大好きな蜂蜜水を嬉しそうに飲む袁術の顔を、忌々しげに雪蓮は見ていた。勿論、本人には気付かれないようにだ。そして頃合いを見て、玉座の間に入って行く。
「おお、孫策か。どうかしたのか?」
「黄巾党の件、聞いているでしょ?」
「ん? 何じゃそれは? 知っておるか、七乃」
「はい、お嬢様。最近、巷を賑わせている盗賊の集まりですよ」
袁術の隣で、ニコニコと微笑んでいる張勲が答える。
「曹操が本隊を叩くために軍を動かしているわ。こちらも兵を出した方がいいんじゃない?」
「何でじゃ? 曹操に任せておけばよいではないか」
「いいの? それだと曹操の名声だけが高まることになるわよ?」
「むむ……」
雪蓮の言葉に、袁術の心は少し動いた。
「それに黄巾党は、お金持ちの商人を襲ったりしていたらしいから、倒せば感謝されるわよ。もしかしたら、蜂蜜水をくれるかも知れないわ」
「本当かえ?」
「あくまでも可能性があるってだけだけど、曹操が蜂蜜水を独り占めしてもいいの?」
「ダメなのじゃ! 七乃、妾たちも行くぞ!」
すっかりやる気の袁術に、しかし雪蓮は抑えるように言う。
「あー、でも確か黄巾党の本隊って、袁紹の領内にいるのよね」
「なっ……だ、ダメなのじゃ! それはダメなのじゃ! 麗羽姉さまに会うのは……」
袁術が真っ青な顔で、ブルブルと震えだした。
「じゃあさ、こうしたらどう? 私たちが袁術の代理として兵を率いて行くわ。それなら手柄を曹操に独り占めされないで済むけど……」
「だがのぉ……妾の兵を孫策に預けるのは、ちと心配なのじゃ」
「なら兵もこっちから出すわ。私兵を五千程度なら、構わないでしょ?」
少し考えた袁術は、隣でニコニコしている張勲に訊ねる。
「どうしたものかの、七乃?」
「うーん。まあ、いいんじゃないですか? 活躍すればお嬢さまの手柄ですし、失敗しても失うのは孫策さんの兵ですしね」
「そうじゃの。よし、孫策よ。見事手柄を立てて、蜂蜜水を持って帰るがよい!」
「蜂蜜水はわからないけど、がんばるわ」
ひらひらと手を振って、孫策は玉座の間を後にした。
冥琳は、いつものように街はずれの酒屋にいた。明命宛に届いた手紙を雪蓮とともに検討し、準備を始めていたのである。いくつかの手紙をしたためていると、袁術のもとから雪蓮が帰ってきた。
「うまくいったわ」
少し不機嫌そうにそう言って、椅子に座ると深い溜息を漏らした。
「お疲れ様。用意した手紙が無駄にならなくて良かったわ」
冥琳は一通の手紙を、横に控えている明命に手渡す。
「これを蓮華様に届けてちょうだい。そして明命は、予定通りに」
「はい!」
「指揮は祭殿でいいわね、雪蓮?」
「構わないわ」
「蓮華様はどうする?」
「まだダメ。孫家の人間が動けば、警戒されるわ。袁術はともかく、張勲は薄々感づいている雰囲気だったし……油断は出来ない」
「わかった。頼んだぞ、明命」
手紙を持って元気よく出かけた明命を見送り、冥琳はお酒を飲み出した雪蓮を残して酒屋を出た。手には曹操――正確には荀彧に宛てた手紙を持っている。内容は、袁術の許可を得て自分たちが行くことを記しただけだ。見られても困る内容ではないので、普通に送るつもりだった。しかし曹操たちは、この手紙を読むことで作戦が上手くいったことを知ることが出来る。
(この件は、独立への大きな一歩だ。今や大勢力となりつつある曹操を、上手く利用しなければ……)
眼鏡の奥で、冥琳の瞳が妖しく光った。その時である。
「――っ!」
急激な目眩が、冥琳を襲った。すぐに細い路地に入って、民家の壁に身を預ける。苦しげに眉を寄せて、胸をさすった。
(最近は少し忙しかったからな……けれどまだ、倒れるわけにはいかない)
一度、医者に行った方が良いのだろうか。そう考えながら、ふと、蓮華の手紙にあった男の話を思い出す。
最近、蓮華のいる街に医者がやってきたのだそうだ。とても腕が良く、お金も取らないということで評判なのだという。
(機会があれば、一度診てもらうのもいいかも知れないな)
眩しい日差しに目を細めながら、冥琳は再び歩き出した。
窓から見える星空が、一層心を寂しくさせた。
ベッドの上で華琳は寝返りを打ち、柄にもなく溜息を漏らす。
(こんな気持ちの時に限って、春蘭も秋蘭もいないよのね)
二人は今、黄巾党討伐の準備に忙しく動いている。いつもなら閨に呼ぶのだが、さすがに華琳でも自分の都合を押しつける気はない。だがこんな時に限って、思い出してしまうのだ。
(やっぱり名前くらいは、聞いておけば良かった……)
ひとときの出会い。焚き火を挟んで見た男の顔を、そっと心に思い出す。自分でも驚くほど、華琳の心が跳ねた。そして切なさに襲われる。
「はぁ……」
こんなところを、誰にも見せられない。華琳は無理にでも寝ようと、目を閉じる。だが瞼の裏に、あの男の顔が浮かんでしまうのだ。
「ああ、もう! 何をしているのよ、私は」
起き上がって、ベッドに腰掛ける。机の上の書類に目を向け、仕事でもして気を紛らわせようかと思ったその時、ドアの向こうに気配が近付いて来た。
「華琳様、まだ起きていらっしゃいますか?」
それは、桂花の声だった。
「ええ。入っていらっしゃい」
そう言うと、ドアが開いて書類を抱えた桂花が入って来た。
「申し訳ありません。どうしても今日中に確認して頂きたいものがありまして……」
「……」
「あの、華琳様?」
「桂花……」
「はい?」
手招きをする華琳のそばまで桂花が近寄ると、その瞬間、腕を掴まれて強引にベッドの上に寝かされたのだ。
「あ、あの、華琳様! 何を……私はそんな……あっ……ああーーー!!」
華琳に心を捧げていた桂花が、身も捧げて『犬』となった瞬間だった。
それは、前代未聞の出来事だった。本来ならばオークが立ち入ることなど出来ない宮殿――しかも玉座の前に、普通の人間の三倍はあるかという巨体のオークが跪いていたのだ。
やがてそのオークの前に、十人の黒装束が現れる。
「帝は未だ、病の床に臥せっておられる。よって我ら十常侍が、代理としてお前を呼んだのだ」
黒装束の一人が、その言葉を示すように玉璽を掲げた。オークは了解するように、深く頭を下げる。
「お前の噂は聞いている。大層な力だそうだな?」
「ハイ。毎日ノヨウニ、牛ヤ豚ヲ抱エテ解体シテオリマス。おーくノ中デモ、俺ニ敵ウ者ハオリマセン」
「ふむ。ならばこそ、適任だろう」
別の黒装束が、大きな剣を恭しくオークの前に差し出した。
「その剣を取るがいい」
「ハイ……」
「これは、大将軍の証だ。お前を、大将軍に任命する。良いな、何進?」
「俺ガ大将軍……」
「そうだ、お前がこの国の軍を動かすのだ」
その言葉に、驚きの表情を浮かべていたオーク――何進の顔に不気味な笑みが浮かんだ。それは、まだ誰も知らない暗黒の時代の幕開けであった……。
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恋姫の世界観をファンタジー風にしました。
人に歴史あり。どんなものにも、始まりというものがあるのだと思います。
楽しんでもらえれば、幸いです。