四
「大丈夫?」
「何故、そんなことを聞く?」
私はぶっきらぼうに、彼女の言葉を突き放した。
私はまたこの摩訶不思議な幻想世界の中へと潜り込んでしまったのだ。彼女のいる、時の止まったこの世界に。
そしてまた、目の前には、私の過去の人が立っている。……ふと、死のイメージが、頭を過ぎった。寒気。私は一刻も早く、この世界から抜け出したく思い、彼女との会話をさっさと切り上げよう試みた。
「その質問、意味がないだろう。この状況を作り上げたのは、他でもない君のはずだ。私が記憶を一つ取り戻すたびに、激痛が襲う、この状況を」
自分で言いながら、私は自分の言葉の不機嫌の度合いが、少しずつ増し始めていることに気付く。彼女が常に浮かべている、その優しい笑顔が、理由もなく、頭に来たのである。そう、まだまだ言いたいことは、たくさん心うちに溜まっている。……だが、皮肉なものだ。かつて最も大事にしていたものに、こうして腹を立てているとは……。
「何故こんなことをする? そんなことをして、得になるわけではないのだろう? ……だったら、」
しかし、私が次の句を告げる前に、彼女が先に声を発した。その表情は、うってかわって酷く落ち込んだものに変わっていた。
「それは、……違うよ。この呪縛を作ったのは、……あなた自身。……私は見守っていただけ。だけど、あなたは、私を巻き込んで、この呪縛を作った。そのこと自体は、別に……構わないし、私はあなたを責めたりしない。だって、現世と違うけど、こういう形でも、あなたと一緒に生きることができるから」
「ちょっと待て、この状態を作り出したのが、私? ……何を言っているんだ?」
彼女は私の問いを無視し、言葉を続ける。
「答はあなたにしか出せない。私はあなたの、選択を待つだけ……だから。」
「選択?」
「時が来れば、わかる……」
彼女のその悟りきった口調。私は黙るしかなかった。きっと何を言っても、有力な情報を手に入れることは出来ないに違いない。が、この状況を私自身が作り出したというのはどういう意味だ?
彼女は最後に言葉をひとつ漏らした。
「雪村君……。私の愛は、不変、だから」
悲しんでいるような、決意しているような、なんとも言いがたいニュアンスを、彼女の言葉に、私は感じた。死人のはずなのに、まったくそれを感じさせない生きた言葉。
私の幻想世界は、そこでぷっつり途切れた。
つ、つ、と目を瞑っている私の顔に何かが、降ってきた。雨だろうか? いや、そんなはずはない。ここはまだ室内のはずだ。……場所はさっきの部屋と同じ、のはずだ。まさか、彼女に限って、私を外へ放り出すなどということは、しないだろう。
真実を確かめるために、私は瞼を開けた。すると、ぴちゃ、と先ほどと同じ感触が、私の鼻の頭に当たった。私はすぐにその正体を知る。
涙。
倒れている私が、真っ直ぐ見上げると、そこには、ひたすら滴を溢れさせている、霧下冴子の姿があった。私は、そのままの体勢で、彼女の手前にある右腕を伸ばし、彼女の涙を拭った。
「何故……、泣いている?」
少し、声が掠れていた。だが、それでも、彼女の涙を止めるには十分だったようだ。彼女は目を見開き、
「雪村さん……、良かった……」
彼女は、声を震わせながらも、いまだ雫溢れるその顔に安堵の表情を見せた。
私はどれくらいの時間、彼女を泣かせていたのだろうか?彼女の鼻の頭は赤くなっている。そのことに少し、罪悪感を覚える。
「大丈夫か……?」
その意識からか、私は身を起こしつつ、そう言った。彼女の顔が間近にある。私は自然と、彼女の肩に片手を置いた。
「……ええ。……すいません。ちょっと、嫌なこと思い出してしまったから。……雪村さんこそ大丈夫ですか?」
嫌なこと、私は敢えてそれについては追及せず、彼女の問いかけに肯定を示すようにかぶりを振った。
「そうですか。……よかった。……本当に、……よかった。……あ、そうでした。アルバム、持ってきましたから」
また、涙がこぼれそうになったのを自分で感知したのか、彼女は話題の方向を変えたようだ。彼女の左隣に置いてあった、臙脂色の分厚いアルバムを手に取る。そして、それを私に渡した。
「お姉ちゃんの遺品の一つです。雪村さんに預けようと思ったんですけど、雪村さん、もう、ここへ来なくなっちゃったから……。」
彼女は伏目がちに呟いた。言葉を続ける。
「両親は、そのことが、少し腹に来ていたみたいですけど、私は、……あなたの気持ちわかっているつもりでした。身近にいた人がいなくなるのは、……辛いことですから……。……それじゃあ、そのアルバム見ていてください。……私は、下で、料理作っていますから。……残り物になっちゃいますけど、すいません。」
「いや、作って頂けるだけで、有難い。……こちらこそ、本当に迷惑ばかりかけていて、済まない」
「いいんです、雪村さんのためですから」
涙を打ち消すような笑顔をつくり、彼女はドアを開けっ放しにして部屋を出て行った。今更ながら、この部屋が、二階にあることに気付く。
「アルバムか……」
私は独りごちた。
想い出を、一枚の映像として残す、発明品。それは消滅させることも出来れば、復活させることもできる、一種の記憶。私は、その厚い表紙をめくり、一ページ目を開いた。
『霧下耀子・成長の証』
白いバックに金色で、それは描かれていた。下に撮影者の欄があったが、そこは空白だった。くさいタイトルとも思ったが、アルバムなんて案外、そんなものかもしれない。そもそもこんなものは、身内以外に見せることなど無いのだから。
次のページを開くと、見開きに四枚、赤ん坊の写真があった。
左上には、屋外で二人の男女に抱えられ、一緒に写っている。当然、彼女の両親と生誕時の彼女自身の姿であろう。両親はともに、二十代前半ぐらいであろうか。また、特に、母親の姿は、夢で見た彼女の姿と、良く似ていた。まさに、血のなせる業といえる。
……この呪縛を作ったのは、あなた自身……。唐突に彼女の言葉が甦った。……あの言葉の意味はいったいどういうことなんだ? 私は疑問を抱えたまま、次の写真に目をやった。
屋外の写真の下には、何がうれしいのか、嬉々としてこちらを向いている、一才にも達していないであろう彼女のドアップがあった。その隣には、寝顔。右上も違う格好ではあったが、それに同じものが写っている。この三枚は全て屋内で撮られたようだ。彼女の周りにわずかに見える隙間から、この部屋と同じ壁紙が覗ける。ここで撮られたのだろうか?
そんな調子で私はページをめくり、彼女はそのペースにあわせ、すくすくと育っていった。
次々に、彼女の歴史を見ていく。幼稚園、小学校、中学校、高等学校……。ここまで来て、私は彼女とは直接関係ない写真を一枚見つけた。その写真は彼女自身が何処にも写っていない一枚の男の写真だった。その男は制服姿で、上半身だけ写っていた。彼女の着ていたものと対を成しているところから、同校の学生であることが想像出来た。
その男に私は見覚えがあった。というより、その写真は、高校生の頃の私にほかならなかった。
「私の……写真か」
付き合い始めたのは、大学の頃からと聞いていたが、彼女の方は高校の頃から、私のことが好きだったようだ、と冴子からは聞いている。
私はその写真をアルバムから抜き出した。
「これが、……私、か」
新しい記憶として、過去の自分を手にいれる。いや、霞みがかった記憶の確信を強めたと言うべきか。私はそっと、その写真を元に戻し、次のページをめくった。
彼女は大学生になっていた。友達と一緒に映っている姿が、結構目立つ。写真にて微笑む彼女は、さすが奇麗だった。もう、夢の中の彼女と幾分も違わない。
しばらくすると、だんだんと彼女と一緒に写る面々が決まってきていた。サークル仲間かなにかだろうか? ……どうやらそうらしい。メンバー全員の集合写真らしきものが、あったからだ。その中には、……私もいた。
高校生の頃と全く変わらない、今の私がいた。
そのまま、彼女は成長を続ける。だんだんと、ファッションの幅も広くなっているような印象も受ける。口紅をつけたり、化粧をしてみたりと、どんどん大人っぽくなっていた。
それに比べて、私は全く変わることが……、
「これが、……私か?」
ページをめくった私の手が、急に止まった。見るとそこには、心から微笑んでいる私がいた。私は戦慄を覚えた。その写っている写真は、私一人だけが写っているものだった。この笑顔は誰に向けられたものだろう、考えるまでもない。撮影者に向かってだ。……即ち、霧下耀子に向かって。
そのページからである。極端に、私と彼女が二人きりで、映し出されたものが多くなった。写真が時間どおり並べられているという前提のもとで、計算するなら、大学四年の冬辺りといったところか。つまりその頃から、私は彼女と付き合い始めたということか。いや、確か、冴子は、私達が付き合い始めたのは、春からだと言っていたから、まだ、友達づきあいといったところなのだろうか?
どちらにしても、それは、今の私にとっては、にわかには信じがたい出来事であった。
人はこんなにも変われるものなのだろうか?そんなにも、彼女が私に与えた影響は大きかったのだろうか?
私は前ページに写る私と、今開いていたページに写る私とを見比べた。顔や身体、肉体的なものは変わっていない、だが、精神的な面、内なるオーラのようなものが、明らかにそこにいる二人の同一人物は、正反対であった。
片方は心の内に絶望を飼いながらも、無理をして笑っている。かたや、変化後の私は、生きる道に希望を見出し、無理一つせず、笑っている。
全く違うようで、同じ人間。一体、私に何が起こったというんだ?
私のその極致な変化に、知的好奇心が、奮い立ったが、消えてしまった記憶自体は、何も戻らなかった。
私は、次のページをめくろうと手をかけた、が、動こうとする手に、急停止をかけた。ほどなくして、アルバムを閉じる。
ここから先に写る私は、今の私ではなく、消えた記憶の中の私だ。その私と彼女の間には、このページで写っているように愛があった。
私は怖かった。
もう一人の私に出会うのが、怖かったのだ。未知なる自分への恐れ。
彼女のことを愛していた、私。その存在が、果たしていかなるものだったのか、私は知らない。だから、恐ろしい。
恋は人を変える、その言葉通り、一度、私は生きる道を変えた。しかし、変わったことで、私はいかなる人間になったのだろうか。
その変貌は、プラス方向だったのか、それともマイナス方向だったのか。記憶を失ったとは言え、恋が魔力のようなものであることは理解している。だからこそ、私は人間が恋に、救われるばかりでないことも知っている。恋によって堕落した人間も、数多くいるのだ。あの私は、笑っていたが、それが必ずしも、プラス方向に働いたからとは限らない。恋している本人にとっては、そのベクトルはいつだってプラスなのだから。
次のページを見ると、私は、きっとあの激痛に苛まれ、また一つ記憶を取り戻すだろう。そう直感した。だが、……だが、それは本当に、私の取り戻したい過去なのだろうか。忘れていた方がいい過去なのではないだろうか。
私には、その判断がつかない。
まだアルバムの間には指が挟まっていた。今これを、もう一度開くことも出来る。だが、私としては、今だけは、遠慮したかった。確かに、いつかは記憶も戻ってしまうだろう。しかし、それは今でなくてもいい。
……が、開けば、もう一人の私を知ることが出来る……。
未知を恐れる本能と、頭脳を手に入れてしまったが故の好奇心。
心の中で葛藤が生まれる。
悩むことは無意味だ。けれども、悩んでしまうのが人間でもある。目の前に並べられた二つの選択肢。私はどちらを選べばいいのか。その答を知るものはいない。
そこでふと、ある言葉が頭に過ぎった。
『……私はあなたの、選択を待つだけ……だから』
夢で聞いたあの台詞だった。……選択?
その瞬間、私の頭中を何かが、急スピードで走った。そして、閃いた。
そうか、選択というのは、このことだったのか。
今、このまま無視するのか、それとも、過去を見出すのか、二つの分岐が、私の目の前にある。それは即ち、私が現実に生きるか、精神世界を彷徨うのか、その二つの道があるということだ。
直接的にはそうならないが、間接的にはそうなるのである。
彼女の言動から推測すると、このアルバムでのものだけでなく、他の記憶全てを取り戻せたならば、私の霧下耀子に対する愛情は、再燃するということなのだろう。つまり、私は記憶を失うまで、彼女を愛していたのだ。そのため、記憶を手にしたら、必ず私は、深層意識の中に引きずり込まれるということらしい。
そこまで考えが至った時、再び、疑問が湧きあがった。
それならば、……彼女の言葉は、警告だったのだろうか、それとも、……願望だったのだろうか。……わかるはずがない。しかし、それがわかったからといって、私がそれに従う理由は、別段存在しなかった。
迷う必要はない、……私は、現実へ続く道を選ぶ。簡単な話、もう、私は彼女に恋をしていない。だから、記憶を取り戻しても、彼女のことは想い出に変え、生きていける。なら、わざわざ思い出す必要など無い。そう、夢にでる彼女の姿も、所詮は幻に過ぎない。今の私なら言い切れる。
彼女の妹が、階段を上ってくる音が聞こえる。私は、現実を選ぶ。もう、何にも縛られることなどないのだ。夕食ができたのだろう。こちらも準備をしなければ。
私は立ち上がり、アルバムを抱えた。
私は、……私だ。記憶が無くても、私は私でしかない。
静かなる決意を心に呟き、私は彼女が部屋に入ってくるのを待った。
「雪村さん、ご飯できましたよ」
「ああ。ありがとう……、んっ!」
春色のエプロンをしたまま、彼女はこの部屋の入り口に現れた。それが、私の記憶中枢から何かを引き出す。
四度目になるだろうか? 右手の甲に激痛が走った。
過去のイメージが湧きあがる。
『ご飯、出来たよ。……下、降りよ』
視界が霞むと同時に、目の前に立つ彼女の姿に、過去に生きていた彼女の姿が重なった。にこやかに微笑む彼女。果たして、それがどちらなのか私には、もう理解できていなかった。
私は、現実に……、現実を選んだんだ。ここで戻るわけには行かない。
だが、精神は次々に分離されていく。蘇る記憶。
初めて彼女の家に来た、遠い日の記憶。彼女の手作り料理を食べた。その料理は……麻婆豆腐だ。
右手が軋んだ。
そのときに見た春色のエプロン……。
……私は、完全に沈黙した。
半
「あの、雪村君……。どこか、いったん、入らない?」
夕暮れどきの、駅前通りを、二人並んで歩いていた。もちろん駅に向かってだが、ラッシュアワーの時間なのか、私達はさながら、川を上る鮭のようであった。人ごみは避けても、避けても、あっちこっちから次々と別の集団が、現れる。そんな中、はぐれないよう手を繋ぎ、私達は歩いていた。
今日は、要するにデートであった。適当にのんびりショッピングをして、ランチの後、映画を見てそれでお終い。至って、健全なデートであった。だけど、今日は平日ということもあって、ちょうど、お勤めから帰る社会人達の帰宅時間に、遭遇してしまったのだ。
「そうだな、こんな人ごみじゃ身動き取れないし、とりあえず、あそこに寄るか」
喧騒の中、私はとにかく目に付いた喫茶店を指差した。と、同時に腕を上げた肩が、向かってくる背広を着た男にぶつかり、よろけた。耳に舌打ちの音が聞こえたような気がするが、敢えて無視する。
「そうね。ちょっと、これじゃあ、デートって感じじゃ、ないし……」
耀子も他者と肩が当たらないように、苦しそうに歩いていた。人ごみというものは、やはりなんだかんだで、面倒なものである。
私達はさっさと、その場から脱出しようと少しずつ、その喫茶店へと、移動し始めた。しばらく行き、ようやく辿り着く。その喫茶店は、赤と茶を基調とした、洋風の造りであった。コンクリートにレンガを埋め込んだ壁に、ドアだけは木製。その隣には大きなガラス窓が二枚並び、そこから、中が覗けるようになっている。開店して間もないのか、壁に黒ずんだような跡はなく、窓も透き通っていた。
そこから覗くと中は、がら空きのようである。が、ドアには横にOPENと書かれた看板が掛けてあった。つまり、言ってしまえば貸切状態。私は、その白いドアを押し開けた。
小さいベルの音と共に、ゆっくりとドアは開く。まず、香ってきたのはコーヒーの匂いだった。朝は、ホットミルクといつも決めている私にとっては、少々きつい香りだったが、二、三回、鼻に空気を通すと、すぐにそれは馴染んだ。そんな私に比べて、彼女は慣れているのか、普段と変わらない顔をしているどころか、
「ん……。いい香り……」
と、小声で呟いた。
どうやら彼女はコーヒー派らしい。頭の中にそのことを、そっとメモしておく。
店内は外から見た通りがらんとしていた。テーブル席が全部で六つあるものの、全てが空席。カウンターにも、この店のマスターと思える人の影以外は、皆無だった。一昔前にヒットしたバラードの曲が、静かに流れている。それも手伝って、余計に淋しさを増している。
……ぽつんと時代に取り残された喫茶店。そんな印象だった。
「テーブル? それともカウンター?」
「……私はカウンターの方がいい……」
「じゃ、そうしよ」
特に拘りがあるわけではないが、私はこういう場に出ると、ついカウンターに座りたくなる、癖があった。子供の頃の、大人への憧れだったのだろうか、それが今でも抜けないのかもしれない。
私達は、真中のカウンター席に腰を下ろした。背もたれがない分、少し背中が丸くなる。そこで私達は、はたと困ってしまった。座ったはいいが、肝心のマスターが、遠くの世界にいて、私達の存在に、一向に気づかないようなのである。私はマスターの姿を観察した。年は、三十代前半ぐらいだろうか、左手を見ると、独身であることが推測された。顔立ちは、まあ特にいいわけでもなく、悪いわけでもなく、……だが、そのパティシェのような白い姿は、着慣れているのか、とてもマッチしていた。
彼の背後上方には、木製の棚がずーっと広がり、そこには多種のコーヒー豆が、産地別に分類され、ぎっしりと置かれていた。いや、コーヒー豆だけではないらしい、紅茶の茶葉も、その棚の中には含まれている。それぞれが瓶詰めになっており、一つ一つにラベルが張ってある。その下は食器棚。扉でちゃんと、閉じてあるが、ガラスが張ってあったため、中が透けて見えた。そこには西洋風の食器が、所狭しと並んでおり、端の方には、プラスチック製のコップも並んでいた。まさに客の用意は準備万端である。
だが、そんな中、男は……新聞を読んでいた。いったい何時間そうしているのだろう、私達が来ても、微動だにせず、新聞を読んでいる。
「ねえ、この人、私達に気付いているのかな?」
「……わからない」
彼女が耳打ちしたので、私は素直に感想を述べた。客がきても相手にしないマスター、などというものに私はかつて、出会った事がない。というか、普通いないだろう。
「……注文は?」
突如響いた声に私の心臓は、びくっと跳ね上がった。隣の彼女も同様だったらしく、私達は顔を見合わせた。マスターの方を見ると、視線は新聞に注がれたままであったが、彼の意識は微かではあるが、こちらに向いている。
「……ああ、そうだ。この店はメニュー、ないからな。ある程度のものなら作ることが可能だ。全部自己流だが。……注文は?」
彼は補足を入れた後に、もう一度さっきと同じ口調で、質問を繰り返した。
私は呆気にとられていたが、しばらくしてから、はっとして、現実界に戻ってきた。
「えっと、それじゃあ……」
「私は、コーヒーと、サンドイッチいろんな種類の詰め合わせで」
「わかった」
彼女は至って平静に対処していた。私は彼女のこういうところが、凄いと思う。いつも、少しぽけーっとしているところを、よく見るのに、こういう時、物怖じせずに、すぐにその場に馴染んでしまう。それに比べ、私はというと、人付き合いもあまりしないせいか、こういうマニュアル外の人間が現れると、どうも、上手く接することが出来ない。よって、知らないうちに、私の口は彼女と同じ物を頼んでいた。すると、
「駄目だ」
と、却下された。
唖然とする。そして一歩遅れて、私の頭の中に、再びクエスチョンマークが渦巻く。なぜ、彼女のものは了承されて、私のオーダーが却下なんだ?
「人の真似をするな。ここはメニューがないんだから、自分の好きなようにトッピングすることが出来る。だから、食べようと思えば、ラーメンとハンバーグという、突飛な組み合わせも可能だ。……だから、自分の意志で、メニューを決めろ」
それは何者にも、口を出させない断固たる意思のように、私には思えた。これが彼のポリシーなのだろうか。……それならば、私もそれに従おうか。
だが、愛想が悪すぎるだろ……。
「……じゃあ、ウヴァのロイヤルミルクティー。それと、簡単なお菓子を少量。特に指定はないけど、さくっとしたものがいい」
「了解」
それを聞くとマスターは、新聞を四つに畳み、それを彼が座っていた椅子の上に置いた。そして厨房の奥へと消えていった。来た当初は気付かなかったが、どうやら奥にはちゃんと調理場があるらしかった。
彼の姿が完全に見えなくなって、ざあっと水道の音が聞こえると、
「なんか、変わった人ね」
「ああ。……かなり無愛想だが」
「そうだね」
彼女も同意して微笑む。
その後、私達は、他愛もない世間話に花を咲かせた。しばらくすると、思っていたよりも早く、料理はやってきた。おいしそうな湯気を立ち昇らせながら……。
「はい、今日のコーヒーと、ウヴァ茶のロイヤルミルクティー。まずくならないうちに、飲んでくれ。サンドイッチとスコーンは、後ちょっとで出来る」
彼はそれだけ言って、厨房に戻っていった。厨房の方から微かに、何かを焼いている匂いがした。きっとそれがスコーンだろう。
耀子が桜色のマグカップを手に取り、自然と目を瞑った。私もそれに習い、白いマグカップに、手を伸ばす。
「いい香り。こういうコーヒー毎日飲めたら、幸せだろうな」
「耀子はコーヒー、好きなのか?」
「えっ、あ、うん。そんな通って程じゃないけどね、美味いか、不味いかの違いぐらいはわかるほうかな」
そう言って彼女は微笑んだ。そして、一口、コーヒーをすする。彼女の、のど仏が上下に動いた。なんだかそれが、とても艶かしかった。
「……おいしい。雪村君も紅茶、飲んでみなよ」
彼女にそう言われたからではなく、彼女と目が合い、ついつい私は、紅茶のほうを向いてしまった。
ばれていないよな。
心中の疑惑を打ち消すように私は、紅茶を手に取った。
香りを確かめ、それから、ゆっくりと口に含み、味わう。これが私の紅茶の飲み方だ。私はそれを実践した。
人間はこうするとき、よく眼を瞑る。それはおそらく、五感の内、一つをシャットダウンすると、他の感覚が冴えてくるような気がするからだと私は思う。
私はその神秘の味を口にした。
一口飲んで、ゆっくりとカップを置く。
「美味い……」
「でしょ」
成る程。あのマスターは、こういうことに、余程、精通しているらしい。
マスターが再び現れた。今度は両手にトレイを持ち、まるでウェイターのようだ。そのトレイの上には、サンドイッチの載った小皿とスコーンが四つある小皿とが、それぞれに乗せてあった。
「はい。これで以上だな。俺はこれから、新聞を読んでるから、帰るときは声を掛けていってくれ。あと、呼ぶ時は名前でな。そうじゃないと、俺、反応が悪いんだ」
そう言ってマスターは苦笑いをした。
「名前で?」
「ああ、そうだ。『だいろくの』だから。ちなみに字は、大きいの『大』に、漢数字の『六』、最後が野原の『野』だからな。よろしくな」
「珍しい、名字ですね」
「ハハ、よく言われるよ」
マスターはその笑顔のまま、先ほど四つ折にした新聞を手に取り、また同じ体勢で、新聞を読み始めた。その顔は、見えなかったが、一仕事終えた達成感からか、身体が、店内に流れている音楽に合わせて、揺れていた。
そう悪い人ではないらしい。ただ、料理に対してとても高い理想を持っているのだろう。
マスター自身の手で運ばれてきた料理の味も、素晴らしいものだった。見事なまでに、紅茶と合っている。まさにプロの仕事。
私達は、そのおいしい軽食に雑談を交えつつ、時間をすごした。
だが、楽しい一時というものは、あっという間に過ぎていく。腕時計を見ると、午後六時半を指していた。秋の日はつるべ落しというが、いつの間にかもう外は真っ暗だ。私は、自分達の食器が、もう空になっていることも改めて気づいた。
「耀子、そろそろ行こうか。ぼちぼち帰ったほうが良いだろ?」
私にそう言われ、彼女も時計を確認する。
「そうね。そろそろ帰らないと。と言っても、今、誰も家にはいないんだけどね」
「そうなのか?」
「あれっ、言ってなかったっけ? 今日からうちの両親、慰安旅行に出かけるのよ。冴子は冴子で、従姉妹の家行ってくるっていうし……」
そう愚痴る彼女の瞳はどこか寂しげだった。
「冴子って、耀子の妹だろ? 今日は平日で、学校があるんじゃないのか?」
「開校記念日なの。」
彼女は難なく言い放ち、空になったカップの縁に口をつける。
「そうか、それじゃあ、寂しいよな……」
「えっ、いや、そういう意味で言ったんじゃないんだけど、雪村君」
彼女は慌てて否定した。そんな無下に否定しなくてもよいのだが……。まあ、私にはそういう面を見せたくないというのが、彼女の中ではあるのかもしれない。……なんて自惚れすぎか。
私は自分の考えに苦笑した。
「何が、可笑しいのよ。もう……。あっ、大六野さん、おいしいご飯、ありがとうございました」
「会計は、二人合わせて千二百円ぴったしだ。俺はお前らの良心を信じるから、勝手に代金置いてってくれ」
大六野さんは新聞から全く目を離さずに、そう言った。私は財布から、夏目漱石と百円玉を二枚取り出し、カウンターの上に置いた。カチッと金属音が鳴る。
私達は立ち上がり、店を出た。ドアを開くと、再び鈴の音が鳴る。それは入ったときとは違い、とても小気味良く聞こえた。軽くお腹もふくれたせいか、足取りも軽い。
夜空に星が輝いていた。駅前通りもライトアップされていた。人ごみは、先程よりも減ってはいるものの、まだまだ、多かった。
私達は苦労して何とか駅まで辿り着き、電車へと乗り込んだ。それと共に二人同時に、溜息が吐き出され、互い声を出さずに笑った。車内には空席があったが、敢えて座らなかった。たった、二、三駅だった上に、彼女と向かい合っていたい、という気持ちが、強く働いたからだ。彼女も多分そういう気持ちなのだろうと思う。
「おいしかったね」
「そうだな、でも、大分、遅い時間に食べたから、しばらく、夕飯はいらなさそうだけど……」
私は微苦笑を浮かべた。
「そうね、それに、せっかく食べたあの味を、わざわざ自分の料理で汚したくないし……」
彼女の気持ちはなんとなくわかった。あれだけのものの後に、カップラーメンなんかとても食べられない。それは、あのスコーンと紅茶に失礼というものだ。一人納得しながら、今の耀子の言葉に疑問を持った。
「……耀子、料理得意なのか?」
「うーん、よくわかんないけど、……あっ、でも、麻婆豆腐は結構、好評だよ」
「へー、意外」
「そう?」
「うん、どちらかと言うと、中華より和食の方が、得意そうだし。……ふーん、そうなんだ。じゃあ、いつか、試食させて貰おうかな」
私のコメントを聞いた後、急に彼女は、私の視線から逃げるようにして、俯いた。そこには、一人の恥らう女性の姿があった。いったい何を思ったのだろう?
「耀子?」
私は心配になって声を掛けた。
何か、不安にさせるようなことでも、言ってしまっただろうか?特に思い当たる節はないのだが……。私はそこまで考えた時、彼女が顔を上げ、私の耳元で、囁いた。
「……雪村君。……今日、……私の家に来ない?」
彼女の顔が、こんなに近くにある。その頬は、少し赤く染まっていた。
ブレーキを掛けながら、電車が、プラットホームへ滑り込む。しかし、今の私には、そんなことはどうでもいいことだった。
私の全身は、今、確かに波打っていた。
半
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第一章もようやく四部です。
少しずつ記憶が戻っていく、主人公。
はてさて冴子の気持ちの行方はいかに。
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