おれが八神先生の下で見習いとして働き始めてから半月ほど。日もとっぷり暮れた頃、これから郊外まで車で往診に行くと言うから鞄持ちを仰せつかった。
と言っても運転は先生がするしカーナビも付いてるから、おれは助手席でほんとに鞄を持ってるだけだ。退屈な夜のロングドライブに大あくびをしたら、今度はお腹がぐうと鳴る。やかましいやつ、と俺を睨んだ八神先生に照れ笑いで誤魔化しつつもう一度鳴ったお腹をさすって先生に言う。
「お腹、空きましたね」
「俺は空いていない」
そりゃあそうかもしれないですけど……今日は先生のところに来てすぐにカルテの整理や薬品の発注だとかをさせられて輸血どころか1mlだって血を舐めてない。一応育ち盛りのヴァンパイアなのだから、お医者様ならその辺も考えてほしいものだ。
すると先生は目線をリアシートに投げて「アレを開けてみろ」とだけ言う。信号待ちで停車した隙に、振り返って先生の示した『アレ』を見る。
薬品とかを持ち運ぶための小さなクーラーボックスだ、何が入ってるんだろ、まさかドライブのためのおやつじゃないだろうな……手繰り寄せて開けてみたら、無地のアルミパックが幾つか出てきた。よくあるウィダーなんとか、とかそういうやつ。
「え、何ですかこれ」
「血液製剤を経口摂取と粘膜吸収がしやすいゼリーにした。それでも啜っていろ」
「ええ……」
本当にウィダーなんとかみたいなやつだった。っていうか血液の10秒チャージなんて聞いたことない。
再び発進した車のハンドルを握る先生はそれきり何も言わないから、仕方なく牙を隠すためのマスクをずらしてゼリーパックの吸い口をねじり開けて吸い付いてみる。
「……!!」
う゛わ、美味しくねえぇ……でも腹の足しにはなるかもしれない。確かに吸収は早い気がするし空腹感もちゃんと抑えられる。
わざわざこんなの作ってくれるなんて、味はともかくとして先生なりにおれのこと考えてくれたのかな、味は、ともかくとして。
忙しいわけでもないのに10秒かそこらで一気にそれを飲み干したおれは、足元のゴミ袋に潰れたパックを入れてマスクを戻し鉄臭い息を吐く。うう、後味まで悪い……。
恨めしく先生の方を見たら、抜き去る街灯に照らされ一定のリズムで浮かび上がる横顔が綺麗だった。この人、性格はともかく顔は良いんだよなあ。おれの師匠と一緒だ……って言ったら怒られるな多分、二人ともに。
それから更に小一時間して、目的の場所に着いた頃にはもう深夜だった。こんなに遅くにお邪魔して良いんですか、と聞いたら、人目に付かんほうがいいんだと言われた。なるほどここの患者さんも訳アリってことか。
しかしまあなんとも……
「立派なお屋敷ですねえ……」
大きな門構え、この先に覗く広い庭と大きな日本家屋。相当お金持ちなんだろうなあ。呑気にキョロキョロしていたら八神先生が怖い顔をしておれの肩を叩いた。
「表向きは政財界に多く門弟を抱える“センセイ”というやつだが、此方には東西の広域指定暴力団に顔が利く裏社会のドンといった方が通りが良い、くれぐれも粗相をするなよ」
「は、はいっ」
な、何かよくわかんないけど先生の物の言い方からしてメチャクチャヤバそうな人の家だということはわかった。せーざいかい?こーいきしてーぼーりょくだんって何だ……?センセイって、八神先生とは違う先生なのかな。
先生が合図をするように正門ではなく勝手口の方を数回ノックしたら、ややもあってそこから藍色の髪の男の人が姿を表しておれたちを招き入れてくれた。
「お邪魔しますっ」
粗相のないように、って言われたからその人にもきちんとお辞儀をしたけれど、その人は怖い顔をしておれを睨むばかりだったから悪いことをしたわけでもないのに思わず「すいません」と声が出てしまった。
お屋敷の中もやっぱり相当広い。目的の部屋へ辿り着くまで普通の家の5倍くらい時間が掛かった気がする。先にあの藍色の人が「ナギ様、お連れしました」と声を掛けたら、微かな明かりだけが灯る障子戸の向こうから「うん、頼むよ」と穏やかだけど少し悲しげな声が聞こえた。
障子戸が開かれて、おれたちふたりだけが中に通される。部屋の中にいたのは、亜麻色の長い髪を束ねた美しい男の人と、滑らかな黒髪を枕に流して布団に横たわっている美しい女の人だった。
「やあ、庵、いつもすまないね」
「別に、正当な報酬を貰った上での仕事だ」
どうやら患者さんはこの女の人みたいで、さっきナギ様って呼ばれていたのはこの男の人、多分この大きなお屋敷の主人だろう。
「キミは?」
不意にナギさんに視線を投げ掛けられたおれは、慌てて居住いを正して座礼をした。
「おれは矢吹真吾です、色々あって八神先生のところでスタッフとして働いています」
「子供の遣いの方が余程マシな時もあるがな」
先生ってば、おれを無理矢理働かせておいてそういうこと言うんだからなあ。頬を膨らませて抗議していたら、布団で寝ていた女の人がゆっくりと目蓋を開いてこっちを見た。
せんせい、と唇を動かした女の人の頬をナギさんの手が撫でる。
「具合はどうだい、ヒメ」
「ええ、少し眠れたので随分と良いです……八神先生のお薬のお陰ですね」
布団から身を起こした女の人に羽織を掛けてあげるナギさん。その眼差しはとっても優しくて、まさか裏社会で睨みを効かせる権力者だなんて思えない。
おれは先生に言われるままに鞄からアレコレ取り出して、先生の話す難しい言葉にとりあえず頷く。お二人の表情は明るくはならないから、良い話ではないんだろう。すると先生がおれを呼んだ。
「真吾」
「はいっ」
また鞄から何か出せば良いのかな、と思ったら顎で部屋の向こうへと退出を促される。
「女の身体を診る、お前は出ていろ」
「あっ!は、はいっ、ごめんなさい!」
慌てて立ち上がったら少し足が痺れてたけど、まさか患者さんの前で転ぶわけにもいかない。どうにか我慢して障子戸を開けて、失礼しました、と礼をして部屋を出た。
知らないお屋敷で迷子になっちゃまずいから、部屋からはあまり離れないでおく。すぐ傍に石庭があったから、何となく立ち止まってぼんやりとそこを眺めていた。
あの女の人、治るのかな。おれは医療のことはまだ全然わからないし、病気の治し方や薬の作り方なんて想像もできない。でもきっと八神先生は知っているんだろう、だったらおれはせめてその手助けをしたい。
……ナギさんの表情を見てたら、堪らなくなった。大切な人が病気になったら、人間はあんな顔になるんだ。ヴァンパイアは難しい病気とか大きな怪我とかしないもんな、すこぶるお腹は空くけれど。
「貴様」
声がした。廊下の向こうから、あの藍色の髪の人がひたひたと歩いてくる。その足音が人間の歩様とは少しだけ違っていたからおれは不思議に思って「あの」と声を掛けようとした。
だけど彼は、おれよりも先におれが言おうと思っていたことをおれにぶつけてくる。
「貴様……人間ではないな」
「……!」
バレてる、マスクで牙は見えてないはずなのに。焦ってるとわかれば更に怪しまれるから、出来るだけ平静を装おうとしたけれど、だめだ汗が止まらない。
「なんのことですか」
わざとらしく咳払いをして顔を背けるように下を向いたら、急に彼がおれの腕を掴んできた。驚いて面を上げると、そこには、何て言うか、無表情なんだけど……一言では言い表せないような感情を瞳に湛えた彼がいた。
「奥様の病、どう思う」
彼は前置きも何もなく聞いてくる。おれに聞かれたって困るから、「どう、って」って言葉を濁すしかないんだけど、彼は本気であの奥さんとナギさんのことを案じているようだった。
だからなおのこと適当なことなんか言えなくて、黙ったままでいたら彼はおれの腕から手を離して、それから信じられないようなことを真顔で告げてきた。
「我等は“死神”だ」
死神……?死神って、あの死神?
冥府の門を司り、人間だけではなく有象無象、例えばおれたちのような魔族ですら、命あるもの全ての死を量る神の類い。
俄には信じがたい、通常彼らはこんなふうに人間界に腰を据えて住み着いたりしないのだ。混乱していたら、彼は座れ、とおれを石庭を望む縁側へ腰を下ろすように促す。言われるがままに座ったら、隣に彼も座ってきて、そして複雑な感情にゆらゆら揺れる瞳を庭に向けたままで話し始めた。
「無様に永らえるだけの不要な命を狩る……そして此の世の魂の均衡を保つのが我等の役目。絶えず魂の選別を行うことでナギ様は此処で権力を得てきた」
そっか、我等、って、ナギさんもそうなんだ。
不要な人間の命を狩る……恐ろしいけど、この世界の魂の器には限りがあるから仕方のないことだ。それを選り分けるのが死神の仕事だっていうのも理解はできる。できるけど、迎合はしたくない価値観だ。
おれは無意識のうちに眉間に皺が寄る。それを横目で見た彼は、ふう、と吐息してから、今度は胸元を押さえるような仕草をして俯いてしまう。
「だが長い歳月をこの現世で過ごすうちに、ナギ様には心境の変化があった」
さっき部屋で見た、ナギさんと奥様の様子が頭に浮かぶ。本当に慈しんで、愛しい人を案じる眼差し。あんなにも誰かの命を尊び繋ぎ止めたいと願う人なら、迷うのは当然だろう。
「奥さんのこと、ですか」
「……ああ」
そして、彼にとってもそれは同じなんだろう。ナギさんや奥様のことを大切に思っているのは、今の話ですごく伝わる。
「おれは……おれはただのヴァンパイアで、死神さんの仕事についてはよくわかんないすけど」
そう前置きしてから彼を見たら、彼はこんなおれの話でも真剣に聞こうとしてくれていた。ああ、いい人だな。報われてほしい、そのために八神先生とおれが来たんだとまで思える。
「その、生きたくて生きてる人がいて、生きててほしいと思う人がいて……少なくともおれは死にたくないですし、それなのにもし誰かに、それがルールなんだとしても要らないって言われたら、やっぱり悲しいし……」
うまく纏まらないや、だけど自分の言葉にしないと伝えられない。この人の心の迷いが少しでもなくなるように手助けをしたい。それなら、おれにも出来ると思うから。
「だから、あなたもナギさんと同じでいいと思います。奥さんの命が少しでも長らえて、そしてお二人で……三人で仲良く暮らせるように願ったって、そんな死神だって、いいと思いますよおれは」
思わず彼の手を取っていた。冷たい手だけど、優しい手触りだ。おれの拙い言葉を最後まで聞いてくれた彼は、また吐息して、それからおれの手を握り返してくれて……少しだけ、笑ってくれた。
「おい、何をしている」
「ヨミ、先生がお帰りだから、門まで送ってあげなさい」
部屋の方から先生とナギさんが歩いてくる。縁側で手を握り合うおれたちに首を傾げたナギさんと、思いきり不審なものを見る顔をしている八神先生。慌てて手を離したおれたちは、立ち上がってそれぞれの雇い主の隣に並ぶ。
「此方の使い走りが、何か」
「……何でもない」
彼、名前はヨミさん、でいいのかな。ヨミさんに先生は探りを入れるけど答えないから舌打ちをする。粗相のないようにって言ったのは先生なのに、いいのかその態度。
というか、先生は知っているんだろうか、この二人が死神だってこと。知らないだろうな……知ってたらおれに素性を隠せなんて言わないだろうし。
帰りの車の中で、何となく聞いてみる。
「奥様、良くなりますか」
「さあな、とりあえずは薬で持たせているが何が原因かを探らんことには治りはせんだろう」
あの奥様の病気については、わからないことが多いらしい。ナギさんは『大蛇の呪い』かも……なんてオカルティックな話をするらしいけど、この話は嫌いだ、と八神さんは吐き捨てる。
ともあれ、愛妻家であるナギさんの奥様が不治の病であると知れたら、その隙を突いて悪さをする者たちが現れる。知られぬようこうして定期的に往診と投薬を続けていくしかない、と先生は溜息を吐いてウインカーを出す。
カチカチと鳴る音が左折と共に消えて、それから先生はこっちを見ないままで聞いてくる。
「あの仏頂面に何かされたのか」
「いえ、特に何も……その、随分奥様のご病気を案じてらっしゃったので、先生のスタッフとして不安を取り除くためのお話をしていました!」
嘘は言っていないし、何なら良い働きぶりだったと思う。ねっ!と先生に笑顔を向けたら、今度は呆れ顔で溜息を吐かれる。
でも、気にしてくれてたんだなおれのこと。子供の遣いだなんだって言いつつ。結構優しいんだから、先生ってば。
「心配してくれたんですよね?」
「貴様はどうにも落ち着きがないからな、俺の信用に関わる。それだけだ」
八神先生は、助手席から運転席に身を乗り出したおれを邪魔だと押し返す。慣れない仕事を半月も頑張ってるんだからもう少し労ってくれてもいいんじゃなかろうか。まあ、いいけど……
「じゃあ、帰ったら血くださいねっ、今日の日当です!」
「さっきやったゼリーならまだあるぞ」
「ええーっ!あ、あれは正直ちょっと……」
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Gハロウィン、闇医者八神先生とその助手ヴァンパイア真吾くんが、とある訳有りのお屋敷に往診に行く話です。
この話の前日譚はこちら→https://twitter.com/mintpotato/status/1307631842510561280