職場の上司や同僚に誘われた、家に帰りたくない…夜の街を歩き回る理由は様々だ。パッと見は中年男性が多いが、よく見れば若いOLから定年間近と思われる初老の男性まで、年齢性別は幅広い。だからこそ、街には色々な店がある。
人々が暮らす町は道を照らす街灯と家の玄関を照らす外灯のみで、静かで落ち着いた雰囲気だ。繁華街は落ち着いたモノは全くない。灯りは店名を見せる行灯と店内の電灯で事足りる為、街灯は一つもなく夜だというのに賑やかだ。それでいて、何処か寂しい。そしてもう一つ。
「ねぇちゃん。俺といっぱいしねぇ?良い店、知ってんだ」
コレだ。居酒屋に誘っているのか、男女が行く店に誘っているのか天宮光(あまみや ひかり)には判断出来ないが、どちらにしろお断りだ。夜の街は、何処か下品だ。
街というより男が下品だ。それに、男全体がそうではない事も理解している。それでも、こんな風に酔っぱらった男に絡まれると『男』という生き物を嫌ってしまいそうだ。
なのに光は、夜の街で働いている。風俗とかではなく、居酒屋のウェイトレスだ。その仕事も、今晩はあがりだ。絡んでくる中年男性をやり過ごし、帰路についた。
※ ※ ※
少女の苦しげな声。嗚咽。
ボソボソとした男の声。何を言っているかは分からない。
(聞きたくない! いやっ!)
拒絶しても、少女と男の声は聞こえてくる。耳を塞いでも無駄だった。
ドクン、ドクン…これから起きる事が予測出来、胸が緊張と恐怖で大きく脈打つ。
「きゃあああああ!!!!!」
※ ※ ※
目を覚ました時に最初に目にしたのは、陽の光だった。窓を隠すカーテンの隙間から漏れているのだ。
ドクン、ドクン…心臓はまだ脈打っている。
「…はぁ」
息をゆっくり吐いてから、のっそりと起き上がる。時計を見ると午前10時だった。
朝食は適当に食パンをそのまま食べ、歯を磨き顔を洗ってから洗濯を始めた。洗濯機は全自動である為、一時間程待てば後は干すだけだ。
光は、洗濯機を動かすとすぐに掃除を始めた。テーブルや棚を水拭きし、床や畳の上に掃除機をかける。
掃除が終了してほんの数分後、ピーー、と音が聞こえた。洗濯終了の合図だ。洗濯物を干し終わる頃には、午前10時になっていた。
手早く仕度し、外へ出た。
陽の光が彼女に降り注ぐ。眩しくて、いつも暈(めまい)を起こしそうになる。額に手を当て目を細める。
と、背中に何か触れた。
「大丈夫ですか?」
すぐ後ろから聞こえる声は、自分を支えている人物のモノだろう。どうやら光は、本当に暈を起こしてふらついたようだ。
振り返り支えてくれた人を見る。
「…上野さん」
「こんにちは」
「こんにちは。お疲れ様です」
にこやかに挨拶したその男性は、上野優(うえの まさる)という、仕事の同僚だ。
「これから出勤?」
「はい。上野さんもですか?」
「そう」
それでは一緒に行こうという事になり、二人は並んで歩く。
「大丈夫?」
「何がですか?」
「何となく、調子が悪そうに見えるから…」
優の視線を感じるが、光は反応しなかった。ただ前を見て、足を動かし続ける。
確かに、彼女の体は不調だった。だが、仕事を休む気など更々ない。
「ちょっと、体が怠いだけです」
「風邪?」
「多分…」
やけにしつこい。職場は飲食店なのだから当然なのだが、光としては放って置いて欲しかった。
職場でウェイトレスの制服に着替え、笑顔を振り撒き客から注文を取る。いつもの仕事。だが、今日は心なしかやり辛い。
「お姉さん、すいません」
「はい!」
ウェイトレスを呼ばわる声が響いたので、一番近い場所にいた光がテーブルに寄った。客は一枚の白い紙を彼女に寄越す。
「唐揚げ一人分、お願い」
「はい」
受け取った紙をエプロンのポケットに入れてから、厨房に向かう。
厨房で注文を伝えてから、渡された紙を見る。携帯電話の番号と思われる、数字の羅列。グシャグシャに丸めて、ゴミ箱に捨てた。
「はぁ…」
憂鬱だ。頭が痛い。
それからも体調は無視し仕事を熟(こな)す。
(これ以上酷くなるようなら、早退しなければ…)
此処は飲食店なのだ。風邪引きがいるのは迷惑だろう。客が増える夜になると言い出せなくなりそうなので、夕方までにはと、そう決めた。
「大丈夫?」
食器を流しに運んだ直後、男性に声をかけられた。今まさに、流しで食器を洗ってる優だ。
「顔色、悪いよ」
「夕方には早退するんで、お気遣いなく」
固い声で良い、体を開店した直後。
「っ!?」
「天宮さん!?」
体がふらついた。優が慌てる声がする。
(あぁ…最悪だ)
弱い自分が、心底憎らしい。なんとか体制を建て直し、厨房に呼び掛ける。
「店長、体調を崩したので、病院に行きたいのですが」
「良いよ。そのまま病院から帰りなさい」
すぐさま返事が返ってきて助かる。「ありがとうございます」と礼を言い、着替えようと更衣室へ向かう。
廊下へ出て、更衣室のドアノブに手を伸ばし…
(…あれ?)
ふわりとした浮遊感。意識が遠退く。光が最後に認識したのは、天井にぶら下がった電灯の明るすぎる灯りだった。
目を覚ますと、清潔そうな真っ白な天井と消灯している電気が見えた。
「大丈夫?」
横から、声が聞こえた。今日何度となく聞いた声と言葉。目と首を動かすと、其処にはやはり優がいた。
「上野さんが、病院に運んで下さったんですか?」
問うと頷き、彼は説明した。
「君、寝不足と風邪だって」
そうですか、とだけ光は言った。そのまま彼女が何も言わないので、今度は優が問う。
「確かに居酒屋は忙しいけど、一日中って訳じゃないし、休みだって週二日だろ?その時に寝てないの?」
光は答えない。心当たりは大いにあるが、それは彼女の問題で他人に話す事ではないと思っている。
優は更に問う。
「眠れないの?いつも悪い夢を見るとか」
光は目を見張った。当てずっぽうかもしれないが、彼は正解した。
眠りが深かった為か今回は見なかったが、いつも過去の悪夢ばかり見てぐっすり眠った事がない。
「今…何時ですか?」
「昼の10時」
「は!?」
ガバリと体を起こし、時計を見る。確かに針は10時を示している。窓の外を見ると、カーテンが開け放たれた窓の外は、陽射しが降り注ぎ燦々(さんさん)と光り輝いていた。眩しさに目を細める。
「吃驚したんだよ。廊下に出たら、天宮さんが倒れてたから」
そういえば、更衣室の扉を目にした辺りから記憶がない。
「ご迷惑をお掛けし、申し訳ありませんでした。病院に連れてきてくれて、ありがとうございます」
謝罪と礼を言うと、手を伸ばして頭を撫でてきた。
「今日と明日は、仕事?」
「いえ、休みです」
これではたとえ出勤日でも休まざるを得ないだろう。元から休みで良かったのかどうか…。
「実はね、店長が【今日・明日の二日間休んで体調を万全にしろ】って」
「え」
二日間連休したところで万全になるかは分からない。抑(そもそも)、風邪を引いたのも寝不足が原因で、寝不足の原因は、悪夢だ。
「お医者さんが、目が覚めたら退院出来るだろうって」
「そうですか」
「だから今日の夜、僕に付き合ってくれない?」
何がだからなのか分からない。しかも、光は夜の誘いに懐疑的だ。
「星を見に行かない?」
「星?」
今迄にない誘いだ。
「プラネタリウムじゃなくて、本物の星」
「何処で見るんですか?」
「山」
簡潔かつ予想外の答えに、光は目をパチクリさせた。確かに、山のように高い所や開けた所だとよく見えると聞いた事がある。
しかし、『山』は光にとってどこか遠い土地のように聞こえるのだ。
「駄目かな?」
優が、眉を八の字にして訊く。光は、じっと彼の目を見詰めた。
バスッ、と音をたてて、枕の上に頭を置く。顔が、陽に当たって暖かい。仰向けになると目に入る電灯を、じっと見詰める。頭の中に、少女の泣き声が響いた。
「良いですよ」
「え、ホントに?」
驚きながらも、嬉しそうな表情を見せる。
「じゃあ、退院したらすぐに行こう! 実は道具はもう用意してあるんだ!」
いくらなんでも速過ぎる。断られたらどうするつもりだったのだろう?
「…一度、帰らなきゃ」
「うん、分かってるよ。車で送る」
山に星を見に行くのだから、車がないと辛いだろう。分かってはいるのだが、釈然としないものがあった。
* * *
久し振りに他人と自宅で食事を摂った。
病院を出て、途中買い物をして、自宅に帰るとすぐに昼食を作った。光が作ったスパゲティとサラダを、優は「美味しい」と言って食べてくれた。
食べ終わると食器を洗い、洗濯物をたたんでから動き易い服に着替えた。
「じゃあ、行こうか」
優のその言葉を合図に、彼の車は山に向かって動き出したのだった。
陽が暮れ暗くなると、優の車は一旦止まり、飲食店で夕食を摂った。優は牛丼定食を、光はしょうが焼き定食を頼んだ。
こうしてプライベートで他人と食事を摂るのは本当に慣れてなくて、二回目だというのに光は少し緊張している。
(どうしてこうなったんだろう?)
答えなんて簡単だ。光が優の誘いに乗ったからだ。まさかここまで緊張するものだとは知らなかった。だからといって、今更後悔はない。
「御馳走様」
優が水を飲み、食後の挨拶をした。見れば確かに、彼の器はどれも空っぽだ。光の器にはまだどれも、少しずつ料理が残っているというのに。
「やっぱり、男性は食べるのが速いですね」
「ゆっくり食べると良いよ。まだ7時だ」
優は優しげに笑う。だから光も笑みを返し、「ありがとうございます」と礼を言った。
店も、家も、姿を消した。当然、山には街灯など無く、頼りになるのは車のライトだけだ。
「どれだけ登るんですか?」
「そんな上じゃないよ。途中で車を置いて、開けた場所に行くんだ。このままじゃ木が邪魔して空が見れないからね」
光は視線を上げる。ライトが照らすのは左右の樹木ばかりで、空は真っ黒だ。ここでは、本当に星が出ているのか怪しい。
しかし、停車し外に出ると、確かに星は確認出来た。相変わらず木が空を遮ってはいるが、川が樹木を分断している感じがした。
「これ持って」
そう言って渡されたのは、小型の懐中電灯だった。受け取りスイッチを入れると、強い光が彼を照らした。
優も懐中電灯を点け、光の手を握る。彼の「行こう」を合図に、二人は手を繋いで歩き出した。
暫(しばら)く、彼の指示に従い歩く。川のせせらぎが聞こえなくなり、光と優の足音と名の知らぬ虫の音が聞こえるようになる。音は聞こえているがとても静かに感じた。
軈(やが)て、開けた場所に出た。
「着いた。灯りを消してごらん」
言われて懐中電灯を消し、少し遅れて優も消す。光が予想していた程の暗闇にはならなかった。
「凄い…」
思わず感嘆の声を溢した。
頭上には、月と星が空に煌めき、控えめな光で地上を照らしていた。
ガサガサと音がするので隣を見れば、優が地面に寝転がっている。光も真似しようと腰を下ろせば、優はタオルを手渡してくれた。頭に敷くのだろう。
彼のように横になり空を見上げる。ほぉ…、と無意識に息を吐いた。
「天宮さん、電灯の光よりも月や星の灯りの方が好きでしょ?」
「はい」
電灯は光が強過ぎる。周りの様子を知る為なのだから仕方がないのだが、しかし強過ぎる光はあまりにも眩しすぎて、余計に回りが見えなくなりそうになる。でも、月や星は周りの様子が分かりながらも強過ぎず落ち着く。心も、穏やかになっていく。
「数分しか経ってないけど、見れて良かったと思います」
言いながら、口元が上がっているのを光は自覚する。
「こんな静かな気持ちは、久し振りな気がする…」
大きく息を吐き、瞳を閉じる。隣から優の声が聞こえる。
「目を瞑ったら寝ちゃうよ」
少し、心配そうな声音だ。どうしたんだろうと考え、思い出した。自分は以前、彼に悪夢を見ると話したんだった。
「女の子の悲鳴が聞こえるんです」
「え?」
「苦しそうで辛そうで、でも私は、怖くて何も出来なかった」
今も、はっきりと思い出せる。彼女の助けを呼ぶ声を、臆病な自分を。
「…大丈夫」
優の声と同時に、暖かなモノに包まれた。
「怖くない。怖くないよ。…大丈夫」
宥めるように、元気付けるように、優は光の頭を撫でた。まるで、今は遠く感じる過去の父が帰ってきたようで…。
ギュッと、優の服を掴んだ。
「戻りたい…」
「え?」
「優しかった、昔は…。あの頃に戻りたい」
過去に光の身に何があったのか、優は知らない。今はただ、優しく抱き締め頭を撫でる事しか出来ない。
光は、幸せだった過去に思いを馳せながら、優にしがみ付いていた。
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光が少し苦手な女性と、彼女を気にかける男性の話。