「本当に、ヤン・チャオさまは変わられましたね」
しみじみとしたリンドウの声に顔を上げた。
今年は猛暑だ、とてつもなく暑い。
そしてスズは暑さに弱い。
死にそうな鳴き声を上げて、べったりと寝そべっている。
床に。
このネコは、いつも気持ちの良いところを知っている。
何度言っても寝そべるので、床は滑りやすくなるほど磨かれていた(実際わたしは二度、スズは五度ほど滑った)。
そのスズのために、わたしはせっせとウチワを仰いでやっている。
「他の人に尽くすなんて姿、見ることができるとは思ってもいませんでした」
「まったく」
リンドウの横でカイドウも深く頷く。
「明日、ウコン川は凍りつくでしょうね」
「お前はいつも一言多い」
「ああ、そうだ」
リンドウが懐から小さな玉を取り出した。
「城下でこれを見つけたのです。スズさまに」
硝子の中に橙色の模様が入っているきれいな玉だった。
膝をついたリンドウがその玉を軽く弾く。
ゆっくり音をたてて床を転がってゆく玉に、スズがはね起きた。
首の鈴がリンとなった。
好奇心にあふれる瞳でじっと見つめている。
華奢な指で、じゃれるように転がして遊ぶ。
「気に入ったようだ。スズ、リンドウにお礼は」
笑って言うと、ぺこりとお辞儀をした。
そして。
「こら、スズ!」
あろうことか、リンドウの口に自分の口を合わせた。
「わたし以外のものにそんなことをするんじゃない!」
仰天して引き寄せると、不機嫌そうに鳴いた。
リンドウは真っ赤な顔して、手を口に当てている。
もしや初めてじゃあるまいな。
「いいなあ」
カイドウが心底うらやましそうにリンドウを見た。
「おれのネコじゃらしのときは、お礼も口づけもなかった…」
腕の中でスズが暴れた。
「こらこら、スズ。駄目だ。お礼だけにしておきなさい。はい、どうもありがとう」
わたしの声に合わせるようにへこりと頭をさげて、にっこりとカイドウを見る。
「どういたしまして」
律義にカイドウも頭を下げた。
再び床に寝そべったスズは、玉で遊びながらウチワを仰げと鳴いた。
「王子をこきつかうネコもめずらしい」
「喜んでこき使われる王子もめずらしいですよ」
「それにしても、ヤン・チャオさまは、スズさまが何を言っているのか分かるのですね」
「当たり前だ」
満悦して足をパタンパタン鳴らしているスズを見やりながら言う。
ウチワの風に目を細めている。
「愛の力だ」
「愛…ねえ…」
その時、扉が開いた。
「殿下。氷菓子をお持ちいたしました」
「キムザ」
スズが元気よく跳ね起きる。
真っ直ぐにキムザに駆け寄り、甘えるようにまとわりついた。
リンドウの玉をしっかり持っていくことも忘れなかった。
「はいはい、スズさま。今、ご用意いたしますからね」
ウチワを持ったままのわたしがぽつりと取り残される。
「愛…ねえ…」
「一方通行だわ」
カイドウ、リンドウがひそひそと話している声がする。
「スズ。お前はわたしよりも食い物を選ぶのか」
手際よく卓に並べてゆくさまを、唾を飲み込んで見つめているスズを抱き上げると、離せと怒った。
氷菓子は、冬に貯蔵された氷室から出した氷を、細かく削って甘葛をかけたものだ。中々に貴重でめったに口にできない。
しかし、くそ暑い季節には涼を運んでくれる。
この城に入ってから贅沢に育ってしまったスズは、これが大のお気に入りだった。
「本当にお前は、日に日に贅沢になる」
椅子に座り、膝の上で開けて待っている口に匙を差し込む。
「みなに甘やかされすぎだ」
可愛い顔が、その冷たさを味わうようにうっとりとする。
「しかも、わたし以外のものにしっぽをふるようになって」
口についている蔓のあとを舐める。
「飼い主がふがいないからではないのですか」
スズの口に匙を持っていく振りをして、わたしが食べたらすごい目で睨んだ。
「カイドウの口はへらないね」
氷菓子を平らげて、満足したスズは礼を言うようにキムザに向かって鳴いた。
「明日もご用意いたしましょうか」
「駄目だ。食い過ぎて腹をこわしたらどうする」
「それもそうですわね」
そんな、と悲しげな声は聞こえないふりをした。
深夜。
静かな部屋の中にはスズのねだるような鳴き声とわたしの秘かな笑い声が響いている。
当たり前だ。
誰にでもしっぽをふるネコは罰してやらなければならない。
「お仕置きだ」
涙を溜めた黒い瞳で見上げられても。
甘えるように腰をくねらせられても。
「お前が悪い」
クスクス笑いながら口づける。
「ごめんなさいは?」
炎が弾ける寸前に、動きを止める。
白い肢体の熱が収まりかけた頃に再び煽る。
スズは誰が謝るかと鳴いた。
「強情なネコだ」
何度もそれを繰り返した。
「もうしませんと言え」
耳元で囁くと、涙を流してあなただけだと鳴いた。
――あなただけがあたしのすべて。
ただ「あ」と「う」の中間の声だ。
それでも、わたしにはスズが何をいっているのか分かる。
痛いほど分かる。
「ああ、スズ…」
お前を愛している。
お前だけを愛している。
何度も囁きながら貫くと、白い肢体は全てを飲み込むように跳ねた。
うだるような暑さの中。
わたしとスズは汗と涙と体液に濡れた体を重ね合う。
真夏の夜に夢も見ず。
で、今日もわたしはウチワを仰いでやっている。
本人はぐったりと床に寝そべっている。
遊ぶ気力もないらしい。
リンドウの玉はしっかり手に握られていたが。
「今日は元気がないですね」
「昨夜は少し激しすぎたのかもしれない」
わたしの返事にリンドウが顔を赤らめた。
「ヤン・チャオさま。万一、その…スズさまがご懐妊されたら…」
「その時はその時だ」
白い額にかいている玉のような汗を拭ってやる。
スズは、少々頭は足りないものの、外に出ればいい付けを守って大人しくできるほどの知恵はある(まれに暴走する)。
ただ、この城の有象無象に蠢いている権力から守る為にも、あまり公には出したくない。
別にここにずっといる必要もないが。
それに成人はしているはずだ。
背が低いため幼く見えるが二十かそこらだろう。
一度本人に聞いたら、首をかしげた。
自分の年を知らないのか。
いつまでも、このような生活が続かないのは分かっている。
しかし、わたしはこのネコを手放す気はない。
一生ない。
考え込んでいる内に、手が止まってしまったらしい。
スズが不満そうな声を出した。
「我儘なネコだ」
うるさい、お前のせいだと鳴いた。
「そんなことを言うのか、この口は。またいじめるぞ」
笑いながら唇を撫でると、慌ててご機嫌をとるように口を合わせてくる。
「よしよし」
「でも…いつまでも、今のままでは…」
「王になるのはボンクラのどちらかがなればよい。妻も子も愛人もいるのだからな。セリナもさっさと他の男と結婚すれば良いのだ」
あの女はわたしに執着しているわけではない。
「その背後にはいろんな利権が絡んでいますしね」
「この国ならではですよね」
「馬鹿馬鹿しい」
スズはいつの間にか、わたしの膝の上に頭を乗せて寝ている。
丸まった小さな背中が上下に動いていた。
「昔からそうでしたけど、ヤン・チャオさまは本当に無責任ですよね」
「これから無責任王子とお呼びしましょうか」
「色ぼけ王子もアリですね」
「おいおい、笑顔でなんて毒矢を放つのだ、お前たちは。脆いわたしの心がこわれてしまったではないか」
「ヤン・チャオさまの心臓は鉄でてきています」
「そっとやちょっとのことでは壊れません」
「ご心配なく」
ニコニコしながら充実なる下僕たちは暴言を重ねる。
「そして、おれたちは無責任王子にどこまでもついてゆきますから」
「お覚悟を」
「お前たちときたら」
つい笑いだしてしまった。
スズがネコだとしたら、この二人はまるでイヌのようではないか。
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ティエンランシリーズ第六巻。
ジンの無責任王子ヤン・チャオと愛姫スズの物語。
真夏の夜に夢も見ず。
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