No.830210

AEGIS 第六話『始まりと終わりの名を持つ者』(前編)

鋼の本名、その意味、ついに明らかに。そして、決断する。

2016-02-12 00:18:03 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:384   閲覧ユーザー数:384

前編

AD三二七五年六月二五日午前四時三八分

 

 目の前に光があった。それが白色蛍光灯の光だと気付くまでには、そう大した時間は掛からなかった。

 どうやら自分が寝かされており、手には点滴が付けられていると言うことも、理解できた。

「……ここは……どこだ……」

「叢雲の医務室よ」

 間髪入れずに聞こえてくる女性の声。その方向を向く。

 ルナだった。

 ようやくそれで自分の置かれた状況を鋼は整理し始めた。

 アシュレイ駐屯地で、自分の愛機を使って、巨大な銃身を地下に向け、そして、赤き光を出した。

 そこまでが彼の記憶。その後は気を失ったらしくまるで覚えていない。

「フレーズ……ヴェルグか」

「どうして……」

 ルナの声は少し震えている。

 それが男には何故なのか分からなかった。

 その言葉が出てくるまでは。

「どうしてあんな無茶したの?! 死ぬ気だったの?!」

 今までにないほど、その表情は憂えていた。泣きそうな顔をしている。

 すぐに泣くのは軍人らしくはないが、この女は、ほんの些細な他人の不幸にも泣くことが出来る女なのだろうと、鋼は心底感じた。

 確かに、やった行動は無茶なのだろう。暴走した発電施設から発せられたエネルギーと全く同様のエネルギーをデュランダルのガンモードで放出して、威力を相殺したのだから。

 その後どうなったのかは、ルナから聞いた。その口調は、割と落ち着いていた。

 その結果、基地の崩壊は免れ、その時の被害も最小限に済んだが、紅神のマインドジェネレーター内部のバッテリーが完全に上がった上、機体もオーバーヒートを起こし、現在は各部を強制解放して修理中だそうだ。更に自分も、デュランダルガンモードの二連射という相当量の気を消費することをやってのけたが故、気を消耗しすぎてダウンして、病室に運び込まれたそうだ。

 そして、肝心のレヴィナスは、エネルギーを放出しすぎて最早使用不能で、七色に輝く、何のエネルギーもないタダの石ころと化したそうだ。

 更に言うなら、華狼の第十四、並びに二七機械歩兵師団は元々レヴィナスの輸送護衛のために派遣された部隊であったため、そのレヴィナスが無くなった今アシュレイから早期に撤退(基地の致命的とも言える打撃によって華狼側がアシュレイを放棄した事も重なった)して再度各地の戦場へと散り、フェンリルの村正もいつの間にかいなくなっていたという。

 結局、今回の戦闘行動は三陣営の痛み分けに終わったのである。

「結局、無駄骨か」

 呵々と、鋼は苦笑した。

「一応、契約した通りの行動はしてもらったから、ベクトーアの方から報酬は支払うと、連絡は受けてるわ。でも、なんでも何とかしちゃうのね、あなたは。みんな逃げたり、逃がしたりすることで手一杯だったのに、あなた一人だけ、諦めずに駆け抜けた。すごい勇気だと思うわ、あたし。正直、少し、尊敬しちゃった」

 そう言われて、少しだけ、鋼はこそばゆい気持ちになった。

 

 ルナには本当にこの男のことが羨ましかった。

 自分には持っていない強さを彼は持っている。

 絶対に諦めない、その信念。逆境に遭おうと、たとえそれがどんなに辛かろうと、最後まで諦めず、ただひたすら進む。

 そんなことが自分にもいつか出来るようになりたいと、彼女は思った。

 その後、少し休んでから、鋼はベッドから起きあがり、点滴を外されると、そのままベッドから出た。

「さて、そろそろ、行くとするか」

 彼としてはこのまままた別任務に行くつもりなのだろう。すぐに医務室を後にしようとする。

 止めようと、ルナは思った。

 

 ふいに、ルナの気配が固くなった。一度立ち止まり、ベッドの横に座っているルナの様子を見る。

「どしたい?」

「……ねぇ、やっぱり一緒に来るの、無理?」

 返答は出さなかった。

 迷っていた。ルナは本気なのだ。そのことを察知したからこそ、彼は踏みとどまった。

 傭兵としてこのまま孤高に生きるか、それともたとえ企業の狗になろうとも仲間を得て情報を徹底的に収集するか、どちらの選択肢を選ぶべきか、迷っていた。

 ルナは立ち上がり、男の元へと話ながら歩んでいく。

「絶対に諦めないその思いが、今の世に必要である、そんな気がするの。その力を持っていることって、すごいことなのよ?」

 彼女は鋼の前に来た。

「その思いと、あなたの持っているその力、あたしにも少し分けて下さい。お願いします」

 ルナは一度頭を下げた。

 彼女もここで食い下がりたくはないのだろう。

 ルナの瞳の奥底には、底知れない力があった。同時に、まるで水のようとでも言わんばかりに優しい目をしている。

 他人の瞳をよく見つめた事なんて無かった。だからこそ彼は余計に押される。

 その目で、ようやく、迷いが解けた。

 鋼は一度後ろを向き、頭を少しかいた。

「……なんだかんだ言って、馬鹿は現れるし、わけわかんねぇ奴は現れるし、世の中わかんねーことだらけだ。金もねーしよぉ……それに……」

「それに?」

 ルナの言葉の後、鋼は再び、ルナの方を向いた。

「こっちにいた方が色々と情報が集まりそうだしな」

 その言葉を聞いた瞬間、ルナの顔に徐々に笑顔が集まっていく。

「それじゃあ……!」

「傭兵家業はしばらく休業だ。てめぇらについてってやる」

 その一言でルナは感極まった。

 ほろりと一筋の涙が浮かんだ。

「……ありがとう……」

「ったく、おめぇは本気でよく泣くな。疲れね?」

 彼は苦笑した。

 その言葉でようやくルナは少し泣いている事に気付かされたのか、急いで涙を拭った。

「べ、別に泣いてなんか……泣いてなんかいないんだから!」

「変な奴だな、おめぇは」

 鋼はフッと笑った。

 ルナもまた、少し笑っていた。

「じゃ、次。あの約束、果たしてね。名前、教えてくれるって約束」

 何処か、子供っぽい仕草を見せるときがあるこの女を、鋼はいつの間にか好きになっていた。

 そして、彼はルナの言葉に、ただ「ゼロ」とだけ言った。

 きょとんとした瞳を持っている彼女に対して、鋼は確認の意味も込めて、再度、言い放つ。

「ゼロだ。全ての始まりにして終わりの番号を持つ者、それが俺だ。覚えとけ」

「へえ、ゼロ、か。いい名前ね、『鋼』だと無骨すぎるから、この名前で呼ばせて貰うわよ。じゃ、よろしくね、ゼロ」

 ルナは少しだけはにかんだ笑顔で握手を求めた。

 鋼の異名を持つ男-ゼロはそれをすんなりと受け止め、ルナの柔らかい手と自分の生身の腕とで握手した。

「ああ、頼むぜ、『隊長』さんよ」

 この時からゼロはルナのことを『隊長』と呼ぶようになる。何でも名前で呼ぶのが恥ずかしかったらしい。

 確かに彼は仲間と共に過ごした期間の短さから仲間内を名前で呼ぶと言うことをした試しがなかった。彼が仲間の名前を言ったとき、それこそ彼が真に仲間になったといえる証拠では無かろうか。

「あたしにはルナって言う名前があるの!」

 二日前の夜と変わらず彼女はそう吠える。

「てめぇなんざ当分この名前で呼ばしてもらうぜ」

 ゼロは少し意地の悪そうに笑った。

 彼女と会ってたった二日だというのに、何故こうまで忘れかけていたいくつもの感情が蘇ったのだろう。

 ゼロは疑問に思った。

「もう!」

 ルナはむくれていた。

 そんな時、医務室の壁一面にセットされていた外部映像を映し出すバーチャルリアリティが外の様子を映し出す。

 そこには、朝日が昇り始めていた。

「あ、朝ね」

「朝日はどこにだって昇る、たとえ、どんな場所にだろうが」

「そうね……綺麗ね……朝日」

 彼らは眼下に広がる朝日の眩しさに見とれていた。

 そんな時、ふと誰かが吹き出す声が聞こえた。

 そして聞こえてくる大笑い。

「誰だ?!」

 ゼロは思いっきり顔を赤らめながら周囲を見渡す。

 その時、病室奥のベッドにあるカーテンが開いた。

 そこから出てきたのは、レムだった。そう言えば、あの時奇妙な光を発した後に、ブラッドが彼女を回収し、アリスが運び込んだのを、すっかり忘れていた。

 医務室にいても不思議ではなかったのだ。

 不覚を取ったと、心底ゼロは感じていた。

「にょほほほほほ、いやはや、見事なまでにクサイ台詞の応酬、実におもろいね、うん」

 レムはまたも少し意地の悪そうな笑みを浮かべている。

「ぜ、全部聞いてたの……?」

 ルナはもう完全にはめられたと思ってか、頭を片手で抱えていた。

「いやさ、実は結構前から起きてたんだけど、実に面白そうな会話が聞こえてくるもんだから放っといたんだよ。そしたらも~聞こえてくる聞こえてくる、実にクサイ台詞。てゆーか聞いてるこっちが恥ずかしくなっちゃったよ」

「あなたの脳にはロマンとかその手の言葉はないわけ?」

「夢の中でロマンを追い求めるくらいなら現実で血反吐吐くまで汗水垂らしてなんとかするタイプっしょ、私は。姉ちゃんだってわかってるくせに」

「夢がないわね~」

「今起こっている事態の方が私にとっちゃよっぽど夢みたいだよ」

 確かにレムの言うことも道理だ。コンダクターなど、端から見ればパラノイアの妄想にしか聞こえないが、現にあれは存在する。

「で、正直言うけどさ、私にとっちゃあんたが入るってことすら夢に見えるね、うん」

 レムはゼロをみながらただ一つ自分で頷く。

「ああそうかい、こんガキ」

「おお、やる気? さっきはあんたがバカしたせいで決着つけらんなかったんだから、今度こそは叩きのめしてやろうじゃないの」

 レムは立ち上がり、指を思いっきり鳴らす。

 だが、そのとき、二人の背筋が瞬時に凍った。

 玲だ。

 玲が鬼の形相で扉の前に立っているのだ。しかも愛用している両刃刀まで抱えて。

 しかしこれは両刃刀と呼んでいい代物なのだろうか。異様に長い刃先の中心に柄の部分がくりぬいてある。両刃刀と言うより一本の巨大刀である。

 華狼時代から遣っている物だったが、まだ残っていたとは思わなかった。

「てめぇらいつまで俺様の睡眠を邪魔すりゃ気が済むンだ、こら……」

 完璧に切れている。もう殺る気満々だ。

 やばい。

 三人とも瞬時にそう考え、レムに至っては病室着のまま医務室から逃げた。

 その形相はあまりにも必死だった。

 しかし、睡眠を妨げただけですぐに切れるような医者を医療班班長に任命しておく方もどうかと思うがな……。

 

 ブラッドは一人、酒を飲んでいた。

 叢雲飲食街の一角に小さなバーがあるのだ。

 ブラッドは目の前に注がれたウォッカを少し口に含む。

 先ほどまでブラスカがいたのだが「ちょっと酒がきつくなった」と言って寝に帰ってしまった。仕方なく彼は一人で酒を飲む。

 彼はこうして酒を眺めていると、一人の女性を頻繁に思い出す。

 アサシン時代に、ただ一人だけ、愛した女性、だけど、守ってやれなかった女性。

 そんな彼女のことを思うたびに、ブラッドの心は揺れる。

 血みどろになったこの手で抱きしめられるはずなどないのに、ただひたすら、そのことが心を縛る。

 その後、彼はそれを振り切るかのようにグラスに残っていたウォッカを一気に飲み干した。

 そして、ポケットの中に入れていたスーパー16を出して一本吸う。

 少し濃いこの味がブラッドのお気に入りだった。

 それを銜えながら、今日の酒代を払ってブラッドは酒場を後にする。

 外の展望を直接映し出すバーチャルリアリティの天井へ向け、少し朝焼けの広がる空の元、副流煙をはいて、ブラッドはただ一言呟く。

「おまえの魂はいつ癒されるんだろうな……」

 その表情は、哀しみと複雑な自分への怒りに満ちていた。

 

『ブラスカ、貴様どういう了見でそこにいる? 粛正のこと忘れたとは言わさんぞ』

 ブラスカの耳に入ってきた狭霧からの通信は、殺気の色が色濃く見えた。

エミリオは、何故ここまで変わってしまったのだろう。そう思うには時間が空きすぎた。

「ワイは信じたいンですねん、わけわからへん力よりワイ自身を」

 こうとしか言えないし、実際そうだった。

『そうか、ならば貴様は我々の完全な敵だ』

 狭霧はワイヤードシステムを展開し始めた。

 不知火も負けじとオーラハルバードを展開する。

 狭霧は一度腕を振り上げる。

 だが、その後、糸の大群は発せられず、狭霧は静かに、その巨大な腕を下ろした。

 ここで勝負を付けるべきではない。まだ、殺せるチャンスはいくらでもある。裏切りの代償を払わせるまで、俺は死なない。

 そうエミリオは思ったのだろう。この男はそう言う男だ。

 ブラスカもまた、不知火の構えを解いた。

 その後、エミリオからブラスカへと寄せられる、ただ一つの言葉。

『いいな、ブラスカ、俺が貴様を殺す。それまで生き残れ』

 狭霧は後ろを向き、その名の通り、立ち上がり始めた霧の中へと消えていった。

 不知火は崩壊した大地に哀しげに、ただ佇む。

「隊長、すんまへんな、ホンマ。ワイはワイの道を進むことに決めたんですねん。もうワイは戻れませんねや。さよならっちゅー奴ですわ、ホンマ」

 ブラスカはあまりにも重いため息を付いて不知火を叢雲へと帰還させた。

二時間前のそんな情景を、ブラスカは自室のベッドの中で思い返していた。

 自分の腕を天井へ向けてあげた後、強く握る。まるで、力を掴もうとせんばかりに。

「ワイは……自分の信じる道を行ってみよう思いますねん」

 そういう誓いを立てて、彼は眠りについた。

 

 殺風景な部屋だな。ゼロがルナに連れてこられた部屋で、彼が最初に思い浮かんだ感想はそれだった。

 広さはおおよそ十畳ほど、白い壁と一個のデスク、そして二つのいすというまるで職業面接場のような部屋だ。

 というより本当に職業面接場だった。

 ゼロはそこにいたアリスにぎょっとする。

 彼女は少し厚めのメガネを掛け、どういったわけかグレーのスーツに身を包んでいる。

 何がどうして彼女がこんな格好をしているのか、非常に理解に苦しんだ。

「やっと来たわね。新人、そこに座って」

 ゼロは言われるがままに椅子に座る。

 アリスの横には膨大な数の書類が載っている。高さはおおよそ五センチメートルぐらい。

 それにゼロは少しため息をする。

「何でてめぇはんな格好してんだ? つーよりも何だ、ここは? そしてンだ、この紙は? ついでにてめぇは近眼か? それと俺はゼロっつー名前がある、それ忘れンな」

 ゼロは口々に質問するついでに自己紹介も済ますが、アリスは大して聞いていない。あっさり「ふーん」と受け流された。

「とりあえず一つ一つ答えさせてもらうわ。とりあえず近眼よ、あたし。普段はコンタクトなの。実は右〇.〇二、左〇.〇三でしかも乱視とすこぶる悪くてね」

「そんなんでなんでスナイパーとか砲撃手やってんだよ」

「射撃の腕が一番いいからに決まってるじゃない。コンタクトしてりゃ、こちとらスコープなしで三〇〇先の目標にも当てる自信があるわ。もっとも、昔はこんなに悪くなかったんだけどねぇ……」

 アリスが溜め息を吐く。その後は延々彼女の自己紹介が始まった。

 なんでも彼女、かなりのゲーム好きらしい。ある格ゲー大会では全国ベスト四にまで上り詰めた実績があると言う話 も聞いた。そのため周囲のゲーセンでは彼女の存在を知らない者は『モグリ』扱いされるほどの有名人なのだという。

 そしてそれが原因で視力が悪くなったとも聞いた。実際、酷いときは三日連続でプレーしていたこともあるらしい。

「で、あたしのこの格好はあくまでもあたしがこの部隊の公認会計士兼面接官だから。それにこうした方が雰囲気出るじゃん? なんかマジ物の職業面接場みたいな雰囲気あるっしょ?」

 アリスは自信満々に言うがゼロはそれに対し徐々に頭痛を覚えてくる。

 いや、そりゃ違う、あらゆる意味で間違ってんぞ、おい……。

 そう突っ込みたくなったゼロだが、そんなことすれば何されるかわからないという野生の勘が作用しそう言うのをやめた。

 とりあえず理解したことは、実は彼女が『電波系』であるという事だ。

 アリスは表向き『クールな女スナイパー』だが、実際は『かなり電波な性格の超絶ゲームヲタク』というなんというかどうしようもない二面性を持っているということを知るまでには、大した時間が掛からなかった。

 かなりボディバランスに優れているのに男が寄りつかないのはそう言う性格的な面がかなり大きいとうことも、同時に分かった。

 しかも今になって気づいたが、アリスの頭頂部からなんか変な髪の毛が一本ピンと伸びている。癖毛なのかと思ったが、今まであんなもの生えていなかったし、ピクンピクン動いているのがすごく気になる。

 冗談みたいな話だが、アリスのみが持つ『毒電波レーダー』らしい。なんでも髪の立つ本数によって毒電波の受信具合が変わってくるらしい。

 携帯電話のアンテナのようだと、鋼は感じた。

 しかもそれに比例して目つきがどんどんやばくなっていくという、ルナ曰く『素敵ギミック』が付いているという。

 この女もまた、微妙に現実を超越している気がする。

 そしてアリスはさらに言葉を続ける。

「後ここはうちらの部隊で使っている面接場、そしてこの紙はあなたがこの部隊並びにベクトーアに入るための契約証、並びに書類。他に質問は?」

 こういうのって本社行ってきちんとやるべきじゃねぇのかと思った。

「ついでにこの紙媒体は何だ?」

「就職手続き用の書類。あたしだってこれ全部やったんだから我慢しなさい」

 意外にドライな女だな……。

 ゼロは一度ため息をはいた。

「ま、あんたはこの書類全部読んでサインすりゃいいんだから、楽なもんよ」

 アリスはさっそく一番上にあった紙をとる。

「それじゃあまずはこの紙を見てもらおうかしら? まずは会社契約に関する諸注意の紙よ。じっくり読むようにね」

 アリスが渡したその紙には会社の規約などが細かい文字でぎっしりと紙面を覆い隠すように書かれていた。しかも白黒の活版印刷で。

 いくらパソコンを使って書いてもこれほどぎっしり書かれていると読みにくい。というよりも読む気すら失せてくる。

「今時こんなにびっしりと書いてある注意規約なんてねーよ、ぜってー。あー、ったく、うぜぇな、おい」

 ゼロは少し血の気が引いていた。だがそれでもぶつぶつと文句を言いながらその紙を読んでいっている自分がいたことにも気付いた。

 何やってるんだ、俺はと、イヤに冷めた目線で自分を見つめている自分がいた。

「まさかとは思うけどよ、ここにある書類って全部こンくれぇの字で書いてあンのか?」

「そうよ。これくらい細かい文字でぎっしりとね。あたしもあの時は腱鞘炎になるしゲームで悪くなった視力は余計に悪くなるし、目の前には変な文字が浮かんで見えるしで大変だったわ」

 アリスはため息をつきながら答えた。

「読み終えたんだったら次はこの書類。超長期雇用保証書。職業選択の自由なんざぁ無視しなさい、無視。とりあえずボールペン渡すからサインして。それと血判証明も必要だからね」

 彼女は一枚一枚ゼロに紙を渡していくが彼にとってかなり重要な問題がここで発生する。

「あのな、本名がない場合ってどうなんだよ?」

 ゼロはもっともな質問をする。

というよりも戸籍すらないこの男が就職できるという地点で世の中も変わったものだと感じざるを得ない。

「別に自分の通称でいいんだけど」

「名字も俺ねぇんだけどよ」

「あー、ないのか……。どーすっかな……」

 アリスは少し頭を抱える。さすがに名字がないのは、今後いささかまずい。

 そこで彼女は机に置いてあった携帯電話をテレビ電話モードにして、ルナに連絡を入れた。

 すぐさまルナは応答して、携帯電話のモニターにルナの顔が写される。

 聞いてみると、さすがにルナも困惑した。

 確かにゼロが一カ所に定住した試しなど十年前まで暮らしていたゲリラの村が最後だ。それ以降は各地を転々としており、一カ所に定住した最大期間などせいぜい三ヶ月。戸籍自体いらなかったのである。

 だが、これからは結構な割合での定住生活を強いられるわけだ。戸籍がないと言うことは基本的人権の存在はおろか、給料すら払われない危険性も秘められている。

 さすがにこれはまずい。

 しかも悩む彼女たちに対してゼロは更に悩ませる言葉を言い放つ。

「別におめぇらの好きでいいぜ?」

 もうトドメだ。二人とも完璧に頭を抱えてしまった。

 見るからに二人とも困っているというのに、この男はまるでそれに気付かない。鈍感にもほどがある。

 そんな時に、ルナの頭の中にある英単語が思い浮かんだという。

 その英単語は『Stray』-はぐれ者。

『素性の知れない男』、そんな意味合いを込めた考え方だった。

 ただ、これ自体最初は冗談のつもりだった。

『……っていうのもいいかな~、な~んて思ってみた……んだけど……』

 ルナの語尾がどんどん消えていく。

それもそうだろう、ゼロが本気で悩んでいる。冗談のつもりだったのにかなり本気だ。

「……ストレイ、か。そいつに決まりだな」

 二人とも目が飛び出そうになった。

『え?! ちょ、それでいいの?!』

 ルナはさすがに相当焦ってゼロに確認を促すが、彼は満足していた。

「俺にゃあちょうどいい。ゼロ・ストレイ、か。悪ぃ名前じゃねぇな」

『は、はあ……』

 ルナとアリスは思いっきり頭を抱えていた。

 こんな大して物事考えない人入れちゃって大丈夫だったのかしら?

 ルナはそう思ったというが、もう遅い。

 冗談は言われてもいい人とまずい人がいるということがよくわかっただろう、読者諸兄?

 そう、こうして、こんないい加減極まりない理由で『ゼロ・ストレイ』という名前が決定したのである。

 しかし、ゼロからしてみれば小気味いい響きだった。自分の存在そのものが人間にとって『はぐれ者』なのだから。

そして、自分自身の定義が『迷い人』なのだから。

「どした、頭でも痛いのか?」

 しかも彼はこの期に及んで雰囲気が飲み込めていない。この辺りは微妙におつむが弱い。

「うん、あらゆる意味でね……」

 アリスはがくりと項垂れながら言った。

 先の思いやられる新人が来た……。そう思った。

 その後、彼女は胸ポケットから自分愛用の大型ナイフを取り出す。

「殺す気か?!」

 ゼロの表情が引きつった。

「嘘嘘、冗談よ。マジになってどーすんの?」

 アリスは少しにやりと笑った。

 結局アリスはスーツの胸ポケットから小型ナイフを出すと、ゼロは書類を適当に読んだ後、左腕にボールペンを持ちサインする。

 その手先は義手とは思えないほど滑らかだった。その様子にアリスは感心する。

「へぇ、上手いわね。本当に義手なの?」

「十年間も義手と過ごしゃあ、自然と慣れるもんだ」

 ゼロは淡々と一言言った後、書類にサインした。

 その後右手の親指を差し出し、そこに先ほど出た小型ナイフでアリスが指先をつついた。

 斬ったところから血がじわりと出てくる。

 その血が出た時、不意に声が聞こえた。

 この血は最早人間のものじゃないんだな、カイン。

 子供の頃の言葉だった。

 カイン、村正の幼名。それと対を成す兄弟の名前としてアベルの名がゼロには与えられていた。

 聖書に出てくるアダムとイヴの息子である兄弟、そしてその兄弟はカインの嫉妬により殺し合った。

 実験場で与えられたその名の通り、神話上のストーリーに沿うかのように、彼等は殺し合った。

 捨てたはずの名前が、未だに心を縛り続ける。何とも滑稽だと、何故か思えた。

「どした? 痛かった?」

 アリスの言葉でようやく彼は白昼夢から醒めた。

「いや、なんでもね」

 ゼロはアリスの言葉も、先程の白昼夢も、軽く受け流すこととした。

 血が指紋を伝わって指を血塗れにしている。

 名前を書いた横にゼロはその指を押した。

 これで正式に彼はルーン・ブレイドのメンバーになったことになる……はずだった。

「あ、言い忘れてたけど血判証明する奴はこれ以降何十個もあるからね。戸籍とか定住地域申告書とか色々あるから注意するように」

 ゼロは大きくため息をついた。

 確かにたったこれだけで社員になれたり戸籍が貰えたりするほど世の中甘くはないということだ。

 結局彼がこの書類を完全に書き終えるのは四時間半も先のことになる。

 


 
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