外にでると、ネコはわたしの言うことをよく聞いた。
食堂ではきちんと箸を使って食べたし(部屋の中では、わたしの箸からでないと食べなかった)、トホトホと可愛らしく歩くその姿は、道行く男たちを振り返させた(部屋の中では、日長一日中、寝台でゴロゴロしているばかりだった)。
そんな可愛らしいネコと、一つの寝台で寝ていれば、そりゃ男女の関係にもなるだろう。
白くしなやかな肢体と、流れるような焦げ茶の髪は、しっとりとわたしの体に馴染んだ。
そして少女はおぼこだった。
初めての時、やけに痛がると思ったら赤い血が付いていて驚いた。
ネコは素肌の背を見せる事を極端に嫌がった。
そうなれば、好奇心が疼いてしまうのはわたしの悪い所だ。
ある日、ついに見てしまった。
白く華奢な背中には、一面の傷の跡があった。
鞭で叩かれたであろう傷、鋭利な刃物で切られたであろう傷。その他これでもかというほど、痛々しい跡が残っていた。
見られてネコは泣いた。初めて泣いた。
「可哀そうに」
その小さな背中に唇を付けると、びくりと体を震わせた。
「誰にやられたのだ」
聞くなと言う風にかぶりを振る。
「親御さんか」
かぶりを振る。
「…前の飼い主か」
しばらく戸惑ったあと、コクンと頷いた。
「可哀そうに」
後ろからそっと抱きしめると、回している腕にホタホタと涙が落ちた。
「これから、お前はわたしの傍にいなさい」
しっとりした髪をかき分け、赤く染まっている耳に優しく囁く。
「いいね、ずっとわたしの傍にいるのだよ」
コクコクと頷くと、体を巡らせて唇を合わせてきた。
涙に濡れたそれは塩辛い味がした。
ネコの名前が決まった。
ある日、ある時、ある町で、大通りを歩いている時だった。
鈴の音がした。見上げると、民家にポツンと風鈴が風になびいていた。
異国の涼を運ぶものらしい。
涼やかな音だが、季節も秋、風は冷たくなっている。
ものぐさな人物の住まいなのだろう。
ネコの足が止まった。
両手を僅かに広げ、仁王立ちになって見入っている。
「風鈴が欲しいのか?」
フルフルと頭を振った。
そして興味を無くしたように、わたしをひっぱる。
もしかして、あの音が気に入ったのではないだろうか。
風鈴。音。鈴。
「スズ」
なあに、というふうにわたしを見上げた。
「お前の名前はスズでどうだ」
嬉しそうににっこりと笑った。
やっとお気に召してくれた。
そしてネコの名は、スズになった。
宿の部屋に入ると、スズは早速、寝台の薄布を引っ張って丸めた。
飛び込んでそれに抱きつき、寛いだように足をパタンパタンと振った。
いつものことだ。
その玉を抱えながらわたしの膝でくつろぐのが、最近のお気に入りらしい。
「旦那、お久しぶりです」
扉が開いて、笑顔だった宿の少年が凍った。
寝台の上で寝転がっている少女の頭を膝に乗せているわたしを見て。
「あの、その、お邪魔しました!」
慌てて引っ込む少年を、笑って呼び止める。
「邪魔ではないよ。入っておいで」
スズはちらりと首を上げたが、無関心に薄布玉に顔を埋めた。
再び足がパタンパタンとなる。衣がめくれてふくらはぎまで出現している。
初な少年が顔を赤らめた。刺激が強すぎるのだろう。
「スズ、大人しくしていなさい」
衣を直しながら注意をすると、鼻を鳴らして少年に背を向けた。
「あの、その子は…」
「わたしのネコだよ」
はあ。少年はきょとんとしていた。
「ああ、そうだ。あの、旦那の知り合いのハヅキさんて人から伝言がありまして」
「へえ。懐かしい名前だ」
「半月後にここにくるから会いたいと」
「分かった。ありがとう」
「いいえ」
少年は立ち去らない。じっとスズを見つめている。
「スズ、ご挨拶しなさい。ここの宿の息子さんだ」
しぶしぶ起き上がった少女は、寝台の上に座り直すと、少年に向かってペコリと頭を下げた。そして取って付けたように、にっこりと笑った。
少年の顔が変わった。呆然としたような、見とれているような。
すごいな。
人が恋に落ちる瞬間を、目の前で見てしまった。
当のスズは、仕事は終わったとばかりに再び寝そべった。
あくびをして、わたしの膝に頭を擦りつける。
「あっ…じゃあ…、おれはこれで…」
「ああ、申し訳ないけど、飯を部屋に持ってきてくれないか」
「はい、分かりました」
扉が閉まると、静かになった。
スズは小さな寝息を立てている。
飯がくればすぐに目を覚ますだろう。
金というものはすぐになくなる。
特にスズと一緒になってからだ。
宿はともかくとして、飯代がかさんで仕方がない(よく食うネコだった)。
仕事をすることになった。
日払いなのでありがたい。
この日は薪割りをやった。
わたしのネコも手伝ってくれる。
別にネコの手を借りるほどでもないが、一人でやるよりは楽しいものだ。
台の上にスズがちょこんと薪を置く。
そして慌てたように走って避難する(斧が薪を割るときの音が怖いらしい)。
わたしが薪を割る。
再びスズが駆け寄ってそれを取ると、新しい薪を置く。
繰り返している内に、スズが疲れたのだろう、キュウとひっくり返ってしまった。
「飯にしようか」
笑いながら言うと現金なものだ、すぐに起き上がった。
宿の飯をうまそうにワシワシと食う。
「満足したか」
満腹満足満悦というふうに腹を叩いた。
薪割りを再開する。
スズもチョロチョロと走って、手伝ってくれる。
全てが終わったのは、昼過ぎだった。
腕が痺れている。やはり斧と剣は違うものか。
スズも疲れたように鳴いた。
「よくがんばったな」
焦げ茶の頭をグリグリと撫でてやる。
「少し町をぶらついてから帰ろうか」
いこう、いこうと手を取る。
「こらこら、スズ。まだ金をもらってないよ」
有難く賃金を押し頂いて、スズと手をつないで町にでる。
出店で買った饅頭を食い歩きながらブラブラする。
何気なく雑貨店に寄った。
「何か欲しいものでもあったのか」
スズがじっと一点を見つめている。
ビロウドの首飾りだった。紺色の地に赤い鈴が付いている。
「お前がこれをつけると、本当にネコになってしまうよ」
笑いながら言ったが、ねだるように見上げてくる。
その可愛らしさに負けて、結局買った。
外に出て、早速つけてやると黒い瞳が喜びに輝いた。
自分でリンリンと鳴らして遊んでいる。
そして大通りの真ん中でわたしに飛びついた。
抱き上げると、人目を憚らず嬉しそうに唇を重ねてきた。
「こらこら」
苦笑しつつも、応じる。
人々の好奇の視線が集まったが、まったくかまわなかった。
ある日、ちょっと足を伸ばして川へ遊びに行った。
大きくも小さくもない、ごく標準的な渓流だ。
目の前の流れは緩やかだが、上流は岩の上から水がゴウゴウと落ちていた。
スズが歓声を上げて走り寄る。
と、その足が止まった。
一点を凝視したまま動かない。
「スズ?」
不思議に思ってみると、一匹のカエルがわたしのネコと対峙していた。
「まさか食う気じゃあるまいな」
からかうように言うと、スズは奇声を発してわたしに飛びついた。
そのままものすごい勢いでよじ登ってくる。
「こら、スズ、どうし…」
口を塞がれた。と、いうより顔を塞がれた。
スズはわたしの顔に真正面からしがみついていたのだ。
よほど怖いのか、手と足でぎっちり抱きかかえ、ブルブルガタガタと震えている。
可哀そうに思ったものの、このままではわたしが窒息死してしまう。
剥がそうとすると悲鳴を上げて、さらに力を込められた。
どうしようか。スズを残して死んでしまうのは忍びない。
震えている背を二三度叩くと、気が付いたのだろう(スズもわたしを殺すことは忍びないに違いない)、器用に後ろへ身をずらした。
カエルに近づくと、慌てたように止めてくれと髪を引っ張られる。
「痛い痛い、痛いだろう、スズ。わたしは馬か」
仕方がない。
「あっちの方にいってみようか」
同意する鳴き声を出すと、手綱を引くようにぐるりと髪を引っ張った。
やはり馬だ。
スズを肩車したまま、岩の重なるその場所に向かう。
木々の紅葉はもう終盤を迎えたのだろう、色とりどりの葉がピルリピルリと落ちてゆく。
スズを下ろすと、何を思ったかいきなり水に飛び込んだ。
「スズッ!」
川の流れは速い。秋の終りの水は冷たい。
慌ててわたしも飛びこむと、クルクルと回転しながら流されていくスズを追った。
「何を考えているのだ、お前は」
小さな体を捕まえて、岩場に引っ張り上げると、スズは再び飛び込もうとする。
「こら!やめなさい。また流されるじゃないか」
不満そうに川底を指差して鳴く。
そこには魚が数匹、団体になって泳いでいた。
「あれを取ろうとしたのか」
コクコクとスズが頷く。
「取ってどうする気だったんだ」
パクパクとスズが口を動かす。
食う気だったのか。
「お前という奴は…」
もぐることも出来ないで、流されていたくせに。
「危ないから駄目だ。それより日のある内に宿に戻ろう。風邪をひいてしまう」
スズが鼻を鳴らした。
「そのかわり、今日は酒場に行こうか」
提案してやると、嬉しそうに身を擦り寄せてきた。
そしてわたしの顔の前で、ブシュッとくしゃみをした。
いつものように、仕事帰りにスズと二人町をぶらついている時だった。
「こんな所で何をされているのです」
低い声に、思わず顔をしかめて振り返った。
カイドウとリンドウだった。
「どれだけ探したと思っているんですか!」
冷静沈着が売りの男、カイドウが声を荒げる。
「しかも、そんな子供を連れて」
リンドウが女性特有の冷めた目線でこちらをねめつける。
怯えたように、スズがわたしに縋った。
不安そうな黒い瞳で見上げる。
その小さい体に手を回して、安心させるように優しい声を出した。
「怖がらなくていい。この人たちはなんでもすぐに怒るんだよ」
「ヤン・チャオさま!」
なんでもすぐに怒る二人が、同時に声を上げた。
「陛下から重要なお話があるそうです。至急、城にお戻りください」
「本当に、何なのですか、その子は。まさか、隠し子ですか」
「大きな隠し子だね」
スズを抱き上げて笑う。
そういえば、この子はいくつなのだろうか。
「三日、待ってくれ。必ず城に戻る。ネコを連れてゆくから、そのように」
ネコのような少女だけど。
「かしこまりました」
「お待ちしております」
憮然と返事をすると、踵を返していった。
スズはそれを見つめながら首を傾げている。
そして悲しそうな声で、耳元で小さく鳴いた。
「大丈夫だよ。お前も一緒に行くんだ」
白い頬に口を寄せると、ホッとしたように抱きついてきた。
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ティエンランシリーズ第六巻。
ジンの無責任王子ヤン・チャオと愛姫スズの物語。
「お前の名前はスズでどうだ」
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