「そうじゃないと、一体、何度言えばわかりますの!?」
部屋の中に袁紹の怒鳴り声が反響する。
「ご、ごめん……」
俺が今日この台詞を言うのは、何回目だろうか?
「猪々子でもここまで出来が悪くありませんでしたわよ」
あうっ……それは少しへこむかも。
「全くっ! わざわざ、このわたくし直々に読み書きを教えてあげているというのに、一向に上達しませんわねぇ」
本当に申し訳ないです。
「じゃあ、もう一度初めからいきますわよ」
袁紹はそう言うと、筆を砂の上に走らせていく。
紙は貴重品な為、書き取りの練習には、この木箱に砂を敷き詰めた物を使う。これならば、何度失敗しても、砂をならせば新たに書くことができるというわけだが、
俺の書き取りの失敗による物的損失は無くとも、教える側の袁紹の精神は、そうもいかないようだった。
今度こそ失敗しないため、袁紹の筆の動きを見逃すまいと、必死になって目で追う。
袁紹に謁見したあの日から、早一ヶ月が過ぎ、その間俺は、小間使いとして部屋の掃除や食事の準備など、侍女の方々に混じって働いていた。
一人暮らしの経験が活きたのか、仕事を覚えるのは、さほど苦に感じなかったが、
広い敷地にはそれだけの多くの人がいて、多くの人がいるということは、その人の数以上の雑務があるということ。
さらに、女性ばかりの職場に男手が一人しかいないとなると、必然的に力仕事の全てが俺に回ってくるため、身体を酷使することも多かった。
働き始めた頃は、仕事が終わると、即ベットに倒れこみ朝を迎える……なんてことが、しょっちゅうだった。
小間使いとしての忙しい日々に少し慣れてきたある日、俺自身のことで、とんでもないことが判明する。
それは、斗詩の部屋に掃除に行った時のことだった。
部屋に入ると、斗詩はその整った眉を寄せて、竹簡と睨み合っている。
斗詩のそんな顔を見るのが珍しく、聞いてみると、住民からの陳述について書かれたものだそうだ。
よほど難しい案件で、正常な判断ができなかったとしか思えない。斗詩は、俺の意見を聞かせて欲しいなんて言いだした。
俺のような素人が、意見しても良いのかと聞くと、“未来人の視点からの意見を聞いてみたい”とのことだった。
俺の意見なんぞが役に立つのか、はなはだ疑問ではあるが、無下に断るのもどうかと思い、竹簡を覗き込んだのだが……何が書いているのか、さっぱり読めない。
“分からない”ではなく“読めない”のだ。
言葉が通じているので、気にも留めていなかったが、俺はこの時になってようやく、文字が読めないということに気付かされた。
あの時の気不味い雰囲気ときたら……思い出すだけでも顔が赤くなる。
斗詩は気を遣って、“大丈夫そんなに落ち込まないで”と言ってくれたが、あの優しさがかえって辛かったなぁ……。
――さん――ほんご―さん
ん? 何かが聞こえてくる。
「ほんごうかずとぉーーー!!!」
「は、はいです!?」
俺の耳元で発せられた咆哮が、鼓膜を震わせると同時に、俺を現実に引き戻す。顔を上げると――、
(あばばばば……)
怒りで身体を震わせながら仁王立ちしている袁紹の姿。その憤怒の形相たるや、あやうく椅子から転げ落ちる程だった。
「おやおや? 授業中に上の空でいられるほど、あなたは優秀な生徒だったかしら?」
諭すような言い方と表情がまるで一致していないのが、もの凄い怖いです……。
「いえ、出来損ないです……」
「だったら、せめて人の話を聞いておくぐらいは、できて欲しいものですわねぇ?」
「はい、すいませんでした。以後このようなことがないように気をつけます」
ただひたすらに頭を下げ続けた。
こめかみに青筋を立てている袁紹に謝罪しながら、“やっぱり斗詩に教えて欲しかったなぁ”と、俺は思わざるをえなかった。
実は、読み書きを教えて欲しいと斗詩に頼み込んだのだが、軍事の仕事や猪々子がさぼった事務仕事の処理があり、俺に読み書きを教える時間が取れそうにも無いと、やんわりと断られてしまった。
断られた俺がよほど情けない顔をしていたのだろう、
“自分が教えることはできないが、代わりの先生を……”と、慌てて紹介してくれたのが、この袁本初さまだった。
謁見の時に少し話しただけだが、教師に向いていなさそうな性格の袁紹で大丈夫なのか? と、尋ねたが、斗詩曰く俺の心配は無用だそうだ。
心配ないと言い切れるその根拠は、斗詩も猪々子も袁紹から読み書きを教わったからだとか。
一抹の不安を抱えながらも、斗詩の口添えもあり、袁紹先生の個人授業を仕事の空いた時間に受けることになった。
そして今、この個人授業を通してわかったことが二つある。
自分のインスピレーションは割りと正確だったということ。そして、斗詩が袁紹大好きお馬鹿ということだ。
今後、斗詩の袁紹に対する評価は、鵜呑みにしないことにしよう。
美少女と密室に二人っきりという、健康優良な男子からしたら、大変おいしいシチュエーションにもかかわらず、胸がトキメクようなイベントが起きる気配が一切ないとは、どういう事だ?
責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。
「だいたい、小間使いに読み書きは必要はないでしょうに」
俺が入れたお茶を飲みながら、袁紹が不満げに呟いた。
確かに、口頭伝達で事足りる小間使いの仕事に読み書きは必要ないだろう。
(けど、それじゃあ駄目なんだ)
あの日、猪々子と斗詩に保護してもらえるよう頼んだ時に“未来の知識を役立てる”と、二人に約束した。
……現在(いま)を必死に生きている人達を踏みにじる、汚いやり方だと思う。
だけど、命を助けてくれた猪々子と斗詩、俺を保護してくれると言ってくれた袁紹の恩に俺は報いたかった。
そりゃ、今の小間使いの仕事でも、彼女達の助けにはなっているだろう。
だが、黄巾党の動きは、この一月の間にますます活発になり、猪々子と斗詩はその討伐に何度も出撃している。
猪々子や斗詩が戦場で命を張っている間、俺は安全な城の中で二人の帰りを待つだけ。
そんな自分が情けないと思うと同時に、彼女達の力になりたいと、二人の背中を見送るたびに思っていた。
しかし、俺が真っ当なやり方をしていたら、武将や文官として表舞台に立つまでに何年もかかってしまうだろう。
たとえ卑怯な方法でも、凡庸たるこの俺が三国志の世界でやっていくには、“未来の知識”これに賭けるしかあるまい。
未来の知識を使い、巧く立ち回れば軍師になれる! とまで大言を吐く気はないが、彼女達のバックアップぐらいならできるはずだ。
そうなると、斗詩に意見を求められたあの時のことが悔やまれる。
(あそこでビシッと意見を言うことが出来れば、俺を売り込むチャンスだったのに……)
って、過ぎたことを悔やんでもしかたがないか。頭を切り替えて、今はただ勉強あるのみ。
バックアップにしろ、軍師になるにしろ、文字ぐらい読めないとお話にならないぞ。
(あぁ、こんなことになるなら、古典の授業もっと真面目に受けとけばよかったなぁ)
まぁ、三国志の世界に飛ばされるのを想定して、事前に古典を勉強している奴なんて不可能だろうけど……。
「袁紹、ごめん。もう一度頼むよ」
「はいはい、わかりましたわよ……」
湯呑みを置き、俺の近くに来る袁紹。
斗詩の言っていたことも、あながち間違いではないかな? 教えようとする熱意が伝わってくるのは、袁紹が良い先生だという証拠だ。
「あのさ、袁紹に聞きたいことがあるんだけど?」
「なんですの?」
こうやって、読み書きを教えてもらうようになってから、疑問に思っていたことがある。いい機会なので、ここで聞いてしまおう。
「袁紹って暇なの?」
「……それはわたくしに対して喧嘩を売っていると、そう捉えてよろしいのかしら?」
「ごめんなさい。ぼくの言い方が悪かったです。お願いだから、刀の柄に手をかけないでください」
即、袁紹に土下座して、言葉のすれ違いを正すと、どうにか怒りを収めてくれた。
ほんと、この国の人間って、血の気が多いよなぁ。
「袁紹ってこの国の領主様だろ? 俺から頼んでおいてなんだけど、
よくよく考えたら、忙しくて俺に読み書きを教える時間なんて無いじゃないのかなぁ? って、思ったからさ」
「あら? そんなことはありませんわよ。
わたくしぐらい高貴で知的な人物になると、誰かに文字を教えるぐらい、たいして手間にもなりませんから」
読み書きを教えるのに生まれは関係ないだろと、ツッコミたいが、首を落とされかねないので、自重しておこう。
「それに部下が優秀ですから、わたくしがやらなければいけない仕事なんて、ほとんどありませんわ」
確かに、猪々子と斗詩は優秀だと思うが、あまり二人に頼り過ぎるのもどうなんだ? 俺が袁紹流の仕事への取り組み方に疑問を抱いていると、
「麗羽さま、今よろしいでしょうか?」
部屋の外から、斗詩の声が聞こえた。
「斗詩さん? 入ってもよろしいですわよ」
「失礼します。あ、一刀さんも一緒でしたか」
斗詩は、俺と目が合うと会釈した。
「どうかしましたの?」
「はい、先ほど朝廷からの御使者の方がみえましたので、その報告を」
朝廷から……この時代の都って洛陽だっけ?
「朝廷からねぇ。はっきり言って、嫌な予感しかしませんけど。……それで? もう控えの間に待たせていますの?」
ん? 袁紹、気乗りしていないみたいだけど……何でだ?
「はい。ですから、お早くお願いしますね」
「はいはい。そんなに急かさなくても、今行きますわ」
斗詩に急かされ袁紹は、気だるそうに椅子から立ち上がる。
「あ、麗羽さま。一刀さんも連れていってもいいですか?」
「はぁ? 北郷さんを?」
斗詩の申し出に袁紹は驚いているが、俺の方がびっくりだよ。なんでまた、俺を連れていくんだ?
「はい、少し確かめたいことがありまして……構いませんか?」
「……まぁ、大人しくしているなら別に構いませんけど」
「ありがとうございます、麗羽さま」
俺と斗詩は袁紹の後ろに付き従い、玉座の間へ移動し始めた。
その間、斗詩の横顔をそっと見ると、少し疲れが出ているようだった。
それも当然だろう。なにしろ、賊の討伐に事後処理と斗詩は働き詰めだ。疲労が溜まらないわけがない。
「斗詩、最近働き過ぎなんじゃないか?」
「大丈夫ですよ、これぐらい。それより、一刀さん勉強の方は進んでます?」
俺の聞き方が悪かった。斗詩の性格なら、どんなに無理していても“大丈夫”と言うに決まっている。
「紹介してくれた先生が優秀なんで、ぼちぼちね。
それよりも、斗詩の体調が心配だよ。ちゃんと寝てるか? 目の下にクマができてるぞ」
「一刀さん、女性にそういうことを面と向かって言うのは、失礼ですよ?」
む……確かに今の発言は、デリカシーに欠けていたかもしれんが……。
「茶化す――」
「それより一刀さん。分かっているとは思いますが、謁見中は無礼のないようにお願いしますね」
“茶化すなよ”と言葉を続けるつもりが、斗詩に話を逸らされてしまった。
「分かってる。俺は黙って、置物のように突っ立てればいいんだろ?」
斗詩は頷く。
「それだったら、俺は行かなくても平気なんじゃないの?」
「そういうわけには、いきません。一刀さんがあの村で言った“予言”の真偽を確かめないといけませんから」
斗詩の言う“予言”ってのは、アレだよな? 黄巾党の討伐令が、朝廷から大陸各地の諸侯に下されるっていう、俺の知っている三国志の歴史。
「けど、使者が来たからって、俺の言ったことに関連する要件で来たとは、限らないんじゃ?」
「いえ。この時期に朝廷からわざわざ使者が来るなんて、それ以外の用件ではありえないと思います。むしろ遅すぎるぐらいです」
なるほど。黄巾の連中と戦ってきた本人がそう言うのだから、まず間違いないだろう。
そうなると、気になることがある。
「俺の言った“予言”が外れていたら、ここから叩き出す……ってのは、ないですよね?」
恐る恐る斗詩に尋ねてみる。
「さぁ? どうでしょうねぇ~?」
「ちょ! 何なの、その含みのある言い方!?」
斗詩は笑っているが、俺には洒落にならないんですが……。
「そんなことより、まもなく玉座の間に着きますから、お静かにお願いしますね」
(そんなことって……俺にとっては、正に死活問題なんですけど?)
一難去ってまた一難。こっちの世界に来てからどうしてこう、綱渡り人生なんだ?
朝廷からの使者は、冥界からの使者になるかもしれない。そんな陰鬱な気持ちを抱えたまま、俺は玉座の間に入った。
あとがき。
まず、言っておきたいことがあります。
『名家一番!』を読んでくださっている方、そしてコメントをくださっている方、本当にいつもありがとうございます。
こんな大事なことこそ、前回のあとがきで言うべきだったんでしょうが、すっかり頭から抜け落ちていました……。申し訳ありません。
誤字脱字の報告、ご意見・ご感想・ご批判は、いつでもお待ちしております。これからも、『名家一番!』と作者をよろしくお願いします。
さて、第9話いかがだったでしょうか?
拠点イベントなの? って、ぐらいに話が進んでいませんが、実は結構重要な回だったり……。
一刀の考えている事が、大なり小なり今後の物語の進展、そして一刀自身に影響します。
どんな風になるかは、この作品に付き合っていただけたら、いずれ分かる……はず。
文字の読み書きができないは、麗羽さまとの絡みと、一刀の凡人っぷりを書きたかったからです。
馬賊出身の猪々子と斗詩も多分、こんな感じで麗羽さまから、教わってたんじゃないかなぁ~と、色々と妄想しながら、書いていました。
次回は、袁家以外の恋姫キャラが出ますので、お楽しみに。
ここまで読んで頂き、多謝^^
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第9話です。
今回から本編なわけですが、全然話が進んでいない……。
よろしければ、今回もお付き合い下さい。