No.982610

彼女の世界と彼女の猫

山石裕さん

かなり昔に同人誌で出した小説です。
文章は相棒の深井氏によるもので、イラストのみ担当してます。
このお話がとても好きなので、埋もれさせておくのはもったいなくて公開しました。

2019-02-03 17:49:50 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:360   閲覧ユーザー数:360

 1

 

 彼女から久しぶりに││本当に久しぶりに││メールが届いたとき、僕はそのことに気付いてもいなかった。

 いや、より正確に言えば、メールが誰かしらから届いていることは画面の片隅にいつも表示されているアイコンが点滅することで判っていた。ただ、その時の僕はくだらない書類作りに忙殺されていて、誰から来たメールなのかを確認している暇がなかった。

 そんなわけで、僕にとって本当に重要な意味を持っていたそのメールを僕が読んだのは、それが発信されてから半日以上経過してしまった後だった。

 もっとも、メールの送り主である彼女にとって、僕の半日はさほど長い時間ではないかもしれないのだが。

 そんなわけで、慣れない書式の書類作りと手書きという作業自体(なんでキーボードとプリンタがあるのにこんなことしなきゃいけないんだ!)と三時間あまり格闘し、誰でもいいから誰か一人が決めてしまえばいいようなことを延々と引き伸ばした会議に二時間ほど出席し、自室の端末の前に座ってようやく自分のための作業に入ることができるとほっと一息ついて、ようやく僕は自分宛に届いていたメールを読んでみる気になったのだった。

 これはいつもの僕からするととても珍しいことで、いつもならばメールの確認など後回しにしてとにかく中断させられていた作業に戻る。

 僕は研究をするためにこの場所にやってきているのだから、研究以外の雑事にこれ以上関わるのは御免だという気分がどうしても強くなる。

 また、メールで送ってくるような用件は重要度が低いことが明らかで、締切の半日以上前に送られたメールによって、その締切が守られたなどという話は、古今東西聞いたことがない。

 緊急性が高い用件ならば、もう個人の大半が持っている携帯電話に直接連絡した方が速い。便利になって忘れられていることだけども、メールというものは届くことを完全に保証した媒体ではないのだ。当然のことながら、届く時間など保証されるはずもない。

 今はほとんどそんなことはないけれど、ネットワークが世界に張り巡らされ始めた頃のメールは、出してから半日以上遅れて届くなんてことはざらにあった。

 だから、その頃からメールを使っている僕のような(一般人から見ればうるさ型の)人間は、記録に残るという性質と、相手の時間に割り込まずに連絡を取ることができるという、メールが備える二つの利点をきちんと生かすことができる用件でしかメールは使わない。

 世の中がこういう合理的判断の可能な人たちだけで構成されていれば、もっとすっきりとした日常生活を送れると思うのだけれども、世の中はそんなに甘いものではなく、メールの性質を全く理解しないまま、ただ漫然と使う人々であふれ返っている。

 というわけで、しばらく見ないうちに僕のメールボックスの中には種々雑多なメールが何の秩序も持たずに並んでいた。

 きれいに一列に並んで表示されているから、一見したところではその混沌は理解しにくい。

 そこがメールの恐ろしいところで、内容を検討し始めてから、それらのメールの並びは単に届いた時間順に並んでいるだけなのだということに気付いて愕然とするのが毎度毎度の習慣として繰り返されている。

 公私ともに自分が関わっている全ての人間の時間的スケジュールを把握しきっている人間が、果たしてどれだけいるだろうか。

 もし、そのような人間がいれば、メールが届いた時間はほぼ、それが出された時間だと考えて間違いないことから、この時間系列という手がかりだけで、無秩序状態からある程度の法則なり秩序なりを見出せるのかもしれない。

 しかしながら、生憎と僕にはそのような能力はないので、ざっと差出人のアドレスを調べて、明らかに関係ない場所から来た明らかに場違いなタイトルのメールを見つけ出して、それをゴミ箱にどんどん放り込むのが最初の作業になる(完全なスパムは僕のアカウントにはほとんど届かないし、不完全なスパムフィルタで重要なメールを見落としてしまう危険性を避けたいので、僕はスパムフィルタを使っていない)。

 別に楽しい作業ではないけれども、頭を使わずにできるパズルのように、無心でいられるのが少しだけいいかもしれない。

 そして、その作業と平行して、差出人やサブジェクトを見てそのメールの重要度も一緒に測っておく。これはこの後に続く作業の重要な下準備になるのだから、頭を使わず気楽にというわけにはいかない。

 とはいえ、やはりこの作業は、普段研究課題についての議論なんかに使っているのとはまったく別の脳の部分を使うことを要求するので、一種の脳の柔軟体操として働く。

 そんな七面倒なことを説明しなくても、書類と格闘していたために半日以上貯めてしまっていたメールを、会議から返ってきて真っ先に読んでみた、と書けばそれで済む話なのだけれど。

 そうやって整理していった新着メールの中に不可解なものが紛れ込んでいた。

 それが彼女からのメールだった。

 内容はいたって普通で、雑談以上の情報は含まれていないものだった。一種の私用メールということになるのだろうが、そんなことにいちいち目くじらを立てる野暮天もこの研究所にはいなかったので、ネットワークを流れるトラフィックの一割弱はこのような、直接研究とは関わりのないデータのやり取りで食われていただろう。だから私用メールだから珍しいというわけでもない。

 問題は、差出人がもうこの世界からはいなくなっている、という点だ。

 

 

 

 2

 

 僕と彼女は同じ研究所に勤める研究仲間だった。

 割と気の合う同僚、以上の仲ではなかったと思う。それはたぶん僕から見ても、彼女から見ても、周囲から見てもそうだっただろう。

 僕と彼女は同じ研究所に毎日通い、ちょくちょく顔を合わせ、時には議論を戦わせた。まぁ要するに普通の研究者がやるようなことは一通りやっていて、普通の研究者がやらないようなことは僕も彼女もやらなかった。

 僕の研究テーマは知能シミュレーションで、これは「コンピュータ」と「知能」という二つの単語を聞いて普通の人がまっさきに連想するだろう人工知能とは少し違う。

 結果としてみれば、どちらも知性体をコンピュータによって実現するわけなのだけれども、人工知能研究は実現することそれ自体が目的なのに対して、こちらはあくまでもシミュレートが目的になる。

 研究者でもない普通の人には、それらの違いなど全く判らないだろうが、研究というものは、目的が重要であって、実現される結果は目的ほどは重要ではないのだ(この意見も研究者以外には理解しにくいかもしれない)。

 僕の同僚である彼女も研究テーマは同じだった。ただ、彼女の方は僕より人工知能寄りのアプローチを取っていた。彼女と議論する機会が多くなったのも、自然な成り行きだったかもしれない。

 何はともあれ、僕と彼女は互いに異なったアプローチで、コンピュータ上に知性体を再現するための研究を日々続けていたのだった。

 おっと、僕の研究についてまだきちんと説明していなかった。

 僕の研究は、ある意味で非常に泥臭いアプローチを取っていると言える。

 現在、この世界に現存する知性とは神経細胞ネットワークの状態遷移である。よって、計算時間にものをいわせて神経ネットワークの状態をシミュレートしてやれば、それは知性を宿しているように振る舞うに違いない、というのが基本的な考え方だ。

 とはいえ、ゼロからすべてを計算していたのではいくらやってもきりがない。そこで、神経ネットワークの状態がある程度安定しているノンレム睡眠中の知性体の神経ネットワークをありとあらゆる非破壊検査手段││fMRIとか、X線CTとか、名前を聞いたことくらいあるだろう?││で調べあげ、その次の状態を計算してやることでゼロから計算することは回避することにした。いうなれば、知性体の情報的なコピーをコンピュータ内に作り上げることになるだろうか。

 コピーだから簡単に実現できると思ってもらっては困る。コピーとはいっても、その情報量は莫大だ。元の情報量が多ければ多いほど、次に取りうる状態は指数関数的に増えてしまう。

 今のところ、その選択肢を上手く刈り取ってやる方法を僕には見つけ出せていなかった。つまり、総当たりで一つ一つ無意味な結果をつぶしていくしかなかったのだ。

 そういう意味でも、僕の方法論は泥臭いと言われても仕方がないところがあったと思う。

 一方、彼女の方法論は、一言で言えば、知性の性質を定義してやって、その性質を持つプログラムを実行することで知性体を作り上げるというものだった。

 その性質とは「知性は、あるルールに則って選択された周囲の環境の情報のみを映し出す鏡である」というもので、認知科学の世界ではオーソドックスな考え方ではあるけれども、彼女の研究は、環境とそれを映し出す鏡であるところの知性の両方を、コンピュータシミュレーションで作り上げてしまおうという部分で、他とは一線を画していると言えた。

 たいていの場合、環境はこの現実世界そのものの情報をそのまま使って、わざわざ環境までコンピュータでシミュレートしてやろうと考えた人間はいなかった。

 しかし、我々が暮らす現実世界には情報が多すぎて、どれを捨ててどれを取るべきなのかを判断するだけでも大変だ。

 その取捨選択の手間と、世界自体を単純化して作り上げてしまう手間を、彼女は秤にかけ、後者を取ったというわけなのだ。

 というわけで、彼女の研究は着実に進んでいて、単純化した世界シミュレーションの視覚化まで出来上がっていた。ある日、少し自慢げな顔をした彼女は、僕にその世界を見せてくれた。

 そこは、見たことがあるようなないような、そんな不思議な印象を抱かせる部屋だった。HMDに浮かぶ視界に映る映像は、ピントが合っているのだけれどもどこかぼやけている、そんな印象を僕に抱かせた。

 その部屋のレイアウトは、基本的には僕たちが普段仕事をしている研究室のレイアウトに似ていた。机、椅子、キャビネットなど、多少細部が異なっているものの基本的には見慣れた家具が並んでいる。

 しかし、全てが同じというわけではなくて、入り口付近のレイアウトは、むしろワンルームマンションのそれに近いものになっているようだった。つまり、部屋の入り口を入ってすぐに空間が広がっているわけではなくて、手前には狭い廊下が少し続いていて、その先が部屋になっている。廊下の行き止まりにはドアらしきものがあるけれども、そこにはドアノブが見当たらなかった。

 どういう知性体を前提に置けばこのような世界の再現でよしとできるのか、僕にはいまひとつピンと来るものがなかった。

「人間に近い知性体モデルを使うわけではないのか……?」

 思わず洩らした僕の感想めいた独り言を聞いて、彼女は答えた。

「さすがに鋭いね。確かに念頭に置いているモデルは人間のそれじゃない。具体的に何かってのは、後でのお楽しみだけどね」

 その時の僕の視野は、HMDに覆われていたわけな ので、その時の彼女の表情は見えなかったけれども、その中に、面白くて仕方がないという笑みをいっぱいに湛えていることがあからさまな声を聞いた僕は、彼女の研究成果がもう完成間近であることを覚った。

 その部屋は、研究目的がすぐに連想できるものではなかったのだけれど、ただ一つ、僕たちが生きている現実世界よりも少しだけ平穏で、暖かな日差しに満ちていることが印象に残った。

 

 

 僕の方はといえば、とにかく計算時間を稼ぐための方策を探して全く視界が利かない霧の中をさまよい歩いているような状態だった。

 現在、僕が使っているコンピュータ環境は、十六台のクラスタコンピュータをさらにもう一段階、十六クラスタにまとめて、最終的には二百五十六台のコンピュータが高速ネットワークで互いに接続されて、並列に計算を行なうという、その時期に平均的な研究所にあるものとしては割合先端のほうに位置しているものだった。

 けれども、計算機に限らず資源というものが一般的にそうであるように、僕の研究に十二分に足りているとは言い難く、計算時間はあればあるだけ欲しかった。

 いつだったかの学会で、「神経細胞は多く、時間は少ない」とプリントされたTシャツが売られていたのを見たことがあるけれど、今の僕の状態はまさにその通りで、あまりにその通り過ぎて腹が立つくらいだった。

 そうやって物理的な限界(実は金銭的な限界なのかもしれない)に腹を立てたって、問題は何も解決しないから、その中でなんとかやりくりするなり、物理的限界をクリアするなんらかの方法を探すなりしなければならない。これが僕の今の主要な作業項目だった。

 しかし、これまでの研究の中で、簡単に実行できそうな方法など既に試し尽くしているわけで、僕は半分以上、もう何をやっていいのか皆目見当もつかないという状態だった。

 簡単に言えば完全に行き詰っていたのだ。

 一応、いくつかのデータを元にした計算自体は進んでいるわけだから、全くの足踏み状態というわけではないことは救いといえば救いだったけれども、そのことは僕の気持ちを軽くはしてくれなかった。

 そして、暗中模索五里霧中の日々が続いた。彼女の方も作業で手が放せない状態が続いているらしく、デモンストレーションの日から顔を合わせることはなかった。

 別にそれはこれまででもさほど珍しいことではなかったので、僕は全く気にしていなかった。

 

 3

 

 ある日、研究室に出勤した僕を待っていたのは、彼女が交通事故でこの世を去ったという唐突なニュースだった。

 この手のニュースが唐突でないことなど、ありはしないのだけれども、それでも僕はその唐突さに戸惑わされた。悲しいという感情はずいぶんと後になってからやってきた。

 友人として、ご両親が喪主のお葬式に出席し、焼香を済ませた。だけど、まるで悪い夢を見ているみたいで、現実感がまるで伴っていなかった。

 今までにしばしばそうしていたように、ちょっと長い休みを取って旅行に行っていた彼女が、誰も食べないようなゲテモノのお菓子をお土産にしてある日ひょっこり研究室に顔を出しそうな気がずっとしていた。

 

 

 メールを受け取ってすぐに、僕は彼女のアカウントを使って、とあるプログラムがそれなりのCPU資源を消費しつつ動き続けていることに気がついた。多分彼女はこれに気付かせるために、自動的にメールを発信するように設定しておいたのだろう。

 そのプログラムの名前は、いつか見たあの世界シミュレータともう一つ、「tomcat」という名前のプログラムだった。どちらも同じくらいの計算資源を消費していた。

 僕は少しどきどきしながら可視化プログラムとシミュレータプログラムとを接続した。

 HMDを装着した僕の目の前には、彼女に完成したばかりの世界シミュレーションを見せてもらったあの日と同じ、少しだけぼやけた印象の部屋が広がっていた。

 はじめのうちはあの日と何も変わるところはなかったけれど、やがて僕はキャビネットの上の暗がりからこちらを用心深く伺う二つの眼を見つけた。

 僕がシミュレータ内の位置を左右に変えると、その眼が向いている方向も僕のいる場所を追いかけて変わった。どうやら僕のことを認識しているように振舞っている。

 眼の正体を確認しようとキャビネットに近づいていくと、それはキャビネットの奥のほうに引っ込んてしまった。

 この時のシミュレータ内の僕の格好といったら、頭の位置を示す楕円球と腕の代わりにものを指し示す棒││ご丁寧に、棒の先には人差し指を伸ばした手のアイコンが付いていた││という姿で、怪しいことこの上ないのは確かだった。

 眼の正体がなんであろうとも、それまで自分だけがいた世界に、突然現れた見慣れぬ侵入者に警戒するのは考えてみれば当たり前だ。それが人工的で自分とは明らかに違う形をしていればなおさらだ。

 僕は一度シミュレータへの接続を解除すると、大急ぎで自分の姿をもっと詳細にモデル化した可視化プログラムを書き上げた。今度は視覚だけではなくて、聴覚も拾うことにした。シミュレートされた世界への介入もできるはずだ。モデルのための材料は、ずいぶん昔に研究の一環として採取したデータがあった。今の僕よりも少しだけ若い僕が再びあの部屋に立った。

 世界モデルに合わせて書き直したプログラムを通すと、いくぶん世界はくっきり見えた。眼は相変わらずキャビネットの上の暗がりにいた。

 くっきりした視界に映るそれは、まぎれもなく一匹の猫だった。

 猫は明らかに脅えていた。けれども僕の格好はさっきよりはだいぶマシになっているはずだ。僕は相手がそうであるように用心深く、だけれども相手とは正反対にリラックスした態度を保ってゆっくりとキャビネットに近づいていった。

 もし彼が猫ならば、彼には全く関心なんか抱いていない風を装うのも忘れてはいけない。

 あと一歩で手が届きそうなところまで移動するのには成功した。横目でちらちら確認して、彼が移動していないことはわかっている。

 そこまできて僕ははたと困り果てた。僕は猫を飼ったことがないので、これから先どうすればいいのかさっぱり判らなかったのだ。

 仕方なく僕はもう一度退散することにした。

 なんにせよ、僕はこの世界と彼についての知識をまるで持っていない。これでは何をするにしても情報不足だ。

 ただ、彼には少しでも僕に慣れてもらいたいと思って、僕がその部屋にいるという情報だけを残すことにした。

 客観的に見れば、僕は部屋の中に突っ立って、魂が抜けたようにぼうっとしているように見えるはずだ。間抜けだが、ぱっと消えたり現れたりするよりはいいと思う。

 そして、僕は彼女の作ったファイルを片っ端から調べ始めた。シミュレータと彼の説明が何かしらあるはずだ。

 三十分ほどディレクトリツリーの迷路をさまよった結果、僕は目的のものを見つけ出した。

 彼女が書き残した猫と世界シミュレータの仕様に関するメモの断片群を解読した結果、僕は大量に彼女が残したシミュレータに対応したオブジェクトを作る羽目になった。

 あまりに大量なので、手でちまちまと作るよりは、属性に多少幅を持たせたオブジェクトを生成するプログラムを書いて実行した方が早いほどだった。

 

 

 前が見えないほどのお土産を抱えた僕を、彼は歓迎してくれた……ように思う。僕のオブジェクトの前腕部はひっかき傷でかなり酷い有り様になってしまったけれど。

 たぶん彼は生まれて初めてまともな食事にありついたのではないだろうか。僕は痛覚を視覚化プログラムに組み込んでいなかったことを神に感謝した。

 こうして、僕と彼との間に友情が結ばれたのだった。たぶんこれは友情と読んでもさし支えないものだと思う。

 

 4

 

 彼女の置き土産であるところの彼は、本物の猫にとてもよく似ていて││あるいは僕の誤解に基づく偏見かもしれないが││扱いにくい気まぐれな暴君として振舞った。

 彼はひっきりなしに構ってやらないとへそを曲げ、シミュレータの中の部屋をめちゃくちゃにしたり、他にもいろいろ悪さをした。

 世界シミュレータに与えられている情報は莫大で、僕にとってはほとんどブラックボックスに近い状態だったので、部屋のメンテナンスには本物の部屋と同じくらいの手間を必要とした。

 つまりは、散らかされたらきちんとシミュレータ世界にアクセスして自分の手で片付けてやらないといけなかった。

 シミュレータの内部が把握できていれば、コンピュータに命令を一つ与えるだけで片付けることもできただろうけれども、そういう強引な介入がどの程度の悪影響をシミュレートされた世界及ぼすかについて皆目見当が付かない以上、迂闊なことはできなかった。

 僕はなるべく、彼女の置き土産であると同時に今では友人の一人になった彼を生き延びさせる││散文的な言い方をすれば運用状態を維持する││努力を払いたかったのだが、この調子では彼の相手をしているだけで僕の一日が終わってしまう。

 仕方なく、僕は一つの賭に出た。シミュレータの世界を、中に閉じている構造から外へと開く構造へ変えたのだ。ネットワークを通じて、外の世界をのぞくことができる窓を作った。その窓がシミュレータ世界との整合性が取れているかも判らないし、彼が窓に対してどのような反応を示すかも判らなかった。

 シミュレータ世界の部屋の壁にぽっかり開いた窓を見つめる彼の姿を、僕は固唾を飲んで見守っていた。この窓はちょうど僕たちが視覚化されたシミュレータ世界を覗くように、実際には動いていなくても、移動しようとするだけで、窓が移動するようになっている。シミュレータ世界に縁がない人は、テレビゲームを想像してもらえば判るだろう。テレビの前に陣取って、コントローラを操作すればまるで自分が移動したように画面の中の風景が変わるというわけだ。

 彼は初めて見る「外の世界」に興味津々という様子だった。「外の世界」つまりインターネットの世界は、言葉で出来上がっている抽象的な世界、人間のための人間が作り上げた世界だ。彼のためにオーダーメイドで作られたこのシミュレータ世界とは違う。

 だから僕は窓を作るときに少しだけ彼向けのアレンジを施してみた。以前、試験的に作った簡単な人工知能プログラムを応用して、言葉の意味を解析してこのシミュレータ世界に存在するオブジェクトへと対応させてみたのだ。

 実際に動いているところを見てみると、窓にはこれまで僕がこの部屋で見たこともないようなものが次々と現れて、このシミュレータも、持っている全てのデータを使い切っているわけではないということが判ったりして、僕は僕なりに楽しめた。

 彼は少なくとも僕よりは楽しんでいるようで、僕のことを困らせるなど全く眼中にない様子だった。僕の賭は当たった。

 

 5

 

 その翌日から、シミュレータ世界の部屋と僕の生活に静穏が訪れた。もっとも、静穏になるということは、僕の研究が行き詰まっているという事実が再び僕の目の前に浮かび上がってくることでもあった。

 とにかく計算機資源は絶対的に足りなかった。ものは試しと残りの計算時間を試算してみたら、最低でも百年以上の時間が掛かると出て、げっそりした。

 三回ほど検算をやってみて、何度計算しても同じ結果が出ることでさらにげっそりしたところで、ウイルス検知ソフトが警報を発した。

 この警報画面を見るのは久しぶりだ。流石にコンピュータ関連の研究所だけあって、こういう面では皆しっかりしている。怪しげなファイルをどこかから持ってくることもないし、メールで感染を拡げるウイルスに利用されてしまうようなセキュリティホールを持ったメーラを使う人間もいなかった。

 警報が出る前にメールが届いたわけでもなかったので、一体どういう経路で感染したのかが少し気になった。

 感染しているとされたファイルの日付を見てみると、警報が鳴った時間の直前に作られたかコピーされたファイルだった。ファイルをコピーしたユーザは……、彼女だった。これはつまり、彼女のアカウントで動いているシミュレータか、彼自身がコピーしたものということになる。

 猫特有の気まぐれ心を起こしてまた悪さをするようになったか、と苦笑したけれども、昨日までの被害に比べればどうということはない。それが必要なファイルではないことを、一応中身を確認してみてから削除した。

 ところが、それからひっきりなしに警報が鳴り始めたのだ。

 彼が「外」から持ち込んできたファイルの全てが、ウイルスに感染しているか、またはウイルスそのものだった。たまにウイルス検知ソフトに引っかからないものがあると思うと、新種のためにまだウイルスだと認識されていないだけだったりもした。

 僕はまた頭を抱えた。これでは仕事にならない。仕方なくウイルス検知ソフトの警報を切った。警報を出さないだけで、感染そのものは防ぐ設定にできたので、とりあえずは作業の邪魔にはならない筈だ。でもこれでは本質的な解決にはなっていない。僕はまたもや頭を抱えることになった。

 一晩考えたけれど、なにもいい案は浮かばなかった。せいぜい、一定時間ごとに自動的にファイルを削除する程度の対応策しか思い浮かばなかった。

 もう彼を止めてしまうしかないのか、それとも一度開いた外への窓をまた閉じて、シミュレータ世界の修復に追われることになるか、そこまで思い詰めた時、唐突にある一つのアイデアを思いついた。

 どういう理由でなのかは判らないが、彼はすごい勢いでウイルスだけを集めている。つまり、世界中で一番充実したウイルスのデータベースが、僕のコンピュータの中に出来上がりつつある。

 ウイルス検知ソフトの要はウイルスのデータベースである。ウイルスの振る舞いや特徴を上手く抽出して、そのデータベースの内容と一致するファイルをウイルスだと判定するのがウイルス検知ソフトの基礎だ。

 そして、一番手間と時間がかかるのが、ウイルスデータベースの構築だと言って構わないだろう。ウイルスは、その名の通り頻繁に変異を繰り返し││自然界のウイルスとは違って、悪意とその能力のある人間が書き換えるのだが││、データベースとウイルスの種類はほとんど永遠とも言えるいたちごっこを繰り返す。

 もし、データベースが半自動的に構築されるなら、ウイルス検知ソフトを作り上げ、システムとして維持することはかなり容易になるだろう。

 そして、ウイルス検知ソフトほど、OS以外のソフトウェアとしてコンピュータのほとんどにインストールされて動き続けているソフトウェアはないと言っていい。もし、ウイルス検知をする代わりに、その計算機資源をほんの少しづつ借りることができたら。

 グリッドコンピューティングという言葉を知っているだろうか。非力なコンピュータでも、仕事を細かく分割して大量の軽い仕事に分けて分担させれば、スーパーコンピュータを凌駕する能力を発揮するという考 え方だ。

 普通は、スクリーンセーバなどにグリッドコンピューティングの能力を持たせて、協力してくれるボランティアがコンピュータを使っていないときに、計算機の時間を分けてもらうのだけど、もし仮に、ほとんど全てのコンピュータにインストールされているウイルス検知ソフトにグリッドコンピューティングの能力を持たせたらどうなるだろう? スクリーンセーバに比べれば桁違いの数のコンピュータにインストールされたら。

 そのひらめきを得てから、僕は何かに取り憑かれたかのように設計を始めて、たったの一日でグリッドコンピューティング機能を持つウイルス検知ソフトを完成させた。尤も、新しく書かなければならないのはウイルス検知の部分だけで、ウイルスデータベースとの情報のやり取りなどの重要な部分は、これまで僕が関わってきたクラスタコンピューティングで使っているものを多少手直ししてやればそれで事足りたのだけど。

 そして僕はそれをフリーソフトとして公開した。フリーソフト紹介ページなどにも積極的に売り込んだ。とにかく広まってくれないことにはグリッドコンピューティングとして成立しない。

 運良く僕がソフトを公開したタイミングで新種のウイルスが立て続けに発生し、これまで広く使われていた市販ソフトよりも僕のソフトが素早く対応できたため、僕の検知ソフトはネット上の口コミで瞬く間に広まった。それと同時に計算時間の累積グラフも一気に増えていった。

 

 

 

 それから数日も経たないうちに、彼女からの二度目のメールが届いた。あの日から、僕の研究の計算結果を出すための元データは、彼女から採取したものだけを使っていた。

 メールには、シミュレーションされた部屋で彼と一緒に生活している彼女の近況が、淡々と綴られていた。

 シミュレーションされた結果が、現実世界よりも速く進むことはあまりない。つまり、彼女は僕たちよりもゆっくりした時間を生きていることになる。

 僕たちよりゆったりと流れる時間の中で、彼と彼女の平穏な生活がしばらくは続くことを、僕は心の底から嬉しいと思う。もちろん、自分の研究が上手くいったことを抜きにしても、だ。

 


 
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