No.187691

ビスクドールの心(後編)

小市民さん

信濃町にある慶應義塾大学病院のリハビリ病棟に、温志と真結は2体のビスクドールを届けます。美しい人形たちと再会した真結の曾祖母は……
くどいですが、劇中に実在する団体、個人名がいくつも出てきますが、あくまで創作としてお楽しみ下さい。
ところで、真結と温志が慶應病院に美奈子を訪ねたとき、正門からすぐに病棟へ舞台が変わっていますが、これは巨大病院のどこがリハビリ病棟かまで取材出来なかったからです。物騒な世の中ですから、はい。
したがって、病棟内の描写は他の医療機関を参考にしています。また、認知症の治療法に関しては、実際に看護婦から裏付けをとっています。それなりに努力した作品です。ご感想をお待ちしています!

2010-12-03 11:11:44 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:676   閲覧ユーザー数:657

 三日後の放課後、交通の激しい信濃通りを挟み、JR信濃町駅と向き合った慶應義塾大学病院を訪れると、真結は正門に温志の姿を探した。

 温志はすぐに見つかったが、相変わらず、だらしない身なりで、先日、旧前田侯爵邸で真結を怒らせたことには、何らこだわる素振りもない。真結はどうにも釈然とせず、

「どういうつもり? まさか、わたしをからかっているんじゃないでしょうね?」

 険しい目で質すと、温志は冷静に、

「からかってなどいない。気が変わっただけだ。ほら」

 右手に提げた紙袋からリーサを取り出して見せた。真結は凝然として目を見張った。

 リーサは、美意子が所有していた十二年前と全く変わらず、人肌を再現した華麗なオールビスクドールで、フリルがふんだんにあしらわれたベージュのワンピースの上に、深紅のベストを着ている。

 五頭身で創られていたが、人形には適切な頭身で、違和感がない。

 ボブと呼ばれるショートヘアには人毛が用いられ、顔の彫りは深く、欧米人の上流家庭の子女を思わせる上品な顔立ちで、相当な技量を身につけた人形師の作であることが、素人目にも明らかだった。温志は、

「レイを見せてくれ」

 リーサと対で創られた人形を所有する真結に言うと、真結も紙袋からレイを取り出した。

 グレーの瞳を凝らすように可憐に開いたリーサに対し、レイは何事か考え込むように目を伏せ、ウイッグは同じボブながらも、わずかにウエーブがかかっている以外は、寸分の違いもない。

 双子という設定ながら、微妙な変化も与えた秀作であった。

 温志と真結は、互いのもつ人形に、しばし、目を奪われた。

 

 慶應義塾大学病院は、大正九年に慶應義塾大学によって設置された一千七十二床を有する大学病院だった。

 こうした伝統もあり、優れた業績を多く残しているが、団地のごとく建ち並ぶ建物は真新しく、どの病棟も明るく、和やかな空気に包まれている。

 こうした中で、認知症患者の治療に当たるリハビリ病棟の開放感は際立っている。

 壁には、スタッフが撮影してきた季節や動物の写真の他、習字、塗り絵、写生など患者自身の手になる作品が多く掲示されていた。

 これは、雰囲気づくりというよりは、後天的な脳の器質的障害により、知能低下を起こした患者の治療の一環として、薬物療法以外に軽作業をとおし、手指を積極的に動かすことにより、脳に刺激を与え、症状の進行を緩徐させることが目的だった。

 しかし、日中の散歩などで昼夜のリズムを整えることも有効であるが、車椅子での生活者も多く、介助のためのスタッフまで揃えきれないという現実もある。

 また、思い出の品や写真を患者の手元に置き、安心させる回想法も効果があるとされている。

 この治療法を聞いた真結が、リーサとレイを美奈子に見せてはどうか、という提案を病棟の看護師にしたところ、病棟師長と担当医師に承諾されたのだった。

 病棟ともナースステーションとも呼ばれる看護師の詰め所で、温志がリーサを、真結がレイを、五十を過ぎたばかりながら沈着冷静な病棟師長に見せると、そもそもビスクドールというものを知らない看護師やリハビリの療法士が美しい二体の人形に驚嘆の声を上げた。

 病棟師長は丁度、回診のために居合わせた三十半ばの担当医師に小声で二言、三言伝えると、担当医師もリーサとレイの存在感に目を見張り、温志と真結にうなずいた。

 病棟師長は、ナースステーションの窓辺で車椅子に乗り、焦点の定まらない瞳を雲の流れに向けていた老婆の細い肩を叩くと、

「ほら、酒井さん、リーサとレイがお見舞いにきてくれたよ」

 努めて明るい声を美奈子にかけた。

 美奈子は病棟師長の言葉を解しかねたのか、きょとんとした顔で振り返った。その瞬間、温志と真結が抱いたリーサとレイにばったりと目が合った。

 美奈子は愕然として、車椅子から腰を浮かせ、

「……あ……」

 うめくような声をもらせたかと思うと、

「……あ……あ!」

 リーサとレイを見つめ、声を上げて泣いた。それまで、まるで生気のなかった瞳に生き生きとした輝きが宿った。それは、双子の姉と着物の着付けや日本独特の礼儀作法を教えるハクビ総合学院の運営のため、昼夜の区別なく忙殺されていた副学長のまなざしであった。

 まぎれもなく、二体の美しいビスクドールが、認知症患者を救ったのだった。

 声を上げて泣く美奈子の周囲で、スタッフが一人、二人、また一人と温志と真結に拍手を送り始めた。

 若い二人は、頬を赤くして顔を見合わせると、スタッフに返す言葉もなく、俯いた。

 

 慶應病院にほど近い明治神宮外苑の歩道では、秋の澄んだ陽を受けながら、黄に色を改めたイチョウの葉が舞っている。

 温志と真結は、傾いた陽射しに目を細めながら、当てもなく歩いていた。真結はふと立ち止まり、長身の温志の顔を見上げると、

「ねえ、一つだけ解らないことがあるの」

 問いかけた。温志は、

「何だ?」

 相変わらずぶっきらぼうに言うと、真結はむうっと不機嫌な顔になりながらも、

「どうして、井伊先輩は突然にリーサをリハビリ病棟に預ける気になったの?」

 温志は、イチョウの葉が舞う空を見上げ、

「昨日、リーサの声を聞いたんだ。美奈子とレイに会いたい、病棟に預ければ、壊されることはない、と言っていた。

 普段、意識していないが、一人一人に平等に、公平に心があるように、物にも心がある。

 そうした物の心を大切にしたい、と思ったんだ。簡単に言うと、愛着だな。おかしければ笑っていいぞ」

 ……物の心……真結にとって、それはレイを美奈子に譲られ、十年近く経ても、想像すら出来なかった一言だった。

「ううん、信じる。わたしもいつか、レイの声を聞いてみる」

 真結は呟いたが、温志の耳には届かなかったのか、さっさと歩いて行く。真結は温志の背に、

「あんた、ぶっ壊れているよ!」

 怒鳴ると、温志はくるりと振り返り、

「褒め言葉にとっておいてやる」

 都心で見る壮麗な秋の深まりの中で、静かに微笑んだ。(完)


 
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