時計の音だけがコチコチと妙に耳に付く。
今まで帰宅すると、必ず待っていてくれた男がいない。帰っても来ない。
もしかしたら、またミニマムな体になってしまったんだろうかと、部屋の中を捜しまわってみたが、見当たらなかった。
取りあえず連絡、とケータイを取りだしても、本人はそれを持っていない。
ケータイを持たせるべきだった。GPS付きの。
それとも、昔に帰ってしまったのだろうか。
いきなり現れた時と同じように。
そこまで考えて、初音は口に手を当てた。
ありえる。とってもありえる。
驚愕と同時に愕然とした。
直隆はこの時代の人間ではない。いつまでもここにいるのかもしれないし、今にでも戻ってしまうかもしれない。
林田兄からの連絡は、まだない(一度、博の同期、梅木なる男が書いた、戦国時代人物考察の論文が送られてきた。ロリエウルトラスーパーガード夜用ぐらいの分厚さで、初音は二ページ目でギブアップした)。
今まで、先のことなど何も考えていなかった。
ただ今に溺れていた。
怖い。未来が全く見えない。
五年後、十年後。いや、数か月先のことすらも。
部屋の真ん中、へたりこんで腕をさする。軽く鳥肌が立っている。
その時、扉のあく音がした。
「ただいま…」
帰ってきた直隆を出迎えたのは、「おかえりなさい」でも、三つ指でもなくて、
「どこほっつき歩いていたのーっ!」
見事なアッパーだった。
「この不良侍! 心配掛けるんじゃないよ!」
「は、初音、落ち着け、落ち着け…!」
「なにあんた、居酒屋臭い。ほろ酔いで御帰宅か! 鮨詰めはどうした!? 酔っ払ったお父さんのお土産と言えば鮨詰めか天心甘栗と相場が決まっているものでしょう!」
「意味が分らん…」
「それに煙草臭い! この不良! 二十歳デビューか! 煙草はお肌に悪いんだぞ!」
「はい、どうどう」
「あたしは馬じゃなーーーいっ!」
直隆、今度は平手打ちをお見舞いされた。
「林田君たちと飲んでいたの? なんでまた」
ひとしきり暴れて初音はようやっと落ち着いたらしい。
痛む顎と頬をさすりながら、直隆は頷いた。
「初音の職場を訪ねたら、森下洋子に誘われてだな。そこに林田篤も参加して、なぜかそういう流れに」
「売り場に来てくれたんだ。ごめんね、今日は本社に行っていたの」
「楽しかったぞ。二人とも本当に初音を慕っておるのじゃな」
自分の知らない初音を聞くことは、直隆にとってもとても楽しかったし、こそばゆく嬉しくもあった。
ただ、洋子の言葉に引っ掛かりを感じた。
「マネージャーの柏木さんも、店長に夢中なんですよ。妻子持ちのくせに。そうそう、二人で目で会話とかしちゃったりして。ふふ」
「…柏木という男と仲はいいのか」
「いいも悪いも、上司だし」
ふい、と初音が顔を逸らせた。
その仕草にいらっとする。顔を掴んで無理やりこちらを向かせると、明らかに嫌がった。
「何すんのよ」
「その男に気でもあるのか」
「なにを…」
嫉妬というものは不思議なもので、僅かな疑念が瞬発的に巨大化する場合がある。己の想像に取りつかれて、それが真実だと見誤ってしまう。
「わしの目を見て言え」
両手で初音の顔を挟んだまま、引き寄せた。痛みにその顔がゆがむ。
「柏木と関係をもったことはあるのか」
「…ある……」
痛い、と初音が悲鳴を上げた。そのまま髪を引っ張られたのである。
「その男と体を重ねているのか。わしの知らぬところで、わしに言えぬようなことをしているのか。その男の名を…」
「せっからしーわぁあああ!」
突然、右腹に初音のケリが入った。不意を突かれた直隆が体を折り曲げる。
「何もないっつーとろーがー!昔の男でも仕事上のつきあいはあるんじゃあー! それをギャンギャンギャンギャンうるさい!」
手を振り払った初音はそのまま直隆に襲いかかる。決まった、ヘッドロック!
「大体、浮気する気力も体力もないっつーの! 朝二発夜三発プラス他で浮気が出来るほど、あたしゃー超人じゃないっ! それでも疑うか? ああ?」
「よく言うわ!」
初音の凶暴性はよく知っている。男が女に手を上げるのは如何なものか、とこれまでは耐え忍んできた直隆だったが、この日は違った。首をホールドされたまま、細い体に手をまわして岩石落とし!
「『最近結構体力付いてきたんだ~。人間の体って不思議~』とかぬかしておったではないか! その不思議な体、とことん追求してやろうか?」
「結局それか!? そこに行きつくのか!? スケベ侍! エロ河童! リンボーダンス!!(意味不明)」
「浮気者! 暴力女! 世界不思議発見!!(これも意味不明)」
ブチブチブチッと音がして、ブラウスが引き裂かれる。初音の顔色が変わった。
「なにすんのよ、ナラカミーチェなのに、これっー!!」
怒りのひざ蹴りが直隆の股間にクリティカルヒット! さすがにうずくまって激痛に耐える。
「そんなにやりたいなら」
むっすり初音が立ちあがった。売られたケンカは買うぜウラァというような顔をしている。
「相手してあげる。覚悟しなさい」
雄々しくブラウスを脱ぐと、床に叩きつけた。試合前にガウンを脱ぎ棄てる力石徹のようであった。
わしはマットに――いや、ベッドに沈められる。
と、直隆が思ったのかどうかは分からない。
ただ後日、「薄れゆく意識の中で阿修羅を見た」と語った。
なんにせよ、この日のデスマッチ(ピンポイント限定)は、激戦、ラウンド、そして延長を重ね、二人が泥のような眠りに付いたのは夜も明けた頃である。
勝者がどちらだったのか、それは二人にとっては、もうどーでもいいことだった。
―補足―
せからしい→下関弁でうるさい、しつこいの意味。
ナラカミーチェ→イタリアのシャツ専門ブランド。デザイン性、機能性に優れている。高い。
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殴る+蹴る+罵る(初音×直隆)=お約束♡
現役戦国武将とタイマンはれる初音のスペックは無限大。