No.179594

祖先がきたみち

小市民さん

両親と姉に、そして職業に対して行き詰まりを感じている篤(あつし)が増上寺の安国殿で見たものは……
皆さんお久しぶり、小市民の短編をお楽しみ下さい。
さて、今回のお話は、2010年10月16日の出来事です。妙に細かいのは、安国殿の落慶法要の翌日、という設定だからです。「将軍家系図」の存在は知っていましたが、前日に物語を思いつき、小市民が訪ねたのが法要の翌日でした。いやぁ、不思議なご縁ってあるんですね。

2010-10-21 20:57:50 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:494   閲覧ユーザー数:468

 交通の激しい日比谷通りに沿って建つ、三戸楼門、入母屋造、朱漆塗造の三解脱門は見応えがある。

 三縁山広度院増上寺が、江戸初期に大造営された際の唯一の遺構だった。

 父に倣い、休日には、都内近郊の名所、旧跡をインターネットに接続したノート型パソコンを片手に、訪ね歩くことを習慣としている篤(あつし)は、いつかは歴史小説を書く志を抱き、専門学校へ進みたかったが、両親の強い説得で、私立大学で経済を学び、浜松町に本社を置く総合出版社に編集者としての職を得て、既に四年が過ぎていた。

 その間、他人の原稿を誌面にレイアウトし、装丁を指示するばかりの仕事が続き、うんざりとした月日が続いている。

 これに加えて、先月末にIT企業と提携し、自社が編集した書籍をネット上で公開するという業務を行う子会社が芝公園に設立された。この子会社に篤は転属させられたのだった。

 今回の人事は出向ではなく、転属の形となり、公的なものを含む入社書類を一から揃えなければならなかった。

 この不景気に、本来ならば、時代の最先端の仕事に就けたことを喜ばなければならないところだが、自分の志望からますますかけ離れていくことへの不満が、篤の心の中に絶えずあった。

 更に、必要とされる入社書類の中に、連帯保証書があって、進路を選ぶ際にわだかまりが出来た両親に頭を下げなければならないなりゆきに、奥歯を噛みしめたくなるこだわりも、篤の胸の奥底にあった。

 篤が、予めディスプレイに表示させておいた増上寺の公式ホームページによると、威風堂々たる三解脱門は、一回くぐるごとに三つの煩悩である「むさぼり」「いかり」「おろかさ」を一つずつ解脱させてくれる功徳があるとされている。

 篤は真っ正直に門を三回、出たり、入ったりを繰り返したが、自分の心の中には、何の変化もない。

「何だ、駄目じゃないか」

 篤は、ノート型パソコンに表示された増上寺の情報に苦笑すると、境内を進んだ。

 増上寺は、浄土宗の念仏道場として、当初は江戸貝塚と呼ばれた千代田区紀尾井町に創建されたが、徳川家康の入府と江戸城拡張を受け、慶長三年(一五九八)に現在地の港区芝公園に移され、以後、将軍家の菩提寺として発展したのだった。

 篤の名は、薩摩藩島津家に生まれ、十三代将軍家定に嫁いだ天璋院篤姫に倣ったもので、二つ年上の姉の和(なごみ)は、二代将軍秀忠の五女で、後水尾天皇に嫁いだ東福門院和子から一字をもらったものだった。

 徳川家ゆかりの子女にちなんだ名をもつ生まれということから、篤は以前から増上寺を訪れ、今の心の行き詰まりから救われたい、という思いがあった。

 両親に進路を半強制された篤に対し、和は随分と自由に生きてきたように思えた。

 和が小学生のとき、書道を習いたいと言えば、母はその日のうちに近所の教室を探してきたし、中学校に進めばヴァイオリンを学びたいと言い出し、父はやはり二、三日中に大手楽器メーカーが運営する音楽教室を選り出し、その世界では著名な講師にくれぐれも娘をよろしくと、菓子折をもっていき、教室の事務員を困惑させた。

 こうした姉は当然、上達も早く、音楽大学を出るなり、今度は自分が幼児を相手に教える音楽教室の講師となっている。

 生い立ちが対照的な姉と弟であったから、いつしか不仲となり、自宅で顔を合わせてもろくに言葉も交わさない月日が続いていた。

 篤は大殿(だいでん)と呼ばれる本堂へ進んだ。

 ノート型パソコンに表示された情報によれば、増上寺の大殿は、昭和四九年に伝統的な寺院様式をいかしつつ、現代の建築の粋を結集して再建されたものであった。

 本尊の阿弥陀如来像は室町時代の作で、崇敬を集めていたが、鎌倉初期の仏師快慶の作に心酔する篤にとっては、惹かれない。

 次いで、大殿に向かい、右隣に建つ真新しい安国殿へ足を踏み入れた。

 家康が深く尊崇し、以後、勝運や厄除けの御仏とされ、黒本尊と呼ばれる阿弥陀如来像が祀られているが、秘仏なので拝することは出来ない。

 安国殿の中では、法事が営まれ、僧侶の読経が続いていたから、篤はその妨げにならぬよう、今の心の行き詰まりを解決出来るものを探し求める思いで、堂内を見渡すと、安国殿に入ってすぐ左に「将軍家系図」と題され、一辺が二メートルはあろうかと思われる板に記された、巨大な徳川将軍家の系図が目についた。

 系図には、初代家康の二代も前から記され、十五代慶喜(よしのぶ)までが記録されている。

 特に、十一代家斉以降から詳細で、家系を絶やさぬ目的で、必要以上に多くの子孫を残そうとしていた当時の深謀遠慮が窺えた。

 また、水戸徳川家も六代が省略されていたが、斉昭(なりあきら)の子で、慶喜の兄弟姉妹の多さは、篤には新鮮な驚きだった。

 「将軍家系図」が強烈な印象となって、篤の目を捉えていると、

「徳川将軍家に興味がおありですか?」

 法事を営む僧侶の読経も終わり、堂内にほっと一息ついた空気が流れると、篤と年齢も変わらぬ修学僧の一人が声をかけてきた。篤は、

「はい、これだけ詳細な系図は初めて目にしたので、驚きました」

 率直に言うと、若い僧は、

「わたしもこれを見ていると、以前の自分が大変、恥ずかしくなり、同時に、仏縁、奇縁という言葉が深く胸に迫ってきます」

「以前の……ご自身ですか?」

 篤は、浄土宗の大本山で修学に励むその人に、恥ずべきどんな過去があったのかと、思わず問いかけると、

「以前のわたしは、二親を憎み、姉をうらやみ、自分自身の全てを否定して生きていました。それでは、何物も自分の心の目に映らぬことが解りました」

 修学僧は、篤の目を真っ直ぐに見つめ、懺悔するかのように応えた。篤は、その人の瞳と言葉にびくりと肩を震わせた。その人は言葉を継いだ。

「自分という存在は、父と母からのみ、与えられているのではありません。

 何代も前から、何百年も昔から、祝福されてあることが、この系図を目にするたびに思い知らされています。

 そう感じるだけで、一体、どこへ、誰へ、どう捧げればよいのか、全く見当もつかないほど、深すぎて、言葉に出来ないほどの感謝があふれ出てくるのです」

 その人の佇まいと「将軍家系図」がぴたりと重なって、篤の目に見えた。

 篤は、ノート型パソコンの電源を切ると、安国殿を辞した。

 その人に聞いたところによれば、この安国殿は、昨日が竣工式である落慶法要で、しばらくは造替工事中だったそうである。

 すなわち、篤は今日でなければ、「将軍家系図」を目にすることは出来ず、同年代の修学僧と話す機会はもてなかったのだった。

 増上寺の境内を去っていく篤の心は、両親と姉に、そして仕事に対するこだわりが、洗い流したかのように消え去り、初秋の柔らかな陽射しを素直に受け入れることが出来ていた。(完)


 
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