大地に雄叫びが波状していく。馬が大地を蹴るたびに地は揺れ、大気は熱気に包まれていき、それは兵士の士気を向上させる。甲高い金属音がぶつかり合い、鮮血が地表や人間に返り血として飛散する。赤はすぐに黒となり、すべてにまとわりつく。ただこの戦場でそんな事を気にする人間など存在しない。
「我が名は程遠志! 恐れぬ者はかかってこい!」
槍を天に掲げて名乗りを上げたのは黄巾賊の将軍だった。顔面に刻まれた数多の傷が幾多の戦場を駆け抜けた歴戦を語る尊厳を放っていた。だが裏を返せば常に拮抗した状態でしか勝利を得ていない辛勝だ。そこに圧倒的な状況もなければ、もちろん結果もありはしない。
それでも戦の経験が少ない我が兵は程遠志には勝てない。傷の一つを負わせるのが関の山といったところか。
「なら俺が相手しよう! 義勇軍明星の頭首、陰だ!」
礼儀として名乗りを上げて程遠志の前に踏み出した。
「ほ~う、いきなり頭首か……おもしろい!」
頭上で槍を大車輪させながら馬の横腹を踵で蹴った。そのタイミングに合わせて俺も馬を前進させた。
「もらった!」
大車輪からの横撃が馬上の俺にめがけて振りぬかれる。空を切る音が鼓膜を揺らせ、それが槍の位置を教えてくれる。視線を程遠志から外すことなく、槍を避ける。頭でなく体を狙えば一撃を入れる可能性はあっただろうに、一撃で仕留めようと頭を狙った浅はかな考えが敗北の引鉄となる。
互いの馬が交差する瞬間、剣を振りぬいた。程遠志の体は斜めにずれ、半身を失った状態で馬から落下した。その隣には程遠志の愛馬が首なし状態で絶命しており、少ししてから首は上空から雨のように降ってきた。
「て、程遠志様がやられた! に、逃げろ~!」
将軍の死は下がりつつあった黄巾賊の士気にとどめをさした。武器を捨てて四方八方に逃げ出す賊たち。
「逃がすでない。この場で殲滅するのじゃ!」
軍師の聖は全兵に命令を下した。漆黒の明星兵は気力のない賊兵を絶やしていく。僅か百人しかいない明星に休めるほどの余力はなく、その殲滅は俺と聖も参加して殲滅にあたった。
完全勝利……には程遠い結果かもしれない。完全とは死者はもちろん、負傷者も出ずに相手を殲滅して勝利を手に入れたことを言う。我が明星は前者をクリアしていても後者は存在する。いや、負傷者だけで済んだのだから喜ぶべきことなのだろう。
「主、曹嵩たちの軍がきよったぞ」
遠方から大所帯の軍勢が近寄ってきた。曹の軍旗が靡かせ、軍勢に参加する将軍クラスの人間をほとんどに認識があった。
「助かったわ、翡翠。貴方が援軍を斃してくれなかったら敗北していたかもしれかったわ」
「勘違いしないでください。俺が貴方がたの為に戦ったとでも思っているのですか? もし、そうなら片腹痛い」
未だ母親面をする曹嵩に声を荒げてしまった。
「落ち着かれよ、主。瞳孔が開いてるのじゃ」
怒りのあまり瞳孔が開き、眼球に刻まれた十字架の全体があらわになっていた。
「そ、そうね。私は貴方を救うことができなかった。でも、それは貴方が――」
「非があると言いたいのですか?」
曹嵩の口上からかぶせるようにその後に続く言葉を紡いだ。図星だったのか、曹嵩は黙り込む。
誰に責任がある? 自分に非がないとは思わない。家臣を黙らせるほどの成果と努力を提示すれば打開できたかもしれない。だけど、
「悪いのは貴方でも曹操でも家臣でも時代でもない。すべての非は俺にあると貴方はそう言いたいのですか!? 確かに自分の努力が足りなかったかもしれない。だが、それ以前にその機会さえ根絶やしにした貴方だけには俺を非難する権利はない」
長年の鬱憤が口から出続ける。これまで我慢してきた思いが爆発する。憎悪によって染まった感情が深淵の扉を開けて姿を見せ始め、俺の感情を見つけては言語へと具現させてくる。紙一重の所で踏みとどまっていた理性を闇へと誘っていく。指先でも触れればもう戻ってこれない。貝殻のように深淵に閉じこもり、光を浴びることが不可能な状態へと陥ってしまう。それだけは避けなければいけない。だが一度砕かれた錠を再生させるのは容易いことではない。僅かな光を纏う理性が闇を遮るが、長くは持ちそうにない。
そんな時だった。
「堕ちてはならぬぞ主」
聖の声とぬくもりが手を伝って全身の憎悪を扉の向こう側へと押し返していく。青空をたゆたう雲のように緩やかに和らいでいく。人のぬくもりが、温かみを芯から感じたのはいつ以来か、自分自身の闇と戦闘を繰り広げている中でそんなことを考えていた。
「ありがとう、聖」
「礼には及ばん。家臣として当然のことをしたまでじゃ」
そっぽを振り向いた聖には笑顔が浮かんでいた。素直に相手のお礼を受け取れないのは、聖もまた不器用な人間だということを示していた。仙人でも聖は一人の少女だ。
「翡翠様、大丈夫ですか?」
「大丈夫かよ、旦那?」
聖の背後から顔を出してきた枢と壬が心配そうに声をかけてきた。
「もう大丈夫だ。心配してくれてありとう」
礼を述べてから、蒼天を見上げて大きく息を吸う。深呼吸は精神を安定させるのに有効な手法の一つだ。幼き頃もこの手法で何度も救われたことか。
視線を蒼天から再び眼前の軍勢に向ける。憎悪で視界が狭くなっていたことで、曹嵩の隣で視線を送ってくる一人の存在に今のいままで気づかなかった。
「お久しぶりです、兄上」
「まだ俺を兄と呼ぶか……。曹操、お前には兄は存在しない。昔も現在も未来もだ」
「では、私の前にいる貴方は何者なのですか?」
「俺は義勇軍の頭首、陰だ。あの日、許昌から出たあの日にすべて捨てた。真名以外はな」
姓も名も字も捨てたが真名を捨てなかった理由、それは本当の両親が与えてくれた最初で最後の宝物だったから。顔も名前も知らない両親との唯一の繋がりだった。
「私は兄のように簡単に割り切ることなどできません。いつか兄と肩を並べて笑える日が来ることを願ってしまうのです」
純粋な光を見たと思った。例えるなら太陽。これが王。生まれつき、天命が王と示した者だけに与えられる光なのだと悟った。そして、俺には到底及ばない領域に曹操がいることを理解した。
「叶わない願いは自分を苦しめるだけだぞ。俺とお前が剣を交えることはあっても、手を取り合う日は一生こない」
これは予想でも予言でもない。近い未来に必ず訪れる事実である。
「兄上………………」
どれだけ言葉を紡ごうが上辺の会話に何の意味があるのか、俺と曹操は互いにそのことを理解した。
曹操たちと別れて数刻して野営に入った。肉体的にも精神的にも体力を著しく消費していた俺は深い眠りについた。
そんな闇夜、軍師にして仙人の聖は危惧していた。紙一重の世界で往来する翡翠の存在を。今回は自分の声が届き帰還できたが、次は必ず帰還できるとは限らない。
「そうさせないのが私、いや……家臣たちの役目か。本当に手間のかかる主じゃ」
言葉とは裏腹に聖の表情は晴れていた。一切の迷いなし。生死を永久に翡翠と。聖の決意は簡単に壊せない硬化なものとなった。
Tweet |
|
|
30
|
2
|
追加するフォルダを選択
情報によって賊の砦に赴いた先に戦をしていたのは曹家だった。