病院の二階は丸ごと先生の居住スペースになっている。元は入院という名の秘匿が必要な人たちのための病室が並んでいたのだけれど、今は〝入院〟については他の場所が面倒をみてくれることになってるらしくて使わなくなったのだそうだ。
宛がわれた部屋も元は病室の物置部屋で、休診日を丸々使って掃除をしたら俺にはもったいないくらいの綺麗な部屋になった。
置きっぱなしだったベッドも使えるようなら使っていいって言われたから、とりあえずアパートから持ってきた布団を敷いて寝ることにする。マットレスが欲しいけど、先生に言ったら買ってもらえるだろうか。
風呂の場所も教えてもらっていたから、埃だらけの体をさっぱりと流す。部屋に戻る途中で、廊下の突き当たりを何となく見つめた。
視線の先、同じ二階の角部屋は先生の部屋だ。入ったことはないし入れてもらえないだろうけど、先生の部屋ってどんな感じなんだろう。難しい本とかいっぱいあるんだろうなあ。もしくは怪しい薬を調合するための器具とか、あの人体模型みたいなものが所狭しと詰め込まれていたりして。
なんて、先生に知られたら怒られそうな想像を膨らませてほくそ笑む。新しい〝我が家〟に戻り窓の外から空を見れば、もう夜がだんだん遠くなっていって朝に近くなりかけていた。住み込みなんだからもう少し起きていたって平気なんだけど、住み込みだからこそ寝坊したらどんなお説教をもらうかわからない。
ベッドに乗ったら少し軋んで、壊れちゃったりしないよな……と不安になったけど、寝ながらドタバタするような落ち着きのない寝相ではない、と思っているからきっと大丈夫だろう。そのまま体を横たえて布団の中に潜り込む。
「おやすみなさーい」
誰に言うでもなく告げて瞳を閉じた。これからが本当の新生活、ってやつになるのかな。また頑張らなくちゃ……
……
…………
ん、あれ、まぶし……朝日、じゃない、何だろう……白い光……?
強い光に曝された瞼が真っ赤な血潮を透けさせている。おれの眠りを妨げた光を訝りゆっくり目を開けたら、見えたのはおれを焼かんばかりに照らしつける手術台のライトだった。
「何だ起きたのか、そのまま眠っていれば良かったものを」
「……先生?」
逆光に誰かのシルエットが浮かぶ。段々と目が慣れてきて、それがゴム手袋をきゅっと嵌めた八神先生だと気付いて……そして、滅菌トレーから何かを取り出した先生の異常な行動に気付く。
「ひぃっ!?」
驚きと恐怖で思わず上ずった声を上げてしまった、先生の手にはギラリと光るメスが握られていたのだ。そんなものをおれに向けて一体どうしようっていうんです?鋭利な刃物の切っ先を向けられる怖さに背筋がぞぞっと寒くなって一気に冷や汗が噴き出してくる。先生の背後には金づちとか鉈とかあまつさえチェーンソーまで置いてあるのが見えたものだから、これは絶対何かヤバい気がするぞ、と危険を察知し慌てて逃げ出そうと身を捩った。しかし体はベルトで固定されていて全く身動きが取れない。
逃げられない、何で、どうしてだ。先生は一体おれをどうするつもりなんだ!?おれは手術台ごとガタンガタンと揺らし必死の形相で先生に懇願した。
「おっ、おれぇっ!!おれどこも悪いトコなんかないです!!手術なんかしなくても平気です~~~!!!!」
「手術?ハ、貴様、何か勘違いをしているな」
ぴた、と、頬に冷たい感触。ゴム手袋をしただけなのにまるで体温の伝わらない先生の指先。本当にこの人は八神先生なのか?そんな疑問すら頭に浮かんでくる。
先生はおれの頬から首筋までを切り裂く手つきで指を滑らせて、愉悦としか言いようのない歪んだ笑みを浮かべてとんでもないことを言い放った。
「これは〝解剖〟だ……伝承にしか存在しないと思っていた吸血鬼の身体を隅々まで暴く良い機会じゃあないか」
いつの間にか先生が持っているものはメスではなくチェーンソーに変わっている。エンジンがどるんと音を上げて回り出したらガソリンと錆びた鉄のにおいが手術室に立ち込めて、鋭い刃が高速回転する爆音が鼓膜を劈いた。
「すぐ楽にしてやる……」
「や、いやです、やめ、やめて……」
もしかして、もしかして先生の言ってた〝天引き〟ってこれか!?こんなの引かれたら、おれ体も命も何にも残らないんですけど!?
やだ、先生やめてください、手伝いでも雑用でも何でもしますから、助けて草薙さん、この際誰でもいい、誰か――……
「誰か助けてくださあ~~~~~い!!!!!!」
***
夢だった。
寝汗をびっしょりかいた体を勢い良く起こしたおれは、呼吸を忘れていたかのように何度も深呼吸して悪夢の手触りが去っていくのを待つ。
ようやく現実世界にちゃんと戻ってきたおれは、ネジが外れて拉げるように脚を折りうなされるおれを床に放り出していたベッドの方を見る。あー、やっぱ無理でした。
仕方ない、後で工具を借りて直そう……直らなかったら床に布団を敷けばいいだけの話だ。
スツールの上の置時計を見たら、まあそろそろ起きてもいいか、くらいの時間だ。全然寝た気がしないけど。
うう、転げ落ちたときにぶつけたのか腰が痛い……。のそのそと立ち上がって布団を片付け壊れたベッドを端に寄せて、ようやくおれは部屋の外へと出たのだった。
部屋を出た瞬間、八神先生と鉢合わせる。
否が応でもあの夢の邪悪な笑顔がフラッシュバックしてきて額に汗が浮かんできてしまう。こ、怖い。いや、本物の八神先生はあんなことしない。多分。きっと。
「お、オハヨウゴザイマス」
「……ああ」
顔の強張ったおれに怪訝な表情をした先生は、部屋着のままのおれを「此方へ来い」と呼び付ける。え、まさか起きるなり着替える間もなく仕事……?と思ってついて行った先には、そんな予想とは全く違う光景が広がっていた。
俺たちの部屋のちょうど間にあるキッチンスペース。こじんまりとしたシステムキッチンと、二人座ってせいぜいのダイニングテーブルに椅子がふたつ向かい合っている。先生はテーブルにおれを座らせると、これまた予想外のことを言い付けてきた。
「飯が出来てる、適当に食え」
「え」
飯。きょろきょろと見渡したけど輸血セットも血液パックもない。あの不味い血液製剤ゼリーも出てくる気配はない。
じゃあ一体何が、と思っていたら、バターをたっぷり塗られた焼きたてのトーストとハムエッグが白い皿に盛られて出てきたのでおれはもう一度「え」と声が出る。そこへ先生が追い打ちをかけるようにサーバーから注いでくれたいい香りのコーヒーを添えてきたから、お腹がいっぱいになる前に頭の中が疑問符でいっぱいだ。
もう時間は昼過ぎだけど、どこからどう見ても『ちゃんとした朝ご飯』。作ったのは八神先生で、食べるのはおれ。えっ、何で。
「あの、先生、ご飯って」
対面に座った先生におずおずと問い掛けると「後で血もやる」と面倒くさそうに言うので、ちょっと欲張り過ぎたことを反省する。そりゃあそうだ、誰だって作ったご飯を目の前に別のご飯の方が良いだなんて言ったら嫌な気分にもなる。おれは先生にすみません、と頭を下げたら、手を合わせていただきますをする。
そのまま用意された先生お手製ブレックファストに手を付けた。まずはトースト、バターがしみしみで耳がカリカリしてる。トーストって意外に食べないんだよな、久しぶりに食べた。ハムエッグも黄身が半熟で絶妙、コーヒーはたまに先生がついでに淹れてくれるけど、うん、相変わらずスッキリしてておいしい。
「普通に食うんだな」
黙々と食事をしていたらそんなことを言うものだから、食べさせておいて何なんだ、と文句を言いたい気持ちを抑えて先生におれたちの食生活について話す。
「人間社会の中で擬態して生きるには人間と同じ食性を装うことも必要なので……だけど効率はすこぶる悪いです」
純度100%の人間の血液ならロスなく丸ごと全部おれたちの力になる。だけど人間の食べ物で得られるエネルギーは単純計算でだいたい血液の1/5程度、且つそれを消化吸収するためにエネルギーを使うから実際はもっと少ない。だから人間と同じものを食べるってことは、すなわち擬態の手段として〝食事のフリ〟をしてるってことになる。
「味覚は」
「個体差があると思いますよ、人間の食べ物は砂を噛んでるみたいだっていう奴もいますけど、おれは結構味覚が人間寄りっていうか、好きだなって思う食べ物も多いです。基本牛乳以外なら何でも食べられますし」
咀嚼の合間合間に人間とは違うヴァンパイアの食性を話すのも変な話だ。牛乳が嫌いだって言ったら先生は事細かに血液と牛乳の関係について答えてくれたけど、そもそもおれたちは家畜の血を吸わないから幾ら血液が乳腺に送られて云々みたいな話をされてもダメなものはダメだ。アレ、お腹によくないよ。
「なら血液の好みはあるのか、例えば処女の生き血だとか」
「そんなのにこだわってるのは今時片田舎の民間伝承や宗教儀礼の上っ面を拗らせただけの怪しいサブカルやってる一派だけですよ」
健康な人間であれば味や得られる力だって変わらない。病人や精力の弱い人間の血は美味しくないって話だけど、そもそも血を抜かれて困りそうな人間の血なんか吸いにはいかないし。
質問攻めにあって飯を食うどころじゃなくなってきたおれは、コーヒーをずずっと啜りながら先生に問うた。
「あの、何でそんなこと聞くんです?」
すると先生はニヤリと笑って……夢に出てきた、あの愉悦に歪む顔をして、掌で俺の頬をするりと撫でつける。
「折角、四六時中貴様を観察できる環境を得たんだ、その生態を詳らかにせねば勿体無いだろう」
四六時中観察。
生態を詳らかに。
先生の言葉で忘れようと思っていた悪夢が一気に蘇ってきてしまう。まさかアレは正夢……!?おれ、先生にあんなことされちゃうのか!?マジで!?
「かっ……」
「か?」
「解剖しないでください……!!」
先生の手を取ってぎゅっと握り締めて平身低頭に慈悲を乞う。先生はしばらくおれのことを胡乱げなものを見る顔をして見ていたけれど、ふ、と口元を緩ませ、さっきよりも柔らかい笑顔になったかと思ったら、テーブル越しにおれを引き寄せて耳元で囁いた。
「安心しろ、今はしないでおいてやる」
「ひっ……!」
今は!?今はって何だ!?そのうちするってことか!?怖くて握った手を放し距離を取ると、先生はおれの慌てぶりを滑稽だと鼻で笑って頬杖をついた。
「冗談だ、臆病者の物の怪め……貴様をバラしたところで、別に面白くもないだろうからな」
「お、面白いとかそういう問題じゃないと思うんですけど」
助かった、のか?とりあえず解剖されなくて済むらしい。
だけどこれから先生に改めて〝ヴァンパイアとしてのおれ〟を事細かに観察されるんだなと思ったら妙な気持ちになる。っていうか、八神先生みたいなお医者さんでも人間以外のことってよく知らないんだなあ。当たり前か、初めて会ったときだって架空の生き物を騙る酔っ払いだと思われてたんだもんな。
『俺たちは人間に馴染み過ぎちまった』……いつだったか草薙さんがそう言ってた。人間に紛れて近づいて、そして人間を襲うはずが、人間社会に紛れ過ぎてしまって誰が人間でヴァンパイアなのかわからなくなって……そのうちに自分がヴァンパイアだってことを忘れてしまう奴もいる。そうやっておれたちって、どんどん忘れられて『伝承の中の生き物』になっていくんだろう。
おれは給料として血を貰っている以上、ヴァンパイアだってことを先生に忘れられたら大変に困る。おれを観察して、おれがヴァンパイアだってことを忘れないでいてくれたなら、それはそれでいいのかもしれないな。解剖は絶対嫌だけど。
席を立った先生は、おれの腕を引っ張って今度は検査室へ連れて行こうとする。
「後は……そうだな、聴力と視力を診てやる、下へ来い」
だけど食事はまだ途中で、引き留めたら怪訝な顔をされてしまう。
「あ、でもまだご飯が」
「食わなくてもいいんだろう、後で処理するから置いておけ」
「だけど、先生がおれのために用意してくれたものですし、ちゃんと全部食べたいです。あっ、無理してるわけじゃなくて、おいしいからもったいなくて!」
最初に嫌な思いさせちゃったことへの贖罪なんて言うつもりはないけど、おいしいご飯を残しちゃ罰が当たるっていうのは、ヴァンパイアも人間も同じだろう。
「……そうか」
先生は素直におれの言うことを聞いてくれる。そしてまた対面に座った先生は、今度はじいっと無言でおれを見つめてくるからそれはそれで困ってしまった。何か言って欲しい、いや、また質問攻めにあっても困るけどこれはこれで視線が気になる。
「そ、そんなに見られたら食べにくいですよ……」
「喧しい」
何か照れる……いや何で照れてんだろおれ……えっ観察ってこういう感じなのか?これから四六時中?
もそもそと先生のご飯を食べ終わり、ごちそうさまでした、と手を合わせたら八神先生は合わせた手を上から握ってくれる。その掌は夢と違ってあったかかったから、おれは今度こそ悪夢を忘れて暮らせそうだって思った。
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Gハロウィン庵真、住み込みで働くことになったヴァンパイア真吾くんとよからぬことを企んでいる?ドクター八神さんの話。
住み込みになった経緯の話→https://twitter.com/mintpotato/status/1308693522875215872