No.759205

真・恋姫✝無双 ~夏氏春秋伝~ 第六十四話

ムカミさん

第六十四話の投稿です。


進軍進軍&進軍。

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2015-02-18 10:37:30 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:5029   閲覧ユーザー数:3923

疾風迅雷。

 

孫家領に侵入してからの魏軍の動きはまさにその一言に尽きた。

 

軍全体の隊列が乱れないギリギリの速度で進軍し、避けない砦は素早く、静かに包囲。落とされる砦側は気がつけば既に包囲網のど真ん中。

 

運良く包囲前に気付いて建業へ早馬を飛ばそうとしても、本隊に先駆けて回り込んだ霞達によって悉く捕らえられていた。

 

普段の進軍も蛇行上等、見つかりにくいことを最優先に事を進める。

 

かくして孫家の与り知らぬままに魏軍は領地に深く食い込んでいた。

 

進軍は止まることを知らず、いよいよ長江が見えんとしたところで、延々と続けていた南下を即座に東進に切り替える。

 

地図上に直角のような軌跡を残し、それでも魏軍は止まらない。

 

緻密に、大胆に、建業へと向けて南の地を駆け抜けていく。

 

実に順調な進軍過程だった。

 

 

 

この日も進める限り進み、日が暮れたところで野営となる。

 

天幕を張るや、幹部連は一所に集まり軍議を始める。

 

それはここ数日で最早見慣れた光景となっていた。

 

「長江はどの辺りで渡るつもりなんだ?」

 

魏軍の現在地情報を共有した後、一刀が問い掛ける。

 

それに答えたのは凛と風のコンビだった。

 

「鄱陽湖さえ超えてしまえば、といったところですね。少なくとも濡須口まで東進を引っ張るつもりはありません」

 

「あんまり早く渡ってしまうと、入り組んだ支流を何度も渡らなくてはいけなくなりますしね~。鄱陽湖以東でしたら経路を選べば一度で済みますので~」

 

「ただ、少しだけ懸念があります。鄱陽湖は周瑜が水軍の調練をよく行っている地でもあるそうでして。

 

 周瑜の性格を考えれば、既に各隊の調練を再開していてもおかしくないのが怖いところです」

 

大陸各地を渡り歩いて人を見てきた。

 

そう言うだけあって、風と稟は当時からいた各地の主要な将の性格をよく見ていた。

 

特に力ある君主とその側近の観察は丹念に行い、仕えるに足る人物を探していたようだ。

 

そういいつつ、稟は初めから華琳に仕えることしか考えていなかったように一刀には思えて仕方が無いのだが。

 

それはさておき、今回はそんな2人の情報が非常に役立っている。

 

旅をしていただけあって地図では判然としないような道も知っており、尚更だった。

 

「それは……確かに怖いな。長江を渡る前に鄱陽湖周辺に斥候を出しておくべきだろう」

 

「ん?何故怖いのだ、一刀?周瑜がいたところで、これまでと同じように倒して進めばいいだけだろう?」

 

「姉者、それは楽観が過ぎるぞ。周瑜は現状孫堅の頭脳、筆頭軍師だ。連合でもその知力の一端は見ただろう?

 

 知らぬままに長江を渡ってから、孫堅の本隊と周瑜の分隊に挟み撃ちに陥るようなことだけは避けねばならん」

 

「む、むぅ……なるほど」

 

稟の懸念に賛同した一刀の言葉に春蘭が疑問を投じる。

 

それに対しては秋蘭がさすがの反応で答えていた。

 

文武両道を地で行き、軍師が増えてくるまではその役目をすら担っていただけのことはある。

 

「まあ、一刀の言う通り斥候は出すつもりでいたわ。無警戒でいられる相手では無いしね。

 

 それで、今日はもうそろそろだということで長江を渡った後の進軍について話し合うのだけれど……

 

 その前に大本の確認をしておかないといけないわね。霞、連絡兵は確かに一人も逃してないのよね?」

 

「おう、それは間違いないで!いやぁ、桂花から付けてもろたあいつらがよう見つけてくれるんよ。

 

 ま、見つけてしもたらこっちのもんなわけで。敵がどんな早馬つこたところでウチらに敵うわけがないんやからな!」

 

桂花から一刀にこっそりと投げかけられた視線が霞の発言の真偽を問う。

 

既に隊員からの報告を受けていた一刀はそれにコクリと頷いた。

 

それによって確信を持てたようで、桂花は続きを口にする。

 

「霞を信じるわ。残る可能性があるとすれば余程の変則経路ということになるわけだけど、それがいたとしても恐らく帰還に相当かかるはずだから無視することにする。

 

 長江を渡った後だけど、霞、向こうでは今のお役目はいらないわ」

 

「そうなん?ええの?」

 

「元々その予定なのよ、霞。私達軍師で話し合った時に出たことなのだけど、この大軍で長江を渡河していて一切気取られないことはまず無理だろうって。

 

 どこかで気付かれて孫堅に報告が行くでしょうね。河の上にいてはそれに満足な対処も出来ない。

 

 だったら見つかることを前提に、長江渡河前と渡河後では方針をガラッと変えてしまえばいい、となったのよ」

 

霞が示した軽い疑問に零が隣から補足する。

 

なるほど、その考えの下動いていくならば、なるべく建業に近い位置で長江を渡りたいはずだ。

 

明確に、この辺りで渡る、と決められていなかった理由に一刀が納得出来た瞬間だった。

 

零の補足を桂花が引き継いで説明を続ける。

 

「長江を渡った後は今までの隠密・封殺重視の進軍から速度重視の進軍に切り替える予定よ。

 

 孫堅には時間を与えてはならない。これが私達の共通見解だったから」

 

それは正しい考えだと一刀も思う。

 

孫堅は言わずもがな、古き時代からの宿将が2人に加えあの孫策を始めとした勇将・猛将が揃い踏み、頭脳面においても呉の大都督が軒並み揃っている。

 

たとえ僅かでも敵に猶予を与えてしまえば、忽ちの内に戦闘準備を整えてしまう可能性があった。

 

「桂花が今示した策はそのまま採用するつもりなのだけれど、誰か反対意見はあるかしら?」

 

そんな華琳の呼びかけに、しかし反対意見のあるものは誰もいない。

 

ただ、内容を問う声だけはいくつか上がってくる。

 

「桂花さん、速度重視とのことですけど、歩兵が軍の大半を占める以上、あまり速度を上げるといざ開戦となった時に影響があるのではありませんか?」

 

「菖蒲の懸念は尤もよ。急ぐあまり兵を疲れさせ過ぎては本末転倒。折角の策も水泡に帰してしまうでしょうね。

 

 だから、長江を渡った後で主に変えるのは進軍経路よ。そこまでいけば、もう建業には十分に近づいているわ。

 

 一直線に建業を目指し、孫堅の側の準備が整うよりも早く、急襲する。それが今回の策よ」

 

「ならば、移動速度は上げないのですか?」

 

「少しは上げるわ。策の中身を直接聞くことのない兵達にも速度重視の進軍に切り替えたという意識が欲しいから。

 

 ただ、上げすぎると自分たちで自分たちに綻びを作ってしまいそうで、そこを上手く調整しなければいけないのだけれどね」

 

「なるほど。ありがとうございます、桂花さん」

 

ここで菖蒲の質問の終わりを見計らい、華琳が全く別の方向に話を振る。

 

「そうだわ。麗羽、本来であれば許昌を出る前にあなたに聞いておくべきことがあったのだけれど、忘れていたわね。

 

 ま、今更嘆いても仕方が無いことなのだし、今聞いてしまうのだけれども。

 

 袁家の横の繋がりは強いものだったかしら?」

 

それは誰もが一瞬なり呆気にとられるような方向転換だった。

 

質問を投げられた当の本人も僅かばかり硬直していたが、すぐに立て直す。

 

「美羽さんとは大した繋がりはありませんわよ。同じ袁家でも家も領地も所有する軍も別々でしたから。

 

 むしろ、袁家の老人お歴々の中にはこの私を疎ましく思っている輩もいらっしゃったくらいでは無いかと。分家の分際で、とはよく耳にしたものですわ」

 

「姫ってばあの爺さん達の前でも我が儘放題振る舞うから嫌われたんじゃねぇの?」

 

「あ~ら、あのような表舞台から引退した者になにを気を遣う必要がありまして?」

 

「麗羽様のそういった姿勢もそうですけど、大きな要因は恐らく美羽様よりも大きな領地を収めていたからではないかと。

 

 麗羽様が当主となられた当初は強く干渉してこようともしていました。

 

 麗羽様は良くも悪くもいつもあの調子でしたから、いつの間にか諦めて美羽様の袁家へと移っていったようですが」

 

「矜持……とすらも言えない浅ましいものか。そればかりが強いまま老いてしまったような感じに聞こえるな」

 

醜い連中だな、と一刀は言い捨てる。

 

その忌憚ない物言いに猪々子と斗詩は目を丸くして驚く。

 

ところが麗羽が笑いながら、全くもってその通りですわ、と曰えば、もう納得せざるを得ない。尤も、2人とも苦笑いを浮かべてはいたのだが。

 

「今はそんな瑣末なことはどうでもいいわ。確認しておきたいことはただ一つ。

 

 麗羽、貴女のところから併合した部隊は袁術に呼応して裏切る可能性はあるのか、ということよ」

 

「ありえませんわ。先程も言いましたが、美羽さんのところとは大した繋がりはありませんでしたの。

 

 彼女の袁家親衛隊と私の袁家親衛隊は全くの別物ですわ」

 

「そう。それなら良かったわ」

 

麗羽の即答に華琳は満足そうに笑んだ。

 

そのまま桂花達軍師の方へ顔を向け、命じる。

 

「ここまで順風満帆、この流れと勢いに乗らない手は無いでしょう。

 

 進軍方針はこのまま、余程の事態が起こらない限り貫きなさい。渡河の機も貴女達の判断に任せるわ」

 

全面的な信頼を向けられた言葉。

 

それを掛けられ、軍師達は皆自然と気を引き締め直していた。

 

「皆、順調とは言えど油断はしないようになさい。

 

 いついかなる時でも、どれだけ堅固なものであろうとも、小さな綻びから全てが崩れることはままあることなのだから」

 

最後に忠告。締めるところは忘れずに締める。されど、無駄な緊張を招くほどでも無い。

 

適度な激励に皆は程良い緊張を保ち続けられている。

 

やはり華琳は人の上に立つ者として、天性の才を持っているのだな、とは今までも幾度と無く感心させられたことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「違う違う!その策は民の負担が重いから通しちゃダメな奴だ!」

 

「そ、そうなのかっ!?では、どれを通せばよいのじゃ?!」

 

「それを自分で考えるんだ。一度民の立場になったつもりでそれぞれの策を考えてみな」

 

「う、うむ!」

 

建業の城の一室から聞こえてくる声。

 

片方がもう片方を叱り、何か物事を教えていると覚しき声。

 

この2つの声の主はそれぞれ孫堅と袁術だった。

 

それは見る者が見れば驚愕に顎が外れかねない光景だろう。

 

何故このような光景がこの部屋に広がっているのかと言えば、それは袁術の一言に端を発する。

 

袁術の軍が孫堅の軍に吸収されることとなったその日、袁術は孫堅に自らの意志でこう伝えた。

 

曰く、執政を教えて欲しい。

 

袁逢との約束からか、元々袁術の面倒を見るつもりであった孫堅は本気かどうかを簡単に尋ねた後、快諾、今に至る。

 

かと言って教え方が優しいと言うわけでも無く……

 

「こら、美羽!手ぇ止まってんぞ!執務中に露骨に集中力を切らすんじゃないっていつも言ってるだろうがっ!」

 

「ひぅっ!?す、すいませんなのじゃぁっ!」

 

孫堅式スパルタ特訓文官バージョンが日々繰り広げられていた。

 

ちなみにこの光景には時折続きが存在する。

 

「あぁ、お嬢様……おいたわしや……」

 

「お前もだよ、七乃。まぁ、あんたの方は今日も鍛錬で徹底的に鍛えてやるから覚悟しときな」

 

「…………え~っと……あ、あの~ですね?私はずっと美羽様の下で一つの軍を纏めていたわけでして。

 

 ですから、私としては文官の方がやはり性に合っているかなぁ、と……」

 

 

「言い訳は無用だ。別に文官に専念したきゃあやっても構わないが、あんたにとっては武官の方が楽だと思うがねぇ。

 

 折角この私があんたは武官の方が適性が高いって判断してやったんだからね」

 

「……はい」

 

孫堅に淡々と詰められて大人しくなる張勲。

 

彼女の袁術を大切に思う気持ちは本気のようで、いくら武官としての仕事や文官としての仕事が忙しかろうともよく袁術の様子を見に来ている。

 

それでいて自身に振られた仕事もこなしている辺り、曲がりなりにも袁術軍をほぼ一人で回していただけあるというものだった。

 

ちなみに先の孫堅の言葉にもあった通り、孫堅と黄蓋に程普も加わった、武官の”地獄の鍛錬”はまだ続いていた。

 

「それにしても……美羽様、これだけ日にちが経ってもまだ頑張ってらっしゃるんですね。

 

 また三日で飽きるものかと……」

 

「七乃、あんた美羽を大切にしている割にあんまりそういうところ信じてないね。

 

 こいつは今はまだこんなでも、あの袁逢の血を引いているんだ、きっと民を思いやれる良い為政者になるよ。いや、私がそうさせてやる。

 

 美羽にはそれだけの素質はあるんだからね。今までは全くやっていなかったようだが」

 

「それは……申し訳ありません。上が望む美羽様は都合の良い傀儡でした。

 

 私はその為の調整と監視の役を自ら買って出ることで美羽様のお側で、せめてお命だけでもお守りしたかった……

 

 結局果たし切ることは出来ませんでしたけれど。これではとても袁逢様に顔向け出来ませんね」

 

痛みを堪えるような張勲の表情は何を物語っているのか。

 

彼女もまた袁逢に恩を持つのかも知れない。そしてそれを胸に、袁術を陰ながら助け、支えることで恩返しとしたかったのだろうか。

 

だが、その真実のところは彼女しか知り得ないこと。そしてその痛みは彼女自身が乗り越えなければならないこと。

 

だからこそ、それは他人が探っても詮無いことだ。

 

孫堅もそれを解しており、それ以上掘り下げるようなことはしない。

 

代わりに比較的優しい言葉を張勲に掛けた。

 

「まだ終わってなんて無いぞ、七乃。これからは”袁逢の娘の美羽”では無く”一人の人間としての美羽”を見守ってやりな。

 

 私が切っ掛けを作っといてなんだが、袁家という柵が失くなったことはもしかしたら美羽にとっては好ましいことなのかも知れないぞ?」

 

「……かも、知れません。袁家がある限り、美羽様はあの老人達のいいように操られ、いずれは蜥蜴の尻尾切りに遭わされていた可能性が高いですし。

 

 そういう意味では、月蓮さん、改めてありがとうございました。泥沼の中から美羽様を救って頂いて」

 

「はっ。私は私のやりたいようにやっているだけさね。

 

 そんなことを言ってる暇があんなら、あんたもさっさとやることやっときな」

 

何でもなさ気にそう言い放ち、孫堅は再び袁術の側で指導に戻る。

 

その背にむかって張勲は小さくもう一度、感謝の言葉を述べていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「明日、朝一番に渡河しましょう」

 

魏軍は以前の長江渡河についての軍議が行われてからまた一つ、二つ、砦を攻略していた。

 

そしてこの日、軍議冒頭で桂花がそう宣言したのだった。

 

「鄱陽湖を越えて随分進みましたし~、今現在、鄱陽湖に周瑜さんがいないことも確認を取りました~。

 

 そして何より、これ以上進むと濡須口を含む街、砦が数多く~。ここらが機でしょうと話し合いまして~」

 

「貴女達がそうだと判断したのならそれで構わないわ。ここまでで想定外のことは無いのね?」

 

「はい、順調です。建業へ向けた連絡兵も全て霞が捕殺に成功しています」

 

華琳の即諾を得て、その問いにも上々の成果を報告する。

 

事前に練った策が、ここまではほぼ完璧に嵌まっている。

 

この先は運の要素がいくつか絡んでくるために予測が幾筋が立てられているが、いずれをも外れない限りはこの先も明るいだろう。

 

軍師たちのその見通しが甘いとは誰も思っていない。

 

大半の武官は言わずもがな、秋蘭や霞、一刀や華琳でさえも同一の見解を持っている。

 

それだけ大きな波に乗れているという自覚が皆にあった。

 

「ここからは渡河中に見つかることを前提として動くんだったな。

 

 行軍速度を上げるのはいいが、孫堅がどこを戦場にしてくるか、それによっては色々と考えないと危ないぞ?」

 

「さすがに限界速度の強行軍を敢行してそのまま戦闘に入らせるような真似はしないわよ。

 

 建業まである程度の距離を開けた状態で休息は取らせるわ」

 

一刀の指摘に答えた零の表情には、何を当たり前のことを、と言いたげな様子がありありと浮かんでいた。

 

そこからは今や零の内に溢れんばかりの自信が見て取れる。

 

過信は論外だが、彼女程であればその辺りの分別は付いているだろう。仮に万が一があったとしても、きっと周りが諭してくれるはずだ。

 

そう言えば、と華琳が零に視線を向け、疑問を呈する。

 

「零、貴女、あの随分と厄介な体質はもう完全に治ったのかしら?」

 

「まだ確証はありません。連合からこっち、私が関わる大きな戦等はありませんでしたから。

 

 今回が連合以来の大戦であり魏にとっての重要な戦でもあるため、表立った指揮に積極的に出てはいなかったのですが……」

 

「零はそう言っていたのですが、さすがに全く関わらず、とはいかず、零に指揮を任せて落とした砦もありました。

 

 ですが、進軍等に支障を来すような事象は起こっていません」

 

「未だに明確な法則が分かっていないため、明言は出来ませんが、もう問題は無い、或いは事象が弱まっているものと考えています」

 

零と桂花が交互に事実とそれに基づく推測を報告する。

 

その内容に華琳は一層満足そうな笑みを深めた。

 

「そうだったの。零、貴女のその能力が存分に振るえるようになったとなれば、それは魏にとってとても喜ばしいことだわ。

 

 これからはより輝かしい働きをしてくれることを期待しているわ。貴女の才を見込んだ私の目に狂いは無かったと証明してちょうだいね?」

 

「はっ。ありがとうございます、お任せください」

 

裏を感じない華琳の物言いに零は素直に感謝を述べる。

 

が、一瞬漂いかけた雰囲気は直ぐ様華琳の言葉によって打ち消される。

 

「皆、明日からが正念場よ。気を引き締めておきなさい」

 

『はっ!』

 

かくして夜を越え、翌朝を迎える。

 

魏が変わり目を迎える一歩目を踏み出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はひぃ~……も、もう無理、ですぅ……」

 

「なんだ、もうへばったのかい?ったく、だらしないねぇ」

 

調練場の地面に伸びる張勲に孫堅が呆れたような声を掛ける。

 

しかし周囲に孫堅の言葉に素直に頷く者はいない。

 

誰もが苦笑を浮かべるだけで、同意には程遠い空気がそこにあった。

 

その中で孫策が思ったことを口に出す。

 

「何度も言ったと思うけど、母様はもっと基準を下げるべきよ。ってかあれでへばらない奴なんていないんじゃないの?」

 

こちらの言葉にはうんうんと頷く者が多数。孫策に近しい周瑜と太史慈を始めとする若手武将達である。

 

が、そんな孫策に苦言を呈する者が一人。地獄の鍛錬の3人目の教官にして黄蓋に並ぶ宿将、程普である。

 

「若殿、これくらいで音を上げていては大殿を負かすのは夢のまた夢になりますよ?

 

 今の大殿の武はただの才能のみに依るものではありません。経験と鍛錬の上に作り上げたものです。

 

 それに追い付き、追い越すとなれば、それ以上の経験なり鍛錬なりをこなさなくてはいけません」

 

「ぅ……そ、そんなの私が一番よく分かってるわよ」

 

言うは易し行うは難し、とはまさにこのこと。

 

頭で理屈は分かっていても、孫堅を超えるためのそれに想像が付かない。

 

それが現実逃避気味の思考へと向かってしまいたくなる原因だった。

 

「と、というより、も……孫策、さん、まだ余裕が、あるんです、ね」

 

大の字に倒れたまま、息も絶え絶えに張勲が孫策に声を掛ける。

 

「まあ、もう結構な期間しごかれてるからねぇ……あ、ちょっと思い出したくないことまで……」

 

「あっはっは!雪蓮ってば何度も伸びてたもんねぇ!」

 

「う、うるさいわよ、木春っ!忘れろっ!ってか、あんたもそうでしょうがっ!」

 

「ん~、ま~ね。でも私は月蓮様にのされることに関しては何とも思ってないからね。

 

 ああ、いや、悔しいは悔しいけど、そうやって鍛錬に付き合ってもらう度に強くなっているのが分かるからね。消したい記憶、って方向じゃないなぁ」

 

体は付いていかないまでも口はまだまだ元気な孫策と太史慈。

 

「…………美羽様を守る、なんて言っておいて、私の武なんて虫けらのようなものでしたね……」

 

そんな2人のやり取りを眺めていた張勲から誰に届くともない呟きがポツリと漏れていた。

 

 

 

 

 

「月蓮様、少しよろしいでしょうか?」

 

「なんだい、冥林?何かの報告かい?」

 

孫策達のやりとりを横目にこの日の鍛錬は終わったものと見てから、周瑜が孫堅に伺いを立てる。

 

周瑜の様子に別段おかしいところはなく、焦っているようにも見えない。

 

そのため、孫堅は至極通常通りの受け答えをしていた。

 

「ここ数日のことですが、長江流域の街や砦からの定期報告が遅れておりまして。

 

 1つ、2つであればこちらで処理しましたが、さすがに5つに迫ろうとすれば、月蓮様には報告を入れておくべきかと」

 

周瑜から齎された報告に孫堅の顔から笑みが消え、真剣な面持ちとなる。

 

「長江流域の諸都市が、ね……氾濫があったという報告は無いんだね?」

 

「はい、ありません。それどころか、ここ数日は天候も穏やかなものでした」

 

「ふむ……他の街からの報告は?」

 

「予定通り届いております。それだけに異様さが際立ち始めていると感じました」

 

孫堅の眉間に少し皺が寄る。

 

得た情報から推測出来る様々を脳裏で検討していく。

 

「時期が時期だけに、嫌な予感がふつふつと湧き上がってくるね……

 

 冥琳、念のために何人か偵察に出しときな。何もなけりゃいいんだが……」

 

「はっ、すぐに手配します」

 

答え、周瑜は調練場を後にする。

 

続けて思考に沈みかけた孫堅の下に、2人の宿将が歩み寄っていた。

 

「何やら雲行きが怪しいようじゃのう、堅殿」

 

「若殿達の鍛錬は一時中断しますか?」

 

「いや、それは続けるよ。あいつらも武官の端くれだし何よりまだ若いんだ、半日も休息取らせりゃ回復するだろうさ」

 

「堅殿は相変わらずじゃのう。じゃが、それでこそ、というものか。

 

 さてさて、今度ばかりは儂もちと本腰を入れるべきじゃな」

 

「祭はもっと常から気合を入れるべきよ。まあ、祭は置いておいて。

 

 大殿、私達に出来ることは何なりとお申し付けください。この程徳謀、まだまだ衰えてなどおりませぬ故」

 

「あぁ、そうだね。ようやく美羽が成長し始めて、逢の想いに少しでも報いれるかと思ったら、こんな……

 

 今回ばかりは私の”勘”も外れて欲しいもんだよ。

 

 だが……もしもの時は、頼んだよ、祭、粋怜」

 

『はっ』

 

この3人の間に多くの言葉はいらない。

 

ただ、互いの信を確認し合っていた。

 

 

 

 

 

「さて、と。ちょっと外すよ。祭、粋怜、後は任せるよ。と言っても、実質鍛錬は終わってるけどね」

 

「ああ、儂らに任せておけ。それと一応じゃが言っておこう。気をつけるのじゃぞ、堅殿」

 

「はっは、祭もいつの間にか随分と心配性になったもんだね。なぁに、大丈夫さね」

 

黄蓋の言葉が余程ツボに入ったのか、孫堅はかんらかんらと笑いながら調練場を出て行った。

 

それに気付いた孫策が黄蓋と程普に問い掛ける。

 

「母様、どうかしたの?最近たまにいなくなることあるけど」

 

「心配はいらんじゃろう、策殿。念のために明命に付けさせておるしのう」

 

「あら、ほんとね。いつの間にか明命もいなくなってる」

 

「美羽ちゃんの面倒を見るようになってから、大殿にも何か思うところがあるのでしょう。

 

 あの方もこれまで色々と濃い人生を送って来られました。物思いに耽りたいことも一つや二つ程度では無いでしょう。

 

 若殿もそのうち分かるようになりますよ」

 

程普の言葉に孫策は少し機嫌を損ねたポーズを見せる。

 

「未だに子供扱いとか止めて欲しいわね。ってか、母様がどこに行ってるのか、祭と粋怜は知ってるの?」

 

「それは押さえていますよ。大殿に万が一があってはなりませんので、危険がある場所ならお一人でなど行かせられませんからね」

 

「それじゃあ母様はどこに?」

 

「建業裏手の小山じゃ。そこに綺麗な沢があっての。一人になるには絶好の場所じゃろうな」

 

「あまり気にせずともよいですよ。今はそれよりも、若殿の地力を上げることが優先です」

 

「うへぇ~……は~いはい、分かったわよ~」

 

渋々といった体で返事をしながらも、孫策も心中では痛感していた。

 

あの時より格段に強くなった自覚はある。だが、未だに呂布に及んでいる気は全くしない。

 

このままでは来るべき時に自分は足手まといにしかならないかも知れない。

 

(そんなこと、孫家の長女として絶対にあってはならないことなのよ……!)

 

燃えるような熱い意志を、孫策は再確認するのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宣言通りあの軍議の後、夜が明けると魏軍は長江を渡り始めていた。

 

その渡河の最中、対岸の地平線から騎兵が一騎。

 

こちらを視野に入れるや、即座にターンして全速力で遠ざかっていった。

 

恐らくあれは孫家の一兵。言葉を交わさずともその見解は共通認識であった。

 

全軍が渡河を終えると、間髪入れずに指示が飛ぶ。

 

「全軍、全速前進!進路は東、目指すは建業なり!」

 

「進め進めーーーっっ!!」

 

『おおおぉぉぉっ!!』

 

春蘭を始めとした血気に逸り気味の将が声を張り、兵が呼応する。

 

もう決して後には退けない。

 

ターニングポイントはとうに過ぎていた。

 

魏と孫家の戦いの火蓋が切られる、その未来はもう目に見えるところまできているのだった。

 


 
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