No.181098

恩師からの伝言

小市民さん

新進気鋭の女性日本画家、小森のぞみが日比谷公園で老師、大道遍(あまね)から伝えられた一言は……
お久しぶり、小市民の短編をどうぞ。
ところで、今作の登場人物は、誰をイメージしたか、すぐに解っちゃいますよね。まあ、解らなかったことにして、創作としてお楽しみ下さい。

2010-10-29 19:27:19 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:582   閲覧ユーザー数:549

 A3版のスケッチブックを抱えるように左手で支え、右手でB2の鉛筆を紙面に走らせていた。

 間もなく、幼い男の子が興味深そうに手許を覗き込んできたが、すぐに怯え、走り去っていった。

 いつものことだった。小森のぞみは気にも留めず、習作を描く作業を続けた。

 今日のように天気のよい日は、アトリエにこもっているよりも、日比谷公園の噴水に面したベンチに腰を下ろし、手を動かした方が仕事が進む。

 のぞみは、帝国芸術大学で日本画を専攻し、更に大学院に残って、日本画研究で博士号を取得して、既に五年が過ぎていた。

 女性としては希有な経歴だったが、その作風も大衆向けとは言い難い。

 白いニットのワンピースにカーディガンといった清楚な出で立ちで、初秋の柔らかな陽射しを受け、しぶきを白銀にきらめかせる都民の憩いの場を利用し、のぞみが描いているのは、小暗い森の中で、着るものも奪われた全裸で、やせ衰えた若い母親が、同様の幼い女の子を膝に座らせ、何の肉ともつかない赤い固まりを食べさせている、という作品であった。

 周囲には、飢えた野犬が集まり、母子にどう猛な目を向けているものの、幼女は嬉しそうに赤い固まりをむさぼり、母親は娘を笑顔で見つめている。

 ここ十数年来、のぞみが描く作品は、こうした「無力」「女性」「恐怖」「絶望」「悲嘆」などをテーマに、絹本に岩絵の具を用いて描く日本画ばかりだった。

 のぞみが修めた人体解剖学は、整形外科医顔負けで、あまりの生々しさにマスコミは「痛覚を描く女絵師」として、頻繁に取り上げている。

 のぞみ自身、取材を受けている間、自然な笑顔が出るようになったのは、つい最近のことで、それまでは言ってしまえば、形態反射であった。

「やあ、がんばっているね」

 不意に、のぞみの傍らに初老の男性が座った。老人は、高級注文紳士服に長身を包み、真っ白になった髪を七三で分けている。杖は持っていない。品位のある佇まいからすぐに立場のある人と解る。

「大道先生」

 のぞみは驚き、腰を浮かせ、傍らに散らかしてしまった自分の荷物をまとめた。

 初老の男性は、帝国芸大で学長を務めながら、シルクロードをテーマとして数十年に亘り、奈良の大寺院の堂宇の壁画を日本画で飾り、文化勲章を受章するなど、日本画家としては最高権威である大道遍(だいどうあまね)その人だった。

 大道は、石油精製、石油製品の販売で資源のない日本の産業の一翼をになう旭光興産の創始者の家系に生まれたが、父方累代の「家業」に頼っても、冷や飯食いの三男坊では、父親と兄貴達に顎で使われるだけ、と絵描きの道を早くから志し、成功した苦学の人であり、のぞみには恩師以上の存在であった。

 大道は気さくに笑い、

「あはははは、君の仕事の邪魔になっちゃいけないよな、いいよ、続けてくれよ」

 愛弟子に言うと、のぞみは苦笑したが、大道に覗き込まれていたのでは、手の動きも鈍る。

 思えば、のぞみの生い立ちは悲惨であった。

 実の父は一体、どうしたのか、のぞみが物心つく頃には、台東区谷中の片隅でひっそりと暮らす母子家庭にいた。

 そうした家庭に、チンピラ風の男が入り込んできたのだった。のぞみは当初、養父か継父と思っていたが、弁当屋のパートで働く母の収入を当てにした男は、昼夜問わず酒浸りで、母とのぞみに身体的暴力を振るい続けた。

 のぞみが中学へ進むころには、性的暴力も常態化していた。

 谷中は、震災や空襲を免れた古い町並みが続き、下町人情があったが、家庭内のことを他人に話すのは恥、という母の考え方のため、のぞみは相談相手はもてなかった。

 こうしたのぞみが中学三年生になった年の夏、丸の内にある旭光興産の本社ビルの一部を用いた旭光美術館で「九相図展」が開かれた。

 「九相図」とは、屋外にうち捨てられた人の死体が、次第に朽ちていく経過を九段階に分けて描いた仏教美術の絵画で、日本では鎌倉から江戸時代にかけて制作された。

 展覧会は、京都の寺院に伝わっている文化財を一堂に集めたもので、のぞみは理屈抜きに強烈に引きつけられた。

 入場料も払えぬのぞみが、会場へ無理矢理入り込もうとしたものの、すぐに美術館の職員に制止されてしまった。

 このとき、偶然その場に居合わせ、既に帝国芸大の学長に就いていた大道遍が、

「あ、いいんだ、その子、俺の姪だよ」

 自分を「俺」と気さくに言い、のぞみのどこか日本人離れし、東南アジアの女性のような黒目がちの瞳の奥に将来を感じ取り、口添えをしてくれたのだった。

 これを契機に、大道は、のぞみにとっては神のような存在となった。

 警視庁を通じて酒乱の男をのぞみの家庭から遠ざけたばかりか、お茶の水にある上流家庭の子女ばかりが通う私立女子高校への進学についても相談に乗った。

 のぞみの合格発表があった夜、のぞみの母が手をついて礼を言うと、大道は、

「俺なんか大したことしてないよ、特待生に認められたのぞみちゃんがすごいんだ」

 のぞみの頭をなでくり回し、笑った。

 のぞみも母と大道の期待に応えようと、学業に励み、日本では最も権威がある帝国芸大に進むことが出来た。

 今にして思えば、旭光興産の顧問弁護士を介していたのだろうし、大道が帝国芸大の学長に就任していたのも、開講時、発起人の一人が旭光興産の創始者だったという繋がりもあったのだろう。

 しかし、高校進学の際、のぞみは初めて自分の戸籍を目にしたのだったが、そのとき実父は既に亡く、養父か継父だとばかり思っていた男は、実は法律的には何の関係もなかった事実を知ったとき、身体的にも性的にも暴力を受け続けてた年月が、大きな傷となって、心に深く刻みつけられたのだった。

 自らの生い立ちと、「九相図」によって、自分の作風を得たのぞみの人生は、揚々としたものとなった。

 女性としては、日本では初めて博士号を得、顧客は日本の商工界の著名人ばかりであったが、のぞみの生い立ちに共感した若い女性からの支持も絶大であった。

 国際的な賞の受賞も続き、今年の春から夏にかけ、パリでの個展も成功させられた。

 それでも、インターネット上では、「不気味な絵ばかりを描く変な女」「猟奇作家の代表格」といった中傷があるのも事実であった。

 のぞみはA3のスケッチブックのページをめくり、何の肉ともしれぬ赤い固まりを頬張る幼女の笑顔だけを描き直した。

 野犬に取り囲まれ、もはや次の一瞬には、自分と母が野犬の餌となることが明らかである分、幼女の表情は見る者に悲壮感をかき立てる。

「君の卒論を読んだとき、俺は、一つだけ、君に伝えたいことがあったんだ。今、言ってもいいかな?」

 不意に、大道は、改まり、ぽつりと言った。

 のぞみは、大道に作品の欠点を指摘されるのかと思ったが、そんなことは大学と大学院に在学中は日常茶飯事であったから、今更、臆することなくうなずいた。

 大道はひたとのぞみの瞳の奥深くを見つめると、

「君は、卒論に自分は幼いときから、性的暴力を日常的に受け、それが今日の創作に反映している、と書いたね。それがいい、悪い、と言いたいんじゃないんだ。

 たださ、君は養父か継父だと思っていた人物は、実は家族でも何でもなかった。単なる通りがかりだった、といっても言い。

 そうした人物への恨み、憎しみ、辛みが今日の日本画家としての自分を支えていることになる。

 それは、女性という自分とおかあさんの根本的なものを否定して生きていることを意味している。それでは、いつか、破滅する日が必ずくる。それでは、あまりに悲しい」

 のぞみの精神が遠からず崩壊することを告げた。

 のぞみは、それのどこが悪いのか、と感じたが、大恩ある大道の言葉を否定することは出来ず、黙っていると、大道はゆっくりと言葉を継いだ。

「こう考えたらどうだろう。

 博士号を得、マスコミや商工界の名士たちに注目され、ファンも多い。海外にも進出を始めている今日の自分の存在を成り立たせているのは、他でもない、あの人物であったのだと。

 そう考えれば、憎くて、辛くてたまらなかった人物は君の心の中から、たちまちに消え去り、恩人が現れることになる」

 のぞみは、言葉を失い、目を見開いた。

 十八年以上もどうにもならなかった心の中の問題が、瞬時に解決されたのだった。

 人の心とは、客観的な事実は変えられずとも、生涯、背負っていかねばならぬような大きな不幸も、とらえ方をわずかに変えることによって、尊く、かけがえのない価値あった出来事へと変化させることが出来るのだった。

 のぞみがいる日比谷公園は、幕末までは佐賀鍋島家、萩毛利藩などの上屋敷が置かれた地であり、明治時代は軍用地となっていた。

 その後、近代化を急ぐ日本の官庁街として整備される計画があがったが、地盤が軟弱で、庁舎の建設には不向きということから、明治36年に日本初のドイツ式洋風近代式庭園として開園した。

 この地は、官庁街としては役立たずとされたが、都民の憩いの場として今日がある。

 どこか、のぞみの経歴と重なっていた。

 言葉を失い、俯いたのぞみに、大道は、

「いや、これは余計なことを言っちまったかな。ジジイの戯言だよ、気に障ったら許してくれよ。それに、今の君の作風が消えちまったら、ファンもがっかりするよな。あはははは」

 気さくに笑った。

 のぞみは、ぽたりぽたりとスケッチブックに涙を滴らせた。

 手間ばかりがかかる日本画を描き続けることで、何ものかに復讐でもしているような歳月から、解放されたのだった。のぞみは、大道に何か応えなければ、と顔を上げたとき、既に恩師の姿はなかった。

 替わって、肺炎で急逝した大道の命日の三日前である2009年11月12日までのスケジュールがびっしりと書き込まれた手帳が、ぽつんとベンチの上にあった。大道の忘れ物であった。

 のぞみは傍らのルイ・ヴィトンのバックからパールピンクに彩られた携帯電話を取り出すと、大道の未亡人に電話をかけた。

「ええ、今、先生がいらっしゃいまして。手帳をお忘れになり……はい、先生の一周忌のお参りもさせていただきたいし、お宅にお届けしたいと存じまして……」

 のぞみは、恩師の手帳を胸に押し抱き、未亡人に言った。(完)


 
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