黒猫が欠伸をする。
そして起き上がりゆっくりと身体を伸ばす。
今日だって寒いが昨日ほどじゃなく、程よい陽光が黒猫の背に落ちている。
辺りを見回す。
広場はいつもと違って少し騒がしい。
先程から多くの荷物を台車に乗せて運ぶ人。
時折地面が台車に叩かれてうるさく響く。
そんな作業を遠巻きに見ている人もいる。
黒猫は首を傾げて音もなく歩き出す。
広場の中央には普段は無い煌びやかなクリスマスツリーが設置されている。
今もその周りで何人かの人がそれぞれの何かを行っている。
その間を通る。
真っ先に黒猫が向かったのはクリスマスツリーの土台。
そこで爪を研ぐ。
カーリカリ。
見つかる。
警戒する。
伸ばされた女性の手は黒猫の背を優しく撫でる。
キミ、こんなとこで何してんの?
黒猫は気持ちよさそうに目を閉じて、やがて身体を女性の足にすり寄せる。
こら。くすぐったいよ。
女性が笑う。
何度かくるくる回転して満足したところでコテンと寝転ぶ。
さあ、お腹をさすれ。
黒猫のお楽しみタイムが始まる。
だが、地面は冷たいよ、と女性は黒猫をひょいと持ち上げる。
そして包むように抱いて広場の隅で下ろす。
黒猫は抗議する。
身体を伸ばして、立ち上がろうとする女性の足にしがみつく。
ごめんね。これから人が多くなってきて危ないからまた後でね。
でも黒猫は抗議する。
わかったわかった。後で缶詰買ってくるから許して。
女性は一度だけ手を振って広場の中央へと戻る。
後姿を見守る。
やがて建物に囲まれた広場に冷たい風が抜ける。
黒猫は物陰に隠れてやり過ごす。
少しだけ治まったのを認めて黒猫は駆ける。
広場に面した売店へと辿り着く。
まだ開店準備中で電気は灯っていない。
にゃにゃにゃにゃーと鳴く。
あら。今日も早いわね。
奥の部屋から顔を出したおばさんは手際よく皿に猫まんまを盛る。
食べる。
今日は混雑するから、あんたも隅っこの方でおとなしくしていなさいよ。
残念ながら黒猫の耳には届かない。
次に向かった先は広場の玄関方向。
幾重にも連なった大きなアーチが黒猫の視界に映る。
それらが複雑な影を作り出して黒猫の手前に落ちる。
多くの足が目の前を通過する。
次第に人が増えて黒猫は迂闊に走り回れない。
仕方なく身近のベンチに飛び乗って日向ぼっこに興じる。
また欠伸が出そうだ、とばかりに顔をこする。
にゃわーと口を開ける。
結局欠伸。
人の波から外れて少女が嬉々としてこちらへやってくる。
それを認めた黒猫は人間ならば何を考えただろうか。
とにかく満腹で機嫌が良いのでお腹を無防備に広げることにした。
少女は黒猫に近寄る。
警戒されちゃうかな、と考えたが野生の猫がこんな人込みのすぐ近くでのんびり欠伸をしているはずもない。
少女は嬉々として近付いて、途端にお腹を無防備に広げた黒猫に思わず顔が緩む。
撫でる。
日光が良く当たって黒猫の身体は温かい。
更に撫でる。
黒猫はもぞもぞと気持ちよさそうに動いて、あ、また欠伸。
つられて少女も欠伸が出そうになる。
普段よりも早く起きたために寝不足だったが、少女は欠伸を堪えて立ち上がる。
それを見た黒猫は首だけ起こして少女の様子を伺う。
じゃあね黒猫さん。
そう言って少女は駆ける。
振り返らない。
でも忘れない。
それは少女の願い。
人込みに戻ると母親の姿が無いことに気付く。
きょろきょろ。
少女の胸を重い空気が圧迫していく。
なんで待っててくれないの?
ただ連れてこられただけの少女は途方に暮れる。
自分勝手な母親だ。
そんな風に意識し始めたのはつい最近の事。
友達の母親はあんなにも優しくてなんにでも気の付く人なのに。
比べ始めたら止まらない。
一人で考えて、一人で楽しんで、一人でどこかへ行く。
少女にとってこの人込みは未知の世界。
周りをきょろきょろしていても始まらない。
ようやくそう思い至ったのはデカイ身体がぶつかってきてよろめいてから。
少女は歩き出す。
人の流れにまかせればきっとそこに母親もいる。
重い荷物を背負って(中には何が入っているのだろう)少女の寒そうな足は確実に前へと進む。
周りなんて男だらけ。
大の大人がこんなにも集まって、「同人誌即売会」なんて何が楽しいのやら。
少女はまるで敵を見るかのように辺りに細い視線を投げる。
男なんてみんな野蛮だ。
それが少女の男性観。
かつての父親の様にいい加減で暴力を振るうロクデナシばっかりだ。
それが少女の世界観。
そんなロクデナシが一堂に会して何をするというのだろうか。
心の底から嘲笑ってやりたいが、少女の胸を圧迫するのは母親の存在。
まるで自分と同年代くらいの子供みたいにウキウキとしていた昨日の様子。
思い出して少女は喉の渇きを感じる。
今日はクリスマスだっていうのに、こんなに暑苦しくて憂鬱。
そこへ母親の声が届く。
ここよ。
その途端に喉の渇きは忘れ、ふんわりとした光に身体が包まれる。
お母さん!
見つけてようやく笑顔が戻る。
一人で先に行っちゃうなんて酷いよ!
目頭が熱くなるのを抑えながら努めて明るい口調で言う。
あらあら悪かったわね。
母親は申し訳なさそうに声のトーンを下げる。
けれど少女は知っている。
この人の心はすでに三千里くらい離れている。
そんなものは見て見ぬフリ。
今は目の前にいる。
ただそれだけで。
少女は母親の服の袖を掴んだ。
強く。
母親が口を開く。
そろそろ着替えないとね。
なんの事か分からない。
どうして?
母親は楽しそうに言う。
だってせっかくコスプレOKなのよ。ほら、あなたには巫女さんのコスプレ用意しているんだから。その背中の鞄にね。
途中で放り出せばよかった、と少女は後悔したが母親の楽しそうな顔を見ていると、まあ付き合ってやるかと渋々了承した。
マフラーを巻いた青年は携帯ゲーム機で遊んでいる。
もうどれくらい並んだだろうか。
まだ開場までには時間がある。
少しでも早く並んでやろう、と普段では考えられないほどの時間に起きたにも関わらず、青年の前には多くの人が並んでいる。
携帯ゲーム機の画面から目を離して、前方の状況を探ろうと首を伸ばす。
そうやって同じ様にして首を伸ばしている人もちらほらと目に留まる。
みんな待っているのだ。
はやる気持ちを抑えて待っているのだ。
考えたら奇妙な光景だな、とマフラーのくずれを直しながら青年は思う。
ただアニメや漫画が好きってだけでこれだけの人が集まるんだから。
家を出るときに浮かべた妹の表情を思い出して笑ってしまう。
このクリスマスにオタクばっかりのイベントに行って何が楽しいの?
もっともな意見だ、と青年は笑みを浮かべる。
携帯ゲーム機の電源を落とす。
時計を確認する。
パンフレットを取り出す。
初めは大学のサークル友達と二人で来る話になっていたんだが、彼は数日前に彼女が出来たらしい。
それ以上の詮索はしない。
友人ならば察してドタキャンを受け入れるべきだ、と青年は信じる。
回る順番をチェックして、再び視線を前方へと向ける。
黒と茶色の服が多い中で、一際目立つ服を着た親子が目に留まる。
赤と白。
二人とも巫女さんのコスプレをしている。
娘と思しき少女は眉根を寄せてしかめっ面だが、手を握って歩く姿はとても仲睦まじい。
まだ開場前だというのに周囲の視線をさらっている。
まったくどこで着替えたんだか。
不機嫌と照れの中間ぐらいで困った表情を浮かべる少女の姿に、青年は妹を重ねる。
そして思い出す。
かつて握った小さな妹の手。
いつも不安そうに眉根を寄せていたあの表情。
安心した時にだけ見せる大きな笑顔。
青年の心はタイムマシンの様に自由に時代を遡れるけれど、それだけだった。
ただ懐かしいだけで現実の妹は今ごろ他の男の腕の中。
感傷に浸る青年の胸ポケットで携帯電話がシャンシャンと鳴る。
メール。
妹からの。
帰りにケーキ買ってこい。
そしてケーキの絵文字。
青年は首を傾げる。
今日は彼氏とデートって言ってなかったか?
返信。
すると素早くメールが舞い戻る。
ドタキャンされたの。察しろバカ兄貴。
青年は苦笑して文字を打つ。
はいはい。
そして携帯電話を閉まって口から白い息を吐く。
仕方ない奴だ。
元々お金も乏しいというのにいきなりケーキなんて。
にわかに前方が騒がしい。
開場の時間が迫る。
でも青年はどこのケーキ屋に立ち寄ろうかと思いを巡らせていた。
メイド服姿の女性は場内の案内業務に就いている。
多くのスタッフとともに入り口付近で出迎えるわけだが、人の波が予想以上に多い。
前方ではさっきから怒号が飛んでいる。
少し背が高めのサンタクロースの格好をした男性。
走らないでください!
メガホンを使ってほとんど怒鳴っている。
あんなに大きな声も出せるんだ、と女性は感心する。
地響きさえも起こせそうな足音。
途絶えない人の波。
皆パンフレットが見える様に高く掲げている。
それが本日の通行証。
その波に抗う様に中心に立ち、真っ白な付け髭をワサワサと揺らしながらサンタは叫んでいる。
二列に並んで! ゆっくりとお進みください!
不覚にもかっこいいと思ってしまう。
あの背中。
あいつもただのオタクなくせに。
普段なんてぼんやりとした笑顔で田舎のおじいちゃんみたいにぼそぼそと話すくせに。
付き合って半年だけど自己主張の欠片もない、とうっかり友達に愚痴ったのに。
返してくれ、と思う。
本当に返せるならあの気持ちを返してほしい。
そしてうっかり友達に愚痴る前に言葉の焼却炉。
ねえねえ。
隣にいる同じくメイドの格好をした女性が話し掛けてくる。
あの今にも声が枯れそうなサンタと付き合ってるんでしょ?
屈託の無い笑顔。
唐突だったが別に嫌な感じはしない。
うん。
肯定。
じゃあ落ち着いたら二人で会場回ってきなよ。イベント初めてだったっけ?
聞かれて頷く。
でもいいの?
知らない内に気を使わせているんじゃないかと不安になって聞き返す。
大丈夫。今のあれが落ち着いたら後は結構自由なものよ。
彼女はそう言ってくれたが女性は知っている。
あの声がだんだん小さくなってきたサンタも実は忙しい。
だからイベントが終わってから周辺をデートしようって約束している。
ううん。
気持ちは嬉しいけどやっぱりいいや。
それを聞いて彼女は不思議そうな顔をする。
やがて得心したように頷いて肩を小突いてくる。
さてはイベント終わってからデートするつもりね。
笑う。
だって今日はクリスマスだし。
お礼を言ってまた後で話そうと彼女と別れる。
相変わらず前方のサンタは休まず声を張り上げている。
なんてうるさいサンタなんだ。
両手に息を吹きかける。
寒い。
でも不思議と心は温かい。
早くこの手を温めてくれ。
サンタなんでしょ?
長い髪の女性。
眠い。
トイレの鏡越しに自分の顔を見る。
おそらく今が眠気のピーク。
目だけ見ていると不機嫌そうでちょっと怖い。
昨夜は生まれて初めて作るコピー誌のために徹夜。
もちろんイベントだって初参加。
というか元々アニメや漫画なんてあまりよく知らない。
友人にそそのかされて有名なアニメを見て、以来ハマってこうしてパロディの漫画まで書いている。
そそのかした友人は徹夜のくせに元気。
女性は手を洗ってトイレを出る。
場内のスピーカーからはアニメの音楽が流れ、通り過ぎる人はなんとなく眼鏡比率が高い。
コスプレの人達も多く見受けられる。
だがほとんどの元ネタを知らないので女性は残念に思う。
背中を押される。
振り返る。
メイド服姿の女性。
すみません。大丈夫でしたか?
何が大丈夫なんだろうか、と首をひねったがメイドさんが手に持つ紙コップを見て得心する。
うん。大丈夫ですよ。
そこで笑顔を見せたが、唐突に睡魔に襲われる。
長い髪の女性は一瞬だけ足から力が抜ける。
プスン。
だがすぐに追い払う。
なんのこれしき。
そんな姿にメイド服の女性は声を掛ける。
体調が優れないのですか?
心配そうな顔。
ううん。昨日徹夜だったので眠いだけ。
理由が少し情けなく感じられる。
恥ずかしい。
そうですか。もし体調が優れなかったら救護室もあるのでご利用くださいね。
礼を言ってメイドさんの背中を見送る。
フリフリで可愛い姿。
一応あれがスタッフさんらしい。
私と同い年くらいかな、と姿が見えなくなってからふと思う。
サークルに戻る。
遅いよ。
出迎えた友人が頬を膨らませる。
トイレで寝てた?
軽口。
まさか。
友人の右手が大きく開かれる。
残り五部だよ。
何故か誇らしげ。
一体誰がこの急ごしらえの本を買っていったんだろう。
でも素直に嬉しい。
周りを見渡してみる。
まだまだ賑やかは止まらない。
列が延々と伸びるサークル。
おしゃべりに興じるコスプレの人。
威勢よく声を上げて宣伝をするサークルの人。
ああそうか、と思う。
お祭りみたいなんだね。
皆で集まってワイワイと。
ここへ来れば他にはない楽しさがあるんだね。
ねえねえ。
長い髪の女性は友人に問い掛ける。
即売会ってさ。お祭りみたいだね。
そして友人は苦笑する。
何を今更。
喧騒。
また来たいって思う?
今度は友人の問い掛け。
考える。
頭に浮かんだ気持ち。
でも今はこの睡魔に勝てそうもない。
前に座る友人の背中におでこをひっつける。
少しだけ目を閉じた。
サンタの男性はメイド服の女性と手を繋いでいる。
会場内ではなく外の広場を歩いている。
周囲から見れば異色のカップル。
そろそろイベントも終了間際。
こうして歩けるのも会場内が落ち着いてきたからなんだが、いざ二人になると恥ずかしい。
視線を集めている。
コスプレのまま外に出るのは原則禁止されているが、少し大目に見てもらおう。
広場の真ん中では大きなツリーの下でバンド演奏が行われている。
ゆったりとしたバラード。
女性の綺麗な歌声が澄んだ空に響いていく。
ドラムの音。
タタン。
鳴って心の深いところが揺さぶられる。
左手。
握ったメイドの手。
指をからませて頬をかく。
何?
メイドが聞いてくる。
いや、別に。
サンタは照れ臭そうにしている。
メイドは笑う。
変な奴。
その笑顔はサンタがもっとも好きなもの。
女性の歌声が流星の尾を引くようにして終わりを告げる。
ギターの余韻。
サンタにはどうしても聞きたいことがあった。
隣のメイドに聞きたいことが。
今日の俺ってどうだった?
聞けない。
まるで子供みたいな問い掛け。
恥ずかしくてできるはずもない。
苦悶するサンタの表情を見て、メイドはさらに笑顔を深くする。
バカ。なに困ってんのよ。
そう言って腕を組む。
ねえ。また一緒に来ようね。メイド服は寒いからヤだけど。
サンタは自然と頬が緩むのを感じながら、ゆっくりと言う。
俺は寒くない。
ステージでは司会者が現れて次の曲の準備まで時間を稼いでいる。
サンタとメイド。
司会者の目に飛び込んできた異色の二人。
長年の直感が働いてマイクを握りなおす。
さあ今日はクリスマス。こちらにサンタさんがいらっしゃいますので、少しお話を聞いてみたいと思います。
サンタは驚く。
一斉に周囲の視線がこちらへ向いて、ついでに横からやってきたスタッフにマイクを渡される。
サンタさん。今夜はソリに乗ってどちらへ行かれるのですか?
なんて質問なんだ。
しかし咄嗟にサンタはサンタらしいことを思い浮かべる。
意を決して口を開く。
日本中の子ども達にプレゼントを届けに行ってきます。
周囲が笑う。
隣の彼女も必死に笑いを堪えている。
お隣の女性はサンタさんの恋人でいらっしゃいますか?
照れる。
はい。
小さく言う。
ではソリに乗って日本中を旅する前に、何か彼女に一言。
司会者は楽しそうに言う。
実際に楽しい。
後ろのバンドの連中も準備が大方終わったのか、サンタとメイドのカップルに視線を注いでいる。
何か熱い言葉でも待っているのか。
サンタは考え直す。
いや今日の俺はサンタだ。
メイドの方へ向く。
頬が赤い。
サンタは全身が赤い。
サンタの声がマイクを通じて広場に響く。
メリークリスマス。
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クリスマスということでこんな短編書いてみました。
だいぶ読みにくいと思いますが、まぁ実験的な面もあるので。
目を通してくださると嬉しいです。