【第十三章 決別】
「…………………………まいったな」
空気が暗く沈殿した大広間で、一刀は重い息を吐き出した。
目の前の居並ぶ桃香たちの表情もまた、一刀に負けないほど苦しく顰められている。
「ご主人様……」
「……うん」
不安げな顔を向ける桃香になんとか笑顔を返すが、ちゃんと笑顔を浮かべられたのかはわからない。変わらず彼女の顔が曇っていることから察するに、例え浮かべることができていたとしても、それはきっと歪なものだったのだろう。
自覚はあるが、流石にこの状況下で上手く笑う余裕は――ない。
「本当…………まいったよ」
繰り返し、呟く一刀。
ほんの少し前まで、自分たちが治めるこの国は袁術による侵攻を受けていた。
自軍と袁術軍には結構な戦力差があったものの、朱里と雛里が頭脳を凝らして出した策、そして武将のみんなの頑張りもあってなんとか凌げていたのだけれど……運命というやつは、力の弱い者にとことん冷たいらしい。
袁紹が動いた――それが、国境の警備兵がついさっき持ってきた情報だ。
間違いなく袁紹は曹操へ戦いを挑むだろうと思っていただけに、ここにきての袁紹の参戦は厳しいものがある。……いや、もはや厳しいなどと言っていられるレベルじゃない。これまでの戦いで兵たちは疲弊しているのだ、袁紹の大軍団に袁術の本隊、加えて江東の麒麟児と評される孫策の部隊をまとめて相手に戦える力なんて――残っている、はずもなくて。
「でも……だからって何もしないわけにはいかないよな。朱里、策はあるかい?」
「あるには、あるのですが……」
目を瞑って考えを巡らす朱里だったが、しかしすぐさま首を横へと振る。
「……ううん、だめです。この策を実行すれば、たくさんの犠牲がでてしまうんです」
「だがな、朱里よ。この窮地を乗り切る為には……犠牲はやむなしとするしかないぞ?」
「星! 何を言うんだっ!?」
「他に打つ手がない以上、そう判断するしかあるまい」
声を荒らげる愛紗へ視線すらやらず、淡々と星は言った。
そんな彼女の、どことなく冷たい態度に口を挟もうとする、が――星の瞳に宿る色を見つけて、発しようとした全ての言葉を失う。
あの色を、自分は知っている。
初めて会った時の董卓――月も、今の星のような色を瞳に宿していた。
あれは、覚悟の色だ。
命を捨てると決めた者だけが宿す、何かを守る為にその身を投じる覚悟の色。
星はきっと、やむなしと言った犠牲に自分自身を捧げる気なのだ。
「(っそんなの――!)」
「――ダメだよっ!」
大広間に強く響き渡ったのは、悲しくもけして揺るがない桃香の声。
「そんなのダメ! 絶対ダメ! みんな無事に生き残るの!」
「……しかしな、桃香さま。他に方策がない以上、打てる手を打つのが最上だろう?」
「そっ、それは……」
彼女が顔を俯かせたのをきっかけに、再び沈黙が場に落ちた。
みんな、わかってる。
心が拒絶しても、頭では桃香だってわかっているんだ。
合わせて六万を超える二つの袁家の軍相手に、最小限の被害で勝てる見込みなんて、ないってこと。
わかってる。
でも。
だけど。
だったら。
「………………あるよ、一つだけ」
それが正しいものだと、祈るように信じて。
一刀は沈黙を破り、新たな選択肢を――提示した。
それから時は幾許か進み。
日がとっくの昔に地平線へ沈んで、夜も半ばになった頃。
場所は変わって、月明かりが淡く地上を照らす――夜半の荒野。
「――り。琴里ー?」
「………………」
「聞こえとらんのか? なあなあ、こーとーりーっ」
「ふぇ? あ…………霞さん……」
暗い表情で物思いに耽っていた琴里は、すぐ耳元で発されていた霞の声に俯かせていた顔を上げた。
「えっ、えっと、どうかしましたか……?」
「どうかしたはこっちの台詞やっちゅうねん。さっきから何度も呼びかけてんのに返事もせんと、ぼーっとして。どっか具合でも悪いんか?」
「え、あ、いっいえ! 大丈夫でしゅ!」
「噛み噛みで言われても説得力ないんやけど……でもま、こんな状況じゃ落ち着けんよなぁ」
「………………ですね」
未だ表情を暗くしたまま、霞の言葉にこくんと頷く琴里。
事の発端がどこにあるのかは定かではないが、琴里たちが兵を引き連れ荒野を進軍している理由は全て前方――正確には、半里ほど先の場所に構えた劉備の陣にある。
つい、先刻のことだ。
国境を越える許可を受けに、劉備の使者が城へとやってきた。
劉備玄徳が治める地、徐州に袁紹と袁術が侵攻してきているという情報は既に入手しており、大至急の集合命令をかけられた時は魏に救援を求めにきたものとばかり思っていたのだが――驚くことに使者が求めたのは救援ではなく。
「現実に起きた今でも信じられません。まさか本当に、救援ではなく領地の通行許可を求めるなんて……」
領地の通行許可。
そこにある意図はただ一つ――徐州を離れ、益州へ抜けて行くことだ。
袁紹と袁術、二つの袁家の大軍団の侵攻をいなしきれる力は劉備軍にはない。また華琳と道を違えている以上、助力を請うのは己の理想に反してしまう。ゆえに逃げる選択は間違ってこそいないのだけれど……自分たちは別にあちらと同盟を組んでいるわけではないのだ、こうして華琳が返事をしに赴くことになったからよかったものの、もし拒絶されていたらそこで終わりになるのだ。他に最良の手段がなかったとはいえ、あまりに無謀が過ぎる。
そして――
「なんや、琴里もやっぱ気になるんか?」
「も、ということは……霞さんも?」
「……そりゃ、まあ、な。あれがあんな調子やったら、誰だって気にして当然やろ」
――目を斜め前に向けると、視界に入ったのは近寄りがたい空気を発している旭日の姿。
いつもであれば彼の日色を見るだけで心が落ち着くのに、今は落ち着くどころか息苦しさを覚えるほど――彼の放つ気が重く、痛い。
「どんな気に食わんことがあったかは知らんけど、珍しく余裕がないよな。……いや、余裕がないっちゅうより、らしくないって言ったほうがええか」
目には険しさが宿り。
顔には厳しさが溢れ。
いつもの温かい雰囲気も、笑顔も、今の旭日にはまるで存在しない。
とある一つの報告を聞いた時からずっと――凍えるような冷たさだけが、ひしひしと伝わってくる。
「(やはり、旭日さんは気付いているのですね。此度の策に秘められた――確信を)」
華琳の領地を抜けて益州へ行くという、劉備軍の行動は確かに無謀だ。
けれど――ふっと琴里の頭に浮かんだのは、伏龍鳳雛と評されていた二人の女の子。
自分より幼く。
自分より弱く。
けれど自分より賢くあり、自分より遥か上の境地にある二つの光。
同じ学び舎でその才を見てきた自分だからこそ――わかる。
この無謀が過ぎる策に賭けた、彼女たちの確信が。
そして、そんな確信によって生まれた――旭日の熱き感情も。
「……自分も今一度、覚悟を決めましょう」
深く息を吐いて、吸って。
琴里は劉備の陣を睨みつける。
そこにいるであろう彼女たちへの決意を、瞳に灯して。
「……少しは落ち着いたらどう?」
「………………あ?」
ただでさえ悪い目つきを更に鋭くし、劉備の陣を睨みつけていた旭日の耳に届いたのは溜め息。
長いこと正面に向け続けていた視線を隣りに流してみれば――いつからいたのだろう、呆れた様子の華琳の姿が鋭くしたままの目に入る。
「貴方が苛々している原因も、理由も察してはいるけれど、鬱陶しくてこっちが苛々するわ。いい加減にその熱く茹った頭を冷やしなさい」
「華琳……そっか。お前がそこまで言うってことは、相当ひどい面してるみたいだな」
「なんなら、鏡を持ってこさせましょうか?」
「……遠慮しとくよ」
自分の顔を眺めて喜ぶ趣味はねえからな、と言って旭日は笑う。流石にいつも通りのへらへらとしたものは望めないだろうが、少なくとも笑顔らしき表情は浮かべれたはずだ。勿論、そんな出来損ないの笑顔で華琳が納得するとは思っていないけれど……例え出来損ないでも、虚勢を張っていなければ爆発してしまいそうだった。
「(っとに……らしくねえ)」
隣りにいる華琳に気付かれぬよう、白さを帯びるほど強く握り締めた拳をそっと隠す。
心が、制御できない。
元から上手く感情をコントロールできはしなかったが、少なくとも、あちらの世界では自分の苛つきを意識的に騙せる程度の器用さは持ち合わせていた。
持ち合わせていた、はずなのに――今はどうだ?
どんなに抑えても抑えつけても、止まらず溢れ出す焼けた感情。
らしくない。
苛立ちを無差別に周囲へばら撒くなんて。
家族以外の誰かを想い、こんなにも感情を揺らすなんて――本当にらしくない。
ただ、それでも。
「………………」
「旭日? ちょっと貴方、一体何を考えて……」
「――悪いが華琳、今回は我侭を通させてもらうぜ」
訝しんだ華琳の声を遮り、旭日は言った。
らしくないのはわかってる。けれど、らしくあろうがなかろうが、今更この感情を抑えることは不可能だ。前方に控える陣についてのある情報を聞いた時からずっと、胸に灯った火は――日は、燻り続けているのだから。
「どうせ、お前自身が返事をしにあっちへ行く気なんだろ? だったら――俺もお前と一緒に行く。行って《光天の御遣い》サマの真意を確かめる。華琳、例えお前が許可してくれなくてもな」
「………………はぁ、止めても無駄なようね。いいわ、付き添いを許可しましょう。ただしその条件として、事が終わるまでは大人しくしておくこと、いいわね?」
「ああ、華琳の迷惑になる真似はしねえさ」
「その言葉、信じたわよ。なら共に来るのは貴方と春蘭、霞……あとは琴里にも来てもらいましょうか」
「……わかってて俺に言ってるだろ」
「ふふっ。さあ、どうかしら?」
どこか試すように微笑んだ彼女に溜め息を返して、旭日は再び目を前方の陣へ向けた。
この世界では誰も彼もが何かと戦っている。
華琳も。
琴里も。
他のみんなだって、それは同じ。
だからこそ――許せないものがある。
「(……北郷。もしもお前の甘さと弱さが、この有様を生んだのなら――――――俺は)」
かくして日は燃え。
光は、夜闇の中で輝きを放つ。
そして、劉備の陣の中へと進み入った旭日、華琳、春蘭、霞、琴里を出迎えたのは大徳を旗印にした陣営の主要な面々。
「曹操さん!」
「久しいわね、劉備。連合軍の時以来かしら?」
「はい。あの時はお世話になりました」
「それで今度は私の領地を抜けたいなどと……また随分と無茶を言ってきたものね」
「……ごめん、それを通したのは俺なんだ。でも、みんなが生き延びる為には、これしか思いつかなくて……」
半歩分だけ彼女の前に立つ北郷が申し訳なさそうに眉を下げる。
同盟も組んでいない国に領地の通行許可を求めるなんて無謀な策を、諸葛亮たちが発案するとは思えない。ゆえに今回の突端は劉備か北郷、そのどちらかだろう。
予想はしていた。
違ってればいいと、思っていたけれど。
旭日は冷めた表情のまま鼻を鳴らし、成り行きを静観する。
「ふうん? 貴方が……ね。まあ、それを堂々と行う貴方達の胆力は大したものだわ。いいでしょう、私の領地を通ることを許可してあげる」
「本当ですか!」
「……華琳様、劉備さんにはまだ何も話を聞いておりませんが…………」
「聞かずとも良い。……こうして劉備を前にすれば、何を考えているのかがわかるのだから」
言って薄く笑みを浮かべる華琳。
それに北郷たちは安堵の息を吐いたが……これで終わりになるわけがない。
願えば救われるなんて、そんなものは幻想だ。
その悲しき真実を旭日はずっと前に知り尽くした。
華琳もまた王として、強い力を持って生まれた者として――痛いほどに。
「ただし街道はこちらで指定させてもらう。米の一粒でも強奪したなら、生きて領を出られないと知りなさい」
「はい! ありがとうございます!」
「それから通行料は……そうね。関羽でいいわ」
次いで発された彼女の言葉に安堵の表情を一変、驚愕に染め直す。
「…………え?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! それは……っ!」
「何を不思議そうな顔をしているの? 行商でも関所では通行料くらい払うでしょう?」
「え、でも、それって……!」
「貴女の全軍が無事に生き延びられるのよ? 勿論、追撃に来るだろう袁紹と袁術もこちらでなんとかしてあげるわ。その代価をたった一人の将の身柄であがなえるのだから……安いものだと思わない?」
願いには報酬が必要――請負と同じだ。
この場合、華琳の言っていることは正しく、報酬を求められて驚いている北郷たちのほうこそが間違いだ。群雄割拠の世の中で、未だ乱れの収まらない世の中で、仮にも王である者の考えとしてあまりに甘さが過ぎる。
何も犠牲を払わず叶うものなど、ほんの一握りしかありはしない。
求め、願って、それで救われ、叶うのならば――劉備も、華琳もここに立たずに済んでいたのだから。
けれど……劉備の返答は。
「……曹操さん、ありがとうございます」
「桃香っ!?」
「お姉ちゃん!」
「でも、ごめんなさい」
「あら」
「愛紗ちゃんは大事なわたしの妹です、鈴々ちゃんも朱里ちゃんもご主人様も……他のみんなも、誰一人欠けさせない為の、今回の作戦なんです。だから、愛紗ちゃんがいなくなるんじゃ、意味がないんです。こんなところまで来てもらったのに……本当にごめんなさい」
微塵の迷いもなく。
欠片の躊躇もなく。
劉備は、当然のように頭を、下げた。
「ふうん……そう。流石は徳をもって政事を成すという劉備だわ。残念ね」
「桃香さま……私なら」
「言ったでしょ? 愛紗ちゃんがいなくなるんじゃ意味ないって。朱里ちゃん、他の経路をもう一度調べてみて。袁紹さんか袁術さんの国境あたりで、抜けれそうな道はない?」
「……はい、もう一度候補を洗い直してみます!」
「おい……華琳」
「大人しくしていろと忠告したはずよ、旭日。いくら貴方でも、私の邪魔をすることは許さないわ。………………劉備」
一拍の静寂。
そして。
「甘えるのもいい加減になさい!」
「……っ!」
耳より心に強く響く華琳の怒声が、全てを揺らした。
「たった一人の将の為に全軍を犠牲にするですって? 寝惚けた物言いも大概にすることね!」
「で……でもっ、愛紗ちゃんはそれだけ大切な人なんです!」
「ならばその為に他の将――張飛や諸葛亮、そして生き残った兵が死んでも良いと!?」
「だから今、朱里ちゃんになんとかなりそうな経路の策定を……!」
「それがないから貴女達は今、ここにいるのでしょう? ……違うかしら?」
「っ…………そ、それは……」
ついには言葉を繋げなくなった劉備と、そんな彼女から視線を外し、側に控えた琴里へと目を向ける華琳。
「……琴里。この規模の軍が、袁紹と袁術の追跡を振り切りつつ、安全に荊州か益州に抜けられる経路は?」
「はっ。幾つか候補はありますが……危険な箇所が複数あり、また追跡を完全に振り切れる経路はありません。我が国の精兵を基準に考えても戦闘もしくは強行軍で半数以上が脱落します。……そしてこれは、諸葛亮も気付いているはずです」
「………………っ」
「そんなっ……朱里ちゃん……」
愕然とするのも、茫然とするのも今更だ。
他に安全な経路があるのならば、最初からそちらを通っていていいのだから。
この場所にいる時点で既に、彼ら彼女らの選べる選択肢は存在しない。
「現実を受け止めなさい、劉備。貴女が本当に兵の為を思うなら、関羽を通行料に私の領を抜けるのが最も安全なのよ」
「……曹操さん。だったら」
「貴女が関羽の代わりになる、などという寝惚けた提案をする気だったら――劉備、この場で貴女を叩き斬るわ。国が王を失ってどうするつもりなの?」
「……っ!」
「それから《光天の御遣い》北郷一刀、貴方もよ。……まあ、貴方がこちらの御遣いより秀でている自信があるのであれば、言うぐらいは許してあげるけれど?」
「ぐっ…………」
まさに口を開こうとしていた北郷が歯噛みするように押し黙る。もしも華琳が先に釘を刺していなかったら……おそらく関羽の代わりを、劉備の代わりを申し出ていたことだろう。
「………………」
「……どうあっても譲る気はないの? ふぅ……まるで駄々っ子ね」
「っ曹操殿、そんな言い方は!」
「いいわ。貴女達と話していても埒があかない。勝手に通って行きなさい」
「……え?」
「聞こえなかった? 私の領を通っていいと言ったのよ。益州でも荊州でも、どこへでも行けば良い」
「そ、曹操さん……ありがとうございます!」
「ただし」
ぴしゃりと、華琳は言う。
「先に言っておくわ。貴女が南方を統一した時、私は必ず貴女の国を奪いに行く。通行料の利息込でね。そうされたくないなら、私の隙を狙って攻めてきなさい。そこで私を討てれば、借金は帳消しにしてあげましょう」
「……そんなことは」
「できない? なら私が滅ぼしに行ってあげるから、せいぜい良い国を作って待ってなさい。貴女はとても愛らしいから……私の側仕えにして、関羽と一緒に存分に可愛がってあげる」
「く……曹操殿っ! これ以上、桃香さまを侮辱するといくら貴女とはいえ……!」
「――……侮辱してんのはどっちだ」
溜まった水が溢れるように。
堰を切るように。
我慢しきれず、とうとう旭日は保っていた沈黙を――破り捨てた。
「ちょっと、旭日……」
「限界まで我慢はした。話に決着がつくまで大人しくもした。……もう、待てやしねえよ」
「………………」
「お前たちは先に帰ってろ。俺はまだ、あいつに話が残ってるんでな」
「……はぁ、仕方ないわね。琴里、貴女はまずここに残ってこの馬鹿のお守をして頂戴。霞はお守を済ませた琴里と共に、劉備達を向こう側まで案内なさい。街道の選択は任せる。劉備は一兵たりとも失いたくないようだから……なるべく安全で危険のない道にしてあげてね?」
「……御意に」
「それでウチも連れてきたわけか……了解や」
「旭日、わかってはいると思うけれど、既に貴方は私の国の人間。軽率な行動は慎みなさいよ」
「はっ……努力はするさ」
遠ざかっていく足音を耳に受け、旭日は一歩、彼に近付く。
「……《日天の御遣い》殿。こちらが侮辱しているとはどういう」
「二つ、聞きたいことがある」
関羽の問いかけを途中で遮り、旭日は無感情な声音で言った。
余計なことに気を割ける余裕などない。
沸騰しそうな意識をそれでも冷たく注ぐのは自分の目の前に立つ北郷と、はるか後方――兵に守られている、明らかに戦えないであろう者たちのみ。
「劉備の陣内で非兵装の連中がちらほら見えた。……先に放っていた物見からの情報だ。何かの間違いだと思っていたかったが、こうしてここで視認もできちまった。もしかしなくてもその非兵装勢は――徐州の人間か?」
「え、あ、う……うん。袁紹や袁術を主にしたくはないって、必要最低限の家財道具を抱え、俺たちと運命を共にする覚悟を決めてくれた人々だよ。俺たちが守るべき――俺たちの、守りたい人々だ」
「……二つ目だ。今回の策は確かお前の発案だったな。こんな綱渡りの、無謀が過ぎる策に賭けた理由はなんだ? 犠牲も払わず華琳が頷く、そんな確信でもなきゃ賭けられねえはずだろ?」
「確信……えっと、いや、確信なんてものはないよ。他に何も思いつかなくて、ただみんなを助けたくて……」
「………………」
「諦めたく、なかったんだ。旭日さんが言ってくれたように、全部を背負って前に進むって決めたから、だから」
「…………………………そうかよ」
聞くべきことは聞き尽くした。
もう、いい。
もう――十分だろう。
我慢するのも、子どもの我侭に付き合うのも、全て。
「よくわかったよ。お前の軽い信念も、お前の温い覚悟も――…………お前の甘ったれた馬鹿さ加減も!」
「っぐ……!?」
果たして、旭日のとった行動を予期できた者が何人いただろう。
空気を震わせる怒鳴り声が響いた次の瞬間にはもはや遅く、旭日は無防備だった北郷の胸倉をぎしりと掴み上げていた。
「ご主人様!?」
「あ、旭日さ……なんっ…………」
「貴様っ、ご主人様に何を!?」
「旭日さんっ!」
「……何もしやしねえよ。劉備ちゃんたちのゴシュジンサマに傷をつければ、華琳の迷惑になるからな。はっ、よかったじゃねえか。みんなのゴシュジンサマだったおかげで、《光天の御遣い》サマに指名されたおかげで、お前は下手に傷つけられずに済むんだ」
吐き捨てるように言って、ぱっと手を離す。
襟元を絞められていたせいでしばらく北郷は咳き込んでいたものの、急に胸倉を掴まれたことへの驚きのほうが強かったのだろう、何が起きたのかわからないという表情を浮かべていた。わからない――それこそが自分を苛立たせている最大の理由だとも、わからずに。
「守りたい人々? 全部を背負って前に進む? ……寝惚けた戯言を吐くのも大概にしやがれ。お前はただ単に、甘ったるいガキの甘ったれた我侭を通しただけだ。誰も守っちゃいねえし、何も背負っちゃいねえ」
「旭日、さん……?」
「確信なんてものはない……よくもまあ、恥ずかしげもなく言えたもんだよ。俺にはあったぜ? 今回の策が成就する、絶対の確信がな」
そう、確信があった。
間違いなく華琳は劉備たちを通すと。
例え通行料を払っても、払わなくても――絶対に。
「お前たちと運命を共にする覚悟を決めた時点で、徐州の人間が帰れる場所はなくなった。運命を共にするという言葉の通りさ。お前たちが潰えたら、同時に徐州の人間も潰えるだろうよ。光に希望を見出したばっかりに、な」
「それはっ……でも、だからこうして!」
「――なあ《光天の御遣い》。そんな帰る場所を失くした連中を――この乱世の中に王として立ちあがった華琳が、見捨てると思ったか?」
「………………っ!」
冷たく発された彼の問いに、一刀は言葉を失った。
「お前もわかってるはずだ。華琳が立ちあがったのは私利私欲の為じゃねえ、この大陸の平和の為に、この大陸で暮らす者の平穏の為にだってことぐらい。やり方は違っても、目指す先は劉備ちゃんのものとそう変わらねえことぐらい――お前も!」
「う、あ……」
「ここで華琳が首を横に振ったらそこで終わり、徐州の人間が辿る道はお前たちとの破滅だ。お前たちの砂糖菓子みたいに甘い理想を信じた、罪も持たない人民が死ぬのに、あいつがそれを知ってて横に振るわけねえ。守るべき守りたい人々? みんなを助けたかっただと? ――っざけんな!」
「………………っ!」
旭日の怒りが深く胸に突き刺さる。
深く深く、胸に――心に。
「華琳はあれで心底優しいからな、最後まで責めはしなかったが……俺は許さねえよ。お前たちがやったことは策ですらない、人民を質にして、華琳を悪役にして、お前たちが背負うべき荷物をこっちに押し付け、くっだらねえ三文芝居を――正義の味方ごっこをやっただけだ!」
「ち、違うっ! 俺は、俺たちはただ……っ」
「がむしゃらだったか? 必死にやったってか? 今更、気付きませんでしたとほざくつもりか? ……だったとしたら俺は、お前を見下げ果てるぜ」
「……え…………?」
「みんなのゴシュジンサマでいることもやめて、《光天の御遣い》の看板も捨てて、どっかで適当に暮らしてろよ。自分の行いが生む結果もわからず、知らず、それでも自分の行いの正しさを信じる大馬鹿野郎に……あいつと同じ場所に立つ資格なんざねえ」
侮辱してんのはどっちだ――今頃になってようやく、目の前の彼が放った言葉の意味を理解できた。
どんな結果になるか知らずに行動した自分と、知っていて尚それを拒まなかった曹操。そこにある差は明白で、とてつもなくて。こんな様では確かに旭日に言われた通り、曹操に対する侮辱以外の何でもない。
「気付かなかったじゃ許されねえんだよ。ああ……いいや、無自覚だったほうが許し難いな。とぼけた面で他人の心を利用するなんざ、呆れを過ぎて諦めが沸いてくる」
「まっ待ってください! ご主人様が知らなかったのは私がっ――」
「――そういう問題ではないのですよ、諸葛亮」
「っ……徐庶ちゃん……」
耐えきれずあげられた朱里の声を、徐庶と呼ばれた少女が静かに遮った。
「聡明な貴女は気付いていたのでしょうね。此度の策の確信に、もしそれを主二人に話せば拒まれるかもしれない可能性に。気付いていたからこそあえて明かさなかったのでしょう。ですが、そんなことが問題ではないのです。問題なのは、貴女の主がそれに気付かなかったことなのですよ」
「………………っ」
「思考を巡らし己で気付く、どうして貴女が策に異を唱えなかったのか疑問に思う、真っ直ぐ貴女に聞く。方法は幾つもあったはずです。なのにそうせず、知ることを怠り、無知であることを良しとし……そしてここまできてしまった。王の行いとして、褒められることではありません」
少女の静かな声音が静かに心奥へ落ちる。
ひどく冷たく、重たく。
どうして気付けなかった?
本当は、こうなるとわかってたんじゃないのか?
わかっていたからわかろうとせず、朱里にも聞かず――自分の責任に、蓋をして。
「……俺たちはこれから袁紹、袁術の連合と戦う。お前たちの弱さと甘さを、華琳が請け負って。そして……――兵が、人が死ぬ。皆が笑って暮らせる平和な世界を、拝めないままに」
「旭日、さん……」
「覚えとけ。いい子に過ごしても、枕元に靴下ぶら提げても、それでお望みのプレゼントが放り込まれるほど、世界はお優しくできてねえんだよ。だからこそあいつは全てを背負って――傷つきながらも戦ってるんだ、この世界と」
言って彼は自分に背を向ける。
「待て! これだけの無礼をご主人様に重ね、よもや何事もなく帰れるとは思っていまいな!?」
「お兄ちゃんをブジョクする奴は鈴々が許さないのだ!」
「はぁ……やれやれ。一つ、嬢ちゃんたちに余計なお節介を焼いてやるよ」
「何……?」
「あまりそいつに背負わせんな。そいつは力も知恵も足りねえ、平和に平穏に生きて然るべきだった平凡なガキだ。理想だの乱世だの《天の御遣い》だの、そんな重たい荷物を背負わせすぎちまったらいつか、潰れるぜ」
「なっ………………!」
「支えて、頼ってやりな。そいつが一人にならないよう、そいつが俺みたいにならないよう――しっかりとな」
愛紗と鈴々の二人から向けられた刃をものともせず。
最後には自分に心配をくれて。
彼は立ち去った。
そして、別れの際になってやっと気付く。
ただの一度も、彼が自分の名を呼ばなかった――冷たい事実に。
彼が立ち去り。
徐庶と呼ばれた少女も張遼のところへ行き。
ひどく、取り残された気分だ。
ひどく、打ちのめされた気分だ。
突きつけられた自分の無知も。
彼が名前を口にしてすらくれなかった事実も。
いっそのこと、殴られたほうがどれだけよかっただろう。
「ご主人様……」
躊躇いの滲む声が聞こえる。
桃香か、愛紗か、他の誰かか。
それさえわからないほど、頭の中で先の彼の言葉の数々が響いて、響く。まるで心がぐちゃぐちゃになったかのように何もかもが重く、冷たく感じる。知っていて然るべきだったことを――思い知らされた、だけなのに。
結局、自分は何かを背負った気になっていただけだった。
何も背負えてなんか――なかったくせに。
天の御遣いと呼ばれたことも、みんなの主になってからも、月たちのことも、今回も。自分ができたことは一つもない。いつも誰かに助けられてばかりで、助けられなければ誰も助けることができなくて。
だから。
「俺、さ…………多分、憧れてたんだ、あの人に」
「……え?」
「人の願いを請け負えて、力とか、覚悟とか、俺にはない強さに……憧れてた」
彼の背中を見る度に思う。
自分も彼も天の御遣いと呼ばれているのにどうして、こんなにも違うのだろうかと。
弱く小さな自分。
強く大きい彼。
劣等感や嫉妬を通り越して、純粋に憧れた。
いつも、日の眩さに目を細めてばかり――いた。
「あの人に、褒められたかった……」
よくやったなと。
頑張ったじゃねえかと。
どんな些細なことでもいいから、自分の何かを認めてほしかった。
でも、それは。
「は、ははっ……馬鹿だよな、俺……そんなの、自分の弱さから目を逸らしたがってた、だけなのにさ」
憧れている人に認められることで、自分の弱さをないことにしたかった。こんな弱い自分でもできることが、やれることがきっとある。そう信じて、心を騙して――そうやって弱さから目を逸らした結果が今回だ。朱里に何も聞かなかったのも、曹操が頷いたことになんの疑問も抱かなかったのも、自分の甘さも自分で貫けない弱さを思い知るのが、怖くて。
本当、馬鹿だ。
わかっていたのに。
最初から強い人なんて、いないってことぐらい。
彼の強さが、己の弱さと向き合ってぶつかって打ち勝って――強くなろうと足掻いて手に入れたものなのだと、わかっていたのに。
「っ…………………………強く、なりたい」
ぽたりと――滴が溢れ出す。
悔しくて、情けなくて、格好悪くて、そんな自分が許せなくて、とめどなく。
「強く、なりたいっ……あの人みたいに強く…………強くなりたい!」
涙でぐちゃぐちゃになった顔をそれでも上げて、前を向く。
もう、彼の背中は見えない。
けれど絶対に追いついて、追い抜いてみせる。
「ご主人様…………なれるよ、強く。ご主人様ならきっと、絶対に」
「………………ああ!」
桃香の言葉を受け、一刀は迷いなく頷いた。
自分の弱さに泣くのは、これが最後にしたいから。
いつか必ず、日を超えてみせると――胸に灯った光に、誓って。
【第十三章 決する覚悟の先、別れしは天の行く末】………………了
あとがき、っぽいもの
どうも、リバーと名乗る者です。
予告まで出しておいて更新が遅くなり申し訳ありません……ちょうど大学の試験がありまして、いやまあ言い訳なのですが……本当に申し訳ありません。
ただ、今回はものっそい悩みました。話の展開上、削った内容もありますし(琴里の視点とか華琳の視点とか桃香たちの視点とか)……それなのになんでしょう、このぐだぐだ感。書きあげたのもついさっきでしたし……もっと旭日の心情とか、一刀の心情とか上手く書きたいです……
今回で一番難しかったのは我らが一刀君の心情、ですね。原作では魏側の立ち位置なので、完全に自分の妄想になり、何度も脳内シュミレートしたのですが……本当に明確には浮かんできませんでした。真っ直ぐなのに結構複雑です、あの御方。
ええと、それから少し前に否定的なお言葉をいただいてしまいました。まあ、オリキャラを主人公にした段階でいつかはくるだろうと思っていましたが、いざくるとやっぱりきついものがありますね……というか、わざわざお気に入り登録しなくても、応援メッセージには書き込めますよ? これはもしかして、更新する度に否定的なコメントがくるという伏線だったりするのでしょうか……? それはちょっと…………………………うわぁ。
と、とりあえず頑張ります!
では、誤字脱字その他諸々がありましたら、どうか指摘をお願いします。
感想も心よりお待ちしています。
前回(拠点 徐庶)のコメントへの返信
samidareさま>
ありがとうございます!
今回の話は自分でも気に入ってたりしますw
サラダさま>
凪は本気で可愛いですよね!
原作でのちょっとヤキモチを露わにしたところなんか最高です!
宗茂さま>
確かに両手に華でうらやましいですw
スターダストさま>
おおっ……コメントありがとうございます!
旭日の過去は後々、ということでどうか……。鼻血オチは憧れだったのでついやってみました。二人の修羅場はニヤニヤしながら書いてました!
BookWarmさま>
四羽烏でもよかったのですが……どうしてしなかったかについては、後で判明します!
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真・恋姫無双の魏ルートです。 ちなみに我らが一刀君は登場しますが、主人公ではありません。オリキャラが主人公になっています。
今回は第十三章。
ぐだぐだかつ、批判的な点も多いかと思いますが、どうかご容赦ください……