No.189078

思いの織物(前編)

小市民さん

国際協力機構により、日本の首都圏に招かれたタンザニアの子供達を主賓に、上野公園の奏楽堂でミニコンサートが開かれることになりました。翔和女子学院中等部二年生の鷲尾衣音(いお)は、このコンサートにバイオリン奏者として出場するように頼まれますが、断ってしまいます。衣音の真意を知った校長は……
皆さん、お久しぶりです。小市民の短編小説をお届けします。またまたモデルがバレバレですが、まあ、創作と言うことで、はい。

2010-12-11 11:50:06 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:641   閲覧ユーザー数:623

 北品川の御殿山にある翔和(しょうわ)女子学院の質素・倹約を旨とする校長室には、重苦しい沈黙が流れていた。

 窓からは、土曜日の半日授業を終え、陸上部の部活動に励む生徒達のはつらつとした声が届いている。

 校長の乾(いぬい)美智子が、中等部二年生の鷲尾衣音(いお)を校長室に呼び出し、執務机の前に置かれたソファをすすめ、明日、行われるミニコンサートにヴァイオリン奏者として出場してほしい、と懇望したところ、衣音は首を左右に振ってしまったのだった。

 明日の日曜日、上野恩賜公園内にある奏楽堂で、タンザニアから子供達を招き、ミニコンサートを楽しんでもらうボランティア活動がある。

 これは、JICAと呼ばれている国際協力機構が、開発途上国の発展に協力する日本の援助活動の一環だった。

 従来のインフラ整備、教育、保健、災害や戦争の復興支援にとどまることなく、被支援国の子供達に、自国の将来に明確なビジョンをもたせることを目的として、先進国のあり方を体験させようと計画されたもので、既に六回目と実績を重ねている。

 元々、日本は島国であることから、発展途上国の国民の受け入れに、政府は否定的だったが、一九八〇年以降に実現した中国残留孤児の肉親捜しを先例とし、外務省の肝いりで一回当たり、発展途上国の子供達十名から十五名を招待し、四泊五日程度の日程で、首都圏での社会見学が行われるようになったのだった。

 この支援活動に、東京私立中学高等学校協会をとおし、各校それぞれに特色をもつ都内の私立学校が、持ち回りで楽器演奏に優れた生徒を選出し、持ち時間十分から十五分程度の室内楽を演奏するというプログラムが組まれている。

 翔和女子学院では、ヴァイオリン演奏に優れた高等部三年生の馬場環奈(かんな)と妹尾芽生(めい)を選出し、ヨハン・セバスチャン・バッハが残した三曲のヴァイオリン協奏曲のうちの一曲である「2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調BWV1043」を演奏させる予定だったが、妹尾芽生が昨日の体育の授業中に左手首を傷め、診察に当たった整形外科医から出場を禁止されてしまった。

 校長の乾美智子は急遽、代役を立てようと、生徒のデーターベースを検索してみると、中等部二年A組の鷲尾衣音が、四歳のときからヴァイオリンを始め、楽器の製造・販売メーカー大手のヤマキ楽器の子会社であるヤマキ音楽教室が主催したコンクールで、優秀な成績を多く修めていることが解った。

 十四歳の衣音の人並み外れた才能の陰には、母親の裕実(ゆみ)が帝宝音楽大学ヴァイオリン専攻を優秀な成績で卒業し、京浜交響楽団に入団して活躍していた。

 しかし、長女が生まれたことから退団し、次女の衣音とともに手がかからなくなったころ、ヤマキ音楽教室にヴァイオリン講師として就職し、衣音に英才教育を与えている、という環境があった。

室内楽部や吹奏楽部のない翔和女子学院に、これだけの適材が、しかも中等部に埋もれていたとは意外で、すぐにクラス担任を介して衣音を校長室に呼んだものの、まさか出場を断られるとは思ってもおらず、美智子は茫然としたのだった。

 美智子と同席していた馬場環奈も、もはやここまでと、顔を覆って泣き出してしまった。美智子は一層、冷静に、

「ね……ねぇ、鷲尾さん、どうして出場してくれないの? このお仕事は、とても意義のあることで、鷲尾さんのスキルアップにも十二分な……」

 衣音の将来に欠かせない体験であることを強調したが、衣音は俯いたまま、

「……だからなんです……ママが……母が、衣音は下手くそなんだから、母の許しがあるまで音楽教室主催の発表会やコンテストは出場してもいいけれど、コンサートなんてもってのほかだって……」

 蚊の鳴くような声で、ようやくに峻拒する理由を語った。美智子はやっと事情が飲み込めた。

 察するに、裕実は衣音を早くからコンサートに出場させ、生で伝わる聴衆の反応がさっぱり、という挫折を味わわせたくないと考えるあまり、「下手くそ」という思慮のない言葉で次女を傷つけ、自信も、自主性も、社交性も奪い取ってしまったのだった。よくある事例だった。

 美智子は、平成の天皇・皇后陛下が結婚した昭和三十四年生まれで、当時、流行した名をつけられ、今年五十一歳と私立学校の校長としてはいささか若い。

 五歳年上の兄が、父に倣い、東京大学の教育学部に進んだときは、家族の誰もが、母が校長を務める翔和女子学院で教鞭を執ることを志してのことと思っていた。

 ところが、兄は「お嬢さん学校の教員などまっぴらだ。俺は、親父と同じように教育を学問として学びたかっただけだ」と言い出し、やはり父と同じ文部省に入職したのだった。

 こうした兄に対し、美智子は父と兄同様に東京大学の教育学部を出た後は、すぐに母校でもあり、家業でもある翔和女子学院で教員となった。

 学年主任にまで進んだとき、女性が社会で最も活躍する二十代後半を見据え、逆算した教育を行うよう、単なるお嬢様学校から方向転換を図ったのだった。

 具体的には、大手企業とタイアップし、新商品の企画・開発を行うなど、学校授業と将来の仕事を結びつけるカリキュラムを頻繁に組んでいる。

 こうした特色は、多くの支持を集め、入学希望者が増えた。教頭となった美智子は、講演会の依頼も増え、著書の執筆の話しまで持ち込まれ、既に三冊が送り出されている。

 こうした著書もただ、女子校の利点ばかりを強調するのではなく、共学の長所・短所、公立と私立の長所・短所も客観的に説き、成長過程にある男児、女児の性差まで大脳生理学の視点から解説している。

 こうした詳細な記述は、子育てに行き詰まりを感じている父兄から好評を集めた。

 多忙な日々を送る最中、先代の校長を務めていた母が急逝し、思慮する暇(いとま)も与えられず、美智子は新校長に就き、丁度、一年が過ぎている。

 ふと、衣音がぽつりと口を開いた。

「一つ年上の姉まで、わたしのヴァイオリンを『下手くそ、下手くそ』って怒鳴るし、小学一年生から五年生までは、学校であった本当に些細なことまで母に言いつけられて。それで、わたしは中学は私立に行くことにしたんです」

 家族間の問題も打ち明けた。

 年齢の近い兄弟姉妹は、我こそが母に認められる存在になろうと、互いのあら探しを始め、告げ口を繰り返し、いわゆる点数稼ぎをする。

 それも行き過ぎると、プライバシーを暴露されているような誤解を招き、、互いに不信を抱き、家庭崩壊に繋がる。

「明日のお仕事だって、引き受けたいけれど、どうやって日曜日に制服を着て、ヴァイオリンを持って、家を出るんですか? 必ず母に怪しまれ、姉が後をつけてきます」

 衣音が思い詰めた表情で言った。

 美智子は、半べそをかいた衣音と環奈ににこりと笑い、

「それなら、わたしが鷲尾さんのお母様を騙してしまいましょう」

 自信満々に言った。衣音と環奈は校長が一体、何を始めるのかと、思わず顔を見合わせた。

 美智子はソファから立ち上がると、執務机の上に置かれたパソコンのディスプレイに表示させておいた衣音の電子身上書から、裕実の携帯電話番号を調べ、電話をかけた。すぐに裕実が出ると、

「鷲尾衣音さんのお母様でいらっしゃいますか? 私、翔和女子学院の乾でございます」

 明るい声で衣音の母親と話し始めた。衣音ははらはらとして校長と母の会話を聞いていると、

「ええ、明日の日曜日、お嬢さんに校長室の仕事を手伝ってほしいと思いまして。いいえ、大したことではありません。古い会議資料をシュレッダーにかけたり、私立協会や私学審議会へ提出する書類を整えていただいたり、という事務作業です。

 いえいえ、本当に大丈夫ですよ、お嬢さんはパソコン操作がお得意なのですね。優れたお嬢さんなのですから、お母様ももっと自信をもって、たくさんお嬢さんを褒めて、伸ばしてあげて下さい。

 子供は母親が褒めるだけで、大人が想像もしなかった才能を末広がりに伸ばして行くんですよ」

 美智子はさりげなく裕実の子育ての問題点を指摘したかと思うと、不意に厳しい口調になり、

「そうそう、明日は必ず、制服で登校させて下さい。それから、携帯電話は持たせないで下さいね。校長室でのお仕事ですから」

 衣音を制服で出かけさせ、裕実からは連絡を取らせないようにさせる必然性をぶち上げた。次いで、美智子はすっとんきょうな声を上げると、

「あら、お嬢さん、ヴァイオリンを忘れて帰ってしまいましたわ」

 目の前のソファに衣音と環奈が座っているにも関わらず、まるで誰もいないかのようなことを言い出した。

 これによって、衣音が明日、ヴァイオリンを持って登校する姿を家族に見られることはなくなったのだった。

 美智子は衣音に黙っているようにと、右手の人差し指を口に当てると、

「明日のお仕事を終えたとき、持たせましょう。私が改まって校長室へ呼び出したりしたものですから、お嬢さんをすっかり緊張させてしまったんですね。本当に申し訳ありませんでした。それでは、明日はよろしくお願いいたします」

 裕実の質問を許さぬようにと、一方的に通話を終えた。預かっている生徒の父兄を騙すなど、教育者としてあるまじきだったが、嘘も方便であった。

 美智子が不敵に笑うと、それまで半べそをかいていた衣音と環奈はけらけらと笑い出した。衣音は、ソファから立ち上がると、

「あの……あの、わたし、明日はがんばります! よろしくお願いします!」

 美智子と環奈にぺこりと頭を下げた。

 美智子は、衣音の姿を見つめ、本当に素直な子に育っているのに、裕実の育て方は残念であり、明日のミニコンサートが衣音にとって、より良い結果に繋がるよう、祈る思いを胸に抱いた。


 
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