カナンは小さく頭を下げると、踵を返したが、アオイは海へと視線を向けたままだった。
息を吸うと喉の奥が震える。
目の前の海原はぼやけたままだ。
流れる涙を拭うこともせず、アオイはただ立ち尽くしていた。
今まで周りにいなかった女だから、興味を持っただけだ。餌で釣る間もなく、ワカはアオイの前から姿を消してしまった。さようならの一言だけを残して。
望めば大概のものは手に入った。だから、ただ執着しているものとばかり思っていた。
ではなぜこんなに胸が痛いのだろう。次から次へと涙が溢れるのだろう。
アオイはやっと気が付いた。
これは、ぼくの初恋だったんだ。
失ってから気が付いてしまった。もう、どうにもなるものではない。
「ぐずぐず泣いてんじゃねえ。辛気臭え」
後ろから吐き捨てるようなイランの声が聞こえても、アオイは振り向かない。
この男がわざわざ声をかけてきたということは、もしかして柄にもなく慰めるつもりなのだろうか。それとも言い訳か。
「そばに来るなよ、冷血漢」
自分の声は涙にぬれて醜かったが、それでも精一杯の虚勢を張って横に来た男を睨みつけた。
「お前だって、ワカを気に入っていたくせに。なんであんな酷いことを言って他の男に差し出したんだ」
「お前は世間知らずだな、本当に」
痛々しさが僅かに含まれているのは、アオイの気のせいだろうか。
「自分の杓子で物事を見るな。闇者はな、好いた惚れたで左右されるような生易しいもんじゃねえ。利用することはあってもな」
この男は、あえて言っているのだろうか。まるで自分がワカに惚れていた、と告白しているようなものじゃないか。が、口から出たのは違う言葉だった。
「ぼくはまだ、視野が狭いのかな」
イランは何も言わない。
「じゃあ、広げないとね。助言をありがとう。これで決意は固まった」
さて、父と姉は同意してくれるか。
「ああ、よく帰ってきたね。わたしの可愛い子供たち」
「ただ今戻りました。父上」
寝台の宮に持たれて、書類に目を落としていた父は目を細めて二人の姉弟を見やった。
「ああ、二人とも顔つきが変わったね。まるで別人のようだ」
イランたちは金を受け取るとさっさと消え、王の側近たちも人払いをされた為、ツキヤマを残すのみ。
「父上。お願いがあります」
無邪気な顔で、キキョウと今までの体験を楽しそうに話していたアオイの表情が改まった。
「どうした、アオイ」
「近い未来、東より風が吹きます。とてつもなく残忍で人々に血の雨を降らせる風が。それはクズハを襲うかもしれないし、ティエンランを直撃するかもしれない。ですから父上」
アオイはいったん息を吐き、それから大きく吸い込んだ。
「ぼくはもう一度外の世界を見て回りたいのです。今、各国に何が起こっているのかを知りたい。この身分なら権力に近いところまで潜り込むことが出来ます。だから…」
「馬鹿者」
低い父の声は大きくはなかったが、十分に迫力があった。
「アオイが闇者のまねをするというの? その話が本当だとしたら、あなた、逆に人質に取られて利用される可能性だってあるのよ?」
姉の厳しい声もした。
「キキョウの言うとおりだ。その前にアオイ。ちゃんと順序立てて話してはくれないか」
「はい、父上」
何度でも話す。
許してもらえなければ、アオイはこの城から抜け出す覚悟だってある。
****
覚悟はできている。
闇夜の中、ワカは目前を走るヒサメを追いかけている。里に戻れば、東の館へと預けられ、新しい任務の為に様々なことを仕込まれるだろう。
それでいいと思う。それがいいと思う。
所詮は幻を見たのだ。
恋をした男に振り向いてもらえるかもしれないという、儚い幻。
とんだ幻想だった。
「役立たずなんだよ。もういい加減足手まといだ」
自分はそういう風に思われていたのか。
「煮るなり焼くなり犯すなり好きにすればいい」
イランにとって、あたしはその程度の存在でしかなかったんだ。
悔し涙がこぼれそうになる。
認めてもらいたくて、傍にいたくて、死ぬほど頑張った。折檻にも耐えた。
それなのに。
仲間たちとは別格の扱いをされていたと自惚れていた自分が恥ずかしい。
長年の慕情は、切ない痛みに打ち消された。
代わりにやけっぱちの様な奇妙な覚悟が出来上がった。
この体、この命、好きに使うがいい。
森へと入り、木々の枝から枝へと飛び移っている時、ふと気配に気が付いた。
一人、二人、三人、四人。
ワカと同じ速度でヒサメを追っている。烏なのだろうか、鳥までも。
「ギャア」
その鳥の鳴き声を合図に、ヒサメが立ち止った。ワカもその前に着地する。同時に四つの影も、地に降り立った。
「お頭ぁ。この子ですか? 噂の美少女は」
からかうような声が背後から聞こえる。
「処女やで、処女」
「フラウですら失敗した任務をこの娘がこなせるかのう」
「余計なこと言うんじゃないよ、ジジイ」
漆黒の闇夜でも、闇者たちは目が効く。ワカは三人の男と一人の女にぐるりと取り囲まれ、珍獣のようにジロジロと眺められていた。
この人たちが本家の直属衆か。痘痕顔の男、坊主の男、髭の長い老人、そして露出度の高い女。
「お前ら」
低いヒサメの声がすると、空気は一転、ぴしりと緊張が走った。
「ヤン・チャオは現在シノを放浪中」
「過去にハヅキという男が接触をしております」
「この男、ティエンランの女王と関わりがあり、なにかしら使えそうです」
「ジンの城は動きなし。ただ国王が時期継承は第三王子に、ともらした情報があり」
流れるような報告を聞きながら、ワカは内心舌を巻いた。
多方面に渡った徹底的な調査。これが直属衆の力か。
「さて、お姫さま」
無機質な声に、ワカは顔を上げる。何を言わんやとしていることは、分かった。
自分はここに組み込まれるのではない。道具として使われるのだ。
「お前の仕事は、ジンの第三王子、ヤン・チャオをたらし込んで城へと潜入することだ。その後の指示はこれで」
コンコン、とヒサメが木の幹を叩いた。
「おれが出す。お前はその通りにすればいい」
「はイ」
「婆も腕が鳴ると喜んでいた。せいぜい励んでこい。使えないのならば、その場で殺す」
後ろからヒソヒソと笑い声がした。
笑いたければ笑えばいい。
ワカは黙って目を閉じる。
あたしにはもう失うものなんて何もない。
ワカはまだ知らない。近い将来、その身が歴史の起爆剤となることを。
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ティエンランシリーズ第五巻。
クズハの王子アオイたちの物語。
覚悟はできている。
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