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空を夜闇が覆って暫くの時間が経過した頃。
ちょうど連合軍側が軍議を開いている時とほぼ同時期に、魏の陣の片隅の一張で集まる者たちがいた。
「――それでは、明朝に仕掛ける、ということですね?」
「うむ、そういうことじゃな。儂が前線のままなのは残念じゃが、多少の変更は仕方あるまい」
主に話しているのは龐統と黄蓋の二人。
他に天幕の中にいる部隊長クラスの兵たちは、ただ黙って二人の会話を聞いているだけであった。
「ところで、黄蓋さん。一つ懸念があるのですが、本当に向こうの皆さんも明朝に合わせて動いてくれますでしょうか?」
「それは間違い無いじゃろうな。何せ、向こうには冥琳がおる。
奴ならば今夜の空の状態から、明朝に強い風が吹くことくらいは予測出来るじゃろうて。
仮に冥琳が推測出来ずとも、堅殿がおる。堅殿のここぞと言う時の勘の良さは、長年近くで見てきた儂にとっても反則ものじゃ」
黄蓋の答える声には微塵も不安が感じられず、全面的に孫堅を信じていることが感じられるものであった。
この場にあって黄蓋がわざわざ龐統を騙すような演技をするはずが無く、龐統も素直にそれを信じる。
「ならば、今夜の内に準備を済ませてしまいましょう。
藁と油を各所に仕込み、黄蓋さんの仰る強い風が吹く時に仕掛けるのが良いでしょう。
黄蓋さんの配置からでは中衛を狙うのがギリギリでしょうか」
「そうじゃな。さすがに曹操のおる本陣は狙えんじゃろうて。
せめて中衛くらいには大火を起こし、奴らの前線と後衛を分断させてやるわ。
そうすれば、連合の将どもが奴らの前線を仕留めやすくもなろうというものじゃ」
黄蓋はその時を思い浮かべて獰猛な笑みを浮かべる。
それから、ふと気づいたように龐統に問うた。
「そう言えば、龐統よ。儂が曹操に反旗を翻した後、お主はどうするのじゃ?
はっきり言うがお主では逃げ切れまい?」
「はい、その通りです。ですから、私は今夜の準備が終わり次第、この陣を離れるつもりです」
「ふむ。それが良いじゃろうな。
分かった。ならば後は儂に任せい。
……龐統よ。向こうに戻るつもりじゃったら、堅殿に儂からの謝罪を伝えておいてくれんかの?」
「黄蓋さん……分かりました。必ずや、お伝えします」
黄蓋の言葉とその前の間から、龐統は黄蓋の決意を悟った。
元より多大なる危険があるこの策、黄蓋はここを死地と決めていたようであった。
龐統にそれを止める権利も無ければ、その気もそうする必要も無い。彼女に出来るのは黄蓋の遺言を確実に伝えることだけであった。
「それでは、そろそろ準備に入りましょう。
罠を仕掛ける船と位置は私が指示を出します。
黄蓋さんには兵の統率をお願いします。
なるべく声と音を立てずに可能ですか?」
「無論、任せておけい。連れて来ておるのは儂の部隊の精兵どもじゃ、多少の無茶は慣れっこじゃろうて」
呵々と笑う黄蓋だが、その言葉の内容には龐統が思わず苦笑を溢していた。
いつまでもそうしているわけにもいかず、コホンと咳払いしてから表情を引き締め、龐統が宣言する。
「皆さん、参りましょう。誰にも気付かれぬよう、慎重に事を運ぶよう気を付けてください。
我等の働きの成否が連合の勝敗を左右するものと心に刻んでください」
兵士たちもまた無駄に声は出さず、神妙に頷くのみ。
こうして、一団は静かに動き始めた。
「そちらの藁はこの船の物資の横に。油瓶は藁の中に仕込んでおいてください。
あちらの藁はその向こうの船に。こちらは甲板の後方でお願いします」
龐統が黄蓋に罠物資の配置を指示し、黄蓋が兵の隊長格にこれを割り振っていく。
指示された隊長格は隊の兵を数人引き連れて指示内容を遂行しに船へと走っていた。
瞬く間に龐統たちが用意していた罠物資の山が消えていく。
先の天幕での密談時にしても今にしても、周囲に残りの兵たちを見張りとして立てているが、他の魏兵の姿は全く見えなかった。
黄蓋も指示を出しながら周囲を警戒しているが、その黄蓋の目を以てしても魏兵の姿は見つけられない。
これはどうやら思ったよりも早く仕事を終えられそうだ、と考えていた。
「さすがのお手際ですね、龐統様、黄蓋様。
時に、お二人にお尋ねしてみたいことがあるのですが?」
不意に二人に声を掛けてきた兵士。それは隊長格では無くその下、周囲の警戒に当たらせていた内の一人であった。
「ふむ。どうしたんじゃ?言うてみよ」
元々が黄蓋の兵ということで、彼女が兵に言葉の先を促した。
「はい。お二人は、『策士策に溺れる』という諺を知っていらっしゃいますか?」
「んん?お主、一体何――――」
その時、龐統には何が起こったのか、理解出来なかった。
隣から聞こえていた黄蓋の言葉が途切れた。それは分かる。いや、理由は分からないが途切れたという事実だけは分かる。
直後、どさっという音が耳に届く。その時になって、ようやく目の前にいた兵の姿が無いことに気が付いた。
慌てて隣を見れば、龐統の目に映るのは地に伏せる黄蓋の姿。
「な、なんっ――――」
「おっと、お静かに。夜更けの大声は他の皆の迷惑ですよ?」
静かな声によって、龐統の言葉は押し留められる。
正確に言えば、彼女が言葉を呑んだのは首筋に当てられた冷たい感覚が故であったが。
「…………策士策に溺れる、ですか。
我々は、踊らされていた、と?」
どうにか動揺を押さえつけて出した龐統の声は、しかし若干震えていた。
冷静を装ってはいるが、内心では目まぐるしく離脱の策を練っていることだろう。
しかし、同時にそれが絶望的なものであることも理解しているはずだ。
(だ、誰か……!誰でもいい……お願い、気付い――――っ?!)
望み薄ではあると頭の片隅では理解していても、それでも周囲の兵がこちらの異変に気付いて救出に動いてくれることを期待してしまう。
そして周囲に目を向けた龐統は、異様な光景を目にして固まってしまった。
周囲で警戒に当たっていた兵たち。その全ての目が今、龐統とその背後の兵に注がれていたのだ。
さりとて誰一人として動こうとしない。状況を理解して動けないのではない。明確に、兵達自身の意志でもって
「ようやく気付いたのかな?
残念ながら、そちらの兵は全て捕えさせてもらったよ。
今周囲にいるのは、魏が誇る最強の間諜部隊。
つまり、もうあなたはどう足掻いても逃げられないってことだ」
「そ、そんな……いつの間に……」
「さきほど、あなた達が密談している間に。
夜闇に紛れて一人ずつ引っこ抜いて行けば、静かなまま完全制圧も可能、ということだよ」
龐統は思わず言葉を漏らしただけであった。
しかし、それにも答えが返って来る。しかも、それは龐統を更なる絶望に追いやるものでしか無かった。
「まさか、本当に最初から策を見破って……っ?!」
「相手が悪かった。と言うよりも、君たちに運が無かった。ただそれだけだ。
それでは――――さようならだ、龐士元」
その言葉を最後に、龐統の意識は闇に沈む…………
パサリと龐統の帽子が地に落ちる。
その淵には首筋から飛んだ龐統の血が付着していた。
帽子を無造作に拾い上げてから、一刀は周囲の黒衣隊員に命令を出す。
「船に向かった連中も確保しろ」
「はっ」
幾人かが一組となり、数組の隊員が黄蓋の指示で散って行った兵の下へと走り去る。
「龐統と黄蓋を運び出しておけ。
残りは周囲の捜索だ。こいつらの兵は一人たりとも逃がすな」
「はっ」
殲滅の指示を出し、後は隊員たちに任せる。
一刀はこれからやるべきことが出来た。
「誰か」
「ここに。何用ですか?」
「室長に、事態が進展した、と報告を」
「はっ」
桂花への報告は隊員に任せる。
一刀はより重要な報告のため、その足を魏本陣で最も立派な天幕へと向けた。
「華琳。まだ起きているか?」
「一刀?もう休もうかと思っていたところだけれど。どうしたと言うの?」
一刀が向かったのは華琳の天幕。
声を掛けつつ入ってみれば、間一髪で華琳は就寝前であった。
これならば事態の展開スピードに遅れを取ることは無さそうで、一刀は内心で安堵する。
「ついさっき、叛意を抱いた黄蓋と龐統を仕留めた。
明日、戦が大きく動くと思う。
夜更けで申し訳ないが、配置を再検討すべきだと具申しに来た」
「それはまた……随分と大きなことをサラッと言ってくれるものね」
華琳は一瞬だけ苦笑を見せる。が、すぐに覇者の風格を纏うと、その笑みは凄みを感じさせる微笑へと変化していた。
「いいわ。緊急の軍議を開きましょう」
華琳の言葉は直ちに将たち全員へと伝えられ、瞬く間に皆が集い始める。
中には目を擦りつつ現れる者もいたが、誰一人として不満を表している者はいなかった。
比較的のんびりとやってきた風が天幕に入ると、これで魏の将の全員が揃った。
「皆、急な招集にも関わらずよく集まってくれたわ。
早速で悪いのだけれど、明日の話よ。
先の軍議で伝えた内容は全て忘れなさい。明日の配置に関しては全て変更にするわ」
「か、華琳様?!それは一体どういうことなのでしょうか?!
まさか、我々軍師の中に間者がいるとお疑いなのですか?!」
稟が驚きの声を上げる。それも仕方の無いことだろう。
何せ、軍師達が集まって緻密に立てたはずの策を全て破棄すると宣言したようなものなのだから。
「落ち着きなさい、稟。単に、事態が急変した、というだけの話よ。
そうね……最早隠す意味も無いでしょう。ここからは、一刀。貴方が説明なさい」
そこで俺に振るのか、と思いつつも、それを口に出すような真似はしない。
大人しく一刀は説明を始めた。
「まず、重要なことだけを先に伝えよう。
先ほど、黄蓋と龐統を仕留めた。配下の兵も一人残らず捕縛、抵抗した者には死傷者も出ている。
対してこちらは被害はほぼ無し。理想に近い形で謀反の事前潰しが出来た状態だな」
「おぉ、なんと!さすがはお兄さん、素早いですね~。ひょっとして~?」
「うん、風の予想は当たっている。もう皆にもお馴染みの”天の知識”によるものだ。
向こうでは”苦肉の策”と呼ばれている、魏に歴史的大敗を齎す切っ掛けとなった黄蓋の策があってね。
どうやら今回もその想定通りに事態が動いた。だから、こちらの軍が大打撃を加えられる前にそれを阻止した、というわけだ」
「相も変わらず、ちぃとっぷりが半端無いですね~」
「あはは……」
風の言葉に思わず苦笑してしまう一刀。
確かに、一刀の知識はチートもいいところだろう。だが、それ以上にこの世界には素でチート級の人物がゴロゴロいるのだ。
利用する毎に先の展開が変化していき、役に立つかも分からなくなる”未来の知識”くらいは許して欲しいものだ、というのが一刀の偽らざる本音であった。
「まあ、それはともかくとして、だ。
黄蓋と龐統がここで動こうとした、ということは、必然的に明日、連合が仕掛けて来る策が分かるんだ。
奴らの策の大まかな内容だが、主として火計、それによって生じる混乱に乗じてこちらを叩く。そんなところだろう。
黄蓋と龐統はその最初の部分、火計の効果をより大きくするために潜り込んでいたということだ」
「た、確かに……一刀殿が黄蓋殿、龐統殿の策を予め知っていたと言うのであればそれは道理ですが……
まだ再び対峙もしていない今の状態でお二人を仕留めたのでしたら、連合側はその策を変えて来る可能性がありませんか?」
「それについては――――」
「無いものと見ているわ。これは私も零も、同じ意見よ」
稟の疑問には一刀の言葉を遮って桂花が答えた。
勿論、稟はその理由を問う。桂花は既にそれを用意していた。
「まず確実に言えることをいくつか挙げておくわ。
一つ目。黄蓋と龐統はこちらに降ってから連合側と一切のやり取りを行っていない。これは初めからずっと四六時中監視を付けていたから確実よ。
二つ目。明日、連合は大きく動くつもりみたいよ。間諜から急ぎの報告が入ったわ。続報――詳細についての報は無いけれど、こちらは来ないものと考えていいんじゃないかしら?」
指折り数えつつ桂花は説明する。一部、内容にはフェイクが掛けられているが、それは一刀から直接情報を伝え聞いた桂花くらいにしか分からないこと。
それ故、誰も桂花の説明に疑念を抱く事無く、桂花の説明は続けられる。
「この二つから分かることだけれど、元々連合の本隊は黄蓋と龐統がこちらで起こす行動に呼応して策を実行しようとしていた。
行動を起こす機は呉の連中だけが分かる合図なり目印なりで図ったらしいわね。
そして、ここで先ほどの一つ目に戻るのだけれど、黄蓋と龐統を仕留める際、一刀は周囲を人払いした上で秘密裡に処理したそうよ。
つまり、二人が沈黙したことは向こうには伝わらない。尤も、こちらから出ようとする間諜は一人残らず捕殺するけどね」
「桂花の防諜能力は高いものね。そこは直接やり合ったことのあるボクが保証するわ。
呉の間諜が優秀だということだけれど、それでも一人を除いて桂花なら逃がすことは無いでしょうね」
詠が自身の経験に基づいてそう断言する。
詠もまた優秀な軍師であり、かつ情報を操る能力に長けている。
皆がそれを知っているからこそ、この保証は大きな意味を持った。
「そういうことよ。
つまり、連合は明日、こちらの陣形内から黄蓋なり龐統なりが行動を起こすことを前提に布陣を決めて来るでしょう。
我等は連合に対し、兵数で圧倒的に勝っているわ。これを叩き潰そうとしてくるのだから、前線には連合の戦力の大部分が割かれるでしょうね。
そのように偏った布陣を敷いて、いざ行動開始となる直前に策の起点が潰されていたと分かったとして、それで大きく策を変更出来るとも思えないわ。
私がそのような立場であれば、効果は多少薄くなろうとも火計を仕掛けるわ。船に火さえ点けてしまえば、こちらは混乱するものと読んでいるのだからね」
「ふむふむ~。確かに、今の我々の船の状態で船が燃えてしまうと、繋がった船まで一緒に焼かれてしまいますものね~。
ということは、士元ちゃんの策は巧妙な罠だったということなのですか~?」
風は火計が魏軍に与える被害についてよく理解していた。
だからこそ、その被害の大きさを連鎖的に生む要因を提示した龐統の策を偽りと疑ったのである。
これには一刀が答えた。
「そこなんだが、恐らく龐統にしても黄蓋にしても、今日までの献策や働きに疑いは持たなくてもいいだろう。
敵の懐に潜り込むにあたって、嘘なんか吐いてバレでもすればそれだけで命運は途切れてしまう。
だからこそ、取り入って油断させるためにもこちらに役立つ情報を提供したり訓練を施したりしてくれたわけで。
元よりそんな感じの行動を取るだろうと思っていたから、最大限利用させてもらったんだよ」
「うひゃ~……一刀はん、えげついなぁ。
ん~、ほんでも、龐統はんの献策についても知ってはったんやろ?ウチにあないなもん作らせたくらいやし。
せやのに、龐統はんの策をそのまま使っとってええのん?」
真桜が若干引きつつも一刀の説明で生まれた疑問を口にする。
それは自身が一刀に頼まれて作製したとある物資が絡んだ質問であった。
製作に直接携わった者以外はほぼ知らない内容のため、誰も真桜と一刀に口出し出来ない時間帯が訪れる。
「うん、ちょっとそこは説明不足だったな。
あの時にも言ったことだけど、船を繋げば揺れを抑えられるのは事実だ。現に、俺が元いた国ではそれを利用した構造の船がいくつもあったんだからな。
だから、船上戦闘に不慣れな分、そこで練度の差を少しでも埋めておきたい。その意味で、龐統の策は有用なものだったよ。
ただ、そこから生じる欠点の一つが、今回の敵の策にとって重要な一要素だったというだけだ」
「ほ~ほ~。つまり、なんや?
龐統はんの策でこっちの兵の力は底上げさせてもらうけど、敵の策に嵌まり掛けたらウチが作ったアレで回避せぇ、っちゅうことなん?」
「なんだ、ちゃんと理解出来ているじゃないか、真桜。
ついでに言えば、そもそも敵の策自体は知っていたんだから、それを根っこから潰しているわけで、真桜に作らせたアレは保険でしか無いんだがな」
「うっわぁ……えっぐ……」
改めて一刀の行動に引く真桜だったが、その顔にはしっかりと理解の色が浮かんでいた。
「ああ、それと――」
そんな真桜の反応など意に介さず、一刀は真桜に伝えておくべきことを今伝えることに決めた。
「真桜。例の”奥の手”、明日一番で使うぞ」
「ほ?ちょ、一刀はん、それマジなん?」
「ああ。連中の戦意を挫くためにちょっと過剰に演出してやろうと思っていてな。
明日の朝一に数発。色々と貴重だから、そこで使ったら後は船ごと後方へ下げさせるつもりだ。
嵌まれば一気に降伏まで持っていける可能性もあるが、どうだろうか、華琳?」
一刀から話を振られ、今度は華琳が片眉を上げた。さながら、その心中としては、ここで私の振るの?といったところだろう。
「ふむ……それは、以前に貴方と真桜から見せられた”アレ”のことかしら?」
「そうだ」
「アレの運用については貴方以外ではあまり正確な予測も立てられないでしょうね。
いいわ。ならば、貴方の言葉を信じ、許可を出しましょう」
「ありがとう、華琳。
と言うわけだ、真桜。
明日、真桜の工作部隊の初期配置は最前線にしてもらう。そこでアレをぶっ放せ。機は俺が合図を出すつもりだ。
それと、あっちの仕掛けの方も、各所に二、三人は配置して万一の事態に対処出来るようにしておいてくれ。
出来るな?」
「はいな、任せときぃ!
ようやくウチの特大の傑作が日の目を見る時が来たんや、色んな意味でどでかいをぶち込んだるでぇ!」
一刀と華琳の間で”アレ”とやらの使用が決定され、真桜は気合十分と叫んでいた。
そして。
真桜に下された、最前線という配置命令は、他の将達を浮足立たせる発言となっていた。
「か、一刀!私は?!私の配置はどうなるのだ?!」
春蘭がもう待ちきれないとばかりに前のめりになって聞いてくる。
声を上げたのは春蘭だけでも、他にも早く配置を聞きたそうにしている者たちが幾人も見て取れた。
気が逸っていると取るか気合十分と取るか。
暴走だけはしないようにな、と内心で注意しつつ一刀は進行のバトンを渡す。
「将の配置や策の詳細を詰めたりするのは俺の役目じゃ無いよ。
というわけで。桂花。それに零。後は任せた」
桂花も零もそう来るだろうと思っていたのか、一刀の言葉の直後には軽く溜め息を吐いていた。
「まあ確かに、そこは私たちの役目よね。
それじゃあちゃっちゃと配置を発表してしまうわよ」
一部の将はその言葉にいっそう身を乗り出す。
そちらの様子は無視して桂花は続きを口にした。
「陣形は本陣と中衛を残して全て三日月陣で展開するわ。
真桜の本隊はその中央。一刀と共に開戦と同時に大打撃を与えなさい。
両翼の最先端は、今日に引き続いて右翼に秋蘭、左翼に火輪隊。連戦になって悪いけれど――――」
「この戦では弓戦力が大きな力を発揮する、ということですよね?
私たちは大丈夫ですよ、桂花さん。兵の皆さんも、華佗さんのおかげで既に回復していますので」
「うむ。こちらも問題は無い。華佗が優先的に我等の隊と火輪隊の兵の治療を引き受けてくれたおかげで兵の補充も考える必要は無いのでな。
ちなみに、今は凪の部隊の兵を中心に治療を行ってくれているようだ。あ奴には心から感謝せねばな」
月が、そして秋蘭が、続け様に諾を返す。
桂花は一つ頷いて続ける。
「この三隊が明日の主力よ。但し、中央の真桜隊はさっきも言った通り、開幕一当ての後は退かせるわけだから、その補填として菖蒲の隊と凪の隊を配置するわ。華佗のおかげで凪も行けるでしょう?」
『承知しました、桂花様』
「それと、左翼は詠がいるからいいとして、中央には零、右翼には風をそれぞれ部隊の頭脳として付ける。
基本的な策は私と稟が本陣から出すけれど、現場判断で動くべきところは遠慮なく動きなさいよ」
「ええ、分かっているわ」
「おぉ、お任せを~」
菖蒲、凪、零、風も皆、諾の返答。
「それから残りの部隊だけれど、まず春蘭は右翼に。
敵が秋蘭の隊まで接近してきた時にはちゃんと応戦しなさいよ」
「おう!任せておけ!」
春蘭も快諾する。
「そして、季衣、流琉。貴女達には本陣に詰めてもらいたかったのだけれど……」
「これだけ勝てる状況と策をお膳立てしてもらっておいて、後ろで防御を固めているというのも不格好なものでしょう?
季衣、流琉。明日は親衛隊の将としてではなく、一人の魏の武官として存分に暴れてきなさい」
『はい、華琳様っ!!』
「――そういうわけで、季衣は右翼、流琉は左翼よ。くれぐれも軍師のいう事は聞く様にね」
「は~い!」 「はい、分かりました!」
季衣、流琉も元気よく返事。
そして残るは元袁家一団のみとなり――
「猪々子、麗羽。あんた達には中衛を任せるわ」
「え~、中衛かよ~……」
猪々子は不満そうにしていたが、実力的に足りていないとは理解出来ていたのだろう。最初の軽い愚痴以外は特に何も溢さなかった。
しかし、もう一方は状況が異なった。
「わ、私ですの?ですが、自慢ではありませんが、私は軍隊指揮は得意ではありませんわよ?」
「それくらいは分かっているわよ……
安心なさい、手は打つわ。
音々音、あんたも中衛について二人の部隊に策と指示を与えて見事に統率して見せなさい」
「おぉっ?!ね、ねねなのですか?!」
ここで名前が出るとは思っていなかったようで、ねねはかなり驚いていた。
桂花は少し呆れたように溜め息を吐いて答える。
「当たり前でしょう?あんたの勉強はもう終わったのだから、後は実践あるのみ。
今回の中衛であればそこまで激しい戦闘にはならないでしょうし、ねねでも問題は無いわ。
その位置から前線各所の軍師の指示をしっかりと見学しておきなさいよ」
「わ、分かったのです!地獄の猛勉強の成果を見せてやるのです!」
過日の国境に賊が頻発していた時期には、ねねも軍師として戦地に赴いたことはあった。
が、本格的な戦において指揮を執るのは魏に入って以来初となる。
優秀な軍師が揃う魏であればこそ、ねねを前線に出さずにみっちりと軍師としてのいろはを叩き込み直すことが出来たのだ。
元々、ねねには才能があった。そこに正道から邪道まで、様々な軍師としての勉強を積んだ。今、その真価が問われようとしているところだった。
「あ、あの~……私はどこに配置なのでしょう?」
おずおずと手を挙げたのは斗詩であった。
確かに、斗詩は未だに配置を告げられていない。と言うよりも、残るは斗詩だけであった。
勿論、桂花が告げ忘れたわけでは無い。彼女にもまた、重要な役目を与えるが故に、敢えて最後に回したのであった。
「斗詩、あんたには一刀と同じ位置で最前線に出てもらうわ」
「え、えぇっ!?わた、私がですかぁっ!?」
「おぉ~!すっげぇじゃん、斗詩っ!!」
「さすがですわね、斗詩さんっ!」
猪々子や麗羽は諸手を上げて喜んでいるのだが、当の斗詩本人は目を白黒させているだけ。
斗詩自身、ここ最近で武の腕は良く伸ばしてきているとは言えど、やはり夏侯姉妹や菖蒲と言った魏の主力メンバーからすれば見劣りしているのも事実なのだ。
しかし、斗詩の配置の真意はそこには無い。それはもっと別の場所にあって――
「あんたのこの配置は一刀の強い推薦よ。まあ、私も一理あると踏んだから認可したのだけれど」
「一刀さんの、ですか?」
幾人もの視線が一刀に向けられる。
この空気では一刀が説明するしか無いだろうと瞬時に悟れるだけのものであった。
「斗詩を魏に引き込んだ時に言ったこと、覚えているかな?
俺は、大軍の肝を見極めて押さえることに出来る斗詩の目に着目して、その才能を買ったんだ。
今回斗詩に発揮してもらいたいのはまさにそれだ。
余程の下手を打たない限り、明日の戦でこちらが敗走するような事態にはならないだろう。
逆に、相手を敗走、場合によっては潰走に追い込むことすら可能と踏んでいるわけだが……
より致命的な打撃を与えようと思って、斗詩を頼ることにした。
明日斗詩に担ってもらいたい役目は、蜀と呉の連携の穴や罅、そこを狙い打てるように前線全体に指示を出すことだ。
勿論、それ以外でも容易に付け入ることの出来る穴が見つかれば遠慮なく突いてくれ」
「あ、あの時のお言葉、本当だったのですね……」
斗詩は暫し呆然とする。
確かに、官渡の戦いの直後、華琳の前に引っ張って行かれた時にそのような話は聞いていた。
が、それ以来斗詩がやってきたことと言えば、基本的に武官としての力を伸ばすこと、そして時折文官たちのお手伝い、それだけだった。
だからこそ、斗詩としては、あれはあの場を収めるための方便の一種かと受け取っていたのである。
しかし、実は本気で言っていたのだと分かった今、自然と当時の言葉が再び斗詩の口から飛び出していた。
「分かりました。今回のお役目、謹んでお引き受けいたします。
力の限り、華琳様と一刀さんに報いたいと思います」
「頼んだわよ、斗詩。明後日以降を楽に進められるかはあんたに掛かっているのだからね。
さて、と。ちょっと長くなっちゃったけど、配置に関しては以上よ。
何か意見があるならば今の内に言いなさいよ?」
桂花はグルリと将達を見渡す。
皆、与えられた役目に気合は十分。これならば明日も問題は無いだろうと感じられた。
「華琳様」
チラと桂花は華琳に視線を向け、その名を呼ぶ。
それだけで華琳は全てを悟り、立ち上がった。
「皆、今日までよく付いて来てくれたわね。
かつて陳留の地で春蘭、秋蘭と共に歩み始めた我が覇道も、最早為る直前まで来ていると言えるわ。
ここまで来れば、もう言葉を尽くす必要も無いわよね?
私はあなた達を心から信じているわ。あなた達も私とその覇業を信じているのならば、この最後の一踏ん張り、しかとこの目に見せてちょうだい」
『はっ!!』
長々とした言葉は要らない。
短く、しかしはっきりとした意志が篭められた華琳の言葉が、将一人一人の胸に染み込んでいった。
終わり際に一際激しい熱気を放ち、この緊急軍議は幕を閉じたのである。
今日はもうさっさと寝て明日に備えること。
それが最後に言い渡された内容であった。
ただ、真桜の部隊の者たちだけは今夜の内に物資の運搬を終わらせてしまおうと動き回っていた。
「んん?こちらの船にまだ物資を積むのか?」
最前線にまで出るとある船の見張りしている兵がそう問えば、
「うむ。李典殿の策のようですぞ。私は他の船にも物資を運びますれば、これにて失礼」
物資を運んできた者がそう答える。
暫くは何か所かでそんなやり取りが聞こえてくるのであった。
そんな中、一刀は自身の天幕に戻ってからもまだ灯りを消さず、書簡と向き合っていた。
それはここ最近の日課となっているもの。
可能であれば、その書簡の出番が来ない方が望ましい。しかし、そうも言っていられない可能性が高く――――
「一刀、少し良い――――なんだ、まだ仕事をしていたのか?」
物思いに沈みかけた一刀を現実に引き戻したのは、天幕に入ってきた秋蘭の声であった。
「いや、仕事じゃなくて私的な用事のものだよ。まあ、もう止めて寝ようとは思っていたところなんだけど。
ところで、どうかしたの?」
「うむ。実はつい今しがた、お前に緊急の伝令が来てな」
「緊急の伝令?」
「うむ。入って良いぞ」
「はっ。失礼します。夜分遅くに申し訳ありません、隊長」
天幕に入ってきたのは許昌に残して来た黒衣隊員の一人だった。
魏の都に何かあったのか、と不安が募ったものの、その報告を聞いてそれは早とちりであったとすぐに分かった。
代わりに――――
「う~ん……安全な場所にいて欲しかったんだけど……
そっか、出て来ちゃったか……七人とも、なんだな?」
「はい。我等も残っていたものの半数を護衛に回したのですが、如何いたしましょう?」
隊員の問いに、一刀は悩むでも無く即答した。
「護衛はそのまま継続しておけ」
「許昌の防諜態勢に穴が空きますが?」
「それよりもあの七人のだれか一人にでも危害が加わる方が魏にとって痛手だ。
防諜は残った者で可能な限りで構わない。以上だ」
「はっ。承知致しました。それでは、失礼致します」
隊員が天幕を出ていく。
少しだけ見えたその進路を考えるに、恐らくすぐにでも来た道を取って返すつもりなのだろう。
本当にご苦労様、と内心で隊員を労っていると秋蘭がクスリと笑うのが見えた。
「どうかした?」
「ふふ、いいや?お前も苦労するものだな、と思ってな」
「お転婆な妹を持つと、どうしても、ね。そっちは姉だけど、分かるんじゃない?」
「ふ、違いない」
秋蘭はもう一度軽く笑んでから一刀に声を掛けた。
「それでは、私ももう休ませてもらうとするよ」
「ああ、そうだね。っと、ちょっと待って秋蘭」
「ん?どうし――――ん……」
「ん……おやすみ」
「ふふ。いきなりだな。だが、嬉しいよ。
おやすみ、一刀」
軽く手を振り合い、短い逢瀬も終わり。
いよいよこの日の出来事は全て終わったのである。
翌早朝、まだ山の端に太陽の陰すらも見えていない時間帯から一つの報告が入る。
曰く、連合が動き出した、と。
まるで見せつけるかのごとくゆっくりとしかし大きく動き、長江に軍船を並べて動き始める。
対し、魏軍の動きはそれ以上に早かった。
連合の狙いは分かっている。
長江上に誘い、日の出頃に開戦に持ち込みたいといったところ。
ならば、魏が取るべき行動は――――
結果、両軍が長江のど真ん中で再び相対したのは、まだまだ暗い時間帯なのであった。
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第百四十八話の投稿です。
さあ、赤壁に火を放てー!
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