「いらっしゃいませぇ……って、なんだ、耕一か」
土曜の昼過ぎ、俺はとあるレストランでちょっと遅めの昼食を取るべく店内へと入っていった。そのレストランには見知った顔の店員が居る。梓である。
梓はこの春、俺が通う大学へ入学していた。そして、このレストランでバイトを始めたのだ。
このレストランはイタリアの家庭料理を出しているレストランで、近所でも有名なレストランだ。バイトになるための競争率も他のバイトと比べると高い。その原因はここの制服にあった。イタリアの民族衣装で、ゆったりとした黒のロングのスカートと、それと対をなす白のゆったりとしたエプロン、さらにシンプルだけど色鮮やかなのスカーフの組み合わせが女性に支持されているらしい。もちろん料理もおいしいので、ご飯時はいつも満員だ。
「なんだはないだろ。一応、お客だぜ」
苦笑しながら俺は言う。
「……前から言ってるだろ、外で外食するなら家で私が作ってあげるって」
スーッと近寄ってきて小声で忠告するように耳打ちする梓。
梓は今、俺の部屋で一緒に住んでいる。梓に言わせれば同棲らしいのだが、俺に言わせれば居候である。それでも食事や掃除など家事全般をしてくれているので助かってはいるが。
「梓ちゃん、わたしの前でそういうことは言わないでちょうだい」
「うひゃあっ!」
突如梓の背後に現れた人影。その人影から発せられた声で、梓はまるで蛙のように飛び上がって驚いた。
「て、店長、驚かさないでください……」
その人物こそがこのレストランの店長さんである。
「驚かすって……それより営業妨害は止めてちょうだいね、梓ちゃん」
こういう話し方をしているが、この店長さんは男性である。店長はハーフで海外育ちが長く、日本語は日本人である母親に習ったためにこういう話し方になってしまったらしい。
「耕一ちゃん、いらっしゃい」
元々店長さんが気さくな性格ということもあるが、梓のバイトの様子を見に来たり、時間が合えば梓を迎えに来ることもあるので店長さんとは顔見知りになっていた。梓がバイトを始めてからまだ一月も経っていないことを考えると、異様なほどの速さと言ってもいいかもしれない。
「えぇ、ここの日替わりランチはおいしいですから、また食べに来ました」
俺は、間にいる梓を無視するように店長さんに話しかける。それもにこやかに。
間で無視された梓が何か文句を言っているが気にしない。
「そう、日替わりランチを食べに……耕一ちゃん、それは残念ねぇ」
「……残念って?」
俺の問いかけに対して、店長さんは店内に掛けてある時計を指差して俺に見るように促す。
「チッ、チッ、チッ、チッ、チーーン、は~い、ランチタイム終了ぉ」
嬉しそうに店長さんが言う。
「げっ……」
俺は時計を見ながら絶句する。
時計を確認すると三時を指していた。この店のランチメニューは三時までなのだ。
「日替わりランチは終わりだけど、普通のメニューはあるから」
落ち込んでいる俺に、店長さんは優しく声をかける。
「それじゃ、カルボナーラにしようかなぁ……」
俺はため息をつきながらつぶやく。普通のメニューもおいしいのだが、日替わりランチだと同じ値段でもコーヒーが付くのだ。これは貧乏学生にはありがたいことなので重宝していたのだが。
「これは外食するなって神のお告げだよ」
店長さんとは反対の反応を梓は見せる。
梓はべーッと舌を出しながら、からかうように言う。確かにこのタイミングではそう言われても仕方ないだろう。
「まぁ仕方ないか。そんなことより、体調の方は大丈夫か?」
俺は日替わりランチのことを頭から振り払うように梓に声をかける。今日の本当の目的はこちらなのだ。
梓は数日前から体調を崩していた。風邪をひいているのだ。それでもバイトは始めたばかりなので休めないと言って無理にバイトに出ていった。ランチを食べに来たというのは口実である。心配になってつい様子を見に来てしまったのだ。
「耕一も心配性だなぁ。大丈夫だって、ほら」
そう言って梓はその場でクルッと回転してみせる。スカートがフワッと浮く。
「おっと……」
自分で大丈夫なところを見せようとしたのだが、案の定、梓はバランスを崩す。普段の梓なら絶対にないことだ。
「全然大丈夫じゃないじゃないか!」
俺は慌てて梓を支える。
「だ、大丈夫だって」
梓はそれを振り払うように手を動かす。
「……やっぱり体調が悪かったのね」
その様子を見ていた店長さんが口を開く。
「やっぱりって、何かあったんです?」
俺は店長さんに尋ねる。
「それがね、梓ちゃんはいつもは注文を間違えたりしないのに、今日に限って何度も間違えちゃってるのよ。どうしたんだろうって心配してたんだから……」
そう言って梓を見る店長さんに目には、梓を思いやる優しさがあった。
「大丈夫ですって、本人が言ってるんだから安心してくださいよ」
店長さんに向かって大丈夫なところを見せようと、梓はコツンと軽く俺の胸を叩く。しかし、足下はフラフラしているので全然大丈夫には見えない。
店長も不安そうな視線を返すだけだ。
「そこまで言うなら……でも、きつくなったら言えよ」
「そうね。梓ちゃん、無理はしないでよ」
俺はとりあえず納得してみせる。梓は強情なところがあるので、自分から諦めるまでは待った方がいいだろう。そう判断したのだ。店長さんもつき合いは短いが、人をまとめる立場にある人間である。梓の性格は見抜いている。俺と同じ判断をしたのだろう。
「うん、ありがと……じゃ、いきなりだけど、もうだめぇ……きゅ~」
そう言うと、梓はその場に崩れるように倒れていった。
「梓、おいっ、梓……」
全然大丈夫ではなかったようだ。
俺と店長さんは梓の元に駆け寄る。多少の熱はあるようだが、大したことはなさそうだ。進学やバイトで疲れが溜まっていたのかもしれない。
俺は店長さんの許可を取り、梓を連れて帰ることにした。
「ここは……あれ、なんで耕一に背負われてるの……?」
帰り途中、梓は目を覚ます。そして俺に背負われていることを理解する。
店でしばらく様子を見たのだが、梓は目を覚ましそうになかったので連れて帰ることにした。それには背負って帰るのが一番だと判断したのだ。
「そっか、風邪で……」
店で倒れたことを思い出したのだろう、なぜ背負われているのかは理解できたようだ。
「そう、風邪で倒れたから家に連れて帰るところ……あれほど無理はするなって言ったのに」
後ろを見ずに俺は言う。倒れるまで無理をするのは梓らしいと思わないでもないが、それでも体調の悪いときぐらいはゆっくりと休んでいてもらいたい。
「……ご、ごめん」
素直に謝る梓。こういった気持ちの切り替えが早いのは梓の良いところだ。
「いいって、俺が好きで背負ってるんだし……でも体調が悪いときは休んでおくこと。もう二度とこんなことがないようにな」
諭すように俺は言う。
見えはしないが、梓が頷くのがわかった。
「……耕一の背中って大きいんだな」
小声でそうつぶやきながら、梓は俺の首に回している腕にキュッと力を入れる。
「ん? 何か言ったか?」
しっかりと聞こえていたが、聞こえなかった振りをする。
「ううん、何も……」
コンッと梓はおでこを俺の後頭部にくっつける。心地よい重みが俺の背中にかかる。
「それにしても、なんか見られているような……」
梓は、辺りの人たちの視線に気付いた。すれ違う人、すれ違う人すべてがこちらを見ているのだ。気付かない方がどうにかしているだろう。
「そんなにおんぶが珍しいのかな……?」
キョロキョロと見渡す梓。まるで珍しい物を見るような視線を向けている人々も梓と目が合うと何事もなかったかのように目をそらす。いや、中にはそのまま見ている人もいる。
「……はははっ」
その様子を見ていると、つい笑いが漏れてしまう。
「なにがおかしいんだよ……」
憮然とした声を上げる梓。
「だって……梓、今自分がどんな服装しているかわかってないだろ」
「どんな服装って……普通にバイトの服……って、えぇっ!」
梓は自分の服装を見る。やっと梓は自分がバイトの服のままだということに気付いた。そう、イタリアの民族衣装のままだということに。この服装で外にいれば目を引かないはずはないのだ。
「どうして……?!」
梓は目を白黒させて服を見つめている。
「着替えさせるわけにもいかないから、そのまま連れてきたんだよ」
俺は苦笑しながら答える。
普段は私服で移動してレストランの更衣室で着替えるため、この服装で外を歩くなんてことはない。規則で外を歩くことは禁止されているほどだ。今回は非常事態ということで店長さんが許可してくれた。
背負われているのが一層恥ずかしさを増長させていたのだろう。梓は俺の背中から降りて歩こうとするが、やはり一人では歩けそうにないので結局アパートまで背負うことになった。
「ほら、着いたぞ……」
しばらく歩いてやっとアパートに到着する。
さすがに梓を背負って歩いただけあって、服の下は汗びっしょりだ。額にも汗が浮かんでいが、それを梓に感ずかれないようにそっと袖で拭う。そして玄関でゆっくりと梓を降ろす。
「ありがとう……」
「布団用意するから、その間に着替えておけ」
梓が玄関で靴を脱いでいる間に俺は部屋にないって布団を敷き始める。
慣れたもので、布団はすぐに敷き終わった。
「ほら用意できたぞ。今日はもう寝ておけ……って、まだ着替え終わってないのか」
梓を呼びに玄関まで戻ったが、梓はバイトの服装のままボーっと座っているだけだ。
「えっ……あ、あぁ。ごめん」
俺に言われて慌てて着替えようとするが、うまく着替えられないでいる。
「慌てなくていいから……」
優しく包み込むように、俺は梓に声をかける。
「……うん」
そして、パジャマに着替えた梓を布団に寝かて何度か額の濡れタオルを交換した後、梓の手を握ったまま、俺も眠りへと誘われていった。
「まったく……」
俺の隣には風邪から完治した梓がいる。一晩寝たら治ってしまったようだ。
「いくら春先で暖かくなったからって、布団も掛けずにいるなんて……」
梓の言うように、俺は夕べ梓の看病をしながら寝てしまった。それも梓を背負って汗をかいたまま。汗を拭くことなく寝てしまたので、今度は俺が風邪をひいてしまったのだ。
「看病してくれるのは嬉しいけど、自分が風邪をひいたら意味ないだろうに」
呆れるような口調で話しているが、梓はどこか楽しげに見える。
「まぁ、人にうつしても治るって言うしね。それで治ったのかも……」
微笑を浮かべる梓。
「ゴホッ、ゴホ」
俺は反論も出来ず、ただ咳をすることしかできない。
「まぁ、今日はバイトもないし、一日中看病してあげるから……な」
ベキョ バタンッ!
梓の発言と同時に、玄関の扉が勢いよく開かれる音が聞こえた。
もちろん鍵はかかっていた。鍵を壊してなお勢いよく扉は開かれたのだ。こんな事が出来るのも、しそうなのも俺は一人しか知らない。
「梓、風邪で倒れたって聞いたからお見舞いに来たわよ」
そして聞き覚えのある、元気な声が聞こえてきた。
梓が玄関まで移動していく。予想通り、その人物は千鶴さんであった。
「千鶴姉、その臭いは……」
玄関に着いた梓は強烈な悪臭におそわれる。鼻をつまむが、それでも臭いを感じられるほどの悪臭だ。
「あっ、これ?」
梓とは対照的に、千鶴さんはいたって平然としている。しかし、悪臭は千鶴さんの持っている鍋から発生していることは間違いなかった。
「そう、その鍋……なに?」
「これはね、梓のために作ったキノコ鍋よ。栄養ばっちりなんだから」
鍋のふたを開けると、ムアッとした臭いが立ちこめる。梓は気絶しそうになるがどうにか我慢する。
「隆山から持ってきたから冷めちゃったわね。ちょっと温めなおさしてもらうわね」
そう言うと千鶴さんは台所へと移動して鍋を火にかける。梓は何も言うことが出来ない。息が出来ないと言った方が正しいだろう。
「これで大丈夫っと」
鍋からは湯気が立ち、いかにも温かそうだ。しかし、それにともない悪臭も酷くなっている。
「……あら、梓、元気そうね」
千鶴はようやく梓が元気になっていることに気付く。
千鶴は、元気になっている梓と自分の手の中にある鍋とを見比べる。鍋が無駄になってしまったと悲しみの表情を浮かべながら。
「うん、元気だけど……耕一が……ね」
千鶴さんの鍋の臭いの所為で元気ではなくなりかけているのだが、元気な振りをしていた方がいい。梓はそう感じていた。
「あら、耕一さんが風邪?」
千鶴さんが布団に寝ている俺の姿に気付く。今までは鍋のことばかり気にしていたので気付いていなかったらしい。
「そうなんだ……あっ」
千鶴さんが何かを思いついたような声を上げる。
千鶴さんが何を思いついたのか、想像はつくが想像通りでないことを祈る。
「じゃ、このキノコ鍋は耕一さんに……」
想像通りだった。
「はい、あ~ん」
千鶴さんは猫なで声でそう言うと、スプーンで鍋の中身をすくい俺の口元へと持ってくる。が、俺は口を開こうとはしない。口を開いたらどうなるかわかっているから。いや、俺の想像している以上の事になるかもしれないから。
「ほら、あ~~ん」」
千鶴さんは俺の両頬を掴むとググッと力を入れてくる。抵抗するが、俺の意志に反して口は徐々に開かれていく。
パクッ
「美味しさのあまり声も失ってしまったようですね」
声にならない悲鳴が部屋を揺るがした。もちろんその悲鳴の主は俺だ。
千鶴さんは気付かなかったのか、気付かなかった振りをしたのか、料理を食べさせて満足したのだろう、足取りも軽く隆山へと帰っていった。
その後、俺が一週間寝込むことになった。言葉はおかしいが、健康体であったならもう少し回復が早かったのだろう。しかし今回は風邪で寝込んでいるときに食べさせられたので回復までに時間がかかってしまった。改めて千鶴さんの料理の恐ろしさを実感させられた。
今回のことで、体調を崩すと千鶴さんの手料理を食べることになると学習したのか、以後、梓は体調を崩さないよう健康に気を付けるようになった。それも異常と言えるほどに。その甲斐あって、千鶴さんが手料理を持って出没することもなく、俺と梓は健康という喜びに毎日感謝していた。
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リーフ「痕」の二次創作。
これも2000年に書いた物ですね。前にも書きましたが、リニューアル版はやっていないので設定違うかもしれません。