双胴の小さなレシプロ機が、緑の上をゆっくりと飛んでいる。
両肩にプロペラを二つも背負っている割には非力で、ペイロードも少なく、速度も出ない。火器管制は空対空装備を扱うように出来ていないので、自衛用のミサイルも積めず、機銃も無い。パイロンに申し訳程度の爆弾を抱えて飛び上がるのがせいぜいで、おまけにコックピットも狭い。
良い所と言えば、こんな低空でも安定して飛べるとこだけだ、とリンチは思う。木の数を数えられる程の低空でもよく反応し、素直だ。緑の中に一本、南東に向かって狭い街道が伸びているが、あの街道に沿って飛ぼうとすれば、この機体は応えるだろう。尤も、そんな酔狂な事は試さないが。試さないが、そのうち出来るようになるんじゃないか、ともリンチは思う。なんせ、ここを飛ぶのはもう三回目だからだ。それも一回目と二回目はそれぞれ昨日と一昨日。きっと近いうちに、木の数どころか、葉の枚数を数えられるようになるに違いない。
過去の二回は二回共、パイロット達が戻ることは無かった。リンチが何度呼びかけても反応が無く、彼の任務は空振りで終わっている。そして今回も、地上からの反応は無かった。
どうやら撃墜される直前に、例の狭い街道を通過する大規模な部隊を、落とされた三機が三機共確認しているらしいのだが、彼が来る頃にはきれいに居なくなっている。逃げ足が速いのか、緑の下で息を潜めているのか。
三度目の出撃が空振りに終わった翌日。
陽が傾きだした頃に、ケヴィン・リンチ中尉は彼の相棒である非力なレシプロ機で出撃した。昼過ぎから降り出した雨は、緑の色を濃く、くすんだ風合いに染める。
任務は撃墜機パイロットの捜索救難。場所は、昨日までの三回と同じポイント。グリッド308と呼ばれ、緑の深い森以外には何も無い場所である。フライトマップのマス目を数えて三百八番目であるからそう呼ばれているだけの、何の変哲も無い場所の筈だった。
同じポイントで四度も、それも毎日立て続けとなると、どうもきな臭い。この日リンチは、陽が暮れてからもしばらく飛び続けたが、結局発見したものと言えば、移動中であった敵の小型車両一台だけで、ベイルアウトした筈のパイロットは確認できなかった。
撃墜された状況は今までの三回と変わらない。CAP任務中であった飛行隊が、あの狭い街道を南下する大規模な敵車両部隊をレーダーで確認する。航空阻止を行うため、その飛行隊が目標に接近すると、対空ミサイルによる迎撃を受け、四機中二機が生還、二機が被撃墜。撃墜されたうちの一機は、パイロットがベイルアウトする直前までFACと交信があったというのに、その後さっぱりと応答が無い。
夜が明けると、雨は止んでいた。
「何、見てんです?」
戦術マップの前で腕組みするリンチは、背後から声を掛けられた。ちらりと振り向くと、またすぐマップに視線を戻す。
「グリッド308」
「ああ、昨日の」
リンチに曖昧な返事を返し、若い士官も同じように戦術マップを見た。
「何か、判りました?」
どうやらこの若い士官は、リンチと同じ疑問を持ってはいないらしい。
「敵さんにとって、ここを抑える戦術的価値は何だと思う?」
士官はリンチの質問の意図を解っていない風であったが、それでもマップと、リンチの横顔を交互に何度か見た後、考え始めた。
「……価値は無い、と思いますが」
たっぷり二十秒程考えてから、彼の出した答えは、リンチの出したそれと同じ。
「そうだ、価値は無いよな」
若い士官の出した回答を肯定して、また考え始める。何度も何機も撃墜されているという事は、グリッド308付近に、敵の強力な防空網があると考えるのが普通だ。勿論リンチもそう考えている。
SAMサイトがあるのかも知れない。或いは、対空車両が隠れているか。だとすれば、レーダーで確認された敵影、というのも納得がいく。
ところが、そう仮定すると今度は、幾つかの疑問が浮かぶ。
まずは戦術的な問題。若い士官が出した回答をリンチが肯定したように、このポイントに何の戦術的価値も見出せない。どの拠点、どの都市を結ぶ線上にも、この地点は掛かっておらず、一般的に考えて、そんな所に戦力を割く筈は無いからだ。
もう一つ。リンチはグリッド308に、今週だけでもう四回も飛んでいる。あのポイントを飛んだ友軍機は悉く撃墜されているのに、どう云う訳か、リンチの相棒である非力なレシプロ機が追い返される事は無かった。それどころか、一発の発砲も受けていない。
腕を組んだまま動かないリンチと戦術マップを、若い士官は不思議そうに交互に見遣った。
「リンチ!」
しゃがれ声に名前を呼ばれて、リンチの意識は思考から引き戻される。
「聞こえてます少佐!」
振り向くと、声の主は銜え煙草のまま、真っ直ぐこちらに歩いて来た。
「物思いに耽るヒマがあったらすぐ出ろ」
そそくさとその場を離れる若い士官を尻目に、司令は目の前まで来ると、煙草を親指と人差し指で摘み、忌々しげに灰皿で擦る。
「お前の大好きな308だ、行ってこい」
「またですか、こんなのはどうかしてます! もう五回目だ」
少佐と呼ばれた司令官は、リンチの問いには答えずに、新しい煙草を銜えた。
「地上部隊でも出したらどうです」
「味方がぼろぼろ落とされるジャングルにか? 航空支援はどうする?」
食い下がると司令は立ち止まり、振り返る。
「現状じゃ航空支援も出せない、危険すぎる。何かあると言うなら、まず何かを見つけて来るのが先決だ」
昼を過ぎた頃に、非力なレシプロ機は小さな空港に戻ってきた。
滑走路横の小さなスポットに止まる機体を、司令が腕組みをしたまま待ち受ける。
「何か見つかったか?」
キャノピーを開け、まだヘルメットを被ったままのリンチに声を掛ける。
「なにも」
「そうか。済まないが、補給が終わったらまた行ってくれ」
また、と聞いたリンチは、タラップを降りる足を止めて振り返った。
「第一報はついさっき、だ」
話を聞きながら、司令の横に立つ。司令は彫りの深い目でリンチを一瞥してから、くるりと振り向いて歩き出した。煙草の匂いが鼻に付く。
「状況は同じですか?」
司令の後ろをついて歩きながら尋ねる。
「CAP任務中に敵地上部隊を発見。空爆を試みるが追い払われて一機撃墜。お前の知ってる状況と同じか?」
「なるほど」
溜息を付く。撃墜された状況は、過去の五回と同じらしかった。少し考えてから、リンチは話し始めた。
「少佐」
「なんだ」
「轍が、ありません」
司令が足を止めて、振り返る。
「どういうことだ?」
リンチは、低空でよく安定する非力なレシプロ機を操り、もう五回も飛んでいる。いずれ眼下の緑の中から、虫食いのある葉だけ選んで数えられるようになるほどだ。それだけ飛んで、彼はある発見をした。
明け方まで降り続いた雨は、狭く舗装されていない街道に泥濘を作っていた。撃墜された機は、街道を走る車両部隊を確認していた筈なのだが、あの狭い街道には、雨が上がった後に何かが通った形跡は無かった。
「……SAMサイトでも、あるってのか?」
リンチの言葉を黙って聞いていた司令は、低いしゃがれ声を絞り出す。
「そうとしか、思えません」
「なら、レーダーに映った敵影はどう説明する?」
リンチは答えに窮した。撃墜される直前、レーダーは敵影を捕捉している。街道の泥濘に存在しない、本来ならあるべき轍が、車両部隊など無かった事を示しているのなら、例外無くレーダーに捉えられた敵影は、車両部隊が確実にそこに居た事を示していた。
「ま、考えても仕方無いな」
深く吸い込んだ煙を吐き出して、司令が呟く。
「忘れろ。任務に集中しろ。何かあるなら何かあるなりの対処を、しかるべき所がする。俺たちの任務はそれじゃあない」
「……そうですね、そうします」
鋭い目で肩をぽんと一つ叩くと、煙草の匂いを残して離れてゆく。リンチはその場に立ち止まったまま、その背中を見送った。切り替えて目前の仕事に集中する事にしたが、嫌な予感が頭から離れずにいる。まだグリッド308の謎は続くだろう、と漠然と感じていた。その度に彼は飛び、嫌な予感と妙な空気を吸うだろう。補給はあと三十分程で終わる。
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