頭の中が真っ白で、何も考えられない。許緒と典韋は地面に座り込んで、目の前を通り過ぎる人の流れをただ呆然と眺めていた。
術を掛けられ操られていた人々が、わずかな旅費を渡されて故郷へと帰って行く。どの顔も暗く沈んでいて、帰れる喜びはない。それというのも、操られていた間の記憶がしっかりと残っているからだ。
自分たちが何をしたのか、今後の人生、それを背負って行かなければならない。
「その記憶が、己に課せられた罰だと思いなさい。もしもその重さね堪えかねて再び過ちを犯すようなら、その時は容赦しないからそのつもりで」
曹操が彼らに贈った言葉だった。幸いというべきなのか、黄巾党の非道な行為はその大半を、盗賊くずれの者たちが自ら進んで行ったようで、堪えかねるほどの重い記憶を持つ者は少なかった。
「こんなところにいたのか、探したぞ」
二人の側に、夏侯姉妹が歩み寄った。
「……あの」
顔を上げた許緒が、自分の身柄を預かることとなった夏侯惇を見る。
「どうした?」
「ボクたち……生きていてもいいのかな……」
「何を言っておるのだ? 当然だろう」
「でも!」
ぎゅっと拳を握った許緒は、そのままうなだれてしまう。
「たくさんの人を怪我させて、たくさんの人を殺したのに……」
「季衣……」
気遣うように、典韋が許緒の手に触れる。彼女もまた、同じ気持ちだった。
「戦争だった。『仕方がない』の一言で片付けるわけではないが、自分が生きるために他者を倒さねばならない。そういう場にあって、お前たちのしたことは生きる者として当然なのだろう。他の命を殺めてまで生きたのなら、その命を無闇に捨てる方が許されないことだと、私は思う」
夏侯淵はそう言うと、二人の前にしゃがんで優しく包み込むように肩を抱いた。
「答えを急ぐ必要はない。私や姉者が側にいる。共に、考えよう」
「夏侯淵様……」
許緒と典韋は、夏侯淵の胸で泣いた。それで心の傷が癒えるわけではなかったが、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
兵士たちが火を囲み、わずかだけ許された酒を楽しんでいた。戦いが始まってから断っていた久しぶりの酒に、祭はご機嫌で部下たちに絡んでいる。
それを横目に見ながら、雪蓮は少し離れたところで静かに盃を傾けていた。みんなで騒ぐ楽しい酒も好きだが、今はのんびりと静かに楽しみたい、そんな気分だったのだ。
「隣、いいかしら?」
「ええ……」
小さな徳利を抱えた冥琳は、それを間に置いて腰を降ろす。
「どうしたの? ひとりでしんみりして」
「らしくない?」
「そうね……てっきり、祭殿と大騒ぎして私を困らせるものだと思っていたから、少し肩透かしだったかしら」
「やーねー、はははは……」
前科があるだけに、雪蓮はバツが悪そうに乾いた笑い声を漏らした。冥琳はそんな親友の姿に、何だか不思議なものを見るような気がして笑みを浮かべる。
「何よ、その笑いは」
「それは雪蓮の方でしょ? そんなにあの子が気になるのね」
「べ、別に……そういうわけじゃ……」
「図星みたいね。あなた気付いてないでしょうけれど、曹操と同じ顔をしているわよ」
「へっ?」
含み笑いで冥琳は、それ以上は何も言わなかった。代わりに、気になっていたことを訊ねる。
「それより良かったのかしら? あの子、間違いなく北郷一刀本人よ」
「でしょうね。曹操も気付いていた様子だったし」
「雪蓮の性格なら、真っ先に欲しがったと思ったのだけれど」
「まあ、ね。でも今は、時期じゃないわ」
「袁術か……」
「というより、張勲ね。天の御遣いが側にいるって知られたら、厄介だもの。それに無理矢理連れて行ったら、曹操から恨まれそうだし」
独立こそが、最優先すべき事項だった。そのために今回の遠征を行ったとも言える。出来る限り、不確定要素は排除して起きたかった。
「わかっているんだけどさー。何だか、胸がもやもやするのよね」
「ふふふ……」
「何よぉ……」
「いえ、雪蓮もそんな顔をするんだなって思っただけよ」
「どんな顔なのよ?」
唇を尖らせて、雪蓮は拗ねたように膝を抱えて顔を埋めた。
(それは、恋する乙女の顔よ、雪蓮。でも自覚がないようだし、黙っておくわ。少し、妬けるものね)
盃の酒を飲み干し、冥琳は小さく息を吐いた。
華琳は天幕で、桂花の報告を受けていた。
「黄巾党の件は以上です。それと、洛陽に放っていた細作から報告がありました」
「何か動きがあったのかしら?」
「大将軍に任命された何進という者の正体が、ようやく判明いたしました。その者、馬ほどの巨体をしたオークだそうです」
華琳の顔が、不愉快そうに歪む。
「そう……」
「洛陽では人間とオークの立場が逆転して、何進の親衛隊もオークで構成されているとのことです。その何進は親衛隊を率いて、并州に向かったそうです」
「いつまでも長安に留まっている袁紹を、見限ったというところかしら」
「恐らく……近々、河北四州を何進が治めるようになるでしょう」
これまで裏で策略を巡らせていた朝廷側も、ここに来て表立って動き始めたというところだろう。
「何進は河北の旧袁紹軍をまとめた後、こちらに攻め込んでくる可能性が高いわ。どれほどの時間があるかわからないけれど、出来うる限りの準備を進めなさい」
「御意!」
「そう考えると、黄巾党の件が片付いたのは大きいわね……」
だが一方で、捕らえた黄巾党を解放したことが少しだけ悔やまれた。
(言っても詮無きことか……大半が農民、無用な死者を増やす必要もない)
華琳はそんなことを考えていたが、ふと、桂花が何か言いたそうにしているのに気が付いた。
「どうしたの、桂花? ご褒美でも欲しいのかしら?」
「はいっ! あ、いえ……」
思わず恍惚の笑顔で反応してしまったが、桂花はすぐに真顔に戻って咳払いをする。
「あの、華琳様。一つ、お聞きしたいことがあります」
「改まって何かしら? 言ってごらんなさい?」
「はい……あの、北郷一刀のことです」
笑みを浮かべていた華琳は、その笑みを消して桂花を見た。
「北郷の優しさは、尊いものだとは思います。ですがこの国を導き、人々を救うにはあまりにも甘く、脆いものだと思います」
「そうね、私もそう思うわ」
「でしたらなぜ、あの男にこだわるのですか?」
桂花の思いには、嫉妬も混ざっているのだろう。だが軍師である以上、個人的な感情だけで間違った提言をすることはない。仮に嫉妬の感情がなかったとしても、桂花は同じことを考えたと思っている。
「私は華琳様に仕え、間近でそのお姿を拝見しています。時に統治者は、冷酷な判断を下さなければならない場合もあります。優しさだけではなく、恨まれる覚悟も必要なのだと、華琳様にお仕えする事で再認識をしました。だからこそ、不思議なのです。華琳様があの男を、ご自分の手元に置こうとするお気持ちが……」
その言葉に、華琳は黙って目を閉じた。そしてわずかな間の後、ゆっくりと目を開くとどこか遠くを見る様子で話し始める。
「あの男からは、血の匂いがしない。あれほどの武を持っているというのに、そうした血生臭い事からは程遠いと思えるのよ。きっとまだ、人を殺したことがないのね」
「確かに彼の武器は、殺傷力は低そうですが……」
「そして、世間知らずの若者が語るような、青臭い理想を信じて行動している。ただ、真っ直ぐとね。それはきっと、今の私たちにはないものなのよ。でも心のどこかで、願ってもいる。叶わぬ理想だと、諦めてしまっている」
「……」
「それなのに、北郷一刀の瞳には迷いがない。考え、考え抜いて、進むべき道を決める。あとは迷わず、ただ進む。その素朴さ、素直さが、私はうらやましいとさえ思える。だから、眩しいのよ」
「眩しい……」
「私たちが最初から放棄したものを、彼は何一つ諦めていない。その高潔さは、愛すべきものだわ」
華琳は思う。誰もが夢見る理想郷――争いのない、みんなが笑える平和な世界、北郷一刀という男はそんな世界の匂いがするのだ。だから、引き寄せられる。誰だって、好きこのんで人を殺すわけではない。
無意識に頬に触れた華琳は、かつて焚き火越しに見た一刀の笑顔を思い出し、わずかに胸をときめかせていた。
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恋姫の世界観をファンタジー風にしました。
女の子のほのかな恋心とか、可愛くて好きですね。
楽しんでもらえれば、幸いです。