「もう、だめだ」
私はとうとう足を止めた。
いつも履いているスニーカーだったけれど、これだけ歩くとさすがに足先はじんじんする。
私は力なく後ろを振り返った。
砂煙のせいで、数メートル先も見えなくなっている。
ここはサハラ砂漠か。思わず肩の力が抜けて、ショルダーの肩ひもがずるりと落ちる。
私は祖父母の家へと向かっていた。実は一人でこの町まで来るのは初めてだった。
いつもは家族全員で車で行っていたのだけれども、今年はみんなの都合が合わなくて、結局私ひとりだけが来ることになったのだ。
弟は大学受験でそれどころじゃないし、父も仕事が休めないとか何とか。
母は弟を残して家を空けるのは不憫だと言うし。
みんな、おばあちゃんのうどんが食べたくないのね。おじいちゃんのスイカも!
これはどちらも絶品であり、田舎に帰ったときの私たちの楽しみである。
私はため息をついた。もう真夏だから、日差しは半端なく強い。
手足に塗っている日焼け止めなんて、汗でとっくに流れてしまっている。
また汗だくになるのが分かっているから、もう長い時間塗りなおしていない。
元々日焼け止めは匂いとか感触とかが苦手なのだけど、この日差しだと塗った方がいいだろうか。
私はギラギラと頭上を照らし続けるあの朱い球体をにらみつける。
いや、こんなに強かったら、私の持ってきた日焼け止めじゃ利かないかも。
それにどうせ流れちゃうしね。
ああ、またさっきと同じことを考えている。
あまりの暑さに、私の頭は働かなくなってきているようだ。頬を汗が伝う。
私の後ろと前に続いている道は続いている。つまりここは一本道である。
それなのにどうして途方に暮れているのか。
それは、たどり着くはずのバス停が一向に見えないからである。
あのちっぽけな駅から出たら右にまっすぐ歩けばいいと聞いたのに。
もしかしたら左に曲がってきたのだろうか。ありえる。
右に曲がれじゃなくて、西に行け、だったっけ?ああ、もう何が何だか分からない。
私は泣きたくなる。
今までの道を戻ろうか。
でも、この道が合っていたら?もう少しでバス停にたどり着けるんだとしたら?
そう考えると私の足は後にも先にも踏み出せなくなってしまった。
「神さま…」
いつもは神頼みなんてしないくせに、今回ばかりは呟いてしまう。
上を向くと日差しで顔が痛いから、うつむいたまま。
スニーカーの先が、砂で大分と白くなっている。地面には私の汗がぽたぽたと落ちる。
泣きたいけど泣けないのは、涙になるよりも先に汗がどんどん流れているからじゃないだろうか。
私は額を右手で拭って顔を上げた。相変わらず何も見えない一本道。
誰だっけ、道は必ず繋がっているって言ったのは。
この道をまっすぐ進んだら、何に繋がっているのかな。
するとその途端、急激な立ちくらみが来た。
私は耐えられなくなって、思わずその場に両膝をついた。
やばい、私、もう駄目?
『女子大生、田舎の一本道で死す!』社会面のそんな記事を思い浮かべた。
「おい、大丈夫か?」
幻聴が聞こえる。私は目を閉じたまま首を横に振った。
声の主は自転車に乗っていたのか、それをがしゃりと留めると、私の元に駆け寄ってきた。
随分リアルな幻聴である。
「しっかりしろ、おい!」
耳元で言われたその声があまりに活き活きしていて、私は思わず目を開けた。
目の前には私より若干幼い青年が私の顔を覗き込んでいた。
神さまだ…。
ぼんやりとした表情のままの私に焦ったのか、
その青年は自転車のかごからペットボトルを取り出すと、自分の首にかけていたタオルにざばざばとかけた。
そしてそれを固く絞ると、私の額に当てた。
「お前、熱中症だな。ちゃんと水分とってなかっただろ」
そう言いながらペットボトルを私の口に当てると、飲め、と言った。
私は半ば無意識でそれを飲んだ。単なる水だったけれど、本当に美味しかった。
砂漠でオアシスを見つけた冒険者の気持ちが痛いほど分かった。
「ありがとう、神さま」
思わず呟くと、青年が眉間に皴を寄せたままため息をついた。
「誰がだよ。大丈夫か、お前…」
水分を取ったことで、随分と楽になった。私ははっと気づき、青年に言った。
「すみません、道に迷ったのですが、青之原というバス停はどこですか」
「お前その前に自分の身体を心配しろ」
見ず知らずのひとに助けられて叱られてしまった。
私は感謝と謝罪の意を込めて座り込んだまま一礼した。
そんな私に呆れたのか肩を落とすと、青年は呟くように言った。
「青乃原はここから正反対だ。一度駅まで戻らないと行けねえよ」
やはり反対方向に歩いていたようである。
私は足を進めなくてよかったと胸を撫で下ろした。
しかしまたこの距離を戻るとなると…。新たなめまいが私を襲う。
はたと気づけば、青年はもう自転車にまたがっている。
私がぼんやりと彼を見上げると、青年が言った。
「早くしろよ。駅まで戻るんだろ」
何を早くするんだろうか。私はとりあえず立ち上がり、彼の元へ向かった。
傍に立つとすぐに、彼はかばんを私の身体から抜き、自転車のかごに突っ込んだ。
このひと、実は引ったくりだったのかと一瞬思ったが、次の瞬間彼は言ったのだ。
「後ろに乗れ。行くぞ」
何が何だか分からないまま、彼の後ろにまたがった。
当たり前のように、彼は駅へ向かって自転車をこいでいる。
何だかいい匂いがした。
私はそれが手元の濡れたタオルから立ち上っていることに気づく。
いや、タオルだと思っていたら、どうやら手ぬぐいのようだ。
淡い青紫に、白い花の模様が描かれている綺麗な手ぬぐいだった。
よく見ると端の方に、『福香堂』と書いてある。
「ふくこう…どう?」
私が読み上げると、彼がちょっと横を向いて言った。風で彼の前髪が揺れている。
「そう。俺んち呉服屋だから。あと匂袋とかお香とかも売ってる」
ほぉーと間抜けなため息が出た。
彼は呆れたのか何なのか、ふんと笑って前を向いた。
いい匂いだ。本当に。私は思わず手ぬぐいをそうっと鼻先まで持ってくる。
ふと気づいて、私は言った。
「あの、すみません。駅まで連れて行ってもらって」
段々と頭がはっきりしていたような気がする。
まあ、普段からあまりしっかりしてないから、それがはっきりしたところでさほど変わらないのだが。
「俺も駅に行くとこだったから、ついで。それにまたぶっ倒れそうな奴を放っておけねえし」
彼の声が風に乗って聞こえてくる。
私は何だか嬉しくなった。元気も出てきた。
「うわ」
砂利道だ。自転車から落っこちそうになって、私は慌てた。
「馬鹿、ちゃんとつかまってろ」
彼が言って、右手で自分の腰をばんばんと叩いた。
ここにつかまれ、ということか。いいのかな。
私は躊躇したけれど、揺れは本当にひどくて、このままじゃ本当に落ちてしまう。
私は持っていた手ぬぐいを先ほどの彼のように首にかけると、そうっと彼の背中から手を回した。
人生、色々な事があるもんだ。私は感心しながら流れていく景色を見ている。
初めて熱中症(らしい)にもなったし、初めて男の子に自転車の後ろに乗せてもらった。
それより何より、このひとと初めて出会った。不思議と、回した両手に力が入った。
いつの間にか砂煙は晴れていた。
そこで気づいたのだけれど、一本道の両側は向日葵で埋め尽くされていた。
一面果てしなく黄色い。私は息を呑んだ。私たちは太陽のじゅうたんを走っている。
駅に着かないで欲しい。もう少しだけ、こうしていたい。
そんな気持ちを持っている自分が照れ臭かったし信じられなかったけれど、素直にそう思った。
「あのう」
彼の方を覗きこむようにして、私は言った。左に重心が寄ったのか、彼が慌ててハンドルを右に切る。
「何だー」
前を向いたままで、彼が大きな声で言った。
彼の声の振動が、両腕に伝わってくる。
「頼んでおきながら申し訳ないんですけどー」
私も大声で言う。だって風の音とセミの声で自分達の声が聞こえにくいのだもの。
「だから何だー」
私はすうっと息を吸った。手ぬぐいのいい匂いが身体の奥まで入り込んでくる。
「お急ぎじゃなければ寄り道したいんですがー」
彼が黙った。ごうごうと言う風の音。じゃりじゃりの砂。
熱いのは空と太陽と、この心臓。
美しい手ぬぐいの色。それから何といっても、この忘れられない、いい匂い。
「了解」
そう言うと同時に、彼が大きくハンドルを左に切った。
その時肩越しに見えた彼の横顔があまりにも眩しくて、私はもう一度ぶっ倒れるかと思った。
「しっかりつかまってろよ」
言うなり彼が全速力でペダルをこぎ出す。自転車は一層がたがたと揺れる。私は声を出して笑った。
もと来た道を戻る。この先がどこに続いているのか、私は知らない。
でも、行ってみたいと思った。この、自転車で。この、青年と。
いつかまた今日を思い出すときが来たら、私はきっと、この匂いを一番に思い出すのだろう。
そしてこの匂いに引っ張られるようにして、
今日の空の色や暑さやこんな気持ちとこの青年を、今日の全てを、振り返り、味わうのだ。
私たちの自転車は、まっすぐ、黄色い海を渡っていく。
あの水平線の向こうを、一心に目指して。
END
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暑い夏の日に、見つけたもの。