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栄朋学園高等部二年三組の教室では、古典の授業がおこなわれていた。
教材として、架空の平安王朝を設定し、そこに生きる男女の恋愛を描いた「源氏物語」の中でも特に著名な「若紫(わかむらさき)」の帖(じょう)が用いられている。
学生の誰もが目を輝かせ、熱心に筆記を繰り返しているが、大石栄留那(えるな)だけは、一番後ろの窓辺の席で、上の空であった。
頭髪もすっかり白く、薄くなり、女生徒達の誰にでも停年間近を感じさせる老教師が、
「若紫が、泣きべそをかいている理由を尼君の女房達に話すセリフの中にある『伏籠(ふせかご)』とは、香炉や火鉢の上にかぶせ、衣をかけて、香を焚きしめたり、暖めたりする籠のことですね。ここでは、若紫が鳥籠に代用していたわけです」
現代に全くなじみのない家財の説明をすると、クラスメート達は一斉にノートにメモをとったが、栄留那だけはむっと不機嫌な顔で窓の外に目を向け、向かいの恵台高校を見ていると、
「それでは、大石さん。尼君『こちや』と言へばついゐたり、の後の、つらつき、から訳して下さい」
よりにもよって、後に紫の上となる若紫の容姿を説明する描写を、現代語訳することを指示した。栄留那はむっとしたまま起ち上がると、
「顔つきがまことにいじらしく、眉のあたりがほんのりと美しく感じられ、あどけなくかき上げている額の様子、髪の生え際あたりが、たいそうかわいらしい。これからどんなに美しく成人していくか、その様子を見届けたいような人よと、君はじっと見入っていらっしゃる。というのも、じつはかぎりなく深い思いをお寄せ申し上げる人にほんとによく似ているので、しぜん目を引きつけられるのだった。と思うにつけても涙がこぼれる」
「はい、結構です」
老教師が流暢に現代語訳する栄留那に、やや鼻白んだ顔で言うと、栄留那は憮然としたままで着席した。
そもそも、母が「源氏物語」が好きで、よく手元に置いては、双子の娘達に読んで聞かせてくれたが、栄利香と栄留那にとって平安文学は、平成の現代とは文化の違いが大き過ぎ、理解が大変で、食傷気味だった。
これに加えて娘達が幼いときには、母は若紫のように、と言っては、毛先を切りそろえた髪型にさせられていた。近所には、そろいの市松人形のよう、と評判がよく、栄利香は喜んで先日まで続け、進級でボブと呼ばれるショートヘアにした。
こうした姉に対し、栄留那はストレートのロングをとおしていた。身なりを姉妹で意図して変化をもたせたのは、双子は二人そろってようやく一人前、と侮った目を向けられるのが栄留那にとっては、どうにも鼻持ちならないのだった。
双子は一山でいくら、の扱いが気に入らず、義務教育の小中学生のときは、栄留那は姉とは同じ公立校にかよっていたが、高校は敢えて別の進学先を選んだ。
しかし、別の進学先を選んだつもりでも、住まいからあまりに遠方ではかよいきれないことと、成績の善し悪しから栄朋学園を受験し、合格したものの、受験を終えてみれば、姉は真向かいの恵台高校に進んでいた。
結局、今までどおり、朝は一緒に家を出、最寄り駅に着いたとき、栄利香と栄留那は他人のように離れて通学路を歩いていく、という日常だった。
こうした生活を送る姉妹であったが、不仲というわけではなく、同年齢ということから、一歳違い、二歳違いの兄弟姉妹よりもはるかに互いを頼りにしていた。
栄利香が昨日、恵台高校の図書室から「オールカラー太陽系惑星図鑑」という書籍を借り出して帰宅し、リビングでおやつにとチョコチップクッキーとパイナップルジュースを口に運んでいた栄留那を驚かせ、
「栄利香ちゃん、それ、読むの?」
思わず尋ね、本を手に取ると、ぱらぱらとページをめくった。すると、冥王星のことを記したページに、冥王星を太陽系第九惑星と表記されていることに気づいた。しかし、冥王星は二〇〇六年に準惑星に格下げされている天体だった。つまり、栄利香は二十年近くも古い資料をそれと知らずに借りてきたことになる。
栄留那が鼻の先で笑ったが、栄利香は気づかず、
「クラスにね、宇宙に詳しい子がいるの、それで……」
しどろもどろに応えた。
「付け焼き刃でサイエンス少女を気取ろうとしたのね」
栄留那は無遠慮に言うと、はっとして、
「その宇宙に詳しい子って、女の子? それとも男の子?」
姉の目を見入り、迫るように聞いた。栄利香は、思わず妹から目を逸らせた。
姉の反応に栄留那は顔を輝かせ、
「そうかあ! あんたもいよいよ色気づいてきたのね。そういうことなら、この栄留那先生が一肌脱いであげよう!」
「誰が先生よ。男の子の一人も家に連れてきたこともなければ、女子校がよいのくせに」
栄利香がぼそっと呟いたが、栄留那の耳には届かず、
「まずはね、そうね。いい印象をもたれることね。それには朝の挨拶が肝心だよ。さあ、あたしを彼氏と思って、おはようって言ってみなさい」
唐突に朝の挨拶の練習を始めた。次に、相手が興味のあることを話題にして、いい雰囲気になってきたところで、さりげなくCNWであることを打ち明けるという作戦を作り上げたのだった。
しかし、翌朝、栄留那が冷蔵庫で冷やして置いたパイナップルジュースの残りを、朝食を終えた栄利香がうっかり飲み干し、妹を怒らせてしまったのである。
栄留那は、ノートの左ページに低軌道で手足をばたばたさせ、滝のような涙を流す姉を三頭身にデフォルメしたマンガをすらすらと描いた。
ようやく栄留那はにやりと笑ったが、気が済まない。ノートの右ページに、勉強机ほどにデフォルメしたISSと呼ばれる国際宇宙ステーションに、ナイスバディの栄留那が仁王立ちし、無様に泣きわめく姉を救出にいくマンガを描いた。
栄留那はふと腕時計を見た。時刻は午前九時十五分で、栄利香とその彼氏を低軌道に放り出してから四十五分が過ぎている。
今頃は、夜間の地中海からアフリカ大陸上空にさしかかっているはずで、彼氏が栄留那の見込んだとおりの男子なら、ISSとランデブーできる時刻だった。
「あたしの期待を裏切らないでよね」
栄留那はおぼつかない足腰で教壇に立ち、「源氏物語」を教材に授業を続ける老教師のしわがれ声には耳も貸さず、快晴の空を見上げた。
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低軌道を周回中の栄利香と歩の混乱をよそに、大石栄留那はまったりと古典の授業を受け続けています。
老教師の授業を上の空で聞き流す栄留那は、昨日の栄利香との会話を思い出します……
小市民の学園サイエンスアクション、視点を変えて第4回です。