No.149577

二重想 第一章 伍

米野陸広さん

二重想第一章ここに完結です。
づぎは、第二章へと続きます。
お目汚しとなりますが最後までお付き合いいただければ幸いです。
最初へhttp://www.tinami.com/view/147832

2010-06-10 23:03:34 投稿 / 全9ページ    総閲覧数:1366   閲覧ユーザー数:1276

もう見ないはずだった景色が、またも広がっていた。

私は何故ここにいるのだろう。私は現実に生きると決めたのに。

「それはあなたが、まだ、選択しきっていないから。それに………、まだ、その時ではないから」

不意に声が聞こえた。発生源は何処だろうか? 探るだけ無駄であった。この上下左右、時間のない空間においては、見えないものの居場所など、皆目、見当のつくはずがなかった。

「私は、あなたが望めば、いつでもそこにいる。」

「そうか……。それじゃあ、今君の姿が見えないのは、私が求めていないからなのだな」

「ええ。……でも、これは、あなたが選択したと言うよりも、恐怖に駆られ、取った防衛行動に過ぎない」

「……どういうことだ?」

私は見えない彼女に向かって、その聞きなれた声に向かって、問い掛けた。

「簡単なこと。あなたは、気付いているはず。だから、恐れ、そして、逃避した」

「……違っ」

「違わない」

私の否定の言葉を、彼女はすぐに打ち消す。

「あなたは怯えている。私のことを思い出すことを。私の死を受け入れることを。……そしてなによりも、それによって自分が変わってしまうことを」

否定は出来たはずだ。……だが、その口まで出掛かった言葉は、最後の一線を越えることは出来なかった。私はその言葉を飲み下し、再び口を開いた。

「だが、私は、選んだ。現実のあの世界に生きると。君のことは、想い出に変えて生きていくと」

「私の記憶がないのにどうやって、……私を想い出に変えるの」

「それは……」

考えてもみなかった。しかし、当然と言えば、当然か。結局、私は、現世を選びきれなかったのだろうか?

「あなたは、……今のあなたは、あなたであって、あなたではない存在。……だから、あなたは、決してあなた自身とはいえない。けれど、あなたがあなた自身の一人であることもまた、事実。……ゆえに、私はあなたを愛している。……どんなあなたでも、それはあなただから」

良くわからないことを言ってくれる。

私はため息をついた。

「それなら、私は、どうすればいいんだ?」

そう答えると彼女が突如、私の目の前に現れた。

「……私の記憶を受け入れて。……そうすれば、必ず、選択の時が訪れるから。……必ず」

女神のような美しい姿をしていた。見たことなど、あるはすがないのだが、私にはそれだけ神々しく、彼女の姿が捉えられたのだ。

「私はそんな奇麗な、ものじゃない」

「………いや、十分に美しい」

その言葉は自然と零れ落ちた。何故だろう? が、私の本心だ。彼女にはそれが伝わるだろう。私の心に住む、彼女ならば。

「……雪村君は、……やっぱり、……」

彼女の表情が少し崩れた。それはどこか今までと違う、ある種、人間味を帯びた顔だった。それを見た瞬間、何かが、私の中にこみ上げて来た。だが、それが何であるのか、また、そのことが何を意味するのか、私には理解することが出来ず、ただ、問い返すだけであった。

「何だ?」

「何でもない」

気のせいだったのだろうか?彼女の表情が崩れたように見えたのは。答える彼女の顔は、夢で会う、いつもの彼女と変わらなかった。いつもと変わらぬ、非人間的な表情、そのものだった。

「……私は、後、何を思い出せばいいんだ? ……君の記憶を取り戻すためには」

人の姿をした女神に私は問い掛ける。

「……後、一つだけでいい。そう、最初から、思い出せばいいのは一つだけだった。その一つが、今のあなたを作り出している、最も大きな要因だから」

「それは、一体……。君の死が、今この状態を生み出しているんじゃないのか?」

彼女は答えることはしなかった。ただ、悲しく目を細めるだけで、何一つ口にすることはなかった。時の止まった空間で、永遠という名の時が流れる。私は堪り兼ねて、口を開いた。

「君は、何を求めているんだ? ……この、私に」

私はどんな答を期待したのだろう。単純に、話していたかっただけなのかも知れない。目の前にいるこの女性と、会話を交わしていることで、自分を保っていたいのかもしれない。

彼女は、答えた。

「私が望むのは、あなたと共に歩むこと。それが、どのような形にあったとしても……」

凛とした声で、そう言い残すと、彼女の姿は霧の中へと消えていった。最後に彼女が浮かべたのは、願いだった。

それからはもう、声が聞こえることはなかった。

……私は、何を忘れている? 肝心な記憶を。

一人、ピンクの靄の中、佇み、考える。すると右腕がまた、疼き出した。

私はその原因ともいえる、右手の甲をじっと見据える。縦に一本、小豆色に変色している、大きな傷跡。一体何処でつけたものなのか。彼女を失う以前? それとも以後? 答は……闇の中だ。

彼女の望むこと。それは、私とともに歩むこと。ならば、私の望むことは一体なんだ? 私は私が私であるために、過去を取り戻そうとした。しかしそれは、現実を生きることには繋がらないと解釈し、過去を取り戻すことを諦めた。またそのことが、私にとっての選択だと思ったのだ。

だが、彼女はそれを否定した。まだ、そのときは訪れていない、あなたが選択に迫られるのは、私の記憶を手に入れたときだ、と言って。

その指示に従うことは簡単だ。が、それによって何が得られるのかは、私には予測がつかない。

私は自分の中の道標を失っていた。

未知なる未来。それは時に希望と書き、時に恐怖と書く。だから、人は、未来の扉を開けることをいつも恐れる。だが、それはあくまで、一般人の場合だ。

過去を失った私に、未来を信じろとはあまりにも酷な言葉だ。蓄積された過去のない未来など、私にとっては恐怖以外の何物でもない。……人間が、恐怖に向かって歩いていくことなど不可能。それでは、何も頼るものがなく、何も信じていいものがない私はどうしたらいいというのか。その上に何も望みがなければ、どうやって生きていけばいいのか。

……理由が欲しい。金のためでも誰かのためでも、何でも構わないから、理由が欲しかった。私がここに存在する理由、意味。生きる理由ではない。存在する理由だ。いや、言い直そう、存在していい理由だ。誰も私を必要としていない世界で、私はどう生きればいい?

答えるものなど誰もいないのはわかっていた。だが、問いかけずにはいられなかった。次々に生まれてくる悲しみを、吐き出さずにはいられないのだ。

私は現実を生きていきたい。だが、私がそれを望んでも、過去を持たない私に、未来はあるのか。かといって、私が過去の自分を探したとして、それで、私が私でいられる保証が何処にあるというのだ?

私は……変化を恐れている。今の私を失うことを恐れている。

みんなが知っている自分を、私が知らない。今の自分を誰も、私とは認めてくれない。今の私は、もう誰にも、……必要とされない。必要なのは、消えた私。いなくなった私。……私の存在意義は何処にある?

……ワカラナイ、ワカラナイ、ワカラナイ……。

ふと、私の中に光明が差した。一つの、この迷路からの脱出経路。

……そうだ。こういうときは、……全てから逃げてしまえばいい。

間違った選択肢であることはわかっている。だが……、

逃げてしまえば、少なくとも、変わることだけは避けられる。……いや、いっそ、全てを、変えてしまえばいい。

もう、私にはどうしようもないんだ。

私の失った記憶も、全部、作り変えてしまえばいい。そう、私はもう、雪村ではない。……私は、もう、私ではないのだ。

そこまで言うと、何か間違っている気がしないでもない。だが、正解と間違い、それは誰が決めることだというんだ。神か? じゃあ、神の真意を人間が理解できるだろうか。……反語表現。

もう、悩むのは、よそう。誰かに迷惑は掛けるかもしれない。でも、生きている限り、それは当たり前だろう。なら、いっそのこと、全てを、全てを新しく始めればいい。そう全てを。

私は、深い眠りへと落ちていった。そう、自分自身を再生するために。

「うっ、うーん」

僕は、目を開いた。どこかの部屋の中で、真っ暗で何も見えないけれど、なんだか爽快な気分だった。

心も身体も軽く、何処までも飛んでいけそうだ。

「……雪村さん」

「うわっ」

突如として僕の側で、誰かが呟く。僕はそれに驚きつつも、声の調子から、女の人の寝言のようだと、僕は推測した。

少しずつ体を起こし、声が聞こえた暗闇に目をやった。僅かに人の輪郭が見て取れる。

……ていうか、ここ何処? 僕の家じゃないよ。……ということは、誘拐?まさかね。でも本当にここ何処だろ。家に帰っているところまでは、記憶にあるんだけど……。まあ、いいや、とりあえず、この家から逃げ出そう。明日からバイト探し、しなきゃいけないし。

僕は、寝かせられていた布団から、這い出し、そろりそろりと部屋を抜け出していった。横目で、この部屋の住人を起こさないように、細心の注意を払いつつ、一歩一歩慎重に踏み出していく。

廊下に出、階段を下り、玄関に向かった。不思議と迷うことなく、出口に辿り着くことが出来、とても幸運だった。

扉がギギギという音と共に、ゆっくり開く。年季の入った押し開きのタイプだ。そして、そこで一呼吸。すぐに僕は、駆け出した。門扉が外にあったが、それも、さっさと開き、そのままの状態で、夜の街へと繰り出す。後方で、ドアが勢いよくガチャンと音を立てるのがわかったが、気にせず、走った。

僕は何からも開放されるのだ。何物にも束縛されず生きるのだ。

なんだかそんなことをふと思った。

さあて、またいろいろな家、転々としないと。……僕に帰る家など無いのだから。

今までを思い返してみると、彼女の家へ訪れるのは、初めてのことだった。機会がなかったわけではない。しかし来なかった。いや、来られなかった、ということは、やはりそれだけの心構えが、出来ていなかったということなのだろう。付き合っているが、もう一つ奥へと踏み出す勇気。それがなかったのだ。

彼女の家は、駅からそう遠くはなく、近くもないといったところにあった。十五分ぐらいだろうか、私達二人は、両肩を並べて歩いた。それが心の整理をつけるためだったのか、よくわからない。だが、お互い少しでも近くにいたかったのは事実だ。しかし、だからといって私達が道中、何かを口にすることは無かった。

「ここが、私の家」

住宅街を歩く中、彼女はそう言って、立ち止まった。その拍子に、長い髪が揺れ、ふわりと舞う。微かな香水の香り。そのそこはかとない甘さに、私の胸が打たれた。

不思議なものだ。耀子と付き合い始めてからも、あの『未恋』をしていた時の感覚は、まるでなくならない。今でも、彼女を一目見れば、心はときめき、踊るし、脈も正常値より、多少速くなる。きっとこういうことは、人によって違うものなのだろうが、私にとっては奇妙でならなかった。でも、こういう奇妙さは嫌いじゃない。なぜならそれは、私が彼女に恋をしている、証拠そのものだから。……だが、このときめきがなくなったら、私は一体どうなるのだろうか? ……いや、考えても意味の無いことだろう。そんなこと、……有り得るはずがないのだから。

彼女の家に上がる。実際もっと緊張するのかと思いきや、そんなことはなく、門扉を開いた彼女の後に続いて、すんなりと、私は彼女の家の領域に、足を踏み入れた。

ここが、彼女の家である。改めてそのことを実感し、彼女が暗闇に包まれていた廊下に、明かりを点ける。それと共に、私は玄関からその中を見回した。構造は何のことはない、普通の木造建築だが……、そう、そこは、彼女の匂いで満ち溢れている空間であった。まるで自分が、異端者のような気がしてきてしまうが、彼女に包まれているように感じるこの感覚は、とても心地よかった。

まあ何にせよ、何度か来訪するうちに慣れるときが来るだろう。それはそれでもったいない気もするが。

「さあ、あがって」

そんな私の気持ちなど気にも止めず、彼女は、私は笑顔で誘導した。途中にある部屋の説明はとくにせず、そのまま突き当たりの扉を開き、ダイニングルームへと、直行する。

彼女が明りを灯すと、十二畳位の広さだろうか? それくらいの空間がそこには広がっており、右側にはリビングが、左側には、ダイニングキッチンが備わっていた。アパートに一人暮らしの私にとって、こういう空間は、故郷にある、懐かしき我が家を連想させた。もう、取り壊されてしまっているかもしれないが。

私が、完全に部屋の中に入り、彼女が扉を閉める。すると頭上でジャストタイミング、鳩が鳴き始めた。私は、その様子を振り仰ぐ。

鳩時計である。時刻は八時を指し、長針の先では、マジックハンドの要領で飛び出した鳩が、等間隔で鳴いていた。おおよそ、八回ほど鳴いたところで、その鳩は自分の住処へと引っ込んだ。新品なのか、ニスがよく光っていた。

「どうする? 早速、夕飯作ろうか?」

扉を閉めた彼女は、私に話掛け、フライパンを使うようなジェスチャーでそれを表す。突然の問いに、私は少し戸惑ったが、彼女の足がキッチンへと向かっていたので、苦笑しながら、

「ああ。そうだな。私も手伝おう」

「いいよ、いいよ。雪村君はゲストなんだから」

私の提案は、彼女の笑顔と共に却下され、……そこで彼女は何を思ったのか、くすっと急に笑った。

「どうしたの?」

「えっ、あ、ちょっとね」

「ちょっとって……何?」

私が追求すると、

「内緒」

彼女はウインクし、逃げるようにキッチンへと消えた。……一体なんだったのだろうか?……まあ、考えるだけ無駄というものか。

彼女を見送ってから、あらためて部屋の中を見渡す。テレビにパソコン、ビデオデッキに……PS2まで。彼女もゲームをやったりするのだろうか?まあ、それはともかく、ごく普通の一般家庭だな。他に推測するような事柄もなく、私はダイニングの中央にあった、テーブルの椅子に腰掛けた。

ゆったりと背もたれに、体重を預ける。背負っていたバッグは隣の椅子に置いた。……なんだか夢みたいだ。

私は今、彼女の家で、二人きり。しかも、夕飯まで用意してもらっている。なんていい身分なんだ。

換気扇の回る音がし始める。コンロを使い始めたのだろう。……何を作ってくれるのだろう? 得意料理と言っていたし、……麻婆豆腐だろうか、その可能性が一番高いだろうな。……後は、白米にお味噌汁、といったところか。野菜サラダぐらいは出るかもしれないが、なんともいえないな。……まさか、麻婆豆腐、単品っていうのは、ないだろうな。

そんな、想像を働かせていると、彼女が、キッチンから、若草色のエプロンを着けた状態で現れた。そんな彼女の周りには、家庭的な雰囲気が漂っていた。

「雪村君……。あのー、言いにくいんだけど、麻婆豆腐、単品でもいい?」

「……」

私の反応に、彼女は、苦笑いを浮かべる。

「ごめんね。本当は今日、外で食べてきちゃうつもりだったから、お米用意してなかったの。お味噌汁だったら、今朝の残りがあるんだけど……」

あははは、と彼女は空笑いをしながら、そう告げる。……仕方あるまい。

「今度は、白いご飯も一緒に食べさせてくれな」

私も苦笑しつつ、彼女の要求を呑んだ。ただし条件付で。

「アリガト、雪村君」

私の答を聞いて安心したのか、彼女は嬉しそうに頬を緩ませながら、再びキッチンに戻っていった。と、思ったら、ひょっこり顔だけをこちらに出し、

「別に、テレビとか見てても構わないから」

「ああ。わかった」

そう言われたものの、特に見たい番組があるわけでもなかった。だが、せっかくの好意を無駄にするのも、というわけで、私はテレビの電源をオンにした。

真っ黒の画面に、カラー画像が映し出される。右上には緑色で8の文字が。この時間帯だと、バラエティ番組か……。

画面の中では、芸人がなにやら、小ネタを披露している真っ最中のようだ。会場の方ではそれがなんだか面白いらしいが、……私にはそういうセンスが全くないせいだろうか、何処が面白いのか、理解不能だった。

テレビの上にリモコンを発見し、NHKに局を変える。丁度ドキュメントの時間帯であった。

……なになに? 特集、いじめの実態を追う? また、ありきたりのものやってるな……。

どこかの小学校の様子が映し出され、楽しげに子供が遊んでいる映像が私の視界に入った。そこへ、女性キャスターの語りが入り始める。

「……今、学校でのいじめが大きく変貌しつつあります……」

私はまたチャンネルを替えた。今度は野球だった。まあ、これが、一番落ち着くだろう。六回裏、二対一。まだまだ、試合はこれからというところか。

しばらくその画面を眺めていると、調理場のほうでジャア、という音が聞こえた。きっと挽き肉を炒める音だろう。ということは、もうそろそろ出来上がりだな。

案の定、それから数分後、美味そうな湯気を立て、麻婆豆腐はやってきた。結構な量である。二人でこの量を食べるのだろうか?

「ちょっと、多めに作りすぎちゃった。頑張って食べてね。」

彼女は、両手で皿を抱え、テーブルの上に、こぼさないようにとゆっくり置いた。間近でみると、さらにその量を感じる。

「これ、二人で食べるんだよね」

私は、とりあえず確認を取る。

「えっ、一人じゃ、無理?」

彼女は嘘っ、といった表情でこちらをみた。だが、その反応こそ、私にしてみれば嘘っ、である。どうやって、このトレー満杯の麻婆豆腐を消費しろというんだ。

「なんてね、冗談、冗談。私も一緒に食べるわよ」

「そ、そう。それはよかった」

「これ一人で食べたら、その後が持たないでしょ。……あっ」

彼女はしまったというような、表情を浮かべた。

「その後? 何かイベントが待っているのか?」

私は焦らず、そこを追求する。

「う、うーんとね、まあ、ともかく、ご飯食べよ。と言っても、麻婆豆腐だけだけど」

どうやら耀子は、何とかして、隠しとおしたいらしい。それなら、その話乗ってあげようじゃないか。……ま、なにはともあれ、この麻婆豆腐を体内に収めなければ。

テレビで野球中継が流れる中、私と耀子は、もくもくと蓮華でトレイのそれを掬った。

一口食べ、美味しかった。辛味も、四川風の味付けも、私好みのもので、口の中に、幸せな空間が広がる。舌に少し辛さが残るところがまた絶妙で、豆腐の味も引き立っていた。

「おいしい?」

「ああ。もの凄く。予想以上だった」

「ホントに?」

彼女は嬉しそうに、聞き返す。

「ああ。ホントに」

私も笑顔を作る。平凡ともいえるこの時間、空間が幸せだった。

しかしなんだかんだいっても、やはり量は多かった。二人とも、腹を一杯にして、どうにかトレーを空にすることが出来た。

「ふー。よく食べた」

「ほんと。こんなに作らなきゃ良かった」

「でも、おいしかったし……別にね」

「ありがとう。そう言ってくれると、嬉しい」

鳩時計を見ると、もう九時を回っており、長針は4と5の間にあった。いつの間に鳩はないたのだろうか? 全く気付かなかった。

そんなことを考えているうちに、私はさっき気になったことが、また頭に過ぎった。

「ねえ、そう言えば、この後、何かするの? さっき何か言いかけてたみたいだったけど」

「えっ、いつの話?」

「ほら、ご飯持ってきたときにさ、なんか言いかけてたじゃん」

彼女はそういわれて何かを、必死に思い出そうとしているようだった。すると、何か思い当たったのか、急に頬を赤らめた。それが何故なのかは、こちらに判断する材料がなかった。

「で、何を計画してたのさ?」

「それは……、その、……やっぱり、言えないよ」

「何で」

「何でって。そんな風に言われたら、こっちが困るじゃない」

「いや、逆ギレされても」

「逆ギレじゃないってば。ただ、……ちょっと、こういう雰囲気じゃ、言い出し辛いし……」

耀子は本気で困っているようだった。一体何が恥ずかしいのか。

「だったらどういう雰囲気なら、いいんだ。ある程度なら、その条件に従ってやるけど」

私はどうしてもその内容が気になったので、状況の打開策を提案した。

「……ホントに?」

「ああ。私達は恋人なんだしな」

「……そうだよね。恋人なんだよね。私達は」

「ああ」

彼女は何かを決心していた。その瞳の向けられている方向は、私自身に他ならなかったが、真に彼女の見ているのは、もっとその奥。私の中心を見透かしているようだった。

「じゃあ、雪村君、眼を瞑って」

「わかった」

私は素直に従う。

視界はブラックアウトする。そこで私は、視覚以外の五感、全てを駆使し、彼女の行動の解析に取り掛かった。

がたっと彼女が椅子から立ち上がる音がする。ひたひたとする、足音。それは確実にこちらに向かっていた。……彼女が私の前で止まる。

衣服のこすれる音。着替えているわけではない。ただこっちに近づくために、少し屈んだだけだ。

「雪村君、食後だけど、ごめんね」

「気にするな。それは私も同じだ」

「うん」

さっきよりも声が近くに感じる。その距離感がとてもリアルだ。

彼女が何を求めているのか、わかる。感じ取れる。私は垂れ下げていた腕を伸ばし、そこに存在すると思われる、彼女を抱きしめた。彼女の肩にひじの関節が触れ、手が、背中を抱きしめる。

「雪村君……」

「耀子……」

接吻が交わされた。互いを求め合う、幼い、がそれゆえに若々しいキス。しかし、さすがに甘くはなかった。

けれども私達の心は既に十分溶けきっていた。これも若さ故に、なのかも知れない。

「ねえ、雪村君。今日……、私の家に……」

ごくっと、彼女は唾を飲みこんだ。私もそれにつられる。

「泊まっていかない?」

その言葉の意味するところは、今までの彼女の行動を、全て説明するに足りるものだった。生真面目な性格の彼女からすれば、これを言い出すことは、かなりの度胸が要ったことだろう。実際こんなことを彼女が言うとは、思ってもみなかった。

「勘違いしないで、ね。私、別に、そんな、あくまでも、特別な意味を込めて言ったわけじゃないから。ただ、一人でこの家で過ごすのが、やっぱり少し淋しくて。だから……」

「大丈夫。わかってるよ」

私は強く彼女を抱きしめた。そのまま、私も立ち上がり、彼女の体を支えてやる。そして、私は目を瞑ったまま、そっと彼女の耳元に囁いた。

「大事なのは、二人でいることだから。……大丈夫だ。私達はいつも一緒だ」

「……うん」

彼女の答は、とても小さいものだったけれど、私にはそれで十分すぎるほどだった。

このとき私は思った。彼女とならば、どんな未来の扉でも開けていくことが出来ると。未来を恐れずに歩んでいけると。

もう一度、口づけを交わす。先程よりも、深く、優しく、互いをもっと知り合うように。私は腕に力を込めた。その形、その温もりを体に覚えさせるために。

一度口と口とが離れる。共に呼吸は乱れていた。が、それは苦痛であることはなく、むしろ嬉しくさえ感じた。言葉を吟ずる必要はなかった。

そこに君がいる。その感覚があれば、全てを理解できた。このとき私は、この世界に住むどんな人間よりも、自分は賢いと感じていた。私達は見つめあった。彼女は頬を赤くし、瞳を虚ろにさせながら、さらに求めてくる。私も肩を抱きしめていた手を、腰に回した。

彼女の細いくびれを、意識し、その形を、ゆっくりとなぞっていく。彼女の唇が私の首筋に触れた。柔かいなんともいえない弾力が、神経を過敏にさせる。

もう、精神的な繋がりだけでは、愛しきれない。

私はその行動を遮り、自ら、彼女が接吻してくれたところと同じ場所へ、唇をつける。くすぐったいのか、彼女はそれから逃れようとするものの、私は呪縛を解かなかった。

こんなにも彼女を近くに感じる。彼女の香りが、生まれたままの匂いが、私を男としての本能から目覚めさせようとしていた。

「いいのか……」

不安なのは私だけではない。彼女も同じだし、どの人間も変化することは恐れる。だが、彼女となら……。

彼女がコクン、と小さく頷く。微かに腕が震えている。私は、腰に回していた右手を、そっと離し、その腕を掴んだ。

「耀子と、一緒なら」

「雪村君となら」

二人の声が、重なる。……心も一つになった。

私達はもう一度、力の限りではなく、優しさの限り、抱きしめあった。彼女の体を、自分の身体を、お互いの距離を、感じ取るために。

「……好きだよ」

「言わなくても、わかってる」

長い一夜の、幕は上がった。

~あなたと共にありたくて~

ただの 一目惚れだった

でも そんな気持ちに あなたは全然気付いてくれない

あなたの瞳は いつも遠くにあって

決して私を 見てくれることはなかった

願っても 願っても 私を見てくれることはなかった

だから私は ずっとあなたと一緒にいた

それだけで 満足だったから

でもいつからだろう?

見つめるだけじゃ 満足できなくて

一緒にいるだけじゃ 満足できなくて

私はあなたに 私を知ってほしくなっていた

私の全てを

そして同時に

あなたの全てを 知りたくなっていた

時間の流動

ただ身を任せているだけでは

何も起きないから

私はあなたに 好きになってもらう道を選んだ

それが私の選択

 


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
0
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択