(ほんとに、どうすればいいんだろう)
日曜日。
小学六年生の遠野琴葉は自分の部屋にいた。
テーブルの上にはノートが置かれ、算数の問題が書かれている。
琴葉はテーブルの前に座り、明日行われる小テストのための勉強をしていたのだ。
しかし、持っている鉛筆は先ほどから全く動いていない。
答えが分からないのではない。
そもそも問題すらちゃんと見ていなかった。
全ては先日たぬ吉が言った、あの名前のせいである。
たぬ吉は、琴葉の住んでいる町に古くから済む古ダヌキの怪だ。
人々に迷惑をかける事なく、怪帰師にも協力している。
天草光一郎とユズの事も昔から知っているようだ。
そんなたぬ吉が言うには、光一郎はこの町に来た時、落ち込んでいたとの事。
怪帰師である光一郎の相棒となるはずだった通役候補と何かがあったせいらしい。
そしてそれは、光一郎の幼馴染の女の子だった。
彼女の名は、最上瑚江。
(何があったんだろう……)
琴葉はたぬ吉にその理由を聞こうとしたが、「それ以上詳しい話は、わての口から言われへん」と言って教えてくれなかった。
(光一郎君に直接聞ければいいけど……)
琴葉はそう思いながらも、すぐに首を横にブンブンと振る。
そんな事、できるわけがない。
「だって、彼女は光一郎君の――」
「僕の、どうしたんだい?」
「え、あっ!」
その声を聞き、琴葉はハッとなった。
琴葉の隣には、白い肌に大きく澄んだ目とシュッと通った鼻筋、凛々しくて綺麗な唇を持つ少年が座っていた。
サラサラとした銀髪の髪を揺らしながら、琴葉を覗き込むように見ている。
この少年が光一郎だ。
「ええっと、あの」
「さっきから全然問題を解いてないけど、僕の説明はやっぱり下手かな?」
「え、あ、ううん。上手! 大山先生の十倍、ううん、百倍分かりやすいよ!」
琴葉は慌てて笑顔を作ってそう答えた。
光一郎は琴葉が算数を苦手だと知って、勉強を教えるよと言ってくれたのだ。
運動神経もいい上に、勉強もできる。
少し頼りないところもあるが、見た目も性格も完璧すぎるほど完璧だ。
(そんな光一郎君が、わざわざ日曜日に家に来てくれたのに)
琴葉は湖江の事ばかり考え、全く集中できない自分が情けなくなった。
その時、部屋のドアが開いた。
「こんにちは~」
琴葉の母親がニコニコしながら部屋に入って来た。
「光一郎君、さあ、ジュースを飲んで。お菓子もあるわよ。チョコとおせんべい、どっちがいい?」
母親は笑顔で光一郎に近寄る。
「ちょっと、お母さん!」
琴葉は、光一郎を庇うように母親の前に立った。
「琴葉、そんなところに立ったら光一郎君が見えないじゃない」
「見る必要ないでしょ」
「どうして? 娘のボーイフレンドをチェックするのは母親の義務でしょ」
「ボボボボボーイフレンド???」
琴葉は顔を真っ赤にすると、母親に迫った。
「光一郎君は、ただのお友達だから!」
「またまた~、そういうのはいいから。お父さんもちゃんとチェックしろよ~って天国で言ってるはずよ」
「そんなの言ってないし! いいから出て行って!」
琴葉は母親の背中を押すと、部屋の外へ追い出した。
「ああ~、ジュースとお菓子……」
「さっき私が用意したのがまだあるから! ほら、外に出て!」
琴葉は母親を部屋の外に完全に追い出し、ドアを勢いよく閉めた。
「まったくくも~」
「琴葉ちゃんのお母さん、いつもあんな感じなのかい?」
ふと、光一郎が尋ねた。
「お父さんが亡くなってから、ますます酷くなったかも」
三年前に亡くなった父親はいつも琴葉を優しく見守ってくれた。
しかし、母親は正反対だ。
「お父さんは、さっきみたいにズカズカと部屋に入って来る事なんかなかったし、ああいうデリカシーのない事、言わなかったもん」
琴葉は母親のそういうところがちょっぴり苦手だった。
「ほんと、お母さんってどうしてあんななんだろう」
それを聞いた光一郎が微笑みながら答えた。
「僕は、琴葉ちゃんのお父さんもお母さんも、いい人だなって思うよ」
「お母さんも?」
「ああ。僕は親とあんな風に親しくはなかったから」
「光一郎君……」
光一郎の一族は代々怪帰師をしている。
彼が実家でどのような生活をしていたのかは聞いた事がない。
それでも、電話のやり取りを見ている限り、光一郎の父親は厳しそうな気がした。
母親も厳しい人なのかもしれない。
(それに、光一郎君は、今、ユズちゃんと二人暮らしだもんね)
この町に来たのも、怪を元の世界に帰し、怪帰師として父親に認めてもらうためだ。
ユズというのは女性型の機械であり、見た目と違い格闘技が得意だという。
(光一郎君が認めてもらえるために、私も力にならないと)
怪の多くは人間の世界に現れると、人々に災いを与える。
違う世界の存在であるため、人間がいくら攻撃してもダメージを与えられない。
そこで、怪を元の世界に帰す怪帰師という仕事が生まれた。
怪帰師は怪と交渉し、元の世界に帰ってもらうのが役目だ。
そのためには怪が帰るのを納得する『願い』や『条件』を聞き出し、叶える必要がある。
けれど、怪帰師は怪を元の世界に帰す『光の扉』を開く力はあっても、怪の言葉は分からない。
そこで、怪の言葉が分かる『通役』の存在が必要となる。
琴葉はその通役として光一郎の相棒になったのだ。
(だけど……)
琴葉は、先程思わず口に出した言葉を思い出した。
『彼女は光一郎君の……』
光一郎が住む家には、写真立てがあった。
そこには光一郎と、通役になるはずだった幼馴染の瑚江が一緒に写っていた。
そんな瑚江に何かが起こり、彼女は光一郎の通役にはならなかった。
その理由を知りたいが、光一郎には聞けない。
(だって、最上さんは光一郎君の、許嫁だから)
琴葉は沈痛な表情になると、小さく溜息をついた。
「どこか、分からないところがあるのかい?」
光一郎が、琴葉にそう言う。
「えっ、あ……」
光一郎は、琴葉が算数の解き方が分からず悩んでいると思っているようだ。
「そうじゃないよ。そういう事じゃないんだけど」
それ以上は、やはり何も言えない。
琴葉は勉強に集中できないまま、ノートに書かれた算数の問題を力なく見つめるのだった。
その頃、一人の女の人が路地を必死に走っていた。
白いワンピースを着て、ツバの広い白い帽子を被っている。
腰元まで伸びる長い黒髪が、激しく揺れていた。
女の人は走りながら、何度も後ろを確認する。
誰かから逃げているようだ。
路地を曲がり、さらに曲がる。
だが次の瞬間、女の人は目を大きく見開いた。
袋小路になっていたのだ。
女の人は焦る。
周りは家の塀があり、逃げ場はない。
その時、男の人達の声がしてきた。
「こっちに行ったZE!」
「今度こそ逃がさないYO!」
それを聞き、女の人はパニック状態になる。
それでも、目の前にある塀をじっと見つめた。
刹那、二人の男が袋小路に駆け込んで来た。
小太りの青年と、細くて眼鏡をかけている青年だ。
二人は袋小路を見て、目をパチクリさせた。
そこには、誰もいなかったのだ。
「そんな。こっちに行ったはずだZE!」
「ああ、逃げる場所なんてどこにもないYO!」
二人は、スマホを持っている。
スマホの画面には袋小路が映っていて、動画を撮っているようだ。
「他の場所を探そうZE!」
「絶対に捕まえてやるYO!」
二人はスマホで動画を映しながら、来た道を戻って行った。
「……ポ」
かすかに声がした。
袋小路の堀の向こうに、木が見える。
その木の枝が揺れていた。
「ポ、ポポ」
木の陰から、先ほどの白い帽子を被った女の人が姿を現した。
どうやらとっさに塀を乗り越え、庭に隠れたようだ。
女の人は塀の上からそっと顔を出し、二人がいなくなったのを確認すると、安堵の表情を浮かべた。
だが、その姿は妙だ。
塀は2mほどの高さがあったが、女の人の顔はおろか上半身まで、塀の上からはっきりと見えていたのだ。
何かを踏み台にしているわけでも、ジャンプをしているわけでもない。
女の人は、ただその場に立っているだけだ。
風が吹き、長い黒髪が揺れる。
女の人は風に飛ばされないように、被った白い帽子を手で押さえた。
その手は、驚くほど長い。
長いのは、手だけではなく、足も信じられないほど長い。
女の人は塀よりも、遥かに背が高かった。
「ポポポポ……」
それは、人間の言葉ではなかった。
「……何か、いるかもしれない」
三つ編みの機械人形は、そう呟いた。
「はあ~、まさかこんな点数になるなんて」
翌日の昼休み。
琴葉は六年二組の教室にいた。
自分の席に座り、手には四時間目に行われた算数の小テストがある。
点数は、六十点だ。
「琴葉ちゃん、どんまい。そういう時もあるよ」
クラスメイトで親友の森永夏純が笑顔で言う。
「そうそう。僕なんか三十五点だし」
同じくクラスメイトの服部和也が、自分の小テストを見せながら笑った。
二人とも琴葉を励ましてくれているようだ。
そんな中、琴葉の傍に立っていた光一郎が、ガックリと肩を落とした。
「僕の教え方が悪かったんだ……」
光一郎は悔しそうな顔で拳を強く握り締めている。
「琴葉ちゃん、昨日あれだけ頑張って勉強したのに。それなのに僕のせいで」
「だから違うってば。教え方、凄く上手だったよ」
琴葉はフォローするが、正直、瑚江の事ばかり考えていて、光一郎の教え方が上手なのかどうかはよく分からなかった。
しかし、必死に教えようとしてくれたのは事実だ。
琴葉は彼に感謝していた。
すると、それを聞いていた夏純が、琴葉と光一郎の顔を交互に見た。
「もしかして琴葉ちゃん、光一郎君に昨日、勉強教えてもらったの?」
「え、うん、そうだけど」
「どこで教えてもらったの? 図書館とか?」
「ええっと、私の部屋だけど」
「ラブラブすぎる~~!」
夏純はニヤニヤしながら琴葉に顔を近づけた。
「琴葉ちゃんって奥手だと思ってたけど、けっこう積極的なんだね!」
「積極的って、あのねえ」
「なんだよなんだよ、二人は付き合ってるのか??」
和也も興奮ぎみに話に加わってくる。
以前、トイレの花子さんを探している時、琴葉が光一郎と一緒にいるところを見かけて和也は同じような事を言ってきた。
「お母さんといい、どうしてみんなそう思うのよ!」
光一郎と付き合ってると言われる事は嫌じゃない。
だが、友人の前で言われるのは流石に恥ずかしい。
一方、光一郎はガックリ肩を落としたままで、夏純達の謎をまるで聞いていなかった。
「光一郎君も、いつまでも落ち込まないの!」
「いや、だけど」
「今度教えてもらったら絶対に百点取るから。だから自信持って」
「百点!? 琴葉ちゃん、凄い! 僕、頑張るよ!」
「いや、頑張るのは私だし!」
夏純達にも呆れるが、真面目すぎる光一郎にも呆れる。
だが、とりあえず光一郎は元気になってくれたようだ。
そこへ、学級委員長の瀬戸由香里がやって来た。
「夏純ちゃん、ちょっといい?」
「どうしたの?」
由香里は何故か神妙な表情をしている。
「夏純ちゃんに教えてもらいたい事があるの。都市伝説の怪人の事なんだけど」
「都市伝説の怪人??」
夏純は、おまじないや都市伝説が大好きだ。
そのため、由香里は話を聞きたいと思ったようだ。
「だけど珍しいね。由香里ちゃん、そういう話、好きだっけ?」
「う~ん、好きとか嫌いとかじゃないんだけど、友達が昨日不思議な人を見かけたって言うの」
「お、どんな人だったの??」
和也が興奮しながら尋ねた。
和也もそういう話が大好きなようだ。
一方、琴葉は光一郎を見た。
光一郎は頷き、由香里の方に顔を向けた。
「僕にも、その不思議な人の話教えてくれるかな?」
その人は、怪を見た可能性がある。
琴葉と光一郎はそう思った。
由香里の話によると、最近通い始めた絵画教室で、中学一年生の女の子の友達ができたらしい。
その彼女が、昨日絵画教室に通う途中、不思議な女の人を見かけたのだという。
「その女の人、信じられないぐらい背が高かったんだって」
由香里の友達は、その時、横断歩道を渡っていた。
その横断歩道の向こうに、女の人が立っていたという。
「その女の人、横断歩道の信号機に頭がつきそうになってたらしいの」
「信号機に?」
「あれって凄く上についてるよね?」
夏純と和也が同時に驚く。
由香里は頷くと、話を続けた。
「私も絵画教室でその話を聞いた後、家の近くの信号機を見てみたの。250cmぐらいの高さがあったから、友達が見たのも同じぐらいの高さだと思う」
「女の人は、それと同じぐらいの身長って事??」
琴葉は戸惑うと、「それってまさか……」と、光一郎が呟いた。
その怪に心当たりがあるようだ。
しかし、由香里が言った次の言葉で、光一郎は神妙な顔つきになった。
「その人、友達に見つかると、すぐに逃げちゃったらしいの」
「逃げた、だって?」
どうやら思っていた怪とは違うようだ。
一方、和也と夏純はその話を聞き、さらに驚いていた。
「そんな背の高い女の人なんて、この町にいないよな?」
「うんうん、見た事ない。都市伝説の怪人かも」
由香里も彼らの話を聞きながら、改めて恐ろしく思い、ごくりと唾を飲み込んだ。
そんな彼女に、光一郎が話しかけた。
「瀬戸さん。その友達に話を聞く事はできるかな?」
「え、ええ、できると思うけど」
「光一郎君も都市伝説に興味があるんだ」
夏純が意外そうな表情で言う。
「それが、僕の仕事だからね」
「仕事??」
光一郎が何を言っているのか分からず、夏純達はキョトンとする。
琴葉はそれを見て、慌てて話に割って入った。
「ええっと、とりあえず、放課後その人に話を聞きに行こうよ。その方が由香里ちゃんも安心できるでしょ」
怪が本当にいる事や、怪を帰すために活動している怪帰師を説明するのは大変だ。
だが、情報を聞き出す必要がある。
「そうね。私も彼女が心配だし、そうしましょう」
琴葉達は学校帰りに由香里の友達に会う事にした。
「……わたしも……一緒に……行く」
その数分後、ユズが琴葉達に合流した。
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この小説の原作者ってこういうモンスターしか出せないのかな?