TINAMIX REVIEW
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青少年のための少女マンガ入門(1)大島弓子

■最新単行本「グーグーだって猫である」について

最後に一つ。先ごろ、大島弓子の最新刊、「グーグーだって猫である」(角川書店)が発売された。2000年9月現時点、初版部数の関係上なのか入手困難になっているという話を聞くが、じきに重版され手軽に入手できるようになるだろう。

この作品は、1995年10月6日にサバが永眠した後、新しく飼い始めたグーグーとビーという二匹の猫と自分の暮らしを描いた4ページ連載をまとめたものである。じゃあ、サバものみたいな感じなのか、というと、とんでもない。さらに作風が変化している!!

この作品については、休刊が惜しまれる「岡田斗司夫のおたくウィークリー」(http://www.netcity.or.jp/otakuweekly/)に掲載された大塚英志氏のコラム、「大塚英志のおたく社会時評第七回もう、「補完」はされない 」(http://www.netcity.or.jp/otakuweekly/BW0.3/column1.html)にて、鋭い指摘がなされている。数年前に書かれたものだが、大島弓子評として大変優れたものなので、是非とも読んでいただきたい。◆

当コラム執筆におきまして、お世話になりました「岡田斗司夫のおたくウィークリー」関係者の方々に、御礼申し上げます。

文:もとむら ひとし


・『金髪の草原』を観た

大島弓子『金髪の草原』が映画化された。主演の池脇千鶴がたいへんかわいい。惜しむらくは、原作ではメイドさん風の格好をしているのに、映画ではふつうの格好をしているところだろう。メイド服の池脇が廊下の雑巾がけやトイレ掃除をしていたら、たいへん嬉しかったのだが。

金髪の草原
「金髪の草原」
原作:大島弓子
監督:犬童一心
銀座テアトルシネマにて上映中

ところで、大島弓子といえば「少女」である。映画版を見るときにもっとも注目したのは、大島の描く少女のリアルさがどのように解釈されているかであった。映画版では、少女の生活をリアルに描写しようという意志が細部にまで感じられた。が、大島のリアルさの表現手法とは随分異なっている。大島のリアルさは高度に抽象化されたところで表現されているが、映画版は細部まで具体的に描写しようという姿勢を見せていた。この方法の差は、マンガと映画というメディアの差によるものかもしれない。マンガは世界観にとって余計な細部を描写しないことで世界観の純粋性を保つ。逆に言えば、具体物を細部までリアルに描写することはできない(それをある程度実現したのが大友克洋)。だからリアルさを出そうとすると、余計な細部を捨て去った抽象的な部分での勝負になる。背景を描かずにベタやスクリーントーンで心象描写をおこなうわけだ。一方の映画の場合、映したくない細部まで画面が掬い取ってしまう。世界観にあわないからといって、余分な背景を消し去ることはできない。だから世界観を細部まで構築しておかないとリアルさは簡単に損なわれる。

大島弓子は、具体的にはちっともリアルじゃないのに、抽象的にはたいへんリアルなところがおもしろく、多くの読者を惹きつけた。たとえば代表作『綿の国星』の場合、自分のことを人間だと思っている猫が主人公である。ちっともリアルではない。が、抽象的な次元では、実にリアルに少女というものを表現した。だからこそ、70年代後半から80年代前半にかけて、橋本治など多数の評論家の欲望を喚起し、大量の大島弓子論が記されることとなった。そして本コラムをはじめとして、大島弓子に対する語りは今でも尽きることはない。だから今回の映画も、大島弓子の抽象的なリアルさに対しての挑戦として観てしまうわけだ。

その意味では、80歳の老人が自分を20歳だと思いこんで恋をするという『金髪の草原』の設定は非-リアルであり、そこからいかに抽象的なリアルさを引き出せるかが作品のポイントとなる。映画版では、リアルな日常が描かれるのと同時に、非-リアルなエピソードが積み重ねられる。バイオリン、金属バット、クレープ、「な〜んでか?」など。これが大島弓子的なリアルさを表現できているかどうかが、評価の分かれ目となろう。まあ、大島弓子原作ということをまったく考えなければ、ふつうの映画として充分に楽しめる。テーマ自体は荘子の「胡蝶の夢」以来2,000年以上の伝統を誇る古典的なテーマのバリエーションだが、前向きに落ち着いているところが爽やかで、カップルで観に行っても楽しいひとときを過ごせるだろう。

なんにせよ、カップルで観に行ったわけでない私としては、池脇のメイド服シーンはぜひとも欲しいところだった。(はいぼく)

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