No.112514

狼と赤頭巾

早村友裕さん

 狼が忌み嫌われる街から、祖母を頼って森へと入って行った赤頭巾の少女「ソバ」。
 彼女がそこで出会ったのは、「ヴルク」と名乗る青年だった。
 彼は、ソバの祖母と共に暮らしていたというのだが……?

――ちょっぴり切ない、童話風味のファンタジー。

2009-12-16 01:16:05 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:864   閲覧ユーザー数:818

 親孝行者だった少女ソバは、月の女神に気にいられ、静かに深い声で歌う梟(ふくろう)になりました。そして梟は月の女神を讃(たた)え、夜空に唄(うた)うようになりました。

 そんな妹のソバを羨(うらや)んだ兄のヴルクは、梟になったソバに爪を立て噛(か)みついたために、口を裂かれ狼(おおかみ)にされてしまいました。そして、いつしか恨みが籠(こも)った声で月に向かって吠(ほ)えるようになりました。

 

 昔、昔のお話です。

 

 

 

 今日、女の子のお父さんが亡くなりました。

 でも、女の子はあまり悲しみませんでした。

 というのも、お父さんはずっとお酒ばかり飲んでいて女の子にはほとんど関心がなかったからです。

 

 それでも仕方がないので、女の子は3年間会っていなかったおばあさんを頼って、森の奥へと一人移り住むことになりました。

 

 

 

 

◆ 狼と赤ずきん ◆

 

 

 

 

 静(しず)やかに澄んだ夜の空気が辺りを満たしていた。大気までが群青に染まるかのような淋しい感情が支配する、深い森の中。風の無い晩、この場所を支配するのは、梟(ふくろう)の声だけ。

 月が隠れた事を憂い、嘆くその声は悲しげにひっそりと木々の間をすり抜けていく。

 其処に在るのに見る事の出来ない、初(はじ)まりの月へと届くように、森の中に響いていた。

 

 暗闇と静寂とが支配するその場所に、地面に積もった落ち葉を踏みしめる音が何処からか響いてきた。方角から考えると、足音はこの森の一番近くにある小さな街からやってきたようだ。

 やがて、闇しか目に映らなかった世界に、真紅が現れた。

 未だ幼い少女だ。真っ赤な頭巾を目深に被(かぶ)り、少ない荷物を入れた蔦を編んだ籠を手にしている。白い息が漏れるような寒さだというのに、身に付けているのは頭巾と同じ色のエプロンドレスだけだった。

 袖からのびる手首は細く、今にも折れてしまいそうだ。

 

「どうか狼には会いませんように……!」

 

 小さな唇から白い息と共に吐いた可憐な声は、微かに震えていた。

 寒さの為か、恐怖の為か。

 足音は途切れず森の奥深くへと進んでいった――忌み嫌われる狼が住むという、深い森へ。

 

 

――親孝行者だったソバは、月の女神に気にいられ、静かで深い声で歌う梟になりました。

 

 

 が、ふいに梟の声が途切れた。

 それに気付いた少女は、はっと不安そうに辺りを見渡す。赤い頭巾の下の白い肌と青い瞳がちらりと覗いた。

 

「ああ……どうしよう」

 

 周囲は闇。近くの木の輪郭が辛(かろ)うじて見える程度の視界しかない。

 手にした籠をぎゅっと胸に抱きかかえ、寒さで紫色に変色してしまった唇を噛み……決心した少女は、森を駆け抜けた。

 その大きな足音が少女の望まぬ存在を呼び寄せてしまう事に未だ気づいてはいなかった。

 どこかで、狼の遠吠えが響いた。

 

 

 

 

 

 ずいぶん長く駆けたが、未だ目的地は見えない。

 とさり、と軽い音を立てて少女は地面に膝をついた。赤い頭巾の少女の足も手も、もう限界だった。

 

「もう、いいかな……」

 

 足を止めた少女はその場に座り込んだ。後ろの樹の幹に持たれかかり、籠を持った手を横に投げだした。

 落ち葉ががささ、と音を立てる。

 

「お母さん……」

 

 少女が思い出すのは、優しかった母の面影。3年前に失踪した彼女はいつも温かかった。眠れない夜には横でずっと子守唄を聞かせていてくれた。その頃には父もあんな風に酒ばかり飲んではいなかった。

 3年前、何かが壊れた。そして母は失踪し、父は酒に走った。

 幼い少女に分かるのはただ其(そ)れだけだった。

 

「寒い」

 

 凍(こご)える手足に、少女はいつしか降りてくる瞼(まぶた)に耐えられなくなっていた。赤い頭巾に隠された青い瞳が徐々に光を失っていく。白く小さな手からは籠が滑り落ちた。中に入っていた小さな焼き菓子の欠片が零れ出てしまう。

 だんだんと視界が薄れていく中で、森の奥に何かの影が揺らめく。

 霞む視界に目を凝らすと、其れは大きな生物の姿だった。

 少女はこの世で最も遭遇したくなかった影と出会ってしまった事に気付いた。

 大きく裂けた口からだらだらと涎(よだれ)を零す、息の荒い獣――尖った耳と鋭い牙を持つ、伝説に出てくる狼の姿。

 それは、真っ暗闇から突然現れた。

 何の気配もせず、姿を闇に隠し、いつしか少女に近付いて。

 

 

 

――兄のヴルクは、梟になったソバに爪を立て噛(か)みついたために、口を裂かれ狼にされてしまいました。

 

 

 

 

 

 ずっと語られてきた昔話は、少女の恐怖に火を付けるのに十分すぎる役割を果たした。

 

「きゃああぁっ!」

 

 動かないはずだった手足が恐怖を燃料(かて)に動作し、籠を放り出した少女は走り出した。

 落ち葉の音が鳴る。少女の足に合わせ、ざざざ、と軽い音を立てる。

 そして今はそれを追う足跡も同じように響いていた。もっと大きな、早い音が。

 狼に追われている。少女は必死で走った。それでも、足音は近付いてくる。

 もうだめだ。そう思った時だった。

 

「おいっ!」

 

「?!」

 

 突然、後ろから少女の手首を強く掴む手があった。日に焼けていない、真っ白な肌をしている。この手は人間のものだ。ずっと狼に追われていると思っていた少女は驚いてはっと振り向く。

 其処(そこ)に立っていたのは、口元に布を巻いた人間だった。

 髪は手入れされておらず、あちこちに飛び跳ねていたが、隠されていない大きな漆黒の瞳には強い光が灯っていた。まるで狩人のような麻の服と木靴を身に付けている。少女の倍ほどの年の青年だった。

 

「何故こんな処にいる。ここは狼の住む森だ。すぐ街に帰れ」

 

 きつい口調で、口元に布を巻いた青年が言う。

 少女は驚いた顔をしたまま青年に向かって呟いた。

 

「狼じゃなかったのね。あたし、狼に追われているのだと思っていたわ」

 

「そんな事は聞いていない。親の元へ早く帰れ」

 

 青年が不機嫌な声で言うと、少女は口を噤んで俯(うつむ)いた。白い息が、フードの下から漏れる。

 

「もう、いない。昨日、父さんが死んだもの。お母さんは3年前にいなくなった」

 

 それを聞いて、青年は眉を顰(ひそ)めた。口元に布を巻いた状態では表情が分かりづらいのだが、これで青年の感情が知れた。

 舌打ちでもしそうな勢いで、青年はくるりと踵を返す。

 

「おばあちゃんがいるの。この森に……会ったのはずいぶん前だけれど、きっとあたしを覚えているはずよ。あたし、おばあちゃんに会いに来たの」

 

「こんな処に人は住んでいない」

 

「でも、貴方は此処にいるわ」

 

 少女が言うと、青年は振り向きもせず、答えもしなかった。

 先ほどまで全く関わる気のなかった少女が、自分の恩人の孫だと分かったからだった。だからこそ、自分の傍に置くわけにはいかなかった。

 そんな青年の胸中も知らず、少女はさらに声を上げた。

 

「もうあたし、動けないの」

 

 青年は、振り向かない。

 何もかもを拒絶したようなその背中を見て、少女はさらに声を投げ掛ける。

 

「置いて行かないでよ。そんな事したら街で貴方の事、言い触らすわよ?」

 

 街、という言葉を聞いて青年の肩がぴくりと動いた。

 

「俺の事は街で喋るな」

 

「じゃあ、あたしを連れて行ってよ」

 

 すると、答えはなかった。

 それを承諾の代わりに受け取った少女は、背を向けた青年に向かって駆けた――何故だろう、先ほどまで酷使して動かなかった筈の足が簡単に動いた。

 この寂しい狼の森の中で人と出会えた。それだけで彼女の心には明かりが灯るようだった。

 

「あたしはソバよ。女神に愛された梟の名と同じ」

 

「俺は……」

 

 青年はそこで口を噤んだ。

 

「それでは、ヴルクと呼べ」

 

「ヴルク? 口を裂かれた狼の兄?」

 

「ああ、お前がソバだと言うなら、俺の名前はそれでいい」

 

「貴方、変わってるのね」

 

 そう言って笑いかけると、青年は視線を逸らしてぽつりと呟いた。

 

「変わっているのはお前の方だ」

 

 

 

 

 

 

 森の中をしばらく歩くと、木で組まれた小屋が姿を現した。おそらく一人が暮らすだけで精いっぱいの大きさしかないその小屋に、少女(ソバ)は見覚えがあった。

 

「これ、おばあちゃんのおうち……」

 

「ああ、そうだ。その人は、3年前に行き倒れていた俺を拾って養ってくれた」

 

「おばあちゃんは? いるの?」

 

「……小屋の裏に、行ってみろ」

 

 ヴルクと名乗った青年の言葉を聞いて、ソバは小屋の裏手に回った。

 この時期黄色く染まって枯れているとはいえ、少女の腰ほどまである草が生い茂っている。全く手入れしていないのは一目瞭然だった。

 が、その中で明らかに草が刈り取ってある一角がある。

 近寄って見ると、そこはほんの少し盛り土がしてあり、その上に枯れた花がいくらか供えてあった。

 

「これは?」

 

 後ろからやってきたヴルクに問うと、彼は抑揚のない声で答えた。

 

「死んだ。今年の夏、暑い時期だった」

 

「えっ?」

 

 言葉を失った少女を見て、青年はほんの少しだけ目を細めた。

 彼女の青い瞳からつぅ、と満月の光と同じ色をした雫が頬を伝ったから。

 

「おばあちゃん……」

 

 エプロンドレスが土に汚れるのも構わず、はらはらと涙を零す幼い少女は、悴んで真っ赤になってしまった両手を組み、その簡素な墓碑に祈りを捧げた。

 幼い頃の優しかった祖母の記憶を脳裏に抱いて。

 

 

 

 

 

 

 ヴルクと名乗った青年は、ソバを無理に街へ追い返そうとはしなかった。

 それは既に天へ昇った恩人へのせめてもの餞(はなむけ)だったのか、それとも彼自身が少女を容認したのか定かではない。

 ただ彼らは、真白の雪が地を覆い、動物も植物も白い絨毯の下で眠りに就く季節になっても、森の奥の粗末な小屋で暮らしていた。東の太陽が灰色の空を割って地表を照らせば、ヴルクが起き出して炉に火を入れる。遅れて少女が目を覚まし、食事の支度をする。

 保存のきく根菜類と秋のうちに獲っておいた野鳥の骨を一緒に暖炉の火で煮込んだスープと、同じように暖炉の火で炙(あぶ)った硬いパンが主食。

 何の特別もない暮らしの中では、二人の関係が特別に変わる事もない。

 青年は相変わらず口元の布を外そうとはしなかったし、少女は頭巾を取った姿を青年に見せる事はなかった。

 それでも二人は緩やかに、緩やかに時を重ねていった。

 

 そうしていつしか地を覆っていた厚く冷たい雪の層が消え、温かな風が色とりどりの草花を揺らす季節を迎えていた。

 

 

 

 

 少女は冬の間にほんの少し伸びた身長を、同居人の青年に自慢する。

 

「ねえ、少しは貴方に近付いたでしょう?」

 

「また訳の分からないことを」

 

 青年はひとつ、深いため息をついた。が、口元に巻いた布のせいで、そのため息も言葉もひどく籠っていた。ソバの見ない処で取り換えてはいるようだが、いつも不思議だった――どうして彼はいつも口元に布を巻いたままなのだろう?

 温かい季節。鳥たちが歌い始めるこの時期に、少女はほんの少しだけ舞い上がっていた。冬を越す為に共に暮らしたことで、そしてこんな風に軽口の返答が貰えるようになったことで、ヴルクとの距離が縮まったと思ったのだ。

 それが彼女の勘違いでない事は、ヴルクを見ていれば分かる。

 まるで幼い妹を諭すように、厳しい日常仕事でごつごつと骨張っている手を赤い頭巾の上にポンとのせた。

 

「まだまだ、だな」

 

「何よ、もう!」

 

 そう言われて、少女は淡く紅の差した頬を大きく膨らませた。

 最初にヴルク出会った頃のソバは、一目で分かるほどに栄養が不足しており、手足も折れそうに細く頬もこけるほどに細っていた。

 が、今では肌にも温かみが戻り、この年頃の少女らしい健康な笑顔を見せるようになった。

 その笑顔が愛おしい。きっとこれは恋愛でもないし、家族愛とも友情とも違う感情だ。

 ただ、この幼い少女を守ってやりたかった。

 これまで抱いたことのない感情に、ヴルクはほんの少しだけ油断していた。

 

「ヴルク」

 

 ふいに名を呼ばれ、振り返るとソバの小さな手がすっと口元に伸びてきた。

 きっと彼女が悪戯心で彼の隠す口元を暴いてみようと思っただけなのだろう。

 何しろ、いつもの彼ならすぐに止められた筈だ。布に抜けられた少女の手を、払い除ければいい。ただそれだけでこれまでの関係は守られた筈だった。

 が、一瞬ヴルクは迷った――この少女なら受け入れてくれるのではないか、そんな幻想を抱いた。

 その幻想が、すべてを壊してしまった。これまで自分が受けてきた物を忘れてはいけなかったのに。自分を唯一受け入れてくれた人の孫だ、という思いがどこかにあったのかもしれない。

 躊躇したヴルクを尻目に、ソバは布を思いきり引っ張った。

 

 

 

 ところが、布を取り去った彼の口はとても人間のものとは言い難かった。

 大きく裂けた口。割れた唇のその隙間からは絶えず涎が零れおちている。荒い息と共に獣の匂いが吐き出され、だらりと垂らした舌がぴくり、と動いた。

 

「いやあああっ!!」

 

 甲高い、少女の悲鳴が響き渡った。

 その悲鳴は、微かに抱いた幻想を粉々に打ち砕いた。

 彼は正真正銘の人間――ただ、生まれつき口が横に割れていて、閉じることが困難だというだけだ。狼が忌み嫌われる街において、それは致命的な事だった。

 何もかもを失って森に行き倒れた彼を拾ってくれた老母ただ一人が稀有な存在であったのだ。

 

「やはりお前も俺を拒絶するんだな……」

 

 期待などしていない。願う事も忘れたはずだった。

 だが、それでも希望を捨てられないのが『人間』というものだ。

 もう一度絶望を背負った狼(ヴルク)は、もう一度心に深い傷を刻みこんだ。

 

「もうお前など……」

 

 絶望と怒りと、すべての負の感情に任せて彼は彼女の頭巾に手をかけた。

 この時、特に彼女に危害を加えるつもりはなかったのだ。

 ただ、こちらを向かせようとしただけだったのだ。

 それなのに。

 

「いやああああっ!」

 

 少女の喉から、劈(つんざ)くような悲鳴が迸(ほとばし)った。

 同時に、青年は頭巾の下に隠されていた痛々しい傷痕に息を呑む。

 

「……!」

 

 どう見てもそれは、何かで焼かれた痕だった。金色の髪は頭の前部にしかない。後頭部は赤黒く焼け爛(ただ)れた跡が広がり、とても直視できるものではなかった。

 

「……見ないでっ!」

 

 悲痛な声をあげて、少女は頭巾をかぶりなおした。

 が、その光景はヴルクの脳裏にはっきりと焼き付いてしまっていた。

 

「お前……それ」

 

 赤い頭巾の端をぎゅっと握りしめ、地面に蹲(うずくま)ってしまったソバに、それ以上かける言葉を持たない。

 

「来ないでよ……どっか行って! あんたみたいな狼……!」

 

 きつい言葉ですべてを拒絶した少女に、それでもヴルクはゆっくりと近づいた。

 すべてを拒絶して震えるソバは、それに気付かない。

 

「知らない……あんたなんか、知らないっ!」

 

「どうしたんだ……いったい?」

 

「知らないっ、知らない! あたしだってどうしてこんな風になったか分からないのに……!」

 

 そう、少女はよく知らなかった。

 自分の後頭部に焼け爛(ただ)れた跡がある事は分かっていたが、いつ、どんな風に怪我をしたのか全く覚えていなかったからだ。ただ分かるのは、この傷が出来て頭巾を被る様になったのが、約3年前、つまり母親の失踪後だということだけだった。

 3年前に何があったのか、少女は記憶を失くし、母は失踪し、父は酒に走った。

 

 

 

 

 やがて、地面に蹲(うずくま)って震えるソバを見下ろして、ヴルクは静かにこう告げた。

 

「お前は街に帰れ」

 

 それは冷たい言葉だった。

 しかし、それは不器用な彼の精一杯の思いやり。

 自分の秘密を知られ、彼女の傷を抉ってしまった以上、二人一緒にいる事は出来ないだろうと悟った彼は、これ以上の傷を抉る前に少女を街へ返そうとしたのだ。

 

「街まで、送ってやるから」

 

 街まで出る――それが青年にとってどんな意味を持つかソバもよく知っていた。

 言葉の端々から、彼の態度から精いっぱいの不器用さを受け止めて、それでも何も言えずに黙り込んでいた。

 それほどに彼女の傷は深かったのだ。

 

 

 

 

 

 二人で、森の中を歩く。会話もなく、手を繋ぐこともなく、ただ少女(ソバ)の後を青年(ヴルク)がひっそり追いかけるだけ。

 いつしか雪は融(と)け、新緑の予感が辺りの風を染めていた。出会った頃は枯れ葉に埋もれていた道が、いまや新芽の絨毯と化している。踏みしめた地面は柔らかく、音がしない。

 足音が聞こえないことで本当にヴルクが付いてきているのか不安になり、ソバは振り向く。

 すると彼は気まずそうに視線を逸らし、彼女はそれを見てまた歩き出す。

 そんな事を繰り返していくと、やがて、目の前が開けた。

 街に着いたのだ。

 乳白色の壁、橙のくすんだ屋根が特徴的な簡素な家が並ぶだけの小さな街。森を抜けてすぐの所にある少女と青年の共通の生まれ故郷だった。

 

 

 

 

 二人でぼんやり佇んでいると、すぐに通りかかった女性がソバに気付いた。

 

「ソバ! ソバじゃないか!」

 

 ソバの赤い頭巾は彼女を街中の人に知らしめる為の絶大な貢献をしていた。

 よく着こまれた農作業着を身につけたその女性は、ソバが大きな声に驚いて硬直しているのにも関わらず、駆け寄ってぎゅっと抱きしめた。

 

「よかった、森に入ったまま帰って来ないから、狼に食べられたかと思ったよ!」

 

 狼、という単語にソバの肩がびくりと震える。

 それを見たヴルクは、ふっと踵を返して森に帰ろうとした。

 

「待ちな、お前、何者だい」

 

「あっ、彼はあたしを助けてくれたの」

 

「口元に布なんか巻いて、狼の森から出てくるとは……知ってるかい、この森には狼の僕(しもべ)となった人間が狼男として暮らしているって」

 

 街の女性はあからさまな敵意をヴルクにぶつけた。

 

「どうなんだい?!」

 

 大きな声と目立つ赤の頭巾に寄せられて、街人達がぞくぞくと集まり始めた。

 中には警戒して銃を持ち出している男性もいる。

 最初にソバを見つけた女性は、臆することなくヴルクに近付き、止める暇(いとま)もない素早さで口元の布を取り払った。

 その瞬間、女性の悲鳴が響き渡る。

 鼓膜に刺さるほど鋭く、街中に響き渡るほど大きく、そして、有りっ丈の恐怖が籠ったその悲鳴は、確実にヴルクの胸を貫いた。

 

 

 

 

 今の悲鳴で街人がどんどんと集まりだしている。

 

「早くこっちへ! 狼に近寄ると危ないぞ!」

 

 躊躇った少女を、銃を構えた街人は背後にさっと隠した。

 戸惑ったヴルクだったが、突き付けられた銃を見てにやりと裂けた口をさらに広げた。

 銃を持っていた男性すらもその迫力に一歩、退く。

 

「あ、その人は……」

 

 何とか説明しようとしたソバに、ヴルクは爪の伸びた指を突き付ける。

 

「こいつは関係ねえ! 俺はこいつを捕って喰おうと思っただけだ!」

 

 狼の口をした青年は、裂けた口を大きく開け、涎をだらだらと垂れ流しながら叫んだ。両手を地面につき、近寄ろうとした街人を威嚇する姿は本物の狼のようだ。

 それを聞いている少女の両腕は完全に街人に押さえられてしまっていて、動けなかった。

 彼の言葉が嘘だと分かっていても、何故か胸が一杯になって声が出せなかった。

 きっとここでソバがヴルクを庇えば、彼女の立場も危うくなってしまうから。

 

「この、狼が!」

 

 たぁん、と鋭い音が響いた。

 目の前に薄い煙が一筋、立ち上る。

 

「……え?」

 

 少女の唇から呆けた声が漏れた。いったい何が起きたのか分からなかったのだ。

 が、次の瞬間、大きく手を広げて立ち上がっていたヴルクの胸元からぱっと深紅の鮮血が散った。

 銃で撃たれ、崩れ落ちていった青年――紛れもなく、あの人は人間なのに。

 地面に真っ赤な液体が流れ出る。まるで物語の中の狼がずっと焦がれていた翼のように、その赤い染みは大きく広がっていった。

 掴まれていた腕を振りほどいて、少女は青年に駆け寄った。

 

「おいっ、まだ死んでいるか分からない、危ないぞ!」

 

 後ろから制止する声が響いたが、そんなものどうでもよかった。

 何しろ、ずっと信じていた街の人間たちは、幼いソバが思うよりずっと残酷だったのだから。

 街の人々の目も気にせず、赤い頭巾を取り払ったソバは、仰向けに倒れたヴルクの横に膝をつく。

 

「あ、ああ……ヴルク……」

 

 しかし、ずっと嫌っていた狼の彼は、少女を庇(かば)って地に倒れ伏した。

 少女の目の端にみるみる大きな粒が膨らんでいく。

 

「ねえ……帰ろう」

 

 ぽたり、と雫が頬に落ちた。

 青白い頬。荒い息。初めて見た時はひどく恐ろしかった裂けた口から流れ出る涎も、今はもう気にならなくなっていた。

 

「一緒に、帰ろう……帰って、一緒に暮らそう……?」

 

 森の奥で。あの、小さな小屋で。

 血の気の引いた頬に小さな小さな手を添える。

 少しでも彼(ヴルク)が温まるようにと。

 

「ねえ……帰ろうよ」

 

 物語の中の妹(ソバ)もきっとこんな気持ちだったに違いない。狼にされた兄(ヴルク)を見ても、共に生きようと思ったに決まっている。

 何しろ、少女の心にはすでにヴルクが住んでいる。

 

 

 

 

 きっと彼女が知る事はない。

 3年前、少女の祖母は狼の口をしていた為に捨てられたヴルクを引き取って育てる決意をしたこと。その事を容認する母と頑なに拒絶する父がその是非を巡って決裂した事。そしてある晩とうとう父は頑なな母に火をつけ、生きながらに燃やしてしまった事。その時に巻き込まれた少女が後頭部に酷い火傷を負った事――

 

 

 

 

 小さな小さな声で呟かれた願いは、女神に届くだろうか。

 小さな小さな手が触れた頬は、再び熱を取り戻せるだろうか。

 

 

 誰も、知らない。

 

 そのあと二人がどうなったのかは、誰も知らない。

 

 

 

 

 

 親孝行者だったソバは、月の女神に気にいられ、静かに深い声で歌う梟(ふくろう)になりました。そして梟は月の女神を讃(たた)え、夜空に唄(うた)うようになりました。

 そんな妹のソバを羨(うらや)んだ兄のヴルクは、梟になったソバに爪を立て噛(か)みついたために、口を裂かれ狼(おおかみ)にされてしまいました。

 

 妹のソバはそれでも兄のヴルクを愛していたので、共に生きようと言いました。

 しかし、口が裂けてしまった兄は、もうそれに答える事ができませんでした。

 ただ、大きな目から沢山の涙を零して、妹を抱きしめることしかできませんでした。

 鋭くなってしまった爪が妹に食い込みましたが、妹は悲鳴一つ上げず、じっと兄の腕の中で幸せを感じていました。

 

 なぜなら、二人は充たされていたから。お互いを思う事で、温かい気持ちになれたからです。

 

 二人はひっそりと、森の奥で暮らすようになりました。

 二人並んで、月の女神に唄(うた)いながら。

 

 

 昔、昔のお話です。

 

 

 

 

 

 

 


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
7
2

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択