一
「ねえ、村紗は成仏したいって思ったことはある?」
「いきなり何を」
そう言ったきり、村紗水蜜は絶句する。両手にはデッキブラシを掴み、甲板を磨く腕は止まらない。しかし、その目線は質問を発した少女、封獣ぬえを見据えたままだ。船縁に腰掛け両手で頬杖をつき、目を細めて水蜜の一挙手一投足を眺めている。
傍目から見れば、異様な光景だ。問題は彼女らの体ではなく、二人がいる場所である。すぐ隣には、黒い瓦の和風建築物。船はその隣に陣取っていた。紛れもなく、陸の上に。
「そう言えば、忘れてたわ。自分が船幽霊だって」
「嘘つけ」
すげない返答。死んだ魚の目が水蜜を睨む。
「何でよ」
「この前人里で、八百屋のろくでなし親父が洗面の盥に首突っ込んで溺れかけた事故があったよね」
水蜜の手が止まる。口許に見える、僅かな筋肉の強張り。それをぬえは見逃さない。
「確かあれは親父が足を滑らせ転んだ、ってことになってたよね?」
「そうらしいねぇ。手前じゃほとんど店に出ずに、奥さんに任せっきりだったって言うじゃない。因果応報って奴じゃないかしら。罰が当たったのよ」
「ここまで言って、まだすっとぼけるつもりか」
「な、何のことやら」
視線を逸らす。デッキブラシは先ほどから、延々同じ場所を往復中だ。ぬえの表情は変わらない。
「皆まで言ってもいいかね? その『水難事故』があった現場の八百屋ね。騒ぎになっていた時、私は近くを通りすがってたんだよね」
ごりっ、という洗浄目的とは程遠い摩擦音と共に、デッキブラシは強制停止する。
「あの親父、一人で大騒ぎしたからさ。結構な数の人間が、あそこに集まってたよね。様子を見てるとその中に、一人だけ明後日の方向に歩いていく女がいたもんだ。その薄ら笑い浮かべた顔と来たら」
ブゥ――――――ム
不安を煽る汽笛が、どこからともなく響き渡る。ぬえが凝視する前で、水蜜の様子は見違えるほどに変貌した。蒼く輝く瞳、片手に携えた碇、全身から立ち上るどす黒い瘴気、瘴気、瘴気。しかしそんな妖怪の本性を剥き出しにした水蜜の前でも、ぬえの表情は冴えない。
「皆まで言わせてよ、せめて」
「黙れ」
村紗の足元に置かれたバケツの水が、物音もなく上昇。彼女の足元に広がって大海原を作る。
「確かに当日は、私も人里に出ていたかもしれない。近くを通りすがったこともあったのでしょう。ただ、考え事をしていたから騒ぎが耳に入らなかったかもしれないし、その時の詳細も後で知った話ですよ。たかが洗顔が水難になる筈がありません」
「そう慇懃無礼に凄まないでよ。別に村紗が人里でやんちゃを働いたのを咎めようってわけじゃないし、本当だったら聖に告げ口しようってことでもない。ただ、少し確認がしたかっただけでね」
「確認、ですって。本当に聖には何も伝えていないのでしょうね?」
「密告者になったところで、私には何の得もない」
やるせない笑顔を浮かべ、肩を竦める。
「ここに来て長くはないが、しばらく寝泊まりして分かったことがある。ほとんど全部の信徒どもが、聖の目が届かない場所で妖怪の野生に従っている。いちいち報告してたら目の敵にされるだけさ」
「それじゃ、何を望むつもりよ?」
「何も。強いて望むとするならもうちょっと自由にやってもいいんだよってことかな。もちろん、その後始末には責任を負えないけれども」
「誰が考えもなしにそんなことするか」
「八百屋の親父の態度がむかついた腹いせに、水難事故に遭わすのは考えなしではないと仰りたい?」
言った直後に仰け反って、手を軸に百八十度回転、船縁から落ちる。直後、ぬえのいた場所を通過する刺々しい水飛沫。背中から生えた赤い鋏刃の右翼、青い波動の左翼をぴんと伸ばして空中に静止した。
再び顔を出した先には、真っ赤な顔で穴が空いた柄杓を振り上げた水蜜がいる。
「ああ、もう、認めるわよ。確かにあのクソ親父、沈めてやったのは私! でも仕方がないでしょう!?」
「そう、確かに仕方がない。妖怪の性分には簡単に抗えない。隙あらば船を沈めたくて堪らなくなる」
「船幽霊である前に、私は聖の信徒です! だけどたまにはストレス解消だって必要でしょうが!」
「そうだと主張するならまあ、そういうことにしておいてもいいけどね。わざわざ確認したのは、別に村紗を煽りたいからじゃあない。警告さ」
「警告?」
船縁に腕枕を作る。
「最初にお前の粗相を見つけたのが私でよかったと、心からそう思うよ。人里には監視の目が多い。偶然必然を問わずあそこでの悪事を見つからず済ませるのが難しいってことは、肝に命じておくべきだ」
「あ、あんたに言われなくたって」
「下手は踏まないと言い切れるのは相当の化け物か、相当の阿呆のどっちかだよ。言っとくけど」
細まった視界の中で、水蜜の頬から赤味が消える。
「人里では、人間を襲ってはいけません。誰が言い出したわけでもない、暗黙のルールだよね?」
「知ってるわよ、それくらい。人間と妖怪の共存を踏まえた尊い不戦の協定だって聖が」
「それは聖個人の甘っちょろい理想を交えた意見に過ぎない。あの里はかなり厳重に監視されてるよ。それこそ、住人が誰も気がつかないレベルでね」
「……はい?」
顎を腕に乗せたぬえの口許が、徐々に吊り上がる。
「村紗も気づいていなかったろう? あの里には、表通りから家の中まで至る所に『目』が仕込まれているんだ。聖と同じレベルかそれ以上の化け物が、精巧に仕掛けた監視の仕組みさ。あの場では親父のうっかりで流されたからお咎めなしで済んでるけど、あんまり調子に乗り過ぎると『消される』よ?」
甲板にできた水溜りは、いつの間にか消えていた。
「……ハッタリだわ」
「では、試してみるかい? 私は御免だけどね」
遠くから聞こえる、釣鐘の音。
「やれやれ、そろそろ休憩も終わりか。聖や寅丸にどやされる前に戻らないと。では引き続き頑張れよ、聖輦船の定期メンテナンス」
「あ、あんたに言われなくても」
「それから、悪巧みしたいんだったら私に言いな? さっきの話、人里の外なら完全スルー、やりたい放題だ。村紗が是非にと言うのなら、お手軽に水難事故を起こせる知恵を授けてやらんでもない」
「私のことはいいから、さっさとご奉仕に戻れ!」
投げつけられたデッキブラシが、頭上を通過する。寸前に船を飛び降りたぬえは空中で仰向けの体勢に変化、青い空に向けて歯を剥いた。親指を立てて、喉元で真一文字に走らせ首をかき切る仕草。
虚空に、微かな笑い声が聞こえる。
§
襟元を整え、佇まいをもう一度見直す。濡羽色の小袖姿。ただし背中からは左右非対称の翼が覗く。
「……よし」
一声呟くと掌を上に向ける。妖気が手の中に蟠り、形作ったのは細長い縄の形。頭部と思しき膨らみを先端部に作ると、もぞもぞとぬえの手から這い出す。
そうやって生み出した妖気の蛇を、天井に向けて投擲。二次曲線を描き彼女の翼に辿り着いたそれが、大きく広がって歪んだ形を朧なものに変える。
構わず、そのまま部屋の外へ。彼女にとっては、それで十分だったのだ。ぬえを人間と認識する誰か――例えば彼女を妖怪だと知らない里の人間達――には、正体不明のタネが植わった翼を見ることも、触れることすらもできないだろうから。
部屋の外はすぐ縁側である。通路沿いに並ぶのは、ぬえが出てきたものと同じ作りをした個室の列だ。障子戸の一つが不意にがらりと音を立てる。
「――!」
一瞬、顔を出した存在と目が合う。一つ目の禿頭。彼は申し訳程度の会釈をすると、すごすごと部屋の中へ再び引っ込んでしまった。
「……別に取って食おうってわけじゃないのに」
縁側を抜けるとすぐに玄関へ辿り着く。下駄箱を漁り手に取ったのは、普段使う赤いローファーではなく質素な草履。里人に混じって歩いても違和感のない装束でなければ、容易に正体不明は破綻する。
背後の命蓮上人像に軽く一礼すると、玄関の戸を横へ。寄せ集めの岩と樹木を集めて作った、申し訳程度の山水が目の前に広がる。無作為に並べられたように見える木立で巧妙に隠れた玄関の向こう側に、無数の人が歩く気配がある。
命蓮寺の山門から奥へと続く直線道。里から来た人間達が歩く道の中程にぬえは顔を出す。その奥に本来あるべき本堂はない。
代わりに鎮座しているのは、陸上に打ち上がった帆掛け船、聖輦船である。聖白蓮の弟にして偉大な高僧命蓮上人と白蓮自身の法力が詰まった命蓮寺の本堂には、空飛ぶ船に変化する能力がある。住人を招いて幻想郷を巡る遊覧飛行は、なかなかに好評だ。
目の前を人間の家族が、幸せな歓声を上げながら通り過ぎていく。口の奥からこみ上げてくる軋み。ぬえはそれを全力で噛み殺し、家族とは逆の方角を目指した。人混みとは無縁な寺の外へ。
現在、ぬえの心中を満たしているものは明確なる殺意であった。人間を相手に屈辱的敗北を喫して、命蓮寺に転がり込んでからはや一ヶ月。寺の宿坊を借り慣れない共同生活を続けているうちに、地上で構築された幻想郷のルールも大分理解したつもりでいる。しかしその要項は、彼女を失望させるものであったと言わざるを得ない。
人間達は、生かされている。それも同族によって。
水蜜に言ったことは、脅しでも出任せでもない。純然たる事実である。相応の妖力を持っていないと、気配を捉えることすら難しい監視の目。それが里の全域に展開され、出入りする妖怪達を見張っている。
妖怪は恐怖を糧にする。その原料は無論人間達だ。一定量の食糧を産出する恐怖の牧場。それが人里の役割である。人間が減っても増えてもいけない。
だが山門を潜り抜け聖輦船へと向かう人間達に、果たして生かされているという自覚はあるのか? 断じて否。多数の妖怪を宿坊に抱えている妖怪寺に向かう恐怖より「宝船」への好奇心を優先している。そんな様子がぬえの目には過保護に見えた。
元よりぬえの妖力も水蜜の妖力も、広域大人数に対し痛烈な影響を与える性質のものだ。野良妖怪を真似して野に伏せ、不用心な人間を待ち構えるなど到底耐えられない。しかし人里に蔓延る目が彼女の大量虐殺願望を許容する筈もなく。
命蓮寺の山門から人里に至るまでの僅かな獣道は、命蓮寺と人里、双方の監視が及ばないにも関わらず人が多い希少な空間だ。ここに悪戯を仕込むことも一度は考えた……が、ぬえが行動する前に実行した馬鹿がおり、白蓮の愛情籠もったコークスクリューブローを食らったところを目の当たりにしている。当然、計画はその時点で綺麗さっぱり破棄。
結局ぬえに残されたストレス解消方法と言えば、寺に対する奉仕活動の報酬として貰える僅かな駄賃を手に、人里で話の種を探すことくらいだ。何より憎い人間達の提供するコンテンツがぬえの精神を、引いては命を支えている。何という皮肉。
人里の正門を通り過ぎるや、ぬえをして不可解な違和感が全身を襲う。それが、監視網の中に入った記しである。幻想結界の向こう側から幻想郷を覗く技術を持った何者かが里中に仕掛けた監視カメラ。
意図しない舌打ちが漏れる。
誰かの掌の中で踊らされているような感覚が気に入らなかった。自身の知り及ぶ範囲で解析できない事象ともなればなおさら腹が立つ。自らを超越する正体不明を、彼女は許容できない。
加えて、彼女の半生は抑圧の歴史だ。こんなにも不愉快な気分を味わっているのは、残念ながら現在ばかりではない。地底に封印されていた折も千年間、強大な力を誇る鬼の影で大した活動もできずにいた。そして、その前は……
目を疑うようなものを見たのは、そんな時だ。
無言。人間が行き交う往来の中で、平静を装って路地を曲がる。草履の紐を直すふりをしてしゃがみ、塀の脇から改めてその姿を眺めた。
視線の先には、一件の居酒屋。店頭に現れた少女の姿にこそ、ぬえは釘付けになっている。
脛まで届く、長い髪。しかしその色は全て抜け、雪山じみて白さは人間の中で一際異彩を放つ。
その髪に結ったリボンは赤字の文様による護符になっており、何らかの呪術が込められていると見て間違いはあるまい。少女は酒屋の主人と何事か話しながら、手に幾ばくかの紙幣を受け取っている。
ぬえは草履紐を直すふりすら忘れ、少女の一挙手一投足を瞬きもせず眺めていた。
もしも道行く人間がぬえの様子を気にしていたら、いかなる反応を見せたことだろう。敵を威嚇する猫が体毛を逆立て、噛みかかろうとしている光景か。
彼女の脳裏に蘇っている光景は、もっと凄惨だ。
赤い空。篝火の炎。
薄汚れた路面、寂れた邸宅の塀、それらの全てが赤く染まって見える。あるいはその赤は、自らの体から溢れ出る血潮であったか。
脇腹の激痛。深々と一本の矢が突き立っている。致命傷ではないが、動きを妨げるには十分だった。
仮に動けたところで、周囲を取り囲んで弓を刀を構える武人達はぬえの逃走を許しはしないだろう。その人垣を割って、一際の異彩を放つ武者が現れる。雪山の白を頭に頂いた、娘子と分かる顔立ち。
「奴か……!」
その「奴」は店主に頭を下げると、近くにあった大八車の取っ手を持ち上げて里の奥へと歩き出す。ぬえも立ち上がり、壁沿いに歩き出した。あくまで通りすがりを装って。
「どうするつもりかって? ああ、今さら詫びろとは言わん。でも問い質すくらいは許されよう?」
誰でもない虚空に対して呟きながら、ぬえが走る。
「分かってるさ、協定は守ってやる。住処は知らんけれども、里を出るまでは手は出さないよ!」
吐き捨てて、彼女は白髪の少女を追いかけた。
かつての、妖怪の敵を。
二
里の門から出たところで、藤原妹紅は足を止める。
「……里の中で騒ぎを起こさなかったのは、賢いと思うんだけどね」
竹炭を積んだ大八車の取っ手を持ち上げ、無造作に距離を取る。無駄のない臨戦体制。
「首を掻くならもう少し忍ぶべきだ。そんなに殺気だだ漏れで近づいて来られたら、子供だって気づく」
「出してんだよ」
近くの茂みが揺れ、ぬえが姿を現す。
「なるほど、人違いではなさそうだね。妖怪殺しの白髪女が、今や人里でのうのうと物売りとは」
「またぞろ懐かしい忌み名を引っ張り出して来たな。今さら、千年前の恨み言でも言いに来たかよ。誰を殺されたのかは知らないけれど」
「直接の被害者だよ。ああ、お前は覚えているまい。恨みを引きずるのはいつでもやられた側、加害者はさっさと忘れるのがお決まりだ」
手元から音もなく棒状の物体が伸び、三叉の戟に変化。その切っ先が、妹紅に鋭く突きつけられる。
「違うかね? 『猪早太』さんよ」
妹紅の表情が強張った。記憶を手繰り、額に手を当てて天を見上げること数瞬。
「あー、源氏の使いっ走りやってた頃の奴かな? イノハヤタ……平安の都で暴れてた化け物か」
「そうそう、その時お前に介錯されかかったのが私」
瞬きして、少女の姿を上から下まで眺め直す。
「こんな小娘を殺めた覚えはないんだけどね」
「正体不明のタネを憑けてたから、別のものに見えて当然さ。地底に封印はされたが、死なずに済んだ」
「そいつは、よかった。まあ実際、殺さなかったし」
「何だと?」
表情を歪めるぬえに、ひらひらと手を振って。
「源氏の連中は妖怪以上に気に入らなくてね。私を好き放題こき使った挙句、手柄は独り占めだ」
「妖怪殺しなぞに身をやつすからだ。因果応報だね」
「奴らにこそ与えられるべきでしょ。大江山の時は酷かった。頼光ときたら鬼を油断させるためだって、私の首切り落として献上したんだ。鬼達が浮かれて眠るまでの間『死に続ける』のは大変だったなあ」
ぬえの視線が少し泳いだ。
「……そりゃあ、伊吹も地底に逃げたくなるよね。献上品が生き返って襲いかかって来るんじゃ」
「だろ? 千年も昔の話だ。今も息災ならめでたしめでたしってことで、遺恨は水に流して貰えんかな」
「それとこれとは話が別。光の下でお前が生を謳歌してる間、私達は地底でしみったれた封印生活だ」
「愉快なものではないよ。それにお前達、私がいなくとも退治されていたろう?」
「私達は、人間に恐怖を与えてなんぼの生き物だ。そういう風に定義したのは他ならぬ人間達。それを退治とはいささか身勝手に過ぎると思わない?」
「それを私個人にぶつけるのは、甚だお門違いだな」
「ま、要するにだね」
ぼとぼととぬえの体から何かが落ちる。それらは地面で細長く姿を変えて、蛇となり蠢いた。
「鬱憤のはけ口を探してたところに昔の怨敵が現れた。都合のいい八つ当たり先を見つけたわけだ」
「昔話をいつまでも引きずる奴は、見てて醜いね」
妹紅の顔から、笑みが漏れる。
「喧嘩を売って来る阿呆は久しぶりだが、どうしてもと言うなら仕方がない。河岸を変えようか」
「いいだろう。ではお先にどうぞ」
「いえいえ、そちらからどうぞ」
会話が止まる。そのまま互いに薄笑いを浮かべたまま動かない。緊張の時間が五秒、十秒、十五秒。
上空に飛び出したのは、同時だった。
妹紅の背には炎の翼。爪先よりも下の位置にまで伸びた尾羽が生え、遠巻きの姿は首なしの鳳凰だ。
対するぬえも色違いの翼を広げる。付き従う蛇達まで、一様に羽が生えていた。
「最初に断っておくが、私は絶対に死ぬことはない。それこそ体を首を刎ねられても体を貫かれてもね」
「そいつは、重畳だ。私が気の済むまで、何度でも殺せるということだね?」
「そんな啖呵を切った者には何人も相見えてきたよ。でも最後まで同じことを言えたのは二人くらいだ」
「いるんかい。まあ大方察しはつくけどね!」
羽つき蛇が姿を変える。真っ赤に染まりながら膨張して膨れ上がり、円盤状の飛行物体になった。
「これが私の憤りだよ。受けてみるがいい」
幻想郷弾幕決闘協定に基づくスペルカードの宣言。
――正体不明「忿怒のレッドUFO襲来」
赤い円盤の威圧的殺到が妹紅を襲う。
「その盃の出来損ないみたいのが、お前の使い魔か」
円盤の一つに狙いを定め、手を当てる、と。
ボウ! 赤の円盤が、より紅い爆炎に包まれる。それは呆気なく消し炭と化して砕け散った。
「ずいぶんと脆い怒りだね。これで終わり?」
ぬえは不敵な笑みを返す。無論終わりではない。妹紅の周囲、円盤の通過跡に何かが残されている。
円盤の赤と同じ、燃える弾丸。後方に回り込んだものもばら撒いており、完全に包囲された格好だ。
「お優しいねえ、本当」
ぬえの声と同時、弾丸が四方八方から妹紅に向け殺到した。声を上げる暇もなく直撃、直撃、爆発!
あえなく妹紅の体は空中で砕け散り、先ほどの円盤と同じ運命を辿った残骸が飛散する。あっさりと。
ぬえは妹紅が元いた場所をしばらく眺め、呆れた声で空気に語りかけた。
「さすがに手を抜き過ぎじゃないかな?」
「百聞は一見にしかず」
――「リザレクション」
少し離れた場所に光の粒が幾つも現れ、瞬間的に収束して妹紅の姿を形作る。外傷は全くなし。
「なるほど、粉々になっても死なない、か」
「一度見せれば、賢い奴は怖気づいてくれるからね。大馬鹿者は、そうでもない」
起き抜けの趣で肩肘の関節を鳴らして、モンペのポケットから呪符の束を取り出す。
「これが不老不死、死にたくても死ねない。お前の正体不明が輪廻の闇を抜け出た私に通用するかね?」
「何を言ってるのやら。ただ芸もなく弾幕を食らうばかりじゃ、通用も何もないじゃない」
「余興ばかりが食らった目的ではないからね」
手元の呪符が燃え上がる。炎はたちまち膨張して、小さな鳳凰となり妹紅の手に止まった。
「戦い方の癖は掴んだ。正体不明を暗喩する弾幕は、着弾までに一回以上の変化を見せるだろう」
ぬえの表情が、一瞬固まった。
「その手の小細工には慣れている。単純だけど変化の手前を潰せば、割と安全になるんだなこれが」
――不死「火の鳥 ―鳳翼天翔―」
放たれた鳳凰が咆哮を上げ宙を舞う。狙いは無論ぬえ……の周囲を巡る円盤の第二陣だ。
簡素な音を立てて、薙ぎ払われた円盤が四散する。あっという暇もなく半分に、四半に、ゼロに。
「そうら、ご本尊がお留守だ」
攻撃の手は止まらない。鳳凰が数羽、立て続けに生み出されてぬえの体を焼き尽くさんと飛来する。
回避動作。燃える翼が、ぬえの体を僅かに掠めた。それだけで黒いワンピースに大きな裂傷が走る。
「簡単にゲームオーバーになってくれるなよ。この程度じゃ、とても私の心に響かない」
「ああ、そうかい」
ワンピースの綻びに手を走らせる。裂傷は、短い仕草によって瞬時に消え失せた。
「意外と饒舌なんだね。千年前に相対した時には、もっと淡々と殺していた気がするんだけど」
「千年も生きてりゃ、嫌でも処世は身につくもんだ。減らず口を嗜める程度にはね」
「では、私も一つ洞察を披露してやろうか」
戟の刃先が妹紅に向いた。やはりこちらも狙いは本人ではなく、手の上の鳳凰。
「不死の術とその炎術、別物だね? 長生に伴って後付けで洗練された技量と見た」
「だとしたら、何とする?」
「不死であるだけなら、戦技や観察眼を身につける必要もない。同士討ちとなった後で生き返ればいい。しかしお前はそれをせず、美しく戦うことを選んだ。死なない方が、よりよいからだろう?」
ふん、と呼気の音が漏れた。
「死ぬことには不利益を伴う。大方死ぬ時の痛みや苦しさは消せないとかだろう、不老不死ってのは」
「ただの大馬鹿ではなく、猿知恵の働く大馬鹿か」
親指を自らの心臓に突きつける。
「確かにこの体は死なないだけの、普通の人間だ。怪我をすれば痛いし、息を止めれば苦しい。そんな死を繰り返したお陰で、やせ我慢は得意になった」
「さっきの弾幕だって本当は痛かったんでしょ? 立て続けに何度も死ねば、心は手折られそうだね」
「心配ご無用、その前に決着がつく。容易にね」
ぬえの口から剥き出される牙。
「やってみな。すぐにでも先刻の余興を、死に損と思えるようにしてあげるよ」
「幾万の死のたった一つを損と捉えるような狭量は失せている。一回休みが機運を分かつ辛勝しかできないという認識なら、正解に近いだろうがね」
「一寸の光陰も何とやらって奴」
威勢良くぬえが返そうとした、その瞬間である。奇妙な物体が音もなく背後から現れたのは。
「だ!?」
ぬえの体に巻きついたのは、帯と、巻軸のような何かだった。七色の光彩を放つ図形の集合体。
「……魔神経典!」
ぬえの表情が、怒りに歪む。それとほぼ同時に、帯でがんじがらめになった彼女の姿が消え失せた。
戦闘の余韻も、奇妙な使い魔の姿もない。ただ、妹紅一人が幻想郷の空に浮かんでいた。
「慧音の仕業か。ま、借りておこう」
一人呟いて、手の鳳凰を符に戻す。
§
「おい、どういうつもりだ畜生!」
一方のぬえは、場から立ち去ったわけではない。ただ彼女にとっても妹紅の姿は不可視である。
代わりにぬえの目の前には、青い灯籠じみた帽子を被る青いワンピースの女性がいた。
「あの人間には手出し無用に願おう、鵺妖怪よ」
「なぜだ。ルール通り里の外だぞ。しかもこっちの頭領まで連れて来るなんて反則痛い痛い痛い痛い!」
巻物の締め付けが強くなる。巻軸の片端を掴むは命蓮寺の僧正、聖白蓮。
「規律以前の問題ですよ。あなた、どう見ても明確な殺意を持って戦ってましたね?」
「何回殺しても生き返るなら不殺生戒にならんだろ。くっそあの白髪女どこへやった!」
「互いが見えていた歴史をなかったことにしている」
上白沢慧音が淡々とぬえを睨み上げる。
「普通の人間に混じって暮らせない事情がある以上、彼女は特別だ。守護の対象から外すわけにはいかん」
「特別だってんなら頑丈な金庫にでもあがががが」
白蓮はぬえを締め上げながら、慧音に頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしました。この子には私どもからよく言い聞かせておきますので……」
§
「というか、聖はこの時間遊覧飛行に同乗している筈だけど。何でこっちにいんのよ?」
「悪い予感がしたものですから」
「都合のいい第六感だなこの尼公!」
命蓮寺宿坊の大部屋。白蓮と向かい合わせで正座するぬえは仏頂面を隠そうともしない。
「冗談はさて置き、上白沢さんから連絡があったのですよ。運よく人里上空に差し掛かったところで、信号弾を目にしました」
「いつの間にそんなものを」
「今は住人の方々の信頼を勝ち得る大事な時期です。寺の者が人を襲わないこと、万が一の事態を未然に防げることが肝要と相談時に教えていただきまして」
「おーおー、そりゃまた結構なことで」
「ただ、その取り決めを最初にあなたへ使うことになってしまったのは、少し残念ですよ?」
白蓮が作る聞き分けの悪い子を叱る時の笑顔から、ぬえは視線を逸らした。彼女は外れ籤を引いたのだ。
「歴史食いの半獣」上白沢慧音と言えば人里では知らない者はない。霊獣白澤の血を引く半妖ながら、寺子屋の教師を努める指導者的存在。ぬえはそれに目をつけられたのだ。
「いいかい聖。あの女は妖怪の敵だった奴なんだ。庇う方が間違ってるかもしれないだろう?」
「それは過去の事実かもしれませんが、今の事実は異なります。少なくともあの方は、無用な殺生などせず善良に生きていると聞いておりますよ」
「言伝ででしょ? 千年前のあんたの封印にも一役買っている筈さ。恨みはないの?」
「それもまた、過去のことです」
のほほんと笑う白蓮、歯を軋ませるぬえ。
「それに、復讐は新たな遺恨を生み出すだけです。それらを超克することもまた試練だと思いますよ」
「またいい子ちゃんな回答だなぁ。不戦博愛主義も結構だけど、そのうち足元掬われるぞ?」
「そんな事態を防ぐのも私の勤めですよ。世間体もあるので、三日間の謹慎を与えます。自室で課題をこなして貰いますので、覚悟して下さいね?」
「うえーい」
「謹慎が解けた後も、何をしてもよいわけではありませんからね。同様のことが起きたら、さらに重い罰を与えますよ?」
「分かってるって。もうあの女を襲うつもりはない」
さっぱりと回答した。白蓮が小首を傾げている。
「本当に?」
「信じて貰ってもいい。それだけはね」
凝視。ぬえの仏頂面は変化しない。
「ならば、信じましょう。課題を準備しますので、あなたは部屋に戻ってなさいね」
「はいはい」
脹脛を叩き部屋を出る。白蓮の視線が外れた所で、ぬえは舌を出した。当然復讐を諦めるつもりはない。
確かに襲わないとは言った。それで里人の寺に対する風当たりが強くなってはぬえも立場が悪化する。それを知って愚を犯すほど彼女は浅はかではない。
ただ、物凄く性格がねじくれているというだけで。
――聖の言うことにも一理はある。狭い幻想郷、考えなしでつき纏うばかりではしっぺ返しを食らうのが落ちだ。でも、それだけが復讐とは限らない。
自室に戻る宿坊の縁側で、彼女はどす黒い情念をたぎらせながら仕返しの算段を練り始めた。
三
一週間ほど後、場所は一件の貸本屋。
店主はその日、見慣れない来客を出迎えた。漆黒の小袖を着た少女は、彼女を見るや開口一番に。
「幻想郷縁起を見せて貰いたいんだけど」
読んでいた本から視線を外し、眼鏡を取って瞬き。
「ええと、幻想郷縁起ですか? 最新版の他にも、第七代八代の御阿礼乙女編纂版がありますけれど」
「一番新しいのでいい。見せて」
妙に決断的な勢いだ。店主は言われるがまま本棚から一冊の和綴じ本、幻想郷縁起を取り出して少女に貸し出したが、この先も奇妙だった。
彼女は椅子へ座りもせずに猛然と縁起のページをめくった。読むべき箇所を絞っている様子で。
「はい、どーも。邪魔したね」
「ご、ご利用有り難うございました」
一銭硬貨を店主に手渡し、早足で店を出る。後には幻想郷縁起を手にして立ち尽くす店主を残すのみ。
「ふーむ、面妖な。何を調べたかったのかしら」
その手に戻った綴じ本をしげしげと眺め、少女が最後に見ていたページに見当をつける。縁起の後半、英雄伝と称される著名な人間を扱った章。
「熱烈なファンか何かかな?」
§
人間は正体不明を恐れる。ぬえは多分死ぬまで、この考えを変えはしないだろう。
しかし妹紅は強敵だ。無限の再生力、熾烈な炎術、何よりぬえの正体不明を恐れない。そんな彼女でも恐れる正体不明を叩きつけるために、ぬえは妹紅の正体を理解することから始めることにした。
竹林に住処を構える自称健康マニアの風変わりな人間というのが、里人の認識。当然のことながら、彼女が不老不死であることを知る者はごく一部だ。
反して彼女は高い知名度を持つ。竹林は難所だが、ライフラインにも関わる特殊な場所であった。竹林における妹紅の土地勘は、案内人として欠かせない。
一度、単独での竹林侵入を試みてみたことがある。
薄く垂れ込める霧と一様な景色が、方向感覚を狂わせる。加えて野良妖怪が難癖をつけてくるので、妹紅の自宅を探す余裕などありはしない。
要するに妹紅をより深く解明するには、竹林の外に出てくるのを待たなければならない。
「うん、まいったね。どうにも八方塞がり」
竹林上空を飛翔しながら、思案するのは次善の策。周りからは鴉の類いにしか見えていない。
「下手に騒ぎを起こして感づかれるのは拙い。白蓮に話が伝わったら次は般若心経三セットじゃ済まん」
ぶつくさ呟きながら周囲を回遊する。肝心の妹紅が竹林から出てこないのだ。人里で出会ったことは、非常に運がよかったと言うしかない。
仮病を使うべきか。妹紅の仕事は竹林の奥にある薬師の家に案内することと聞いている。正体不明のタネを憑け、ばれるかどうかは五分五分の賭け。
他には、と、ぬえが思案していると。
当事者が竹林の影から姿を現した。間違いようもない、仇敵・藤原妹紅。
しかし、今の彼女は手ぶらだ。大八車の影がない。加えて目に止まったのが、曇って見えるその表情。
それがポケットに手を突っ込んだまま、とぼとぼ歩き出す。心なしかその足取りは重い。
わけありと直感させるには相応しい動きだった。千三百年の不死人を、憂鬱に至らしめる事象とは。
ぬえにとっては、渡りに船。上空を旋回しながら、妹紅が歩くのと同じ方向へ移動を開始する。
幸い彼女に上空を気にする様子はない。このまま人里まで着いていき、入った後は人混みへと紛れた尾行に切り替えるつもりだった。
しかし妹紅が目指した先は、人里ではなかった。道を外れ、北側に広がる森に向かって進む。
場所は、すぐ近くに妖怪の山を見上げる湖。昼に関わらず低い霧が立ち込め、視界は悪い。
――釣りでもする気か。でも手ぶらだしなぁ。
見る間に妹紅は湖岸を回り込んで、さらに北へ。霧の中に、目的地が見えてきた。
館である。命蓮寺とは趣が異なる、直線的な建物だった。何より壁から屋根から時計塔の先端に至るまで、血の赤で染まっているのが異様だ。森の緑にこの色は霧がなければ実に浮くだろう。
この時点でぬえは、恐るべき悪魔の館、紅魔館の存在をようやく知ることとなる。
――洋館って奴か。よく見れば地霊殿に似ている。
館の観察を続けているうちに、妹紅が館の門前へ歩みを進めていた。唐国の民族服に似たものを着る門番らしき女と何事か話し合うと、中庭へ通される。
――何の用件やら。客として招かれるにしちゃ、やたらと普段通り過ぎやしないか。
中庭を抜け、正面玄関から中に入る。異様に窓が少ない館の外で、妹紅の居場所を知るのは難しい。
上空で思案する。これは妹紅の行状を知る、いい機会となるだろう。竹林と比較すれば館はずいぶん狭く、迷う要素も少ないように見えた。
――どの道残るは直接竹林に押し入るくらいしか彼奴の情報を集める手段がない。少しでも手がかりが得られれば儲け物かな。
そしてぬえは徐々に高度を下げながら、侵入できる出入り口がないか調べにかかった。
……その屋敷が迷いの竹林と同等、もしくはそれ以上の危険地帯であることに気づかないままで。
§
「というわけで、だね」
戟を打ち振って、ガチャリと威圧的な音を鳴らす。壁に背を預けた小柄な少女は息を飲んだ。ひらひらした髪飾りをつけ、紺色の上着にエプロンドレスを着ている。背中には、薄い昆虫の羽が三対。
「忍び込んだはいいが、中は見かけ通りの広さじゃないときた。往生してたので、そこいらをうろつく妖精を捕まえて尋問してみることにしたわけだ」
「あの、ご用件は訪問でしょうか、それとも泥棒でしょうか。何を答えればよいか変わってきますので」
「泥棒来るんかい。まあ防犯を妖精なんぞに任せているんじゃ、湧きもするかね」
「少し前まではネズミ一匹寄り付かない館でしたわ」
応えたのは目の前の妖精ではない。
背後に現れた気配に、ぬえは身を固くする。
「なるほど、多少はできそうなのも置いてるのか。人間かい? お前。妙な力を使うみたいだけど」
長身の少女が立っている。服装は妖精と似るが、手にした銀色に輝くナイフがものものしい。
「メイド長の十六夜咲夜と申します。うちのメイドを解放していただけるかしら、封獣ぬえさん?」
「ありゃ。私有名人?」
「異変首謀者の話は、望まなくとも噂話で伝わってくるものですよ。直近の異変ともなればなおさら。人里近くのお寺に居候してることも知ってますとも」
ぬえは顔を歪め、頭を掻いた。
「人探しに来ただけなんだけどね。用件が済んだら退散するから、聖に伝えるのは勘弁してくれんかな」
「本来ならば、問答無用で追い出すところですけど」
咲夜はナイフを収めると、背後の扉に近づいた。白い指が、そっと木目をなぞる。
「今は、少々立て込んでおりまして。素直にお帰りいただければ、見なかったことにしてあげますわ」
「それはまた、大盤振る舞いな。何を企んでいる?」
「種も仕掛けもございません」
薄笑いを浮かべた銀髪のメイドを、細い目で見る。
罠か。油断したところで何かしら仕掛ける算段か。
ドアは一つだけ。見られることを避けるために、窓のない部屋へメイドを連れ込んだのが裏目に出た。
ぬえの直感は、ドア向こうの危険を察知していた。咲夜の能力と、直近の動作。何かがある。
「そう警戒なさらず。この部屋を出れば、あなたが言う探し人もすぐに見つかるかもしれないわ」
「何だと?」
含みがある言葉。すでに妹紅を追って忍び込んだことも察知されているのか。
「お急ぎあそばせ。立て込んでいると申しました。あまりもたもたしていると、こちらに出てきます」
背後の気配が動く。壁際の妖精メイドが真っ青な顔で震え始めていた。彼女は扉を指差して。
「ま、まさかメイド長」
瞬間。全身の体毛が逆立つ感触が走る。身の毛のよだつ何かが、ドア一枚を隔て存在しているような。
歯軋りを上げて、咲夜を睨みつける。
「お前。ドアの向こうをどこへくっつけやがった」
§
バタン、と、背後で扉が閉まる音がする。ぬえが振り返ることはない。
「大したメイド長だよ。私が嫌がれば、巻き添えを食らってたかもしれないってのに」
口走りながら、視界を暗闇に慣らしていく。赤と黒のチェックに塗り分けられた床は片づいていたが、染み付いた夥しい血の匂いは嗅ぎ逃せない。
全てが、恐らくは。この暗い鋼鉄の部屋の主が、たった一人で積み重ねた屍の残滓。
「あらぁ? ミス・アンブレイカブルじゃないわね。不用意に忍び込んで咲夜に捕まったのでしょうけど」
声と同時、部屋の奥に紅い双眸が光る。しかし、その左右で共に輝く数対の光点は何か。外側から順に紫、藍、青、緑……虹色の宝石だ。
「不壊、ねえ。ひょっとしてそいつは、藤原妹紅という名前の女じゃないかな?」
「彼女、凄いのよ。どんなに思いっきり遊んでも、すぐ元通りになるの。あなたはどうなのかしら?」
闇の中から、一人の少女が浮き上がった。金髪、真紅の目と同じ色のワンピース、そして左右にはみ出す、枯れ枝に七色の宝石をぶら下げた悪趣味な翼。
彼女はぬえの姿を視線の舌で舐め回して、一言。
「変な羽根生やしてるのね、あなた」
「うん、自覚はしてるけどお前には言われたくない」
少女はぬえの文句をあっさりと無視した。さらに近づいて、無遠慮に値踏みを始める。
「でもって、黒いわね。魔理沙から白を抜いた感じ」
「魔理沙? ああ、いつぞやの魔砲使いのことか。あの人間とも戦ったのか、お前」
「あなたも魔理沙を知ってるのね?」
少女の表情に明かりが灯る。永劫の眠りも覚める、笑顔の開花。張り詰めた警戒心が少しだけ緩んだ。
「彼女は元気かしら。最近、こっちには遊びに来てくれないの。いつもパチェとよろしくやっているわ」
「元気かどうかは分からんけど、蝿みたく不気味な動きで弾幕を躱すいっぱいいっぱいの人間だったね」
「だけど、負けたんでしょ。言わなくても分かるわ。私もそうだったから。私達、負け仲間ね」
微妙に検量計の針を振り切るテンション。ぬえは若干たじろいだが、多少の希望も抱き始めていた。話を合わせれば戦うことなく脱出できるのでは、と。
あまりにも楽観的な皮算用だった。
「聞こえのいい団名じゃないな、それ。負かされた人間を呪いながら盃を交わし合えばいいのかい?」
「まさかぁ。それより、もっと楽しいア・ソ・ビ。あるじゃないの。分かってるくせに」
少女の手の中に細長い物体が現れる。杖のようであるが、杖と呼ぶにはあまりに烏滸がましい代物。悪魔の尻尾を二本繋ぎ合わせ、歪んだ曲線を持つ。
「弾幕ごっこしましょう。咲夜はきっとあなたが、私と楽しく遊べると踏んだのだわ」
「ご主人様のお眼鏡に適わなければ、ここから出ることはできないってわけだ」
ぬえの指先から正体不明のタネがばらばらと零れ落ちていく。少女はそれを眺めながら小首を傾げた。
「あなた、何か勘違いしてる。私は館の主じゃない。立場はむしろ囚人に近いわね」
「ご機嫌取りが必要な囚人がどこにいるっての?」
「紅魔館の主はレミリアお姉様よ。私はその姉から気狂い扱いされて、地下室に追いやられた哀れな妹」
歪んだ杖をぬえに向ける。
「自己紹介がまだだったわね。私はフランドール・スカーレット。お姉様が言うには誇り高き吸血鬼の高貴な一族、スカーレット家の末裔」
「……生まれは、飛鳥。仏像がこの国に渡る前から存在していた歪みの一つ」
戟を握りしめて、牙を剥く。目の前に立つ少女、フランドールはぬえより背丈も低く若輩に見える。しかし、彼女の全身から発せられる得体の知れない妖力は、確実にぬえの精神を焼いていた。
囚人と言うからには、確実に囚われる理由がある。
「森羅万象にあまねく正体不明。その事象に対する人間の忌みが意味をなし、畏怖を食らい妖となった。そんな私を人間は恐れ、地下に封じて千の年を経た。故に私は封ぜられた獣。封獣ぬえが私の名前だ」
ブゥン、ブゥン、ブゥン。不可解な唸りを上げて、正体不明のタネが円盤に変化。
「見せてやるよお嬢ちゃん、正体不明の飛行物体を。遊びたいなんて思えなくなるくらいの恐怖に怯えな」
「ふぅん、それがあなたの使い魔? 面白そうね」
「口上くらい気持ちよく述べさせてよ!?」
「もちろん、聞いてるわ。長々しい啖呵に見合うものを私に見せて頂戴。私からも見せてあげるから」
フランドールがにっこり微笑む、それと同時。
血の気が引いた。相対する吸血鬼の妖力が増す。
しかし増すという言葉は表現として矮小であった。正しくは、倍増。フランドールと同質同量の妖気が、部屋に突然現れたのだ。その数一つ、二つ……三つ。
――禁忌「フォーオブアカインド」
フランドールの周囲に新たな影が現れる。顔立ち、背丈、服装、歪んだ杖。何もかもが等しい吸血鬼が新たに三体、元の一体を挟んで横一列に並んだ。
ぬえが真っ青な顔で、それらを見比べる。
「四つ子だってんなら始めに言え!」
「使い魔よ?」
最初から存在していたフランドールが、しれっとした顔で言い放った。
「ただ全部が私で全部が同じってだけで」
「四つ子と変わらん!」
四人のフランドールは一斉に右手を差し上げる。その手の中に形作られるのは、全てを殺傷せしめるであろう禍々しい魔力の塊。
「さあ、あなたの正体不明を見せて頂戴? 年季に相応しい妖怪の恐怖を。容易に砕け散って正体不明の肉の塊になるってジョークはなしよ」
滝の勢いで流れる汗もそのままに、周囲へ円盤を散らす。襲い来る弾幕に対する、せめてもの布陣。思わず、走馬灯が過ぎった。
――聖、村紗。私、生きて命蓮寺の土踏めるかな。
四
「…………………………で」
半分に折れた戟を杖にしたまま、新たな使い魔を足元に落とす。体は傷まみれ、服は綻びまみれだがそれの修復に充てる妖力は皆無。
「いい加減に諦めて貰えませんかね! いや本当、調子こいてました! でかい口聞いたのは謝るから、いい加減にその手を握るの止めてお願い!」
「ええー、どうしてよ?」
フランドールは床に座り込んだまま、右手を軽く握り込む。するとどうしたことか、周囲に展開する使い魔の一つが何の前触れもなく小爆発を起こした。爆発の跡には、欠片すらも残らない。
「何度やっても同じかぁ。ねぇ、ちゃんと見せてよ、あなたの『目』を。上手く壊せない」
「ご冗談を。まかり間違って見せたら私がそこいらのシミになっちまうよ!」
新たな使い魔が、いそいそと周囲に散っていく。フランドールが手を握り込む度にそれらが一つずつ、パチパチと砕け散った。その様子は、風に吹かれるシャボン玉よりも脆く見える。
「ああ、危なかった! ミス・アンブレイカブル! 不壊! そういうことか! もしもあの女がお前の相手に呼ばれている理由に気がつかなかったら、今ごろ塵になってたよ!」
「でも、今までになかったパターンだわ。この私が『目』を呼び出せない相手なんて」
「千年の試行錯誤のなせる技だとも。年季の違いをご堪能いただけましたかね」
「私の『きゅーっとしてどかーん』は」
フランドールが右手を開く。手に浮かび上がる、弾幕とは性質が違う蛍じみた光の粒。
「どんなものにだって存在している『破壊の目』を私の手の中に呼び出す力よ。どんなに頑丈に造った建物だろうと、それを支える大黒柱がなくなったら瓦礫の山に変わるもの。目はものの大黒柱そのものだから、それをきゅっと握り潰せば」
右手の上に舞い戻った粒を、握り潰す。
パン、パン、パン、パン。使い魔が四体、同時に吹き飛んだ。ぬえが苦い顔で部屋の奥を見る。
天蓋のついたベッドが一脚。マットレスの上に、三人のフランドールが笑顔で右手を握りしめている。
「どんなものだってどっかーんできる。あなた達、手出ししないでよ。フォーオブアカインドの出番はもう終わっているのだから」
ベッドの三人が、口を尖らせ腕を下げる。
「でも、あなたの正体不明。まさか目の正確な座標情報をも奪ってしまうとはね。だから手元が狂って、別の目を呼び出してしまうことになる」
「はーい、大正解。満点をあげちゃおう」
拍手した拍子にまた新たな使い魔が腕から落ちて、砕けた同僚の補充用員に加わった。
「まったく、考えなしににぎにぎしててくれた方が私は気が楽なんだけど。ずいぶん理性的じゃないか。どこに気狂いがいるって?」
「ここは暗くて退屈なんだもの。閉じ込められてる間に、色々なことを教わったわ」
ようやく諦めたのか、フランドールが腕を下げて、足を組み替える。
「パチェが言うには、私は生まれついてのマジックアイテムなんだって。破壊の魔法が私自身に刻みつけられてる。だからこの力を上手に使いこなすには、私自身が魔法に詳しくなければいけないって言うの」
「なるほど、マジックアイテムね。言い得て妙だ。その上手に力を使える妹様を、なぜお前のお姉様は閉じ込めておくのかね?」
「一応、出られはするのよ。お屋敷の中まではね。前はもっと酷かったわ。見てよ、この部屋を」
両手を広げる。周囲は堅牢な鋼鉄の壁だ。
「一枚板に見えるけど、実際はとても小さな鉄片を何万も魔力溶接してあるから、簡単には破れない。加えてお外には、吸血鬼が渡れない流れ水の結界よ。出るだけでも一苦労だったわ」
「それでも外に出たくなった時はあの女が呼ばれていたと。お前の姉と魔法使いは、お前が外に出ると何か不都合でもあるのか?」
「こっちが聞きたいくらいだわ。お姉様とパチェに聞いといて貰える? そんなわけで私は、生まれて四百九十五年の間ほとんどの時間をこの鉄の箱の中で過ごしているというわけ」
「また半端な年数だなぁ……でも」
鼻息が漏れた。真向かいには、その様子を訝しむフランドールの顔。
「短いね。我が屈辱の半分にも満たない」
「何よう。あなたも牢屋の中にでもいたっての?」
「そいつは、違うけど。でも地底は私からすれば、牢獄に近い場所だった。勉強熱心なスカーレットは、あそこがどんな場所か知ってるかい?」
戟を手の中で滑らせて、鉄の床に尻餅をついた。その場で胡座をかいて、フランドールを見る。
「そも地底ってのは、閻魔が管理しきれなくなって放棄した古い地獄でね。年中燃え盛る溶岩の海と、血も凍るほど寒い氷河とが一緒くたになったそれはそれは過酷な場所だ。その熱いのと寒いの、僅かな隙間に鬼どもが造った都で、地上を追われた妖怪達が腑抜けた暮らしをしてる」
「私からしたら、十分に恵まれている気がするわ。話し相手には事欠かないでしょうに」
「あいつらの話に面白いところなど、何一つとしてありゃしないよ」
肩を落として、忌まわし気な溜め息を吐いた。
「やれ三丁目で喧嘩が起こって鬼が出てきただの、四丁目でボヤ騒ぎがあっただの、人を襲ってなんぼの妖怪武勇からかけ離れた話題ばかり。これというのも、奴らの鼻っ柱を鬼が押さえつけてる所為だ。奴らは妖怪を堕落さすのが目的だからね」
「さっきから鬼、鬼ってずっと言ってるけれども、そんなに鬼は強いのかしら?」
「強いよ。馬鹿力な上に、恐ろしい術も使う。特に奴らを束ねてる『山の四天王』って連中がさ――」
舌に溜め込まれた言葉が、堰を切って次々と出た。
四天王の話。恐ろしいサトリ妖怪の話。堕落した都の妖怪達の話。なぜここまで饒舌に言葉を紡げるのか、喋っているぬえ本人にすら分からない。弾幕ごっこの極限状況からくる疲労が彼女の精神的箍を緩めて、千年溜め込んだ鬱屈や寺暮らしでの不満が堤防決壊を起こしたのか。
「いやまったく、伊吹の奴は上手くやったもんだと思うね。さすが汚い鬼汚い。今ごろどこで何げほっ」
そんなこんなで長く話し過ぎた。乾いた喉に埃を排除させるべく一頻り咳き込んでから、我に返る。
「えっと、あの。悪い、下らない話が長くなった」
頭を掻いてフランドールを見る、と。そこには、腰を落としたまま目を丸くしてぬえを見つめているフランドールの姿がある。
「それで、その……続き、するかい?」
「ぷっ」
一つ吹き出すと、顔を下に向ける。
「あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」
後は、なし崩し。今度はぬえが目を丸くする番だ。何かに取り憑かれたかと錯覚させるほどの笑い声が、地下室に満ちる。ベッドの分身達はただただ無言で、フランドールの哄笑を瞬きして眺めるばかり。
彼女は潤んだ目を指で擦りながらぬえを見上げた。
「ずるいわ。ずるいわ本当、あなた」
「お前の能力に比べれば、全然大したこたぁない」
「違うの。そういう話じゃないの。何よ。全然あるじゃないのよ。屈辱? つまらない? そんなこと全然大したことなんかない。だって」
目を擦る手が止まらない。フランドールの肩が、一度大きく上下に跳ねた。
「私の四百九十五年にそういうの、何もないのよ? 強い妖怪に抑圧されることも。人間を襲えなくて悔しい思いをすることも。そも私は、人間を襲ったことがないから、そういう感覚も、よく分かんない」
「え!? いや、あの、ちょ、ちょっと待て」
困惑した。フランドールの言葉に。そして何より、彼女の、思いもかけない嗚咽に。
「よく分からん。何か私悪いこと言った? ごめん、まさか泣かれるとは夢にも」
「いいの。大丈夫だから。いいの」
顔を上げたフランドールの表情は、笑顔と落涙と鼻水があり得ないブレンドを果たしていた。彼女は空いている手を上げ、ぬえの背後を指し示す。少し後ろに、巨大な鉄扉が見えた。恐らくそれが、この地下室に設けられた本当の出入り口なのだろう。
「笑い話を聞かせてくれて有り難う。それに免じて、あなたの正体不明を破壊するのは後にしてあげる」
「え、放免? それは嬉しいけど……笑えた?」
「うん、とっても。また魔が差したら紅魔館に忍び込んでよ。また話を聞かせて? あと、それから」
無理に笑顔を作って、ぬえに向ける。
「私のことを、スカーレットって呼ぶのは止めて。お姉様もいるのだから。フラン、でいいわ」
ぬえは無言で、フランドールを見る。
「どうしたの? 帰してあげると言っているのに」
「ああ、ああ。お言葉には遠慮なく甘えさせて貰うけれどもね。ええと、フラン?」
きょとんと首を傾げるフランドール。
「助けて貰った恩は返そう。四百九十五年と言っていたね? その間……本当に、人間を襲ったことがなかったってのかい?」
「ええ、ずっと」
戟を杖にして、立ち上がる。
「聞いてきてあげるよ。そのふざけた幽閉の理由」
フランドールは、無言で瞬きした。
「この館にゃ、色々と興味が出てきたよ。死なない女への復讐を考えるより、ずっと建設的だ」
§
長い階段を登っていくと、地下室のものより堅牢で大きい鉄扉がぬえの前に再び立ちはだかった。
近づいていくと、その大扉が一人でに開き出す。禍々しい光が射し込み、ぬえの目を痛めつけた。
だが、口から出る溜め息は安堵。念のため感覚を研ぎ澄ましたが、背後から追ってくる気配はない。フランドールは約束を守ってくれたらしい。
……代わりに、出口のすぐ近くにフランドールと同程度の、しかし質が若干異なる妖気を感じる。
命の危機は脱したが、倒れるにはまだ早かった。首を一度振って、扉を潜り抜ける。
通路に出ると同時、ぬえを出迎えたのは、拍手。乾いた衝突音を横目で睨むと、フランドールに近い背丈の、薄桃色のゴシックドレスを着た少女が手を叩いているのが見える。背中に見えるのは、蝙蝠の羽根だ。幾分こちらの方が吸血鬼らしい。
「いやはや、大したものだ。妹から逃げ帰るとは」
「この館の主ってのは、お前か」
「いかにも、紅魔館の当主レミリア・スカーレット。お前は、あれでしょ。最近地上に出てきたっていう、賑やかしの妖怪だね?」
淀んだ目で一瞥した後、後ろ手で扉を押しのける。そのレミリアへとつかつかと歩み寄り。
やおら右の拳を顔面に叩きつけた。
「いきなりご挨拶だな」
しかし、届いてない。レミリアが無造作に上げた左手が拳を軽々と掴み取っている。
「妹にけしかけたのを怒ってる? 自業自得なのに。元はと言えば、お前が不法侵入したのが悪い」
「怒ってるのは、そんなことじゃねぇ」
拳に力が籠もる。吸血鬼の手は頑として動かない。
「四百九十五年だと? お前その間、ずっとあの娘を箱入りにしてたってのか。よりによって、生まれてから一度も人を襲わせたことがないだと? 何を考えてやがる!」
「あの部屋から生きて帰ってきたのなら、あいつの力がどんなものか理解できているだろう?」
ぬえの拳が、平然と押し戻される。
「誰かを襲えば、破壊の能力で血の一滴も残さずに粉砕してしまう。吸血鬼としては致命的な欠陥だ。あいつは食事がしたくても、自力で血を吸うことができないんだから」
「だったら人を襲うこと自体を放棄していいなんて理由になんか、なりゃしないだろう!?」
レミリアの握力に拳が握り潰される。爪に皮膚を食い破られる痛みに、ぬえは動じない。
「人を襲わせてないってことは、妖怪であることを認めないってことだ。存在の否定だ。貴様は大枚をはたいて魔術師まで使い出来損ないを作ってるってことだ。血を吸えないから何だって言うんだ!」
空いている方の手が、ぬえの頬を捉える。
体が数メートルほど宙を舞って、通路に転がった。
「家庭の事情だよ。口出しされる筋合いはない」
歯を食いしばり、身を起こす。レミリアは一枚のハンカチを取り出し、仰々しく手を拭っていた。
「だいたい、ただの一回しかフランと会ったことがないお前に何が分かる? 破壊者として生まれ落ち、物心つく前から無自覚に破壊を繰り返して、優秀なメイドまでお釈迦にしてくれた。人間に退治されて多少はしおらしくなったかと思えば、外に出ようとする度に問題を起こす。四百九十五年心休まる日はなかったんだよ、こっちは」
「何が心休まらずだ、当然じゃないか。暗室で育つ植物は、正体不明の不気味なつる草になるもんだ。問題がない方がおかしいだろ? 手前で手前の首を締めてんだよ、お前らは!」
「お前は、問題のレベルを甘く見ているね。これはもっと根深いものなのに。まあいい、これ以上言葉を重ねても堂々巡りだ。咲夜」
「お呼びですか、お嬢様」
側面に気配。顔を上げれば先刻と同様、隙のないメイド長がぬえのすぐ横で畏まっている。
「お客様がお帰りだ。丁重にお送りしろ」
「承知いたしました」
有無を言わさず掴まれようとしている腕を、緩慢に振り払う努力を試みる。
「ご面倒でしたら私が承りますが?」
「いらない。暴れ回る余力もない。構わないでくれ、自分で歩けるから」
時間をかけてゆっくりと立ち上がると、レミリアの声が横から割り込んできた。
「納得が行かないと言うなら、何度でも忍び込んでくるがいい。そしてフランの相手をしてみるがいい。嫌でも理解できるようになる。問題の深さと、私の四百九十五年の絶望をね」
殴られた頬を拭いながらレミリアを睨む。
「好きにするさ」
レミリアは無感情にハンカチを捨て、踵を返す。ハンカチは床に到達する前に、音もなく消え去った。
五
紅魔館を出て命蓮寺まで辿り着いた頃には、日がとっぷりと暮れて宵闇に星が散らばりだしていた。
しかし、彼女にとっての一日はまだ終わらない。宿坊に入るや、彼女の動きを止めたのが水蜜の声。
「ちょっと門限はいつだと思って……何その格好」
「別に大した怪我でもない。唾つけときゃ治るって」
「怪我もだけど、あんたどこで何をしてきたのよ。すぐ聖の所に行きなさい、て言うか行ける?」
「門限破りなんて、そう珍しくもなかろうに。何でそんなに切羽詰まってんの?」
「あんたに客。ずっと待ってたんだから急ぎなさい」
水蜜はぬえの腕を抱え、半ば引きずりながら宿坊の奥に向かう。大部屋の一つを勢いよく開け放った。
「失礼、ぬえが帰って来ました!」
白蓮と向かい合い座る女と視線が合った。一瞬で何の用向きで訪れた客かを理解する。
「……どうも、お邪魔している」
白蓮がぬえに視線を合わせ、畳を軽く叩いて着席を促した。水蜜に部屋へと押し込まれた後、節々が傷む体を圧して白蓮の隣、慧音の向かいに座る。
「その怪我については後で聞きます。あなたは人里で藤原妹紅さんのことを調べていませんでしたか?」
「覚えがない、ね」
即答。
「すっとぼけても無駄だぞ。先日の件もある。お前以外に該当する者はいない」
「何を根拠にそんなことを言い切れる?」
迷惑そうな顔を向けるが、慧音は表情を変えない。
「何件もの目撃情報がある。鈴奈庵の店主、居酒屋『吉兆』の親父を始めとして、見覚えのない者から妹紅について尋ねられたと言質を取っている」
「それが私だっていう証拠はどこにあるっての」
身を乗り出し凄もうとしたが、横合いから伸びた白蓮の手に遮られた。
「意地を張るのはお止めなさい。あなたが出かけた日時と、里人の方が見たという日時はほぼ一致しているのですよ? 加えてあなたは正体不明のタネにより、自在に見栄えを変えられる筈」
「僧侶殿の言う通りだ。不審者の人相、身長、服装は都度異なるが、全く一致しないというのが問題だ」
慧音がさらに畳み掛ける。
「同日同じ場所にいた者の目撃情報すら異なってる。実に不自然な話だ。行動のみが一致する、正体不明の仕業としか考えられない」
「それはまた、面白い話もあったものだね。偶然に別々の誰かが偶然に同じ物事を調べていて、しかも偶然に見間違われるなんて」
「ぬえ?」
やんわりと諌めようとする白蓮の声。だがぬえが舌鋒を止めることはない。
「まあいい、そいつが全部私だとするよ? 直ちに止めろとでも諭しに来たのかい」
「無論だ。藤原妹紅にとって幻想郷での暮らしは、人生で恐らく最も穏やかなる時間なんだ。それらを乱す真似は即刻止めて貰いたい」
「まるで本人に聞いてきたかのような言い草だね。どんな自信があって穏やかだと断言できる?」
「私は彼女の歴史を知っている。出来心で蓬莱の薬を飲んだがために三百年は同じ人間から迫害され、次の三百年はやり場なき怒りを人外に向け、さらに次の三百年を虚脱と共に過ごし、直近の三百余年を終わりなき殺し合いに費やしている。千二百年余りに渡って苦悩を続けた彼女が、ようやく交渉に応じ人間らしく生きる努力を始めてくれたんだ。お前のやっていることは、それに水を差すにも等しい」
「だから私は違うと言っている。そう言えばあんた、半分白澤が混じってるんだったね。ならば知ってる歴史はあの女のものだけではないだろう?」
親指を突き出し、自分の胸に当てる。
「私達は出来心を起こす権利すらなく、こんな風に生まれついちまったんだぞ」
「それならば同じ労苦を味わった者として、彼女を理解して貰いたいのだがな……」
溜め息を吐き出して、慧音が胸元から取り出したものがある。一枚の書状だ。
「認めなくてもいいが、代わりに誓約をいただこう。これ以上藤原妹紅に関わらないと。破れば私は里を挙げてでもお前を退治せねばならない」
半紙を開いてぬえに見せる。妹紅に対して戦闘を仕掛けないこと、つけ回し嫌がらせを行わないこと、偶然出会っても必要以上に話しかけないことなどが箇条書きにされた誓約書。最後に空の署名欄がある。
「紙切れ一枚で無駄な時間を使わず済むというなら、安いものだね。聖、墨と筆貸して」
「いいのですね?」
白蓮のは一言確認を取り、傍に置かれた硯と筆をぬえに差し出す。もし拒絶すれば無理にでも署名を書かせるつもりであったのか。
無言で筆を取り、半紙の上を手早く踊らせる。
「これで満足か?」
誓約書を慧音に向ける。写経によって鍛えられた達筆で、封獣ぬえの名が記されていた。
「結構。言っておくが、紙一枚と侮らないことだ。里の人間全体に対する誓いだと思え」
「分かってるって」
ゆるりと正座を解いて、立ち上がる。
「ぬえ、まだ話は終わっていませんよ」
「ごめん、少し疲れた。説教なら後で幾らでも聞く。あと、今日の晩ご飯はいらないから」
ぬえが部屋を出る。慧音は半紙を眺め続けていたが、足音が遠ざかったのを見計らって顔を上げた。
「協力して貰って済まない、僧侶殿。私は恐らく、どうしようもない卑怯者だな」
「そんなことはありませんよ。私が先生の立場なら、多分同じことをしたと思います」
§
物心ついた頃から、彼女は疎まれた存在だった。
声を出せば不気味な音色でしか鳴けず、恐れられ、刃を向けられる正体不明な何か。それが彼女だ。
知恵がつくに従い、自分の身の上に何が起こってこうなったのか、理解できるようになった。自分は人間に生み出されたのだ、と。
彼女は人間を憎悪すると同時に、似た境遇で生み出された妖怪達に哀れみを向けるようになった。
彼女と同じものを理解して、行動に移した人間の存在を彼女は後から知ることになる。
§
下界の光景を眺めて、唖然とする。
多くの妖怪がひしめく筈の境内が、見る影も無い。誰かが踏み入ったか山水は荒れ、破壊の跡も見える。
ぬえはその中心に降り立ち、妖気を捜した。
「……村紗?」
古馴染みの知り合いを呼ぶ。本人はおろか、その他の反応も皆無。廃れた山水が静寂で応えるばかり。
噂に聞いた人間達の白蓮「討伐」は本当だった。妖怪と懇意にする怪僧と評判が立ち、人間達が武器を持ち寺に向かったという。妖怪達から恐れられる「白髪女」もいた可能性がある。諸国漫遊を切り上げ彼女達が暮らしていた山に来たが、一足遅かった。
しかし、妙だ。妖怪達の姿は消え去った。しかし死体の一つも見当たらないのは明らかな違和感。
寺の本堂に近づき戸を開ける。内装が荒らされた堂の中で一体の彫像、否、妖怪が静かに座していた。毘沙門天の代理として寺に祀られた、寅丸星の姿。
外界の光に、星が薄目を開けて彼女を見る。
「あなたでしたか。村紗が言っていた鵺妖怪とは」
「その村紗はどこに行った。聖は?」
「封印されました。村紗達は地下に、聖は魔界に」
ぬえは戸口に腰掛け、深い息を吐き出す。
「畜生め……寺はその時に荒らされたのか」
「大半は、後から寺に押し入った野盗の仕業です。聖は人間との戦いを望まなかった」
「馬鹿だよ。どうしてあんたはここに残れた」
「私は、毘沙門天でなければならなかった」
星の口調は淡々としていたが、臙脂色の法衣の裾を掴む手には明らかに力が籠もっていた。
「聖もそれを望んでいた筈です。お陰で無用の血が流される事態は避けられました」
「何が避けられた、だ。人間が増長するだけだ!」
床に拳を叩きつけて、星を睨む。
「大江山の鬼どもが討伐されて以来、立て続けだ。この山が陥落したとなっては、妖怪に後がないぞ」
「では……どうすればよかったと?」
「玉砕しろとは言わない。寺を捨て、野に伏せってでも人間をやり過ごし、恐怖を与えるべきだった。戦わず何が残った? 一方的に奪われただけだろう」
荒れ寺となった堂内に、侘しい隙間風が吹く。
「聖にほだされて、村紗も他の奴も変わっちまった。人を襲わん妖怪に何の価値がある?」
「聖は!」
叫びに近い声がぬえの詰問を遮った。
「私達を理解し敬い、生きる価値を与えて下さった。そのご意向に背くなどと!」
「現状を見ても、それが正しいと言い切れるのか!」
星が拳を握り締めるが、それ以上の反応はない。「牙の抜けた虎に用はない。別の当てを探す」
「当て、とは?」
「残党の危機感が募っている。連中をかき集め一斉に蜂起すれば、人間に一泡吹かせられるかもしれん」
「それこそ無駄な足掻きです。第一、複数の拠点で簡単に連携が取れる筈もない」
「座して死を待つほどこっちは悟れちゃいないんだ。せめてその前に怒れる我らがいかに恐ろしいものか、奴らに思い知らせてやるんだ」
ぬえの姿は黒雲に包まれ、堂の外に飛び上がる。
星は無言のまま、それに見向きもしなかった。
§
それから、数年。
「我を恐れよ。愚かな人間どもよ!」
黒雲の下には、方形に区切られた都市が広がる。霊的・物的に守られた堅牢な要塞が。
彼女は一人だった。無謀を笑われようが、やらずにはいられなかった。都を攻め落とすのは、物量を以てしても不可能だと気がついてしまったから。
「鵺の鳴く夜を思い出せ! その度に恐れ、寝所に籠もれ! このように作ったことを、心底悔いよ! これが、私が、貴様らの作った恐怖だ!」
頬を一陣の弓矢が掠める。
「そうだ、弓持て殺しに来るがいい! 何度でも、何度でも私は蘇り貴様らに声を聞かせてやる!」
数百数千の矢が殺到する。それらは黒雲をも覆い尽くし、赤く染め上げて……
……目が、覚めた。
「……分からん」
布団と寝間着を僅かにはだけたまま天井を見つめ呟く。障子戸の向こうを通りがかった人影が、一瞬立ち止まって肩を竦める仕草を見せ、通り過ぎる。
あれから数日。ぬえは自室で伏せっていた。
フランドールとの弾幕ごっこによって負った傷が、思いの他重篤だったこともある。しかしそれ以上に精神に負った傷が深く、全ての回復を遅らせていた。原因は復讐の芽を絶たれたことではない。さもなくば慧音の署名に応じることもなかっただろう。
「分からん。本当、分からん」
彼女を見舞った水蜜や白蓮は、ぬえの様子に首を傾げたものである。寝ても起きても彼女は始終譫言じみて、その言葉を呟き続けたのだから。
「地上の勝手はまだ分からんかね、正体不明よ」
耳元で唐突に聞こえた声が、ぬえを我に返らせる。彼女にとっては聞き覚えのある、そして懐かしい声。
首を横に捻れば、頭に立派な双角を生やした赤ら顔の鬼が枕元に寝転んで笑っている。ただし、その大きさはぬえの頭にも満たない。
「……なんだ、伊吹か」
「何だとは失敬な。私に断りもなく寺なんぞ建てた連中に挨拶しようと思ってた矢先、古い顔馴染みがその中にいて、しかも何やら萎れてるのを見つけたから、見舞いにきてやったというのにさ」
鬼の四天王が一、伊吹萃香は一度腰につけた瓢箪を呷ると、酒臭い息を吐き出した。
「そりゃ鬱にもなるさ。伊吹お前、よくこんな所に長くいられるな。地上に甘い期待を抱き過ぎたよ」
「期待? 旨いのかね、そいつは」
茶化す言葉を無視。
「人間を襲えないルールがあるわ、人間を襲えない吸血鬼がいたりするわ。何なんだ地上は」
「ほう、お前会ってきたね? あの箱入り娘に」
「ああ。ありゃ何なんだ。地上にはあんな、理不尽な扱いを受けている妖怪がわんさといるのか?」
「うんにゃ。私の見地からすれば、あの娘もお前と大して変わらん歪みだね。ただ、生まれついた家が少々人間張りに世間体を気にし過ぎただけなのさ」
「あんた、その疎密を操る力でどこにも潜れるよね。大方あの家の事情も知ってるんじゃないのかい」
にいい、と萃香が歯を見せる。
「知っているけど、教えない。鬼は嘘をつかないが隠し事はするんだ。自分で調べな。その方がきっと、楽しめると思うぞ? お前も、私も」
「そうか」
短く呟いて、彼女はそれ以上追求するのを止めた。無駄だからだ。問い詰めたところで、この酔鬼は霧のようにはぐらかすだろう。
「では、そのようにするとしよう」
上体を起こす彼女に、先ほどまでの憔悴はない。
――傷が癒えたら、もう一度会ってみよう。今度こそ殺されるかもしれないが。
――私は信じたいんだ、妖怪の性分を。元来私達の力は、人間を恐怖させるためにあるべきものだ。それをあの吸血鬼に教えてやりたい。
新たな決意に鋭い眼光を輝かせるぬえの枕元には、萃香の姿はすでに見えなかった。
§
生徒が去った寺子屋の教室で、慧音は一枚の紙を眺めていた。ぬえに署名させた筈の誓約書を。
しかし、署名欄には黒い蟠りがあるばかり。それは慧音の目の前で教卓に流れ落ちると「バーカ」という文字列を作った後ぱちんと弾けて消える。
「クソ餓鬼め……」
慧音は苦笑して、誓約書を破り捨てた。
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