝手に引き起こした事態。結果。誰も責められない。

その那由他ようやく、私もGを心底愛していると自覚した。自身がいかに阿呆で愚かだった事も……。

結婚式の招待状を握り、ただ泣き喚いたよ。どうにもならないのに。

──結婚式での花嫁はなんと美しかった事か。菩薩にも見えた。

私は何だって持っていて、誰にだって好かれる存在だったのに、ひどくその花嫁が羨ましかった。負けたとか、そういうのじゃない。

Gの思いを素直に受け入れたその素直な心が羨ましかった。私にもそれは出来た筈だから、尚更……。

これから二人には明るい未来と終末が待っているのだろう。……眺めているだけなんて出来ない。

近くにいたらその幸福を滅茶苦茶にしてしまいそうで、またそんな事を考える自分に嫌気が差して、私は我慢出来ず式場を飛び出した。

家に帰って、大事なものを大きめな鞄に詰め込んで、それから……。

早くGの側から離れたかったんだ。とにかく。気が付くと電車やら何やら乗り継いで、港に着いてしまう。私を止める人間は誰もいない。

勢いのまま、この国に来てしまったんだ。知り合いが一人いたから良かったものの、勝手な失恋で他国に渡るのはよくないな。

Gとはそれきり会っていない。というか合わせる顔が無い。

あっちはきっと幸せにイタリアで暮らしている事だろう……。

思えば、お前はGによく似ている。だから話し相手にさせてしまったのだろうな。

……今まで、本当にありがとう。

 

 

**

 

 

「おしまいだ、下らない話をしてすまない。」

「いいえ……。」

下らない話なんかじゃない。かなり重要で、主人が持つその憂いの元を知れた。

人間が怖いんじゃない。自分の行いにより嫌われる事を恐れていたのだ。

「ジョットさん。」

「なんだ。」

「話してくれて、ありがとうございます。」

俺は主人が、心のほんの一端だけでも晒け出してくれたのが嬉しかった。

二年前はただの雇い主だと割り切っていたのに、いつの間にかこの人の力になりたいと、この人が安心て居られる場所を作ってやりたいと今は感じている。そして安らいで欲しいと。

烏滸がましいのは知っている。男女のものとは違う、主人と俺のこの関係は何と表現したらいいのか。

……幸せになって欲しい。

「……腹が減ったな。」

「今日はシチューを作ります、おいしいのを。」

「うん、待っているよ。」

夕日がもう直ぐ姿を消す。縁側から台所へ俺が移った後も、主人は空を眺めていた。

 

 

 

 

それからまた、三年の月日が経った。

主人はもうほぼ布団から出られなくなり、寝てる事が多くなる。

病院に入院しましょう、海外で治療しましょう……訴えたが、首を縦に振ってくれない。

身内にも連絡を取りますかと聞いてみても、何も教えてくれなかった。このままじゃ主人は……。

生きてほしい。

思えばこの五年、主人は俺以外誰とも関わらずただ静かに生を全うしようとしていた。

「G」という男が、未だ心の中にいるのは聞かなくても解る。好きなのだ。……ならば、いくら結婚していようとも、主人に会ってはくれないだろうか。

一言二言、言葉を交わしてくれるだけでも。

どうにか「G」を探せないものか。

イタリアにいる事しか解らない、きっと「G」という名は渾名のようなもので本名ではないだろう。そんなもんで人を探すんて無理だ……。主人も弱るばかりだ。

 

途方にくれる中、神はいたのか……、「そいつ」は自分から現れてくれた。

主人の薬を病院に取りに行き、買い物をした帰り。アパートの郵便受けの前に立っている男を見つける。デジャブだ。

だがまだ誰とも解らず、アパートの住人と勘違いした俺は軽く通り過ぎる。

「……使用人か?」

思わず足を止め、振り返った。その顔は、一度、一瞬だけ、見た事がある───。

そう。五年前に。

「あんた……。」

「ジョットはいるのか。」

主人の名を聞き驚く。あれだけ人を関わりを絶っていた主の名を。俺は直感した。この男が。

「G……?」

「なんで俺を知ってる。」

眼がきつくなり、俺を厳しく睨む。

「なんで知ってると聞いてるんだ。」

「ジョットさんから、聞いていた……。」

男、いやGは胸倉を掴みを殴らんかの如く詰め寄ってきた。買い物袋がコンクリートの床に落ちる。

「……ジョットは?」

何故この男はこんなに必死なのか。俺と主人を疑っているのか。というか、結婚済な筈だ。

「部屋にいる……、でもなんであんた会いに来たんだ。妻がいるんじゃ……。」

「……。」

途端、手を離しばつが悪そうな面をしやがる。

「あんた……、まさか。」

……主人は片思いをしていたわけではない……多分。でなければ、遠い暮らすこの男が日本まで来ないわけがない。

何はともあれ、Gとは一度じっくり話さなければならない。主人に会わせる前に俺は奴に「公園で待っていてくれ、出来れば深夜まで」と無茶な提案をしてみた。

今すぐしたいが、主人は家で夕食と薬を一人で待っている。せめて寝静まるまで耐えていて欲しい。お互い。

「……解った。」

こっちの意図を汲み取ってくれたのか、あっさり了承したのを安堵する。拒否し乱暴に主人に会おうとしたらどうするか、まさかの対処法まで考えたがGは大人だったようだ。

その態度にただ待たせるのも何だと、部屋の番号だけは教えた。庭は木塀に覆われているが頑張れば部屋を覗ける。

もっとも主人には庭に出れる程の体力すらないが……。

「じゃあ公園で。」

「ああ。」

別れた後も、何だか胸がざわつき思考がぐるぐる、整理が追いつかない。冷静な自分すら理解出来なかった。

でも主人にはまだ、Gが来た事を明らかにしてはいけない。

「……ただいま戻りました。」

「おかえり。」

ドアを開ければ、部屋の奥からか細い声が聞こえて来る。その刹那、体中からどっと汗が吹き出た気がした。はー、と長く息を吐く。買い物袋も重い。

「……隼人?」

不信がった主人のそれでなんとか理性を保ち、「すみません、靴紐が絡まりまして」と返す。俺が履いていた靴に紐は無かったけれど。

 

 

 

主人が静かな寝息を立て始めたのを確認し、部屋を出た。

時刻は二十二時。アパートから三分程歩けば着いてしまうその公園は子供達の遊び場。深夜の今では俺と、──Gしかいない。

「待たせた。」

「いや……。」

ベンチに座っていたGの足下には一箱分はあるであろう煙草の吸い殻。

隣に座るとGは更に一本取り出す。沈黙も辛いので俺から切り出してみた。

「どうして日本に?」

「前は仕事、今回はジョットに会う為に。」

「何故。」

反射的に返してしまう。だってこの男は結婚済だ。いくら昔好きだったとはいえ、病気の主人には酷ではないかと感じた。

「……好きだからだ。」

「勝手過ぎる。」

あんなに主人に会ってほしいと思っていたのに。

主人は十分苦しんでいる。過去の過ちを悔いている。良心の呵責と等しくこの男はまだ主人を苦しめるというのか……、そう考えると、この男を会わすわけには……。

「お願いします。どうか帰って下さい。……困るんです。ジョットさんは貴男と会ってる場合でもないし、会う力も無い。」

後から主人に責められてもいい。この男に絶対に会ってはいけない。

「会う力も無いだと?」

「あの人は病気なんです、ちゃんとした治療を受けないと、……多分後三年も持たない。」

絶句するG。俺は病気の事を詳しく話した。外国では簡単に治るであろう事も。Gはしばらく言葉を発せ無かった。

「だから帰って下さい……。」

命乞いをするように訴えた。五年も苦しみと共生してきたのに、主人は何一つ報われない。自分のせいだと悔やんで。

その原因の一つでもあるこのGという男に何が出来るのか。否、何も出来る事は無い。

「……使用人、お前はジョットが好きなのか?」

「…………はい。」

邪な感情ではなく、ただ純粋に。

「愛とかそんな高尚なものではないですが。」

俺は主人が好きなのだと思う。人間として。Gに聞かれて、はっきりした。だからこそ五年も側にいたのだ。

「………そうか。」

溜め息が聞こえた後、Gは一本、煙草を差し出してきた。

「吸えよ。ついでに、俺のくだらねえ懺悔でも聞かねえか。」

 

 

**

 

 

……俺が結婚しているのは事実だ。だがあの時あの瞬間、紙切れに判を押した事は死ぬ程後悔している。一時の気の迷いでは済まされない過ちだ。

その迷いに至ったのは、俺が道を間違えたまま結果を求めたから。

ジョットは小さい頃から輪の中心にいた。俺と同じ、泥と血に塗れた場所から生まれた筈なのに、いつもきらきら輝いて、誰からも好かれて……。

少なからず、劣等感を抱いていたのは確かだ。例えば俺が解くのに一時間かかる問題を、ジョットは一分で解いてしまう。天才だった。

嫉妬のような妙な感情も混ざり合って、いつも一緒だった俺達は次第に距離を置き始める。俺から離れたんだ。言葉も段々乱暴なものになって、どうでもいい喧嘩もするようになった。

………ジョットの顔から、みるみる笑顔が消えて行ったさ。いいや笑顔だけじゃない。泣く事もやめた。

喜怒哀楽のうち、怒りしか見れなくなって……。死ぬまでジョットの苦しみや喜びを分かち合いたいと思っていたのに。

奴が有能過ぎる事を妬んだ。いつも俺だけに見せてくれていた泣き顔も見れない。全部、全部、俺自ら拒絶、いや逃げたんだ。

そんな状況で告白して断られるのは当たり前だ。

ジョットは俺に言った。「私はお前に相応しくない」ってな。

その通りだよ。自分の自尊心を保つ事で精一杯なクズ、誰が好きになる。

後はもう、自暴自棄暮らし。阿呆な野郎に従って薬の運び屋もしたし、人を脅したり傷付けたり。寂しい夜を凌ぐ酒代欲しさにあれだけ守っていた自尊心を捨てた。

戸籍上夫婦である女と結婚したのもその延長。

あるマフィアのボスの娘が俺を気に入って、ペット欲しさに結婚を求めてきた。「側にいるだけでいい、金は自由に使っていい」なんてよ。

俺は躊躇い無く判を押した。……後悔なんて後に来るから後悔っつーんだ。俺はずっと悔やんでいる。

まず最初に後悔したのは結婚式。ボスの娘だ、盛大にやるといって聞かなかった。

……逃げる事は出来たが、金に眼が眩んで、衣装に袖を通した……。

式にはジョットもいた……。人混みの中、見つけたその刹那の顔を忘れる事が出来ない。喜も哀も無い、無表情。

人形のように俺を見ていた。

でもそれでやっと、冷静になる。我に返った。一体俺は何をしていたのか──。

せき止められたままだった奴への感情が濁流の如く流れ出し、俺を後悔の底へ誘う。

眼が合ったと気付いたジョットは人の影に隠れた。瞬間、俺は妻となるべき女から離れ奴がいるであろう場所へ走る。

騒然となるのも構わずに人の波を分けたが、もう姿は無い。とっくに消えていた。周辺にいた奴等はもう「帰った」と零す。

……着の身着のまま、俺は教会を出た。女の事なんて頭に無い。真っ白なその衣装で、街中を走った……。だがどこにもいなかった。家にも行った。どこにも……。

他国に渡ったと聞いたのはずっと後。ジョットは少しの荷物だけ抱え、船に乗ってしまったと。

俺は馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。勢いばかりで、何も考えていない。

……五年前お前と会ったあの時だって。お前をジョットの恋人だと勝手に信じて、会いもしなかった……。せめてあの日、奴に会っていれば。

 

 

***

 

 

……どうしてこんなに食い違っているのか。

久々に吸った煙草の味も解らない。主人は自分が悪いと言い、Gも自分が悪いと言う。

悪いが言わせて貰おう。この人達は馬鹿だ。大馬鹿だ。二十歳もとうに過ぎた人間が何をしているんだ?青春期で全てが止まってやがる。

イタリア人がこんなにねちねち悩むものか?お互い未練タラッタラ。何だか苛ついてきた。

「……俺にする懺悔じゃない。」

「だから会わせて欲しいんだよ。」

どうする。主人の事を考えれば、会わせた方がいいに決まってる。会わせたい、でも何が変わる?

「……会いたいんだ。」

もう一度Gが言う。……きっとここが主人にも、この男にも大事な節目になる。

「十分でも、一分でも……。」

煙草の灰が落ちた。僅かに灯っていた赤も一瞬で消える。主人の命ももう長くない。

あの人の顔が浮かぶ。出逢った頃より大分元気が無くなった。Gと再開して、笑顔ぐらい戻って来るだろうか。

何も変わらないから会っても無駄、だなんて解らない。なら会わせてみるべきだ、普通に考えて。

でも、だが、しかし……頭の中がおかしくなりそうだ。主人の為、主人の為と考えても俺の思考は纏まらない。

「あなたとジョットさんは会うべきだと思っています……。でも正直そうしない方がいいとも感じます。関係無い俺が口を挟むのもどうかと思いますが……。あなたが、ジョットさんを未だ愛してるのは解ります。だが奥さんがいる。……そういう立場で会ったらどんな意味を持つか……。」

「……。」

主人が許されない存在になる。今以上主人の環境を悪いものにしたくない、静かなままでありたい。

されど。

「そんな立場でもいいと、決してジョットさんを傷付け無いのなら、一度だけ。」

「……いいのか。」

この男が主人を守れないなら、俺が守ればいい。浅はかだがこれしかない。

波もなく後悔しながら生を全うする主人に、僅かな幸せが来ると信じて。そして俺自身が、もう悔やまないように。

 

 

合点した俺達は、今後の為にとりあえず連絡先を交換した。後で主人と会う日にちを決めようとも。しばらくGは日本に滞在するとの事で、急がなくてもいいと言ったが内心早く会いたいに違いない。

もうすぐそこに、一番愛している人間がいるのだ。妙な結婚をした男とは思えない理性である。

「じゃあ……決まったら連絡します。」

「ああ。」

ようやくベンチから腰を上げる。

夜も深く、早く寝床に戻ろうとした俺達の前に、いるべきではない、かつGにとっては今すぐ会いたかった人間が立っていた。

体が固まる。見間違えるわけもなく、それは主人だった。

アパートからこの公園、距離もないのに主人は肩で息をし咳き込んでいる。

どうして。立つのも辛い体の筈だ。

支えたくて、俺が走り出すその前に隣が動く。躊躇いも無く主人に駆け寄り、自分の上着を羽織らせ肩を支え寄せ手を取った。

「ジョットさん……。」

「いつまでもお前が戻ってこないから……。」

気付いていたんだ。俺が部屋を出た事を。そうだよな、主人が気付かないわけがない。浅はかだった。

「そしてお前……どうしてここにいる?」

自身の体を支えるGに、主人はゆっくり訪ねた。……しばしの沈黙。

Gが何度か唇を開き掛け閉じるのを見て、言葉を選んでいるのが伺える。

簡単で幼稚な言葉でもいいのに。己を護るか、主人を護るか……、ここまで来てこの男は悩んでいるのか、それともただ緊張しているだけなのか……。

二人の間には、どうやっても俺は口出せない。主人とGが言葉を紡ぎ合わせる事を待つのみ。

「……お前に会いに来た……。」

沈黙を破るG。

「どうして。」

被せるように返って来る台詞。

「お前が。」

主人の肩を抱くGの手は震えていた。この男はもう、主人の前で自我を保つのが精一杯に違いない。

感情が爆発でもしたら、無理にでも主人を掻き抱き攫ってしまいそうな眼をしている。必死に理性という釘を打ち扉が開く事を防ぎながら。

「うっ……。」

しかしその前に、主人の膝が崩れた。立っているのも辛い体がここまで来たから……。俺も慌てて体を支えようとする前に、Gが軽く主人の体を抱き上げた。

優しく、壊さぬよう。

「軽い……。」

あまりの軽さに驚いている。

「食欲が……無くてな……。」

絶え絶えに言う、笑えない軽口。口端を上げる事すら辛そうなのに、主人は笑う。そんな笑顔を見て更に、Gは言葉を失うのだった。

「……使用人、部屋は。」

「一階です、すぐ着きます。」

俺達三人は無言で、アパートまでの短い距離を歩いた。するべき再会が呆気なく叶い、なんて言葉を掛ければいいかも解らない。もっと言えばこの先も。

考えた事は、主人が傷付いていないか。妻がいるこの男が会いに来たという意味。どう考えてもプラスには捉えられない。主人自身が自分を責めていたのも足されて。

二人が不倫という関係に置かれても付き合い出すと言い出したら?……俺は主人が幸せになる為にも「夫婦」になって欲しい。きちんと。

 

 

 

 

「ジョットと二人で話がしたい。」

部屋に到着し、主人を布団に寝かせた途端Gが言い放った。別にそれは構わない、むしろ推奨する、だが主人の体調が……。

「私は構わん、隼人。私の隣に、布団を出してやってくれ……。」

主人は最初から、いやもっと前から覚悟が出来ていたらしかった。眼は澄んでいて清らかだ。もう俺の出番はない。

「解りました。」

主人の部屋、主人の隣、主人と並んで、客用の布団を引いて俺は自室に戻った。

夜通し、二人は何を話すのか。懺悔か、あるいは告白か。どっちもして欲しい。第三者である俺には決定権は皆無だが、嫌な方向には向くのは困る。

襖一枚を挟んだ俺と二人。別世界みたいだ。

どうか主人に不幸な事が起こりませんように。一介の使用人が烏滸がましいけれど俺は主人の事を母親や姉に向けるべき感情を抱いている。

この五年間それだけのものを戴いて来た。

主人は誰からも何からも奪う事もなく、ただ俺という他人に情を下さったのだ。

今度は主人が、誰かから情を貰う権利がある。残念だが俺ではない。Gだ。あの男にしか出来ない。

悪く言えば、主人はあの男からでしか何かを「貰う」事が出来ない。この夜で全てが解る。全てが決まる。

俺は襖に寄り、膝を抱え座って、頭をそこに埋めて夜を過ごした。長い夜だった。

 

 

 

寝たのか起きていたのか曖昧な意識のまま朝を迎える。いつも通り顔を洗い、湯を沸かし、朝食の準備に取りかかった。

俺は何だっていいけれど、主人は消化に悪いものは食べられない。粥の準備をしつつ、久々にコーヒーを淹れた。コップは三つ。

主人の体調の都合もあり、本当にたまにしか飲まず俺も避けていた。でも今日の朝ぐらい。

「よう。」

するとGが起きたらしく台所に来た。……どことなくだが、晴れやかな表情をしている。一瞬で安堵した。「夜の話し合い」はきっといい方向に向いたのだ。

「手伝うか。」

「あ、いえ大丈夫です。居間でゆっくりしてて下さい。」

客人だからと言うがGは無視してコーヒーが入ったコップをテーブルに持って行く。なんだ結構いい奴かも。

冷蔵庫を勝手に開け卵やらベーコンやらを取る中、Gがどうでもいい事とでも言うようにある提案、いや決定事項を俺に報告してきた。

「ジョットをイタリアに連れて行く。」

言葉が出なかったのは言うまでもない。空気も三秒程止まり、俺がはっと我に返り時間を戻した。

「何を仰って……?」

「何度も言わせるな。あっちで治療しながら、俺と暮らすんだよ。」

「でも貴男結婚してるって……!」

「今弁護士立てて調停中。言わなかったか?」

Gの飄々とした態度を見る限り主人の同意は得ているのだろう。だからこんな顔してやがるのか!

俺には止める理由も術も無い。ただ主人が幸せになれるなら……。

「い、いつ?」

「早ければ今月中だな。俺が住んでるとこに準備もさせとかなきゃなんねえし……。」

ああ、無職になる時が来た。考えてみれば五年。五年も主人の側に居させて頂けたのだ。不満も何も無い。とりあえず職安に──。

「お前も来るんだ。」

「はい?」

動きが止まる。Gが「当たり前だろ」と追い討ちを掛けてきた。

「流石にもうジョットの世話はやらせねえがな。俺の下で働いて貰う。それと、この五年間における、ジョットの話を聞きたい……。」

穏やかなGを見て、俺は今すぐにでも「最初から」話したくなる。

この男は悪い奴ではない。主人の言う通りの男なのだろう。

「解りました。主人と、貴男に付いて行きます。」

「おう。……で、お前の事はなんて呼ぼうか……使用人、じゃなあ……。」

「隼人、で頼みます、G。」

「呼び捨てかよ。」

 

斯くして、俺と主人はイタリアへと渡る。

俺には素晴らしい出会いが待っている事、主人、またGには更なる苦難が待ち構えている事はまだ予想出来るわけもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

俺がGさんに雇われたのは四年前。学校を卒業して、やりたい事も見つからずかといって日本に帰るのも面倒で、観光のバイトをしていた。

出会ったのも、フィレンツェで日本から来た観光客を案内している最中。いきなり声を掛けられて、しつこくて、警察を呼ぼうとも考えた。

仕事が終わっても事務所に来たから、こんな俺にもモテ期が来たか……と浮かれたがまったく関係無かった。

Gさんは「お前を探していた」と言い、俺がある人の遠い親戚で今までイタリア中を探し回っていたらしい。フィレンツェで見つけたのはまったくの偶然。

ある人、とはジョットという名前の人。解っているとは思うけど、俺はその人を全く知らない。

そして噂を聞く所によると、Gさんはイタリアでは有名なマフィアのボス。まあ確かにそんな顔だ。

とにかく俺はなんやかんやでGさんに雇われマフィア入りする。何もしなくていいとは言われたが、何もせずにお金を貰うのは申し訳ない。

なので、Gさん、その部下さん諸々が住む屋敷の掃除婦になった(勝手に)。料理とか家事はまるっきり出来ないから。掃除ぐらいなら、何とか。

汚い仕事をする事もなく、ハウスメイドの真似事をし続け四年。親戚だと口だけで伝えられていたジョットとようやく会える日が来た。

Gさんに抱かれて屋敷に現れたその人。確かに──ほんのちょっぴりだけ──俺に似ている。

「留守番ご苦労だったな。」

「い、いいえ……。」

「……こいつがジョットだ。お前と血が繋がっている、家族。……ジョット、綱吉だ。」

「綱吉……。」

ジョットは弱々しく、一目で病を患っているのに気付いた。

「やあ……。」

「は、はじめまして……。」

伸ばされた手を、恐る恐る握った。温かい手。

その日から俺は、掃除婦からジョットの身の回りの世話をする事となる。

……そうだ言い忘れていた、俺の名は沢田綱吉。女だけれど、イタリア育ち。両親が小さい頃こっちにきて最近帰った。日本に戻らない理由は冒頭の通り。

ちなみになんで女なのに「俺」なのかは、イタリア語で幼少時代を過ごしていたので日本語を覚え始めた時、最初に覚えた一人称が「俺」だったからそのまま使っている。

不束者ですが、これからよろしくお願いします。

 

 

 

あと一人。獄寺くんという人だ。彼はとても真面目で俺とは比べ者にならない程頭がいい。あと顔もいい。

あまりにスペックが違うので言語が通じるのかと不安になるレベル。でも獄寺くんはすごくいい人だ。

いつもにこにこして、俺が知らない沢山の事を教えてくれる。

ジョットと俺が住んでいるのは屋敷から離れた古いマンションだ。

……ここで言うのも何だけれど、Gさんは結婚している。つまりジョットとの関係は不倫。屋敷に住めないのは明白。

そのマンションに、仕事帰り獄寺くんは寄ってくれる。Gさんも、ジョットに会いに。

Gさんが部屋に(帰って?)来ると、俺の仕事はおしまい。大体毎日五時過ぎ。「ご苦労」、と労われて隣の部屋へ。

俺が出るとそこはもう二人の巣のようで、彼氏いない歴イコール年齢の俺には少し羨ましい。だからって不倫は嫌だけれど。

自分の部屋に帰ってから一人夕食の準備をしていると、ちょうど獄寺くんがインターホンを鳴らしてくる。

「近くに来たものですから。」

その手にはいつも高そうなお菓子。毎日のように持って来るし流石に申し訳無くなって、夕食を一緒にしたのが始まりだ。

俺と獄寺くんは、日の中で一時間半だけ時間を共にする。

最初は喋る事が無くてぎくしゃくしていたけれど、俺がジョットの話を振った時彼の顔色が変わった。悪い方じゃない。とても優しい顔になる。

日本では獄寺くんが、今の俺みたいな事をしていたらしいとは知ってた。でも話を聞くうち、ただの使用人と主人の関係では無いみたいな気さえしてくる。

二人にはとても強く深い信頼関係が築かれていたのだろう。俺は今の今まで一度も、そんな関係になるまで人と付き合った事は無い。羨ましいと思ったのは本当だ。

「でも、だから、今の状況は心配なんです。」

……はっとした。獄寺くんの中には、受け入れがたいものが一つだけある。

多分不倫ではなくGさんという存在そのもの。憶測だけれど、ジョットを奪った彼が未だ許せないのだろうか。それぐらいあの人が好きなのだろうか……?なんとなく、獄寺くんのジョットに向けた「好き」は普通のと違う。

見ればはっきり解る──お母さんと子供、そんな感じ。

息子がお母さんを独り占めする父に憎しみを覚えるという事を聞いた時がある。いやいや、そこまでじゃ無いんだよなあ……、あれはまだGさんを信じて無いだけというか。

闘病中の、何も出来ないジョットだから怖いのか……。雇われてた俺からすれば、Gさんに不安に思う所なんてないけどね。

 

 

 

Gさんの結婚生活は「結婚生活」では無いと理解したのは雇われて一週間目。

「あなた!どこに行くの?!」

Gさんの妻である、"奥様"の金切り声は毎朝毎晩屋敷に響く。奥様はある大御所マフィアのボスの娘で、結婚当初は夫をそこに入れようとしたが、うまくいかなかったらしい。

Gさんは勝手に自分の組織を作ってしまったのだ。ボスとなり、勢力が広がると益々関係は悪化した。

二人の住まいとされている屋敷、つまり俺が働いていた家には仕事が無ければ一切立ち寄らなくなる。

俺はすぐGさん一派が住む所に引っ張られたが、それまでがひどかった。

先に言ったように、ヒステリックな声。情緒不安定な振る舞い。奥様は悪くない、Gさんが悪いと俺は今でも感じてる。

だって家に夫が帰って来なかったら、何の為の夫婦なのか。ある日、奥様に問い詰められた事がある。

「知っているんでしょう!あなた!あの人が誰に夢中になっているのかを!」

当時はジョットなんて知らなかった。それにGさんは仕事に夢中になってるだけとも思っていたし……。

しかし「彼女」が現れて、Gさんは本当に他の女性に夢中になっていたのだと驚いた。この部屋、部屋に誰を住まわせているのか奥様はまだ知らない。知られる時がいつかは来ると考えるだけで鳥肌が立つ。

奥様には絶対向けない、あの優しい顔を見られたら、ジョットだけが貰える甘ったるい囁きを聞かれてしまったらどうなってしまうのか。

俺は、明日も平和である事を、寝る前に必死に祈ってる。

 

 

一年を過ぎた頃には、最先端の医療によりジョットの体は外を出歩ける程回復した。そして俺が危惧していた事態が次々起こるようになる。

彼女の回復をおおいに喜んだGさんが、ジョットを外に連れ出し始めたのだ。散歩に始まり、買い物や外食。

何かあったらと俺が同行したりするが、真っ昼間に堂々と歩くものだからこっちがはらはらする。

俺の心配もつゆ知らず、二人は付き合い出したばかりの恋人同士みたいに笑顔が絶えない。Gさんの子供のような顔。ジョットが喜ぶと更に嬉しくなって。ああ、幸せなんだ……と羨ましくも思えた。

でも二人は不倫だ。いくらこっちで相思相愛やっていようと、正しくは見られない。ああ、早く……奥様が気付かないうちに離婚に同意して欲しい。

人と人の別れを願うなんて最低だけど、これが最良だ。もし気付かれたら奥様も傷付くし、Gさんの立場が不利になるだけ。

不倫に正しいも何もないのは解る。誰かが犠牲にならなくちゃいけない事も。誰も傷付かない為にも、気付かないで欲しかった………。されど、ついにその時がやってくる。

ある大衆誌が表の顔は実業家であるGさんの不倫を暴く記事を載せたのだ。

雑誌にはこう書かれていた。「妻を豪邸に残し愛人宅に通う、青年実業家」勿論、マフィアのボスというのは裏では知れ渡っており、会社や家族のみならずGさん自身の株も下げるのが狙いだったに違いない。後はネタが無かったか……。

パパラッチも多くなっていたし、奥様の耳に入るのはあっと言う間だったろう。

そんな事になっても、Gさんは「だから?」と平然としていた。写真はわざと撮られるようにしたり、雑誌やらで有名な店にも行ったり。特に悪い事をしていないとも言いたいのだろうが、そんなの逆効果だ。それすら狙っているのだろうか。

「駄目だ。あいつ判を押さねえ。」

ある午後、三人でお茶をしていてぽつりとGさんが言う。まるで「今日は晴れだな」など他愛の無い話の如く。

「あ、当たり前じゃ無いですか……。」

「金は希望するだけ出すっつってんのによ。」

駄目だ。この人ジョットしか見てない。もう見えないんだろう。横の本人はばつが悪そうに俯き加減だ……。

一番辛いのは誰なのか。ジョット?奥様?俺には判断出来ない。状況はすこぶる悪くなってゆく。

俺すら簡単に外に出られなくなってしまった。反対Gさんは仕事のせいもあるがしつこいパパラッチ達をものともせず、むしろ挑発的な発言をしながら、ジョットの部屋に通い続ける。

 

 

「あいつは阿呆です。」

ある日の夕食、獄寺くんが言った。それまでGさんとジョットのどうでもいい話(Gさんがまた花を贈ってた、とか)をしていたのに空気ががらりと変わってしまう。

「あの方の事を何も考えていない。己の欲を満たしてばかりです。」

……言いたい事はよく解る。

Gさんがいくらジョットとの付き合いを正当化しようとしても無理な話だ。

自身も知っているのに、堂々と振る舞うその姿勢は俺達でも養護出来ない。ジョットだってよくは思ってない。空回りしているように見えるのだけれど、Gさんは恥とも感じない。本当に愛しているから。

「俺、愛を言い訳にしてはいけないと思うんですよ。」

確かに。愛してるから、愛してるから、と言っても相手が不利な立場になってゆくのは頂けない。世間からすれば愛人とされるジョットが悪者だ。

「綱吉さんはどうですか?」

「俺?」

「あの方の一番近くにいるのは、今貴女ですから。」

……ジョットは、俺に愚痴や悪口を言ったりしない。そういう性格なのか、まだ心を許されていないのか。

「辛い」という言葉さえ聞いた事が無いけど、彼女が辛いと言わなくても、辛そうに見える。俺にだって解るんだし、Gさんや獄寺くんだって解ってるんじゃないのか。

ジョットはこれから辛いなんて絶対に言わないだろう。そしてGさんも気付かないふりをする。二人の生活を続ける為に。

「俺はもう、それでいいんじゃないかと思う。」

「不倫なのにですか。」

「二人が決めたんだから、誰にも文句は言えない……。」

ふと、奥様の顔が浮かんだ。あの人は今どんな心境なのか。

「きっといずれ、決着はつくよ。」

「……そう……ですよね……。」

煮え切らない表情をする獄寺くん。ジョットが心配なんだ。

……羨ましい。

「獄寺くん、おかわりは?」

「……あ、いただきます。」

「いっぱいあるから。」

奥様に情が移ってしまうのは、きっと女だから。

 

 

事態に進展、いやその反対があったのはそれからすぐ。

いつものようにジョットの部屋で家事の手伝いをしていると、インターホンが鳴った。掛けていた掃除機を止めるも、ジョットが「私が出る」とマンションの入口と繋がっているテレビ電話を取る。

「あれ?」

「どうしたの。」

「誰もいない。」

寄ってみると、モニターには入口付近しか映っていない。

「Gかな。」

昼間に仕事を抜け出し部屋に来るのは珍しくない。来る前に必ず、連絡なりなんなりするが……。

更にモニターの映像を消したと同時に、ドアの鍵が回る音がした。

「やはりGか。」

合い鍵を持っているのは住んでいる二人と、俺だけ。その筈だ。……なんかおかしい。第六感的なものが働く。玄関に向かうジョットを止めた。

「待って。」

「なんだ?」

鍵が抜かれ、ゆっくりドアが動いている音。かつん、というコンクリートを叩く音。ハイヒールを履いて歩いているような……。

最悪な状況が俺の頭の中で想像された。直感は昔から鋭いとは言われるけれど、今までの問題から多分間違いじゃない。開いたドアからまず見えたのは赤い靴、そして。

「こんにちは。突然失礼。」

予想通り、奥様だった。

奥様は聡明な方だ、合鍵ぐらいすぐに業者に頼み作ってしまうだろう、でもいきなり不倫相手の部屋に乗り込んで来るのはあまりに無計画過ぎた。

「私、Gの妻です。あなたがジョットさん?」

「………はい。」

「よくもまあ堂々としてられるわね。」

靴を履いたまま部屋に上がりドアを閉められる。

そしてすぐ奥様の手が抱えていた鞄に伸び、驚くべきものを取り出した。

「貴女、今私達夫婦が何て言われているかご存知?知らないでしょう!この部屋でぬくぬく飼われているんですものね!」

「奥様!」

きっと奥様は、"それ"の使い方なんて知らないだろう。ただ、ぎゅっと握り締め俺達に向けるだけ。

奥様、それはこんな時に使うものじゃないんです。

「それを仕舞って下さい!」

「嫌!あんたもグルだったんでしょう綱吉!許せない!」

包丁を出され俺は混乱するだけなのに、ジョットは泣きもせず奥様を見つめている。刃の眼の前に立っている。まるで、殺せと言っているみたいに。

「何?余裕とでも言いたいの?脅しじゃないんだから。私はあの人とは絶対別れないし、あんたと一緒にさせない!」

思わずジョットの腕を引きリビングに逃げる。だめだ。ああいう状態の人と、真面目に向き合ってはいけない。

ソファの裏にまで逃げ、ジョットを床に座らせた。その間も、彼女は無表情のままだ。

「しっかりして。ただ事じゃない。」

「………綱吉。」

「はい?」

「私はいつ、死ぬべきだったと思う?」

「何言ってるんですか!」

奥様がゆっくり近付いて来る。頭をフル回転させたが、俺みたいな馬鹿じゃどうこの場を切り抜けるか考えもつかない!

悩んでいると、ジョットが立ち上がり、丁度リビングに入って来た奥様と対峙してしまう。

最悪な事態に陥ってしまったらどうしよう、そんな事ばかり心配してしまって解決策が見つからない。その時だった。

「ごめんなさい。」

「は?」

ジョットが床に伏し、頭を下げ、縋った。土下座だ。

「私のせいです。私が、Gを惑わしたせいです。妻である貴女を傷付け、本当にすみません。」

「な、なんなの……?なんなのよ!謝って何になるの?」

奥様から怒りとも何とも言えないもの湧き出し、体が震えている。手から刃が落ちた。

「もう、迷惑は、掛けません。」

「掛けないって?別れてくれるの?!」

「はい。」

即答した事に、俺の方が驚いた。

『私はいつ、死ぬべきだったと思う?』

……ずっと償う方法を探していたのだろうか。でも、不倫だけで?嫌、獄寺くん達が知っている、俺が知らない「事」も、含まれているに違いない。ジョットが今まで何をしていたかはよく知らない。何をしようとしているのかも。

………この人の幸せって結局何?

Gさんと居ても駄目なら、何が、誰が、ジョットを幸せに出来るというんだ。

「それは、出来ません!」

気が付くと、関係が無い俺が奥様に向かって叫んでいた。

「別れる事は、出来ない、と、思うんです………。」

確かにGさんが勝手過ぎるのもある。奥様の感情を逆撫でし過ぎだ。

彼女が帰った後、本やインテリアが錯乱した部屋を黙って片付ける俺。ジョットはソファの上で呆然としていた。

時刻は既に夕刻。開けた窓から、家に帰る子供達の声が聞こえてくる……。

いつか、こんな日が来ると、Gさんもジョットもそして俺も解っていた。なのに見ぬふりをして、成るわけがない自然和解を望むという甘い考えに溺れ最悪の事態を引き起こしてしまったんだ。

「……綱吉。」

突然ジョットが立ち上がる。その眼は濁りきり暗い。

「私はここを出る。今すぐ。」

「はあっ?」

集めていた花瓶の破片を再び床に落としつつ耳を疑う。逃げるように彼女はリビングから出て、自室に籠もった。

俺も慌てて追うと、荷造りどころか、小さな鞄一つを握っただけのジョットと対面する。ちょうど部屋と廊下の境目。

「待って!」

出口を塞ぐも、ジョットは俺を押し返し玄関へと向かう。着の身着のままとはこの事。これは解決の糸口なんかじゃない、ただの"逃げ"だ!……俺は寸前で彼女の腕を掴む。

「ここからいなくなっても、どうにもならない!」

「離せ綱吉!」

もうジョットの体が、部屋の外に半分出ている。早くGさんが帰って来る事を心底願った。ああ、そう。確かに悪いのは不倫してるあんた達だ。でもこんな終え方ってあるのか?

自分さえいなくなればいいっていう答えが、この世の中で認められるのか。……俺は絶対に認めない。

「話し合いましょう!落ち着いて!」

「話し合う必要なんかない、もう答えは出ている!」

「出てるわけないでしょう!」

抵抗するジョットの手の甲が顔に当たり、思わず掴んでいた右手の力を緩めてしまう。

その隙に、身勝手な彼女は俺から離れ部屋からついに飛び出した。

「ジョット!」

裸足のまま追うも、もう背中は小さくすぐ消えてしまった。どんどん最悪な方向に進んでる。早くGさんに──と電話を掛ける為部屋に戻ろうとした俺に、声を掛ける人がいた。

「綱吉さん?どうしたんです。」

振り向けば、Gさんに似た獄寺くん。手には、いつも買ってきてくれるお菓子の箱。

「何かあったんですか?」

膝を付き手を取ってくれるその行為に、俺は緊張と後悔の糸がぶっつりと切れた。

「どうしよう、どうしよう獄寺くん……!!」

何も知らない彼に縋り、恥ずかしげも無く涙を零す。

もう、なんで、どうして、こうなったのか、防げなかったのか、整理しようとしてもまったくうまく行かない。

獄寺くんの胸の中で泣きながら全てを話した。

「まずGに連絡しましょう。ジョットさんはまだ病み上がりの身ですし、何があるか解りません。」

「う、うん………。」

とりあえず部屋に戻り鍵を締めてから、彼は冷静に携帯電話を取り出しGさんとの連絡を取る。力が抜けたのか、玄関先にぺたりと腰を落としてしまった俺を支えながら。

「……駄目だ、会議中のようです。出ません。」

「どうしよう……。」

「アラウディに連絡しておきます。」

アラウディさんはGさんと長い付き合いの警察だ。あまり関わった事は無いけれど、そこそこ誠実とは聞いている。力になってくれるのは気紛れ、とも。

 

電話をしてから、俺は獄寺くんに抱えられてやっとリビングに戻った。散らかったままのそこは、まさに地獄。

ソファに並んで座り、獄寺くんはぽつりと呟く。

「………来るべき日が来てしまったんですね。」

「獄寺くんも、解ってたんだ……。」

「ええ……。」

彼の手が、そっと俺の肩を引き寄せる。自然な流れで、まったく違和感無く。

「逃げ続けてしまった、ツケです。……綱吉さん、これからあの二人どうなると思いますか。」

何故そんな事を聞くのか。彼が俺よりも長くジョットといたせいなのかは知らない。あまりにも暗く光を感じさせないニュアンスだ。

その理由は言う必要が無い。

「悪い方向にしか……。」

「………ですよね。」

獄寺くんは辛そうな顔をしながらソファから立ち上がる。きっとジョットを探しに行くんだ。

「……俺は、貴方に出逢うまでジョットさんが一番でした。でも好きという感情じゃない。今は、貴方、綱吉さんが一番で愛しているんです。………ややこしいGとジョットさんが、邪魔にも思えてくる俺は最低です。」

「そんな………。」

言葉を塞ぐかのように、キスをされた。強い力で、俺の心を無視して。

「俺は貴方が欲しい!今日、そう告げるつもりでした、でも!こんな………!」

………ああ、今日は何という日なのだろう。最悪にして最低の日だ。

獄寺くんに告白されてとても嬉しいのに、ジョットとGさんの事が離れない。

俺達はこんなにも口付けが出来るのに、あの二人は何をしても交わっても離れたまま。

だが。………俺が女だからだろうか。獄寺くんに思いを告げられ、押し倒された瞬間二人の事が二の次になり、頭の端へ放って自分からキスをねだる。

散らかったリビングで獣になった俺達は、震える携帯電話を見てみぬふりをした。

 

 

Gさんがジョット失踪を知ったのは夜中の事。アラウディさんから来た電話で知ったという。

最低の人間に堕ちた俺と獄寺くんは、翌朝何食わぬ顔をしてGさんと会った。

「俺はジョットを探しに行く、獄寺は俺の代わりを、綱吉は部屋にいろ。」

解りました、と二人で言う。

あの時俺達には確かに達成感というものが生まれていた。Gさんがあんなに焦っていたのに、どこかで優越感に浸る自分がいてひどく後悔する。

もう俺には獄寺くんがいれば良かったんだ。

最後となるGさんの背中を見送ってから、俺と獄寺くんは再び体を重ねる。携帯電話が何度も鳴っても。目の前にいるたった一人の男の人で頭は一杯だ。

ジョットに関わってから、ずっと幸せの事を考えてきた。Gさんとどう幸せになれるか、とか。でもそれは俺が出す答えじゃない。……そう思う事にした。

 

数え切れない淫行に走った後、横で寝ている獄寺くんから離れ、水を飲みにキッチンへと向かった。その途中リビングに放置してあった携帯電話に気付く。

ちかちかと光るので手にとって開けば───ジョットからの着信。

そこで現実に引き戻され、躊躇い無くボタンを押す。都合のいい心配心。

大して待たずに相手が出て、声も聞かず「ジョット!今どこ?!」と叫んだ。

『……街の中だよ。』

「早く戻ってきなよ!」

『………。』

嫌な沈黙。

『綱吉。』

「………なに?」

『どうして今まで出てくれなかった。………獄寺も。』

ぞく、と背筋に冷たいものが走る。ジョットには全て見透かされているのか、と怯えた。

「ジョットが消えて、慌てて……、携帯に気付かなかっただけ。」

『そう………。なあ綱吉。』

「うん?」

静かな、小さな声だ。それに引き換え、電話の向こうが騒がしい。

『………もし、私が───。』

「なに?聞こえない。」

雑音があり過ぎる。反対ジョットの声はどんどん小さくなって、ついには掻き消された。

「聞こえないってば。」

『………………………でもない、切るよ。』

「ジョット!」

会話らしい会話も無く、電話は一方的に切られた。もう一度掛けてみるけど、繋がる事は無かった。

それより、電話が来たのを伝えなければと今度はGさんに電話を掛けるがこっちも繋がらない。きっと死に物狂いで探してるんだろう。

「あ、水………。」

ジョットが何を伝えたかったのか、考える優しさは無かった。

冷たい人間だと思うだろうけれど、俺もただの女だったらしい。

 

 

*****

 

 

「叶わないなら死ぬ、劇的な最後じゃないか。」

次の日俺達は警察にいた。未明、男女が川下で見つかったと。

アラウディさんに安置所まで連れて行かれるまで信じられなかったが、安らかな顔をした二人を見てようやく現実を受け止めた。

二人は笑っているようにも見える。

「………二人だけにしたのがよくなかったと、僕は思うんだけど……君達は止めに行かなかったんだ?」

アラウディさんが言いたい事は解る。

二人にはもっと別の方法があった事。俺達にも考えられた事。

これがGさんとジョットの幸せだなんて、あり得るわけがない。

「ねえ。」

「………。」

「………君達はとても幸せそうに見えるよ。」

「…………すみません。」

──………もし、私が───。

あの電話はきっと最後のものだった。

もっと気の利いた、二人の衝動を止められるような言の葉を俺が持っていたら違っただろう。

獄寺くんは暫くジョットの顔を見ていた。

──私はいつ、死ぬべきだったと思う?

今だと言うのか、貴方は。

 

 

 

……警察署から帰る車の中、獄寺くんは携帯電話を差し出して来た。

「……昨日の夜、留守電が入っていたんです。」

耳に当て、俺は眼を閉じてそれを聞く。

 

『獄寺、今までよく私に付き合ってくれた。………最後だから、あの夜にGと話した事を明かそう。私はあの夜、Gと約束をしたんだ。奥方と遺恨無く別れられなかったら、何かしらの方法でけりを着けようと。でも、私達は解っていたんだ。この方法だろうと。だから私達は楽しんだ。この夜が来るまで………。……なあ、獄寺。もし私が──、殺してと言ったら、殺してくれた?………綱吉にも聞いておいてほしい。…………では、決着をつけるとしよう。』

 

 

 

 

 

 

 

 


 
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