No.225977

康太と愛子と動物園デート

気が付くともう”にっ”が始まる季節になっていたのですね。
ムッツリーニ×愛子も放っておいたことをふと思い出しました。
第三弾です。
とはいえあんまり今までの作品見ておく必要はないのですが。

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2011-07-03 00:25:36 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:7556   閲覧ユーザー数:7170

康太と愛子と動物園デート

 

 

 ムッツリ商会に休日はない。

 土屋康太が代表取締役を務めるムッツリ商会には1年365日休業日と呼ばれるものが存在しない。

 片時も休むことなく営業と商品の仕入れ(被写体に無許可での写真撮影)及び商品に関する情報収集(無許可観察や盗聴など)に明け暮れている。

 それは春休み中とて変わりがない。

 康太は文月高校近くの児童公園で顧客との取引に応じていた。

「今月の新作……自信作」

 康太は顧客…吉井明久に数枚の写真を差し出した。

「おおっ! これこれこれだよ。僕が捜し求めていたのはこれなんだよぉっ!」

 明久は写真を眺めながらガッツポーズを取っている。

「…………っ」

 康太は明久の興奮した様を見ても眉一つ動かさない。クールフェイスを維持したまま。

 しかし内心では自分のマーケティングが間違っていなかったことに安心し、若干の誇りを覚えていた。

 商売においてマーケティング活動は重要であるが、康太は特に市場調査と分析に大きな力点を置いていた。それは売り上げを伸ばす為の経営戦略であると同時に、ムッツリ商会の存続の為の防衛策でもあった。

 ムッツリ商会は文月学園内で無許可で営利活動を行っている非公認事業。そして扱っている商品は盗撮写真である為に商法どころか刑事法に抵触する非合法事業。

 通報されて盗撮又は取引現場を押さえられてしまえば良くて停学、悪ければ退学の上に刑事訴訟が待っている。その為にムッツリ商会では事業主である康太は勿論、顧客にも秘密厳守が固く求められている。

 その結果、康太は事前リサーチ調査を繰り返して問題なしと判断した相手としか取引をしない。

 初めての取引の際には必ず康太の方から個別に話を持ち掛けるのが鉄則。顧客のニーズは事前に調査しておきピンポイントで心に秘めた欲望と合致する商品をサンプルとして無料で提供する。

 顧客は康太の分析力に驚き、賞賛し、自分が丸裸にされている気分となって恐れを抱く。

 欲望を充足してくれる商品の提供と、関係を切ってしまえば自分の秘めた願望が暴露されるのではないかという疑心が、ほぼ100%というムッツリ商会の驚異的なリピーター率を誇る秘密になっている。

 そんな背景により顧客のニーズを掴むことは康太にとっては売り上げの為にも保身の為にも何よりも必要だった。

「ああっ、やっぱりこの学校で秀吉が一番可愛いよぉ~♪ 秀吉専用着替え室で無防備に着替えてる様が堪らないよぉ。これなんかもう少しで全部見えちゃいそう♪」

 屋外だと言うのに写真を見ながら大声で鼻息荒く感想を語る明久。

 そんな明久が不思議でならない康太。

 明久のニーズは以前は多種多様だったが、最近は木下秀吉オンリーになっていた。

 明久の周りには姫路瑞希、島田美波、木下優子、霧島翔子、工藤愛子をはじめ2学年でも指折りの美少女たちが集まっている。

 明久も彼女たちに少なからず好意を抱いている。たまにいやらしい目で見たりすることもある。しかし明久は彼女たちの写真を決して所望しない。

 以前、夏頃に康太が瑞希と美波の写真をサンプルとして提供した時のこと。

『大切な友達を、そんな欲望に塗れた目で見ることはできないよ』

 明久は写真を康太に戻しながら小さく苦笑した。

 その時の康太には明久が何を言いたいのか全く理解できなかった。しかしそれから半年以上が過ぎた今になってようやく半分だけわかった様な気がしてきた。

 康太の部屋に秘密裏に保管されているとある女子生徒専用のアルバム。康太はそのアルバムに収められている写真を売りもしなければ眺めることもしない、いや、できなかった。

 明久も似たような気持ちなのかもしれないと康太は推測していた。

「ああっ、本当に可愛いよぉ~♪ 秀吉ぃ~、今すぐ結婚してぇ~♪」

 その割に何故秀吉の写真に対してだけはこんなにも欲望に忠実なのか全く理解できなかったが。

「…………喜んでくれたのはわかった。で、買うのか?」

 明久の特殊な女性観と欲望の分析はここまでにして本題の商談に入る。

「勿論全部買うさ。で、幾らなの?」

「…………1枚500円。6枚で3000円。だがセット価格で2500円」

「もうちょっとだけ、まからないかな?」

 両手を合わせながら拝んで来る明久。

 その様子を見ながら康太は瞬時に脳の中のそろばんを弾く。

 明久は生活費を躊躇いもなく趣味に投入してしまうタイプ。ムッツリ商会にとっても年間7万円以上の取引額を誇る大切な大口顧客の1人。

 明久を手放すという選択肢は存在しない。

 しかし客商売は複雑である。一度大きな割引サービスを提示してしまうと、今度はそれが値段の基準となってしまう。そうなると価格競争の悪循環スパイラルに入ってしまい結局事業が潰れてしまいかねない。

 ムッツリ商会では撮影用機材の調達、維持、及び印刷用品の調達などにかなりの経費が掛かっている。無茶な値下げは提案できない。

「…………春休み特別セットで6枚2000円。これ以上はまからない」

 康太は必死に脳内そろばんを打ち直し、明久に提示できる最大の割引限度額を提示した。

「うん。それなら!」

 明久は笑顔で財布を開け始めた。しかし、財布の中身を見て表情を引き攣らせた。

「……えっと、今、財布の中にこれしかないんだ」

 そう言って明久が見せたのは、明治の文豪のパチモンくさい肖像が描かれた新千円札が1枚と100円玉が4枚、50円玉が2枚だった。

「…………500円足りない」

 康太は溜め息を吐きながら落胆する。

 明久に現金がない以上買う枚数を限定するか、後日金銭に余裕が生じた時に改めて取引をするしかない。これ以上まけるつもりは商売人土屋康太にはなかった。

「まっ、待ってよ。現金の代わりに新聞屋の勧誘でもらったこれを提供するからさ。足りない分は現物払いってことで」

 そう言って明久は2枚のチケットをジャケットの懐から取り出した。

「…………動物園の、チケット?」

 康太の手に渡されたのは『文月動物園 入場券 大人1人 500円』と書かれた2枚のチケットだった。

「2枚合わせれば1000円のチケットだし、これで何とか取引成立ってしてくれないかな?」

 必死に手を合わせて拝んで来る明久。

 額面だけ考えれば商売としての元手は取れる。しかし──

「…………高校生が動物園のチケットをもらってもな」

 そのチケットは康太にとって微妙なものだった。

 使えばお得なのは間違いない。が、康太は動物園に行きたいとは特に思わない。使わなければただの紙切れ。金券ショップに持っていっても幾らにもなりそうに見えなかった。

「何を言ってんのさ! 今高校生に最も熱いデートスポットと言えば動物園で決まりだよ」

 明久は身振り手振りを用いて今高校生にとって動物園が如何に人気スポットであるかを熱く語った。

 それが明久の思い付きのデタラメ話であることは康太もよく理解していた。本当に大人気ならば自分で使うであろうし。

 しかし、明久は大事な商売相手でもあり、額面上は問題ないので動物園のチケットでもこの際不足分は構わないかなと思うようになっていた。何よりこれ以上の交渉は時間の無駄でしかない。明久にこれ以上の現金は存在しないのだから。

「…………ハァ。わかった。その現金とチケットで商談成立」

 大きな溜め息を吐きながら明久の譲歩案の受け入れを表明する康太。

「本当っ? ラッキー♪」

 明久は財布の中の現金を小銭を含めて全て康太に渡し、代わりに写真を懐へと収めた。その間、僅か2秒。

「ムッツリーニはそのチケットで工藤さんを誘ってあげなよ。きっと喜ぶからさ。それじゃあ僕は葉月ちゃんと遊ぶ約束をしているから。それじゃあまた頼むね~」

 そして言いたいことだけ言うと明久はさっさと公園を走り去ってしまった。この間、僅かに5秒。

 残されたのは何も口を挟めなかった康太。客の身勝手に耐えるのが客商売の基本ではある。が、今回は特に無理難題を押し付けられてしまった。

「…………何故俺が工藤愛子を誘わねばならない? 何故工藤は喜ぶと思うんだ?」

 康太は大きな溜め息を吐いた。

 

 

 康太は動物園のチケットを手に持ったまま自宅を目指して商店街の中を歩いていた。

「…………厄介なチケットだ」

 康太はチケットの使い道について悩んでいた。

 動物園に男2人で出掛けるのはさすがに康太も嫌だった。

 しかしだからといって康太には2人で一緒に遊びに出掛けてくれるような女子の知り合いはいなかった。ただ1人工藤愛子を除いては。

 しかし康太にとって愛子を誘うというのは大きな難関となっていた。

「…………何故俺が工藤と……」

 普通の会話にさえ困る康太にとって女性を自分から遊びに誘うことは難易度が高過ぎる課題だった。

 しかし相手が愛子以外の他の女子であればまだ難易度は下がる。何故なら断られることが予めわかっているので、罰ゲームだと割り切ってしまえばそれで済む。

 しかし愛子の場合はおそらく反応が異なる。愛子の場合はおそらく……

「ムッツリーニく~ん♪」

 愛子に誘いを掛けた場合の彼女の対応を脳内でシミュレートしていたら突然背後から声を掛けられた。

 ビクッと全身を振るわせながら振り返ると、そのシミュレート相手が康太の目の前に満面の笑みを浮かべて立っていた。

「…………工藤愛子。急に出て来て人を驚かせるな。もっとわかり易く存在を示せ」

 愛子の表情を正面から見ているのが後ろめたくて視線を逸らしながら文句を言う。

「いっつもこっそり隠れながら女の子たちの写真を撮っているムッツリーニくんにそんなことを言われるなんて心外だなあ」

 愛子が康太の視線を逸らした先に回り込みながらニヤッと笑う。

 言外に康太がいつどこで盗撮を行っているか全てお見通しと謂わんばかりの口調。

 そして実際に康太の仕掛けた隠しカメラをみつけて没収しているのは大半が愛子だった。その意味で愛子はムッツリ商会の最大の商売敵といえる存在でもあった。

「ねえねえ? ムッツリーニくんはボクのシャワーシーンも撮影したりしているの?」

 言外どころか直接尋ねてこられてしまった。

 興味津々な表情で康太を覗き込む愛子。瞳なんかピカピカ光り輝いて見える。

「…………そんなことはしない」

 康太は首を精一杯横に捻って愛子の視線を避けながら返答するしかなかった。

「ほんとにぃ~?」

「…………本当だ」

 尚も顔を寄せて来る愛子から必死になって首を背け続ける。

「チェっ。残~念。ムッツリーニくんを脅迫する良いネタになると思ったんだけどな~」

「…………おいっ!」

 少しも残念じゃなさそうな顔で笑っている愛子に康太が強い抗議の声を上げる。

「ボクの裸を覗き見た償いに刑務所に入ってもらうか、男らしく責任とってボクをお嫁にもらってもらうか二者択一で迫れたのになぁ」

「…………冗談はよせ。心臓に悪い」

 ムッツリ商会は非公認非合法事業。摘発されれば人生が終わり。

 康太はそれを改めて思い出した。

「冗談じゃないのになぁ。ぶーぶー」

 ぶーぶーと口に出しながら頬を膨らませる愛子。

「…………工藤はそんなに俺を牢屋に入れたいのか」

「どうしてそっちの罰を選ぶのかなぁ? 失礼しちゃうよ、まったくもう」

 愛子は更に頬を膨らませている。

「…………工藤を嫁にもらうのは俺にとって罰にならない……うん?」

 康太は途中で自分が何を口走っているのか訳がわからなかった。

「ムッツリーニくん!? 今の、どういう意味?」

 愛子がやたらと嬉しそうに尋ねてくる。

「…………知るか」

 短くそう答えるしかなかった。

 実際、康太は何故こんなことを口走ったのか自分で理解できなかった。

「ムッツリーニくんって期待させるだけさせて肝心な所でいつも突き放すよね。ボク、上手く釣られちゃったのかなあ? ねえ、ムッツリーニくんはわざとやってるの?」

 愛子がジト目で睨んで来る。それに対して康太は

「…………知るか」

 と再びそっぽを向いて答えるしかなかった。

「…………それで工藤は今日は何の用でここにいる?」

 康太は話の流れを変えたくて別の話題を振ってみた。

 康太と愛子が顔を出くわすのは春休みに入ってから初めてのことではない。特にここ2、3日は毎日のことだった。

「うーん。買い物、かな?」

「…………そうか」

 特に気のない返事。訊いてみたものの女子の買い物には特に興味がなかった。

「……何でそこで簡単に信じて話を打ち切っちゃうかなぁ? ボクがムッツリーニくんのいそうな場所を張り込んでるぐらいに話を引っ張ってくれれば会話が弾むのに。……そしたらボクの気持ちにも気付いてくれるのに……」

 愛子は何かをブツブツと愚痴っているが康太にはよく聞こえない。それ以前に康太は自身の興味のない話に対しては常人よりも遥かに聞き流してしまう。

「ムッツリーニくんこそこんな所で何をやってるの? って、その手に持っているチケットは何?」

 愛子がチケットの存在に気が付いてしまった。

 康太は慌てて隠そうとするがもう遅い。

「動物園のチケット、だよね?」

 愛子は康太のチケットを覗きながら首を傾げていた。

「ムッツリーニくんは動物園好きなの?」

 意外と謂わんばかりに大きな瞳を更に大きく広げて愛子が尋ねてくる。

「…………明久にもらっただけだ。別に興味がある訳じゃない」

「でも、勿体無いから行くんでしょ?」

「…………ああ。だから今一緒に行く奴を探している」

 正直に答えてから康太はまずいことを言ってしまったのではないかと気が付いた。

 案の定愛子はとてもキラキラした瞳で康太を見ていた。

「じゃあ、まだ一緒に行く人みつかってないんだ?」

 愛子の言葉はただの質問。なのに康太は凄いプレッシャーを受けた。

「ボク、明日喫茶店のバイトが休みなんだ♪」

 愛子の言葉はただの予定確認。なのに康太はやはりもの凄いプレッシャーを受けていた。

 愛子はニコニコ顔で康太の言葉を待っている。愛子にそこまでされては康太に残された言葉は一つしかなかった。

「明日、動物園に一緒に行くか?」

 それは土屋康太の人生初の女性への遊びの誘いとなった。

 3月31日、昼ごろのことであった。

 

 

 4月1日午前8時。

 康太は自宅の洗面台の鏡を前にして苦悩していた。

 苦悩の原因、それは昨日の愛子の言葉にあった。

 

 康太の動物園行きの誘いに対して愛子は

『うん。ボクで良ければ喜んで御一緒させてもらうね♪』

 満面の笑みを浮かべながらあっさりと了承してみせた。

 それだけでも女性との交流に慣れていない康太にとっては驚きだった。そして愛子の次の一言が彼を混乱の坩堝へと陥れた。

『ボク、男の人と2人きりで出掛けるの初めてだから緊張しちゃうなあ』

 瞳を僅かに伏せながら照れたように喋る愛子に康太は平常心ではいられなくなった。

『…………待て、これはそんな大層なものじゃない!』

 恥ずかしさが急に心の奥から込み上げて来た。何か言わないといけないのに言葉が出ない。そうこうしている内に愛子は更に気になる一言を康太に投げ掛けてきた。

『明日のデー……お出掛け、ボク、楽しみにしているからねぇ』

「…………っ!?」

 そして愛子は挨拶も交わさないまま走り去ってしまった。

 

「…………工藤のヤツ、まさか今日の動物園行きをデートと勘違いしてるんじゃ……」

 康太を悩ませているもの。

 それは愛子が言い掛けた『デー』という言い掛けで止めた単語だった。

 『デー』という言葉が『デート』を言い掛けでやめたものであるぐらいは鈍い康太でもさすがにわかった。

 しかし何故愛子がその単語を使おうとしたのか。愛子の意図が気になって康太は昨夜ほとんど眠ることができなかった。

「…………俺が工藤とデート? そんなバカな……相手は俺なんだぞ?」

 康太は自分が異性から人気がないことに関しては鈍感ハーレム王明久以上に自信を持っていた。

 性格は暗く、喋りは苦手、考えていることはエロいことばかり。おまけに日課は盗撮。背は小さいし、頭も悪い。更に鼻血の海によく倒れる虚弱体質。

 どう考えても女性に人気が出そうな要素を自分に見出せなかった。それだけに何故愛子が自分に近づいて来るのか理解できなかった。

 それでも知り合ったばかりの頃は保健体育の点数を自分と張り合ってのことだと思っていた。実際に、会う度に保健体育の点数勝負ばかりをしていたのでその推測は間違っていない筈だった。

 けれども最近はそれとは関係のない用件で愛子は自分に会いに来ているのではないか。そんなことを感じることが度々あった。そして実際に最近愛子と会った中で康太は保健体育絡みの話をした記憶がなかった。

 それだけに愛子の行動は不思議でならなかった。

 康太とて、もしかして愛子が自分のことを……と考えたことがない訳ではない。

 けれどもそんな自分に都合の良い妄想は頭を振ってすぐに打ち消した。代わりに愛子は自分をからかっているに違いないと決め付けて掛かる。

 だけどもし自分の都合の良い妄想が事実だとするなら……そこまで考えた所で康太は更に首を激しく横に振って今考えたことを打ち消した。

「…………俺はつまらない人間。一緒にいても面白いことなんかない」

 もし妄想通りだとしたら……康太は自分が愛子に対してどう対処するべきなのかなお更よくわからなかった。

「…………やばい。そろそろ時間だ」

 悩んでいる間にも待ち合わせの時間は刻一刻と近づいて来ていた。

 そして康太が2時間前からずっと悩んでいる具体的な問題はいまだ解決していなかった。

 即ち──

「…………何を着ていけばいいんだ?」

 今日の服装がまだ決まっていなかった。

 康太に異性と2人きりで出掛けたことなどない。何を着れば良いのか全く見当もつかないし、目星を付けようにもそもそもおしゃれと呼べるような服など持っていなかった。

 康太のクローゼットの中は、隠密行動用の特殊スーツしか“フォーマル”又は“カジュアル”な服が存在していなかった。

 結局康太はぎりぎりまで粘った末に、愛子との今日のお出掛けを意識していると思われるのが嫌で薄手のジャケットにジーンズという普段着で家を出た。

 

 

 康太が待ち合わせ場所の動物園入り口に到着した時、愛子は既に到着して待っていた。

 時計台の下に立つ愛子を見ながら時刻を確かめる。約束時間の5分前を指していた。

 遅刻していなかったことに安堵しつつ表情を引き締める。遅刻した訳ではないが康太の方が遅れて到着したことには変わりがない。

「…………スマン。遅くなっ……」

 侘びの声を掛けようと手を上げた所で康太の足と声が止まった。

 愛子の様子がいつもと違うことに気が付いた。

 愛子の唇がいつもより鮮明なピンク色を湛えていた。リップクリームを付けているのだとわかった。

 顔の肌色の艶も普段とは異なって見える。ファンデーションを塗っているに違いなかった。

 愛子はその飾らない性格と水泳部所属という部の性質上、普段は一切化粧の類をしていない。それどころか肌の手入れさえ満足に行っていない為にクラスメイトの霧島翔子や木下優子に怒られている場面を康太は何度も目撃したこともある。

 その愛子が化粧をしている。

 その意味を考えて康太は急に全身が締め付けられるプレッシャーを感じてきた。

「あっ、ムッツリーニく~ん。お~い」

 愛子が元気良く手を振って自分を迎えてくれている。

「…………お、おう」

 対する康太は旧型のロボットのように両手両足を伸ばし切ったぎこちない歩き方で短く返事するのが精一杯。

 自分でも無様だと思いながらぎくしゃくと愛子へと近づいていく。

「えへへへへ」

 愛子は少し照れたように顔を俯けながら小さく照れ笑いを浮かべていた。

 改めて愛子の姿を観察してみると、ピンク色のファー付きコートも膝丈の白いプリーツスカートも初めて見るものだった。

 明らかに普段とは違う愛子がいた。

 その事実に気づいてしまった康太は何を言えば良いのかわからない。何か言わないといけないのはわかっているのだが口から言葉が出て来ない。

 康太は自分の口下手を情けなく思った。

「ねえ、ムッツリーニくん。今日のボク、どうかな?」

 愛子の方に先に質問されてしまった。

 康太は自分を更に情けないと思った。

「…………悪くはない」

 そしてそんな台詞しか吐けない自分を更に更に情けなく思った。

「ムッツリーニくんらしい誉め言葉をありがとうね。でも……はぁ」

 ありがとうと言いながら愛子にはガッカリしたように溜め息を吐かれてしまった。

 そんな愛子を見て康太はどうしようもなく自分を情けなく思った。

「…………さっさと入るぞ」

 康太はいつも以上にぶっきらぼうに愛子に提案した。康太にできることはそれしかなかった。

「うん」

 気を取り直して明るく返事をする愛子。そんな彼女を康太は正面から直視することができなかった。

 心の中でだけ「綺麗だ」と賞賛の言葉を述べた。

 

 

 園内に入って特に目的もなく手前の檻から見て回る。

 文月動物園は規模こそ大きいもののこれといった特徴を有していない平凡な施設。

 特に希少な珍獣が飼育されている訳でもない。サルやマングースなどの動物ショーが開かれている訳でもない。だから回るのに何か計画を立てる必要は全くなかった。

 しかし春休みの最中ということもあってか平日にも関わらず人が割りと多かった。

 そして明久の言う通りに若いカップルたちが動物園をデート場所に選んでいる場合が何組も存在した。気取らずに済みお金も掛からず人も多くない場所という条件が良いのかもしれないと推測した。

 康太はもしかすると自分たちもあのカップルたちと同じように見えているのではないか。そんなことを狐の檻を眺めながらふと思った。

「今日はエイプリルフールだし、ボクをからかっているんじゃないかってムッツリーニくんが来るまで本当はずっと不安だったんだ」

 愛子は眠そうな表情で蹲っている狐を見ながら小さく呟いた。

「そう言えば今日はエイプリルフールか……」

 言われて初めて思い出す。

 昨日の午後から康太は愛子との約束の件以外に何かを見たり考えたりする余裕がまるでなかった。それでエイプリルフールのこともすっかり忘れていた。

「今もね、もしかするとボクの隣にいる人は本当は狐で、ボクは騙されてるんじゃないかなって思うんだ」

 愛子は狐って化けて人を騙すからねと付け足した。

「…………多分、違う」

 康太は少し自信がなさそうに返答した。

「多分って、自分のことなのに?」

「…………昨日から俺はおかしい。もしかすると何か得体の知れないものに意識を半分乗っ取られているのかもしれない」

 康太は大きく息を吐いた。

「だったら、ボクも同じだよ。昨日から、ボクがボクじゃないみたいだよ」

 愛子は手を胸に当てて顔を真っ赤に染めながら空を見上げた。

 その視線の先には雲ひとつない青空が広がっていた。

「…………次の場所に移るぞ」

「……うん」

 康太は恥ずかしさが頂点に達して同じ場所に立っていられなくなった。

 愛子もまた俯きながら素直に康太の後を付いて来た。

 

 2人は無言のままゆっくりと歩いていた。

 くすぐったくて、でも決して嫌ではない感触が康太を包み込む。何かに突き動かされるような、それでいて何もしたくないような相反した衝動が波を打ちながら寄せては返す。

 こんな気持ちになったのは康太の17年の人生で初めてのことだった。

 これからどうすれば良いのか、何を喋れば良いのかまるでわからない。

 康太がそうして混乱状態に陥っていると、前方に見知った一行が見えてきた。

「…………あれは姫路と島田と木下優子。そして島田妹」

 明久を巡ってライバル関係にある4人が一堂に会していた。様子から察するに3人が島田妹を遊びに連れて来ているらしい。

 何故そうなっているのか理由は不明だが、康太と愛子の共通の友人4人がこの動物園に存在していることだけは確かだった。

 その光景を見て康太は頭を捻らせた。

 

1.4人組と合流してみんなで一緒に回る

2.4人とは合流せず愛子と2人きりで回る

 

 1番を選べば康太は全身を支配されている今のむず痒さから解放される。それはわかっていた。自分に代わり誰かが愛子の話し相手を務めてくれる。それもわかっていた。

 そしてこちらから声を掛けずとも彼女たちの視界に入る位置にいれば自然と合流できるに違いなかった。康太にとっては何の負担も生まない選択。

 だから康太が選んだのは──

 

→2.4人とは合流せず愛子と2人きりで回る

 

 2番だった。

 康太は愛子の手を掴むと4人とは逆方向に向かって走り出した。

「き、急にどうしたの?」

「…………いいから走るぞ」

「……うん」

 最初は驚いた表情を見せた愛子だったが、康太に従って大人しく走り始めた。

 2人は手を繋いだまま園内を駆け続けた。

 1番を選ぶのは嫌だった。

 何故嫌なのか理由は詳しく分析できない。けれど、愛子と2人きりの空間を、それが康太にプレッシャーを掛け続けるものであっても自ら壊す真似はしたくなかった。

 何故壊したくないのか康太はその理由を分析できていなかったが……。

 

 2人はコウノトリの檻の前まで来た所でようやく足を止めた。

「…………ここまで来ればさすがに大丈夫だろう」

 後ろを振り返って4人が付いて来ている様子がないことを確認してようやく安堵の息を漏らす。

「何が大丈夫なの?」

 100m以上の全力疾走にもかかわらず息ひとつ乱していない愛子が首を捻る。愛子は4人組に気づいていないようだった。

「…………悪の組織の魔の手から逃れた」

「プッ。何それ。ムッツリーニくんのエイプリルフールの嘘なんだ。アハハハハ」

 愛子は康太の冗談だと受け取ったようだった。だがそう受け取られても康太は構わなかった。愛子と2人きりの時間を守れたのだから。

「そう言えばまだムッツリーニくんにまだきちんとお礼を言っていなかったよね」

 康太がもう一度安堵の息を吐いていると愛子が急に背筋を伸ばし直した。しかしその瞳は地面を向いており康太の方を見てはいなかった。

「あの、ムッツリーニくん。今日は動物園に誘ってくれてありがとう、ね。ムッツリーニくんから誘ってくれるなんて初めてだから、ボク、ちょっと緊張しちゃてるよ」

 愛子の言葉を聞いて康太は自分の体が大きく震えたのがわかった。愛子が俯いてくれていて本当に良かったと思った。

「…………別に礼を言われる覚えはない。緊張する必要もない」

 努めて冷静に言葉を返す。自分の内面の動揺を悟られないように言葉を返す。けれど、次の愛子の言葉は更に衝撃的だった。

「その、ムッツリーニくん。動物園に行くのにボクだけを誘ってくれたのって……これってもしかしてデー……」

 愛子は期待を込めた瞳で康太を見ている。それは学校では見せたことのない表情。熱を帯びた潤んだ瞳を見せられて康太は──

「…………知り合いからここのチケットをもらい、一緒に行く相手を探していたら偶然お前がいた。それだけだ」

 素っ気無く返すしかなかった。

 素っ気無くしていないと自分がどうにかなってしまいそうだった。

 しかし愛子は尚も追撃の手を緩めてはくれなかった。

「偶然でも、ボクは嬉しいよ」

「…………ただの気まぐれに喜ぶな」

 康太は今にも心臓が破裂してしまいそうだった。クールに、クールに装うのに必死だった。

 

「それにしてもムッツリーニくんはコウノトリに興味があったんだね」

 ムッツリーニが己の動悸と戦っていると、愛子は康太から檻へと視線を移した。尾が黒く体が白い、目元に赤いアイリングのある大きな鳥をジッと見ながら呟いた。

「知ってる? 赤ちゃんはコウノトリが運んで来るっていう言い伝えがあることを」

 愛子は康太の反応を楽しむかのようにジッとその瞳を覗き込んで来る。

「…………ヨーロッパの昔の俗説。科学的根拠はない」

 康太はまた目を逸らしながら素っ気無く答えた。

 保健体育に人の何十倍も情熱を燃やす康太にとって性知識における間違った言い伝えはどうにも面白くないものがあった。

「科学はないけどロマンがあってボクは良いと思うけどね。ホント、ムッツリーニくんは頭でっかちな理論派だよね」

 愛子はクスッと小さく笑った。

 事実を述べただけなのに酷い言われ様だと思った。何と言い返すべきか頭を捻っているその時だった。

「それとも、ムッツリーニくんは科学的に正しい子供の作り方をボクに教えてくれるのかな?」

 愛子が康太の手を握る。そしてとどめとなる一言を放ってきた。

「勿論、実技でね♪」

 愛子は康太の顔を見ながらニヤッと笑った。

「…………実技…………ブッ!?」

 康太は鼻血を吹きながらその場に頭から仰向けに倒れた。

 

 

「ムッツリーニくん、ごめんってば。まさか鼻血出して倒れるなんて思わなかったんだよ」

「…………うるさい」

 1時間後、康太は売店脇のベンチに腰掛けながら不機嫌オーラを全開にしていた。康太は完全に不貞腐れて愛子から顔を背けて話を全て突っぱねていた。

「うっうっ。ムッツリーニくんが全然口をきいてくれないよぉ」

 愛子は完全に困り顔になっていた。ちょっと泣きそうになっている。

 ムッツリーニが大量の鼻血を噴き出して倒れた後、救急車を呼ばれずに済んだことは本当に幸運だったとしか言いようがなかった。

 周辺に人がいなかったこと、康太が普段着で来た為に輸血用パックがジャケットの中に携帯されていたこと、愛子は一般の女子よりも力持ちで保健体育の知識に精通していた為に康太を物陰に運び込んで輸血することができたなどの要素が重なって大騒ぎにならずに済んだ。

 しかしそうは言っても康太が公共の場で鼻血を吹いて倒れたことには変わりがない。康太はその原因を作った愛子に対して完全にへそを曲げていた。

「そりゃあボクだってムッツリーニくんをからかったことは反省してるよ。でも、あの程度の言葉ぐらいで今でも倒れちゃうなんて……」

 愛子の声は尻すぼみにはなっていった。しかし愛子は愛子で康太の反応に対しても不満があるようだった。

「……だけどあんまりムッツリーニくんが純情過ぎると……お付き合いしたり……結婚した後に困っちゃうよぉ……子供なんか一生無理かも……ボク、2人以上欲しいのに……」

 愛子の不満は声が小さすぎて康太には聞こえなかった。

「とにかくムッツリーニくん、もういい加減に機嫌直してよ。この通りだからさ」

 手を合わせて拝んでみる愛子。しかし康太は子供のように頬を膨らませたまま。実際康太の性格は子供と表現した方が説明できる部分が多かった。

 愛子は大きく溜め息を吐いた。

「もうお昼だし、とりあえずお昼にしようよ」

 愛子の提案を聞いて康太はスッと立ち上がった。

「あの、ムッツリーニくん?」

 康太は売店に向かって大きく足音を鳴らしながら歩いていく。

「お昼ご飯なら、さっきのお詫びにボクが……」

「…………見くびるなっ!」

 愛子の言葉はムッツリーニの大きな声により途中でかき消された。

「…………今日誘ったのは俺の方だ。そして俺は男だ。だから俺が奢るのが当然だ」

 康太は愛子に背を向けたままそう言い放った。強い口調だった。

「ムッツリーニくんって意外と古風な男女交際観を持ってるんだね。あ、あはは…」

 康太の背後から愛子が力なく笑う声が聞こえる。

「…………で、メニューは何がいい?」

「ムッツリーニくんと同じのでいいや」

 軽く溜め息を吐きながら愛子が答える。康太はその言葉を聞くやズンズンと売店に向かって歩いていく。

「やっぱりボク、まだまだムッツリーニくんのことをよくわかってないんだなぁ。もっとよく知らないとダメだよね。うん、がんばろ」

 愛子の決心は康太の耳には届いていなかった。

 

 

 昼食が終わり午後の見物を再開する頃になってようやく康太の機嫌は直ってきた。

 結局康太の機嫌を直したのは愛子の言葉ではなく時間の経過だった。

「はぁ~。ムッツリーニくんの胸に響く言葉って何なんだろう……先は長いよぉ」

 反対に愛子は若干落ち込み気味であったが、康太にはその原因がよくわからない。

 2人は少し微妙な空気を漂わせたまま、愛子の希望もあって象の檻の前に立っていた。

 2人の目の前にはインド象よりも更に一回り大きなアフリカゾウが比較的広い柵内を優雅に歩いていた。

「ボクはね、動物の中で象が一番好きなんだぁ」

 愛子は象が鼻で水を掬い上げて頭に掛ける様をジッと眺め続けていた。

「…………何故?」

 まさか下ネタかと思いながら康太が尋ねる。愛子ならば十分にあり得ると思った。

「ボクはね、象ののんびり大人しい雰囲気が好きなんだぁ」

 愛子は大きく両腕を使って背伸びをしてみせた。

「…………そうか」

 愛子の答えがごく普通のものだったことに安堵する。

 しかし同時に愛子の回答に対する反論が沸き上がって来る。

「…………だが、象がのんびり大人しいというのは間違った認識」

「え~何で~? 今もこんなにのんびりしてるよ~」

 愛子も唇を尖らせて康太の意見に反論を唱える。

 視線を交錯させ火花を散らす2人。

 康太と愛子は元々保健体育の解釈を巡って意見が対立することも多く、口論自体は頻繁に発生していた。そして今回もまた口論が過熱していった。

「…………象の気性は荒い。動物園系統で飼育員の事故が多い動物のトップクラス」

「でも、世界には絵を描く象や、観光用に人を背中に乗せて歩く象がいっぱい紹介されてるよ」

「…………アジアゾウは比較的気性が温厚で人にもなれ易いと言われている。けれど、アフリカゾウは強暴で人には懐き難い」

「ムッツリーニくんはこの目の前の大らかな象を見てもまだ気性が荒いなんて言うの? それにちゃんと飼育されていれば人間ととっても仲良しになれるんだよ」

「…………工藤は自分の見たい一面だけを強調しているにすぎない」

「それはムッツリーニくんの方でしょ!」

 白熱する口論。

 先ほどからのすれ違いも背景にあってか2人の口調はいつもより激しい。

 そして2人は保健体育のスペシャリストではあるが象の専門家ではない。なので議論は漠然として抽象的な領域を少しも出ない。

 その為に議論を重ねても互いに得るものは少なく感情だけがヒートアップしてしまう。

 こうなると口論の結末は無意味さを悟り歩み寄りによる妥協か喧嘩別れしかなくなる。

 康太と愛子はそのどちらも選択しなかった。過熱し続けながら議論をやめようとしない。際限のない空炊き状態へと陥ってしまっている。

 普段の学校での口論の場合は、木下優子や霧島翔子、島田美波といった面々が間に入って仲裁してきた。木下優子の場合は文字通り両者に水を掛けて頭を冷やさせる行動もしばしば取った。

 優子の行動は確かに行き過ぎたものであった。しかし、それでも引くことを知らない2人を止めるには良い方法だった。そして康太たちは無意識の内に誰かが強制的に止めてくれることを前提にして口論し続けるようになっていた。

 しかし今日は2人きりで出掛けている為に彼らを止めてくれる者はいない。水を掛けて頭を冷やしてくれる人物が存在しない。

 と、そんな所に1頭のアフリカゾウが2人へと近付いてきた。

 口論を続ける2人は巨大生物の接近に気付かない。そして巨象はいがみ合う2人に向けて柵越しに鼻から水を一気に吹き出した。

「きゃッ!?」

「うぉッ!?」

 象は高い知能を持ち、人間を識別することができると言われている。また人間の感情にも敏感であると考えられている。

 象は康太と愛子の険悪な雰囲気を感じ取り2人に対して水を吹き掛けた。それは象にとってみれば危険な雰囲気を放っている者を排除する為の行動だったのかもしれない。

 しかし2人にとってみればそれは文字通り水を差される行動となった。そして象がもたらしたものは単なる口論の仲裁に留まらなかった。

「わわっ!?」

 愛子は康太よりも多く水を浴びて前のめりによろけた。

 そしてそこには滑らないように足を踏ん張って立っている康太がいた。

 愛子は康太を巻き込んで倒れてしまう。

 身長は162cm、体重は40kg台前半と女性のような体格の康太では愛子を支えきることはできなかった。

 2人はもつれ合いながら重なり合って倒れる。

 そして──

「「うぷっ!?」」

 愛子が上になって康太を押し倒す形になり、2人の顔が重なっていた。

 2人の唇が重なってしまっていた。

 それ、即ち────────

「「…………っ!?」」

 2人の声にならない悲鳴が口論終了の合図となった。

 

 

 象の檻前でのハプニングの後、康太は自分がどうやって時を過ごしたのかよく覚えていなかった。

 同じ場所で呆けていた気もするし、園内を意味もなくグルグルと回っていた気もする。

 しかしただ一つ確かなのは、気が付くと斜陽が差し込む夕暮れ時になっていたという時間の経過だけだった。

 康太はたっぷり3時間以上は精神喪失状態が続いた計算になる。

 それは幾らあの想定外のハプニングがあったとはいえ恥ずかしいことだと康太は考えた。

「…………工藤、帰るぞ」

「あっ、うん」

 まだ意識がぼんやりしているらしい愛子の肩を軽く叩いてから出口に向けてゆっくりと歩き出す。

 愛子は俯いたまま康太の後ろをトボトボと付いて来る。昼前に園内を駆け回っていた元気さは今の2人のどこにもなかった。

 康太は無言のまま退門ゲートを潜り抜けていく。

 今日の動物園行きは一体何だったのだろうとふと考えたのはゲートを出てから100mほど歩いてからのことだった。

「ねえ、ムッツリーニくん?」

 康太が今日という日を考え直そうとした所、先に声を掛けて来たのは愛子の方だった。

「…………何だ?」

 赤色陽光を浴びて立つ愛子の表情は康太にはわからない。でも、わからない方が良いという予感がしていた。

「……さっきのあれ、私のファーストキスにカウントして、良いかな?」

 愛子の顔が見えなくて本当に良かったと康太は内心で胸を撫で下ろした。そうでなければ自分がどうなってしまっていたのかわからない。

「…………ダメだ。あれはキスには入らない」

 康太は首を横に振った。

「…………あんな事故をカウントしたら工藤、お前が不幸になる」

 女子にとってのファーストキスが如何に大切なものであるかは明久と美波の一件を通じて康太もよくわかっていた。あの時は個人レベルを超えてクラス間の試験召喚戦争にまで問題が発展した。

 愛子にとっての初キスが何を意味するものであるのか康太にはわからない。けれど、重要なものであることには変わりがないと思った。

 だからあの事故をキスとして認めることは愛子にとって重い十字架を背負わせてしまうことになる。それが康太の考えだった。

 けれど、そんな康太の考えに対して異議を挟んだのは愛子の方だった。

「確かにあれ自体は事故だったかもしれない。けれど、デート中に起きたハプニングであることを考慮に入れるべきじゃないかな?」

 愛子は今日はじめてはっきりとデートという単語を使った。

「…………デートっ」

 その単語は康太の心を激しく揺さぶった。

 自分にとって曖昧な意味だった2人きりでのお出掛けを愛子はデートと言い切った。

 即ち、愛子はそういうつもりで動物園に来ていたことになる。

 それに思いが至って康太は──

「…………あれはキスじゃない」

 あの事故をキスと認めることを重ねて否定した。

「…………あっ」

 そして康太は気が付いた。

 あの事故をキスだと認めないのは愛子の為だけではないと。

 愛子はあの事故をファーストキスだと認めることにむしろ積極的な姿勢を示している。

 にもかかわらず自分は認めることを拒否している。

 即ち、ファーストキスだと認めたくないのは自分自身に理由があると。

 しかし、自分の何があれをファーストキスだと拒んでいるのか康太には理解できない。

 自分がわからない。

 康太は自分の両手を見ながら大きく瞳を見開いた。

「……じゃあさ、あれはただの事故でも良いから……ファーストキスのやり直し、してくれないかな?」

 そんな混乱状態の康太に対して愛子は更に踏み込んで来た。

 愛子が至近距離から顔を覗き込んで来る。

 今まで陽光のせいで見えなかった愛子の表情が露になる。

 真剣で、必死で、泣きそうで、それでも希望に縋りたい表情で胸の前で指を組みながら康太を見ていた。

 愛子のその想いの強さは、重さは康太にもよくわかった。

 よく、わかり過ぎてしまった。

 だから──

「…………やり直しには応じられない」

 康太はその想いを受け止めることができなかった。

 康太はただ、目の前の現実から、愛子から目を逸らした。

「……エイプリルフールの冗談だよ」

 愛子は康太から1歩離れて言った。

「やだなあ、本気にしちゃって」

 愛子は2歩下がって笑顔を見せた。

 けれど、その笑顔はすぐに崩れた。

「あれっ? 何でボク、泣いちゃってるんだろ? 泣く理由なんて何もないのに」

 手で拭っても拭っても愛子の目から涙が落ちてきていた。

「急に、花粉症に掛かっちゃったのかな? あの、ボク、今日はこれで帰るね」

 そして愛子は顔を手で押さえたまま康太の前から走り去ってしまった。

「…………待て、工藤……っ」

 康太がその言葉を発したのは愛子が視界から見えなくなってからだった。

 愛子の姿が見えなくなるまで康太の足は動かず、口さえも動かせなかった。

「…………俺は一体、何をやってるんだ? 何がやりたいんだ?」

 康太は激しく舌打ちした。

 胸の中をザラザラとした気持ち悪い何かが蠢いて止まらない。

「…………俺は、どうするべきだったんだ?」

 康太の問いに答える者は誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 


 
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