No.479175

竜たちの夢8

諸葛亮と龐統に出会う話です。

一刀が真名を持たないが故に真名に対して誠実であり続けた弊害が、ここから明らかになっていきます。

どんどんまともな人が減っていくのは多分気のせいじゃない(

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2012-09-03 02:27:22 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:6686   閲覧ユーザー数:5686

 

 

 

 北郷一刀の朝は早い。

 

 劉備率いる義勇軍はこの二週間で、公孫賛の元に集った時の二十人から実に千人余りとなった。

そんな部隊を率いるのは関羽と張飛の役割であり、彼が行うのは彼女達の指導と後方での軍全体の掌握だ。

軍師も将もこなさなければならない彼には休息という概念は殆ど無い。

 

 元々、竜となった時から彼は睡眠を殆ど必要としない体になってしまっている。

そんな彼にとって、二十四時間労働は然程苦ではなく、この十年で慣れ親しんだ習慣だ。

愛紗もまた同様だが、彼女は彼とは違い休息などはある程度必要である。

 

 

「そうか。曹操、孫堅、袁紹が動いたか」

 

「はい。三軍共に冀州に向かっています。速度を考慮すると、一週間後には黄巾党の本隊とぶつかっているでしょう」

 

「一週間か……こちらの兵の練度はまだまだだ。今回は頭だけを狙うべきだな」

 

「一刀様の言う通り、義勇軍の練度は中の下程度です。今回は張角達だけを狙うのが宜しいでしょう」

 

 

 まだ日も昇り切らない早朝に、一刀と愛紗は義勇軍のこれからについて話し合っていた。

既に冀州には十五万以上の黄巾党が集結しているとの話だ。

今の義勇軍では何もできずに屠られてしまうだけで、得られるものは無い。

今回は曹操達を利用して、頭である張角達を横から掻っ攫ってしまうのが良策だろう。

 

 今回ばかりは一刀が最前線への突撃を務め、一気に黄巾党を突破する必要がある。

十五万という数字を千余りで相手にするには、彼の圧倒的暴力でそれを補うしか無い。

いくつか策はあるものの、それを行うには兵達の練度がまるで足りない。

いかなる策も、力が伴わなければ無力でしかない。

 

 

「結局は暴力で突き進むだけ、か。いかなる策も圧倒的な暴力の前には無力だな」

 

「元々軍師とは、淡い夢を現実にする為の存在です。夢は夢でしかないことの方が圧倒的多いものです」

 

「分かっているさ。十の戦力を三の戦力で倒す……そんな幻想を現実に適応させることは、余程の天才でもなければできない。高々十数万の戦力で俺を止めることなどできないのも、それと同じだ」

 

「結局は力が全てです。いかなる理想も、策も、力が伴わなければゴミです」

 

 

 人間は無力だ。だからこそ、自分を鍛え、誰かと協力することで力を得る。

数も、策も、暴力も全て力だ。だからこそ、その全てを備える軍はとてつもなく強い。

兵の数に練度、更に優秀な武将と軍師の存在、そして己の理想――そこまで備えた時、その者はこの時代を生き抜き、一旗揚げるだけの力を得る。

 

 黄巾党には数だけがあった。理想は既に己の手で砕いてしまった。

そんな彼らはまさしく烏合の衆に等しく、一刀一人がそれに負ける道理は無い。

彼が生み出す恐怖は瞬く間に彼らの間に伝染し、黄巾党を崩壊させるだろう。

彼の功績はそのまま劉備の功績となる……この戦いで、劉備は名を上げることができる。

 

 

「愛紗、忘れるな。そのゴミを至宝に変える為に、俺達はここに居るんだ」

 

「心得ております。劉備殿は、確かにお強くなられました」

 

「もっとだ。これからもっとあの娘には強くなって貰う。あの風車が自分で勝手に回り出すまで、何度でもな」

 

「……一刀様、以前も申しあげましたが、劉備殿に乗り換えるつもりは?」

 

「俺もまた、以前言ったはずだ。そのつもりは無い、と」

 

 

 腰につけた鈴を見やりながら、一刀は愛紗の提案を跳ね除けた。

竜としての彼は未だに成長を続けているが、その速度は間違いなく落ちている。

逆鱗である思春が傍に居ないままでは、彼は成体になれないのだ。

そんな彼に愛紗は何度も劉備をその代わりとするように提言しているが、彼は一度たりともそれに賛成しなかった。

 

 一刀にとって思春はこの世界との繋がりそのものだ。

竜の逆鱗とは竜が人間性を失わずに居る為の存在であり、竜は逆鱗があるからこそ人間を見捨てずにこの地に留まる。

逆鱗無しの一刀では、いずれ人間を見捨ててしまうかもしれない。

だからこそ、愛紗は彼に劉備を逆鱗として上書きして欲しいのだ。

 

 彼女は関羽雲長という名を捨てて司馬懿仲達となったが、だからといって心までも変わってしまった訳ではない。

北郷一刀の理想に最も近い理想を掲げているのが劉備玄徳であることを彼女は良く知っていた。

どの外史でも蜀は力不足だったが、それでも彼にとって蜀が最良の居場所であることは変わりない。

 

 

「一刀様。逆鱗とは即ち竜が人間らしさを失わない為の存在です。それ無くしては、竜として成長することに恐怖を覚えてしまいます」

 

「竜が人間らしさを忘れない為の存在であるならば、それは思い出だけで十二分だろう」

 

「いいえ、十分ではありません。思い出は己の変化とともに形を変えていくのです。一刀様が変われば、思い出もまた歪んでしまいます。それでは、一刀様の御心が持ちません」

 

「……愛紗もそうだったのか?」

 

「いいえ、私達は不完全です。それ故に逆鱗を必要としません。ですが、一刀様は違います――お願いですから、劉備殿を逆鱗にしてください」

 

 

 愛紗は心配だった。

何度彼女が懇願してもそれを聞き入れてくれない一刀ではあるが、彼にとってはこの方が良いのだ。

この十年の間一刀を追いもせず、ただただ彼の言葉に甘えて待つことしかしなかった甘寧興覇などよりも、劉備の方がずっと逆鱗に相応しい。

 

 愛紗は一刀に憎まれたくはないが、場合によっては甘寧を殺すことも考えなければならない。

このままでは一刀の心は衰弱していってしまう。

目の前に劉備という逆鱗に最適な人物が居ながらも、生きているかも分からぬ甘寧を逆鱗とするのはナンセンスだ。

 

 愛紗は道半ばで倒れてしまっても構わない――それまで一刀と一緒に居られたならば、それで良い。

彼女は彼のことを最優先に考え、己が終焉を迎えるまで尽くし続けることができれば良いのだ。

この世界で漸く身も心も捧げることができた―――彼女は、後は添い遂げるだけで良かった。

 

 

「愛紗、心配をかけているのは分かる。だが……これは誓いなんだ。これを破ってしまえば、俺は俺でなくなる」

 

「劉備殿では、逆鱗にはなれないと?」

 

「そういう意味ではない。劉備は、思春よりも安らぎを俺に与えてくれている」

 

「ならば、何故ですか?」

 

「愛紗、俺は思春と将来を誓い、彼女が迷っている時は探すと誓った。だが、そのどちらもあの時は守れなかった。今の俺にできるのはこのくらいしか無いんだ」

 

 

 愛紗は甘寧に対して怒りを抱いていた。

彼女が先に倒れてしまうの構わないが、一刀が先に倒れるのは絶対に許せない。

その原因に彼女はなり得るだろう。

ならば、排除してしまう方が互いにとって幸せだ。

 

 一刀は甘寧の居場所を知れば、そこに飛んでいくに違いない。

だが、その逆はどうだ?甘寧は彼の居場所を知った時、そこに向かうだろうか?

もしも向かうのならば、愛紗は一刀が甘寧を逆鱗としても構わない。

彼女をこちらに引き込めば、一刀の心は壊れず、更に彼は竜として更なる成長を遂げることができる。

 

 愛紗は劉備が一刀に惹かれていることを知っている。

甘寧の存在は彼女にとって大打撃であり、実際に会えば数日寝込んでもおかしくない程だ。

この世界の劉備玄徳を劉備玄徳たらしめる要素は関羽でも張飛でもなく、北郷一刀なのだ。

彼の言葉が劉備に呪いをかけることができたのは、彼が劉備にとって憧れの存在だったからだということを理解しているのだろうか?

 

 

「約束や誓いは何かを守る為にあるものです。何も守れないそれは、ただの楔です」

 

「それで構わない。この楔は戒めだ」

 

「はぁ……私の言葉では届きませんか。分かりました。一刀様の御好きになさってください」

 

「すまないな。我儘ばかり言ってしまって」

 

「ですが……私は何度でも申し上げます。劉備殿を逆鱗にする方が一刀様にとって幸せだと」

 

 

 この論議はこの十年で何度も行われたものだが、今後も行われるだろう。

愛紗は一刀のことを思い逆鱗を劉備に上書きすることを奨め、一刀は思春を思いそれを拒絶する。

どちらかが完全に折れない限り、このやり取りは続く。

 

 

「覚えておこう。さて……そろそろ関羽と張飛を起こしてくるか」

 

「そうですね……日も昇ってきましたし、そうしましょう」

 

 

 これからいつものように関羽と張飛の訓練だ。

歩兵と騎馬の扱い方に、どのような陣形はどの陣形に対して有効なのか……そういった基本を学んでもらう。

武官としての訓練も行うが、今の処二人とも愛紗から一本も取れていない。

 

 彼女達が愛紗から一本取る日は来ないかもしれないが、人間の限界の領域まで伸ばしてやることはできる。

二人は蜀の看板になって貰わなければならない。

その為にも、一刀達はまず関羽と張飛の教育から始めたのだ。

 

 二人共中々に呑み込みが良く、一刀の見込んだ通りの働きをしてくれそうだ。

実質的な指導は愛紗が行い、一刀は飽く迄その補助をするのみだが、二人が成長する様は微笑ましいものだ。

まだまだあの二人は成長する……この二人に更に超雲、馬超、黄忠を加えた五名が蜀の武を担うのだ。

 

 

「ん?」

 

「おや、珍しいですね」

 

 

 一刀と愛紗が関羽と張飛の居る天幕に辿り着くと、そこには既に起床して二人を待っている関羽と張飛の姿があった。

この時間はまだ殆どの者が起きていない上に、今まで彼らが起こしに行った時は寝ていたのだ。

漸く慣れてきたのか、それとも偶然のか……どちらにしろ今日は円滑に訓練を開始できそうだ。

 

 

「おはようございます、北郷殿、仲達殿。」

 

「おはようなのだ、お兄ちゃんに司馬懿!」

 

「おはようございます」

 

「ああ、おはよう。二人共準備は良いか?」

 

「「応」」

 

 ニヤリと笑いながら訪ねる一刀に、キリッとした表情で応える二人の姿は実に微笑ましい。

こういう表情を失わせない為にも、彼は精進しなければならない。

未だしっかりとした土地を持たぬ今は政治基盤の確立は無理だ。

しかし、実際に政治を行う人材を育てることだけならば今からでも十二分にできる。

 

 関羽と張飛には、まず戦が戦いのみでなく、その前準備と後処理も含めて戦なのだということを学ばせた。

戦後処理が迅速かつ的確であれば、戦禍の傷跡を癒す速度は格段に上がる。

一刀はこの二人に基礎を十二分に叩き込んだ上で、それを後継に伝えさせるつもりだ。

 

 

「今日は何を学ぶのでしょうか?」

 

「移動しながら話そう……愛紗」

 

「はい。今日お二人に学んでいただくのは、相手の領土の一部を奪った場合の軍による一時的な政治の行い方です」

 

「軍政の敷き方、ですか……これはまた難しそうですね」

 

「うにゃ……鈴々には分かりそうもないのだ」

 

 軍政は自国の軍が文民に代わって政治を行うというものだが、相手の国に侵攻した場合もそれは適応される。

いかに民の不安と敵意を取り除きつつ、彼らに好感触を与えるかが重要となり、もしもその領土をそのまま自国のものとするならば、ここで粗相をするのは頂けない。

 

 民の怒りや憎しみは親から子へと伝えられていくものだ。

百年に及ぶ怒りと憎しみを民が持ってしまえば、以後の統治に支障を来す可能性は十二分にある。

これに関しては軍の規模が大きくなればなる程管理が難しい為、しっかりと学んでおくに越したことはない。

 

 

「なに、いつも通り愛紗の言うことを聞いて、最後に質問に答えていくだけだ。今はまだ基本しか教えないからな」

 

「正解したら、いつも通り司馬懿と戦えるのだ?」

 

「ああ、いつも通りだ。それで愛紗に一撃でも加えられたなら、褒美を一つやろう」

 

「にゃはは! 鈴々は頑張るのだ!!」

 

 

 このように、一刀は二人にある程度の褒美を約束している。

学習意欲を高めるには、失敗した時に罰を与えず、成功した時に褒美をやれば良い。

失敗を恐れずに挑戦して貰うことで、失敗も成功もしっかりと体験させるのだ。

実際の政治や戦闘では、失敗の無いように詰めに詰めるのが基本だが、今はまだそのどちらでも無い。

 

 ひたすらに失敗し、何が良くて何が悪いのかを学んで貰うことが最優先となる。

実際の場ではくだらないと一蹴するようなことも試せば良い。今はまだ失敗しても良いのだ。

失敗しても良い時に失敗させておかなければ、実際に失敗した際に動きが鈍る。

それは、この戦乱の時代では致命的な空白を生み出してしまう。

 

 余裕がある内に、彼はできるだけの教育を皆に施しておく必要があるのだ。

黄巾の乱が収まれば、そこで数年の猶予が生まれる筈だ。

その際に今訓練していることを十二分に生かせば、この義勇軍は一気にその戦力を増すだろう。

 

 

「今日も、精進だ」

 

「「「応!!」」」

 

 

 この軍は、強くなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お断りします」

 

 豫洲潁川郡穎陰県にある荀家の客間に、凛とした声が響く。

その言葉を発した女性は、翡翠色の瞳に何も映さず、目の前に居る人物を見ている。

彼女の凍てつくような眼差しに、曹操軍からの使いであった者は慌てた。

 

 今回使いが来たのは、目の前に居る女性――荀攸公達に曹操からの誘いがあったことを知らせる為である。

その荀攸が、使者の話を聞き終わった刹那に、それを断ったのだ。

明らかに彼女の能力に見合う破格の待遇を約束しているにも関わらず、である。

 

 

「で、ですがこの話は悪くない筈です。曹操様は能力に見合う待遇を約束されているのですよ?」

 

「曹操殿は確かに素晴らしい御方です。一度お会いしたことがあるので、それは分かります」

 

「ならば、何故?」

 

 使いの者の疑問は当然のものだ。

曹操は実力主義者であり、能力のある者にはそれ相応の待遇を約束する。

実際、彼女の周りには既に夏候惇、夏候淵、荀彧、許褚、典韋、楽進、李典、于禁と多くの有能な者達が集っている。

 

 その者達への待遇はその高い能力に見合うものであると評判であるし、これから伸びる勢力であることは間違いない。

その曹操直々の誘いを断ってまで、荀攸は何をしたいのだろうか?

使いの者には、それが分からなかった。

 

 

「私は既に心に決めた主が居ます。私はその御方以外には仕える気はありません」

 

「なんと!? その御方の御名前をお聞きしても?」

 

「北郷一刀……それが、私の主となる御方の名前です」

 

「……失礼ながら、聞いたこともありません。その御方は本当に実在するのですか?」

 

「当然です。もしも存在しないならば、私が狂っているということです。そんな狂人など曹操殿は欲さないでしょう」

 

 

 荀攸の言う通り、もしも本当に彼女が主と決めた者が実在するならば、その意見を曲げることは無いであろう。

例え、その存在が嘘だったとしても、それを本当に信じている彼女は狂っているということになる。

荀攸の言葉通り、そのような者を曹操軍に迎え入れるのは危険過ぎる判断だ。

 

 

「分かりました。曹操様には、荀攸殿は既に主と決めた御方が居る旨を伝えておきます」

 

「ありがとうございます。物分りの良い御方で助かります」

 

「曹操様はその北郷殿を亡き者にした上で、仕えるように仰ってくる可能性もあります。十二分にお気を付けください」

 

「ふふ……そのようなことはあり得ませんのでご心配なく。曹操殿如きでは返り討ちです」

 

 荀攸を気遣って使者が言った言葉は、しかし彼女の応答によって無用の長物となった。

使者には分からないが、その北郷一刀という人間は曹操ですらも及ばぬ戦力を抱えているようだ。

そのことに驚きを覚えながらも、北郷一刀という言葉が隠語なのではないかという可能性が、使者の脳裏を駆け巡った。

 

 

「それはまた……凄まじいですね」

 

「貴方も会えば分ります。あの御方の前では、今現在勢いを見せている諸侯達などかわいいものですから」

 

「では、いつか会える日を楽しみにしておきましょう……それでは、失礼しました」

 

 

 使者は深々と頭を下げると、そのまま部屋から去って行った。

それを確認すると、荀攸は静かに溜息をついて竹簡を広げていく。

彼女の机の横に積み上げられた竹簡は、全て彼女が一刀の為に書いたものである。

内政を得意とする彼女がこの十年で考えに考えた献策の数々だ。

 

 尤も、ここに積み上げられた策は全て彼女の頭の中にあるので、これらが紛失しても何の問題もない。

荀攸公達の身さえ北郷一刀の元に渡れば、この竹簡は必要無いのだ。

ただ、彼女はいかに己が彼の助けになれるかを示す為にこうして竹簡に纏めているに過ぎない。

 

 

「梅花……聞いたわよ。曹操殿の誘いを断ったそうね」

 

「!……伯母様。その通りです」

 

「以前から言っていた北郷殿の元に行くのね?」

 

「はい。今はまだその時ではございませんが、近い内に機会ができる筈です」

 

 

 今はまだ北郷一刀という者の活躍は荀攸の耳には入って来ていない。

黄巾の乱を彼が放っておく筈も無い……この機会で彼は名を上げる筈だ。

その時、彼女は堂々と彼の元にいくつもの献策を携えて馳せ参じるつもりだ。

すぐにでも彼女の能力を彼の為に存分に揮うことができる体制が、その頃にはできあがっている筈である。

 

 

「そう……分かったわ。北郷殿も、貴方のような娘にここまで思われて幸せでしょうね」

 

「叔母様、私はそういった感情はあの方には抱いていません。ただ、この力を所持するに相応しいと思ったが故の判断です」

 

「ふふ……そういうことにしておきましょう。漸く貴方の能力を惜しみなく使える相手が現れたんだもの」

 

 荀攸公達――梅花は叔母である荀彧文若と同じく、内政においてはこの大陸でも一、二を争う能力を持つ。

そんな彼女にとって、一刀はまさしく理想の主であった。

彼が求めているのは内政を絶対的に掌握できる存在であり、それが可能なのは彼女と荀彧だけだ。

 

 荀彧は既に曹操の下に仕えているが、もしも彼女が北郷一刀の存在を知り、男性嫌いでなければ、彼女もまた彼の下に仕えることを選んだだろう。

梅花からすれば、曹操は完全に北郷一刀の劣化版でしかなく、実際に会った時も彼を量る物差しにすらならなかった。

 

 そんな曹操の下に荀彧がついたのは、そういう気が彼女にあったからという側面が最も強いだろう。

そのような特殊な性癖を持たない梅花は、単純に仕え甲斐のある一刀を選んだのだ。

彼が求める内政は、彼女にしかできない。彼女だけが、あの王を満足させることができる。

そう考えるだけで、梅花は快感が全身を襲うのを実感する。

 

 

「まさしくその通りです。あの御方の求める内政は間違いなく私にしかできません。あの日、あの眼で語ってくださった理想をこの現実に呼び出せるのは私だけです」

 

「こちらも準備をしておくわ。貴方が機だと思えば、すぐに旅立ちなさい」

 

「ありがとうございます、叔母様。いずれ、私が内政を務める国をお見せします」

 

「ええ、楽しみにしているわ」

 

 

 荀彧文若は確かにこの大陸で一、二を争う程に素晴らしい内政を行えるだろう。

だが、それは荀攸公達も同じだ。二人の能力は殆ど同等と見て良い。

ならば、後はいかに主が優れているかが二人の為せる結果を変えることになる。

そうなった時、彼女の主が曹操に後れを取ることはあり得ない。

 

 北郷一刀は王を従える王だ――そう梅花は考えている。

彼は王を支える王佐の才の持ち主だと見せかけて、王すらも従える。

そんな彼だからこそ、彼女は安心して己の能力を彼に使って貰うことができる。

彼は、彼女を使ってくれる。

 

 それは、荀攸公達が生まれ持った歪みである。

あまりにも高過ぎた能力は、彼女自身の手にはあり余り、誰かに使われることでしか満たされない。

彼女は、誰かに使われたかったのだ。

道具を使うようにその用途だけを求め、しかし道具として愛してくれる者が欲しかったのだ。

 

 そう、彼女があの日あの場所で見つけたのは―――彼女の持ち主だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝日が漸く昇ってきた早朝、演習場に鳴り響く音があった。

規則的に鳴り響くその音は、実に小気味の良い音で、聞く者の心を落ち着ける。

そんな音を生み出しているのは、壁にある的を射貫く矢であった。

 

 それを撃ったのは、通常のものよりも一回り大きな弓を構えている女性だ。

健康さを感じさせる褐色の肌に、聡明さを垣間見せる透き通った碧眼、更には絹のように滑らかな黒髪を持つ彼女は、その手に持つ弓に新たな矢をつがえる。

そのまま滑らかに振り絞ると―――手を放した。

 

 放たれた矢は、百間を超える長距離から見事に的の中心を射貫く。

弓矢の飛距離は最大で二百間超に及ぶが、人間を狙うには通常約二十間以内である必要がある。

ましてや直径一尺にも満たない的に直撃させるには、通常ならば十間程度の距離が限度だろう。

それを彼女は、百間という長距離から見事に射貫いたのだ。

 

 

「……威力がまだ足りない、か」

 

 女性は己が引いた弓の具合を確かめながら、そう呟いた。

彼女が求める威力は、この距離から人間を一撃で葬ることのできるものである。

既にその一歩手前までは行った。しかし、もう一歩が中々上手く行かない。

その一歩を達成し、この弓を完成させることで彼女の能力は十二分に発揮されることになる。

 

彼女が求めているのは、大陸最強の弓となれるだけの威力を持つ弓矢だ。

戦を開始する際に、敵将を屠ることができるだけの速度と、威力、更には飛距離を追及し続けた逸品が彼女の手にはある。

速度、威力、飛距離は共に比例関係にあると言っても良い……その全てを更に一段階向上させるには、弓と矢双方を見直す必要がある。

 

 

「子義、何をしているの?」

 

「! 孫策――貴方こそ、こんな時間に何をしているのですか?」

 

「子義が面白そうなことをしてそうだから、見に来たのよ」

 

「はぁ……王がそのようなことでは孫呉も困るでしょうに」

 

 

 彼女――太史慈子義は現在孫策率いる孫呉の下に客将として滞在している。

主と定めた北郷一刀との出会いから早十年近くが経過している今、彼女の立場はかなり複雑なものとなってしまった。

青洲での圧倒的な数の黄巾党を相手に彼女は一度死にかけ、そこを孫呉に救われたのだ。

 

 もしも太史慈が先に一刀に出会っていなければ彼女はこの孫呉に加わっていたに違いない。

それ程にこの孫呉という国は彼女に馴染み、その心身を満たしてくれた。

今彼女に笑いかけている孫策伯符は、彼女と武を競い合う好敵手であるし、周瑜達も良くしてくれている。

 

 この孫呉は彼女の心身に大層合っている。

この国を離れてしまうことは大層悔やまれるが、北郷一刀という主に会えるのならば仕方のないことだ。

彼女にとって、あの日出会った彼こそが生涯の目標であり、また従うべき存在であることは疑いようもない。

 

 

 

「そう思うのなら子義も手伝ってくれたら良いじゃない?」

 

「私は飽く迄客将で、しかも既にここを去ることが決まっているのですよ? そんな者に内部を見せるのは感心しません」

 

「ちょっとくらい良いのよ。子義は十分に協力してくれたし」

 

「私は命の恩人に真名を預けることもせず、受け取りもしない者ですよ?」

 

「そういう細かいことを気にするのは子義の悪い所ね。私は気にしないわ」

 

 太史慈は確かにこの孫呉に馴染んだ……しかし、こういった真名の軽視は未だに馴染めない。

真名とは非常に重いものであり、それこそが最大限の信頼と誠意を示す最後の証となる。

それを殆どの者が軽視するのが、彼女は堪らなく嫌だった。

彼女が一刀を主と仰ぐ理由の一つは、彼のみが真に真名の重さを理解してくれるからだ。

 

 真名は極親しい者だけが呼ぶ名であり、本人が許さない限りその名で呼んではならない―――それが多くの者が考える真名の有り方だ。

しかし、その発祥はまるで違う。太史慈が昔親から教えられ、自身で確認をしたその真なる意味はまるで異なるのだ。

 

 

「孫策。そういういい加減さがあるからいつも周瑜に怒られるのでは?」

 

「うっ……冥琳は怒ると怖いのよね~」

 

「だから、仕事を真面目にすれば良いとあれ程……」

 

「だって、詰まらないんだもの~」

 

 

 真名の真なる意味とは、即ち鎖だ。

あまりにも弱い人間が、この世界と己を繋ぎ、他者と己を繋ぐ為の鎖なのだ。

真名を預けることはそのまま他者と己を鎖で繋ぐことを意味し、その鎖を繋ぐ者を選ぶことに等しい。

それは同志であったり、伴侶であったりする。

 

 太史慈があの日一刀に真名を預けようとした時、彼はそれを即座に拒絶した。

あれは、彼が彼女の真名を受け取ることを恐れたからだ。

真名を持たない彼は、相手の鎖に繋がれることはあっても、自分の鎖に相手を繋ぐことができない。

彼が真名の重みを理解していなければそれに重さは無いが、彼は理解してしまっていた。

 

 北郷一刀はその真名という鎖に見合う鎖を己で作り上げるしかなかった。

だからこそ、彼はあの時太史慈の真名を受け取らず、十年後に受け取ると言ったのだ。

真名を誰よりも大切にする彼は、真名に見合う誠意をその行動で示さなければならない。

更に、彼が彼女の真名を拒絶した理由はもう一つある。

 

 

「大事を為すには詰まらない小事を為す必要があります。それをお忘れなく」

 

「~♪」

 

「目を逸らすな」

 

「子義ってば辛口よねぇ……まるで近所のおばさんみたい」

 

「周瑜さ~ん!!「ちょっ、タンマ! お情けを!!」……分かってくれたようで何よりです。同い年ですからね、私達は」

 

「ハイ、モウシワケアリマセンデシタ」

 

 軽く孫策をあしらいながらも太史慈の眼は彼女を見てはいない。

彼女の真名が拒絶されたもう一つの理由を思い出して、苦い現実を咀嚼しているのだ。

北郷一刀が太史慈子義の真名を受け取るのを拒絶したもう一つの理由――それは彼女が真名を軽視している可能性を考慮したからだ。

 

 真名を授けた主に一生の忠誠を誓うことは当然のことだ。

それが十年後に再会した時に彼以外の主についていたならば、彼の判断は正しかったということになる。

つまり、太史慈は北郷一刀に信頼も信用もされていなかったのだ。

たった一日で信用も信頼もできる筈がないのは分かる……それでも、信じて欲しかった。

 

 真名の重さを知る太史慈にとって、彼の行動は残酷で、だが正しかった。

人間には到底行えない真名の正しい運用を、彼は確かに行っていたのだ。真名を持たぬ異国の者である彼が、だ。

だから、太史慈はあの日痛みを知り、彼に従うことを改めて決めた。

あの人外の如き強さを目指して、彼女は今も進み続けているのだ。

 

 

「貴方は、本当のあの御方と違いますね。あの御方の一万分の一でも真面目さがあれば……はぁ」

 

「あの御方って、子義の主のことかしら? 十年も生殺しだなんて酷いものね」

 

「この十年は試練でした。漸く私はあの御方の下に向かうことができそうです」

 

「……本当に禁欲的ね。あまり我慢していると何処かで暴走しちゃうわよ?」

 

「……ハッ」

 

「ちょっ!? 今鼻で笑ったわよね!? 絶対笑ったわよね!?」

 

 

 孫策伯符は母である孫堅文台と同じく戦いによって昂ぶる獣だ。

しかし、太史慈は違う。彼女は寧ろ戦う程に冷たくなっていく、氷のような存在である。

戦いが彼女を冷やしていき、全てを見渡す視野の広さと集中力を齎す。

そして、彼女の矢はその力を惜しみなく発揮する。

 

 今この場で孫策を討ち取るのは容易い。

太史慈子義の最大の武器は、殺気の無い必殺の矢である。

速さも威力も飛距離もあらゆるものが規格外に近い彼女の弓矢は、孫策伯符すらも容易に打ち殺す。

接近戦では互角だが、遠距離ならば太史慈は孫策と千回戦って千回勝つだろう。

 

 一刀への手土産に彼女の首を持ち帰ることは容易いが、彼女にそれをするつもりはない。

そのような手土産を彼は受け取らないだろうし、彼女もそうだ。

彼が太史慈子義に臨むのは忠義であり、世話になった孫呉の王を殺してしまった瞬間、彼女は彼に会えなくなる。

 

 

「そろそろ戻りましょうか。周瑜も起きてくる時間ですし」

 

「うっ……こうしちゃ居られないわ。すぐに部屋に戻らないと!」

 

「途中で抜け出さないでくださいね」

 

「はいはい。ワカッテマスヨー」

 

「……やれやれ」

 

 

 孫呉は孫堅文台が重体になっている間に、袁術に吸収されてしまった。

今現在は孫堅も回復しているが、彼女が重体になっている間に王は孫策に変わり、孫呉の者達は袁術の客将扱いとなってしまった訳だ。

今の孫呉は酷く不安定で、この黄巾の乱で名を上げて離れていった豪族達を引き戻さねば明日は無い。

 

 そんな孫呉にとって戦も政治もできる太史慈は喉が出る程欲しい人材だ。

しかし、彼女はこの孫呉にはそう長くはいられない……そろそろ彼女の主である北郷一刀を探さねばならない。

彼女は結局の処、依存することでしか生きられない人間だ。

そして、この孫呉に彼女を受け入れるだけの器は無い。

 

 真名の重さを理解して尚、その重さに耐えきれる者はこの世界において北郷一刀だけである。

太史慈には理解していても、その重さに耐えきることはできない。

それに彼は耐えうるのだ。真名を持たない彼が、必死にその行いのみで秤を合わせているのだ。

彼女にとって、彼は王であり、真名の真なる守り手であり―――彼女が元服して、初めて己の意思で真名を預ける相手となる。

 

 

 もしかしたら、彼こそが真名を人間に齎した竜の生まれ変わりなのかもしれない。

真名を持たず、しかし全ての真名を等しく愛し、その重さを謳った竜は白かったそうだ。

北郷一刀の氣もまた純白であり、人外とも言えるその力は圧倒的だ。

真名を最初に人間に齎し、その名を祝福した白竜は―――誰よりも彼女の主に相応しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 類は友を呼ぶ。

人間は己には無いものを求める一方で己と同じものもまた求める。

歪みの下には歪みが集まる……そう、まるで黄巾党のように。

彼らも最初は歪んでいなかった筈だ。しかし、どこかで道を誤り、歪みとなった。

 

 一度歪んでしまうと、そこから元に戻るのは難しい。

強い者ならば何の問題も無いかもしれないが、それは飽く迄強者に限定される。

殆どは弱者でしかない……そんな彼らに強くあれ、と望むのは無理なことだ。

 

 

 

「……死屍累々だな」

 

「まぁ、良く頑張った方でしょう」

 

 

 その強者達も、竜である一刀達からすれば弱者だ。

愛紗に殆ど一方的に蹂躙され、疲労困憊で地面に横たわっている関羽と張飛もまたそうである。

彼女達は普通の人間から見れば心身共強く、人外と見られることもあるだろう。

しかし、真の人外である一刀からすればこの程度ではまだまだだ。

 

 関羽も張飛も愛紗に一太刀入れることすら敵わないが、一刀ならば初撃で愛紗を屠ることもできる。

彼女の持つ青龍偃月刀をへし折り、そのままの威力で彼女の心の臓を抉り取ることは容易い。

もはや彼を止めることは愛紗にさえも叶わない。

 

 既に彼とまともに打ち合うことすらも彼女はできないのだ。

まさしく人外の力を持つ彼女ですらも、それ以上の人外である一刀の前では赤子同前である。

十年前は違った……まだ二人の力はそこまで差異が無かった。

だが、今やその差は天と地程の差がある。

 

 

 

「まぁ、愛紗相手にここまで踏ん張ったんだ。余程のことが無い限り、負けることは無いだろう」

 

「そうですね。少なくとも、今後一対一で誰かに後れを取ることはないと思います。私達は例外ですが」

 

「そ、そうですか……」

 

「鈴々はもう疲れたのだ……」

 

「取りあえず今日はここまで。後はいつも通りの訓練だ。」

 

 既に日は完全に昇っており、後二刻程で昼になる。

そろそろ兵達の訓練を開始する時間だ。

午前は疲れ切った関羽と張飛に代わって一刀と愛紗が訓練を行っており、午後は関羽と張飛が行っている。

この体系も二人が十二分に基本を身に着けた後は、必要無くなるだろう。

 

 ちなみに、一刀と愛紗の訓練は中々に好評だ。

二人が教えているのは、疲労を抑える戦い方など、要所で役に立つものだ。

これは非常に習得が難しく、元来天性のある者にしかできない特殊な戦い方だが、それを一般兵でも可能にする方法がある。

 

氣を利用すれば、この戦い方は誰でも習得できるのだ。

氣を使うと言っても、それを部分部分に溜めたりなどの精密な制御は必要無い。

ただ、氣が体から放出される量を抑えることだけ覚えれば、疲労は格段に抑えられる。

氣は通常体から漏れ続け、完全に零になった時生物は死ぬ。

その放出を抑える術さえ身につければ、疲労もしにくくなる上に、健康体を保つことも通常よりも容易になる訳だ。

 

 

「準備ができ次第……向かいます」

 

「うにゃ……」

 

「午後には、兵達がこの有様になるんだな……」

 

「氣の扱いを習得できていない者だけ、ですが」

 

 

 劉備率いるこの義勇軍の練度は確かにまだ曹操や公孫賛の兵に比べると劣るだろう。

しかし、同じ数で戦えばかなり良い勝負ができると、一刀は考える。

勝ちは掴めないが、負けることは無い。兵の粘り強さならば、ここが一番だ。

圧倒的攻撃力も、縦横無尽の機動力も持ち合わせてはいないが、この義勇軍は間違いなく強い。

 

 言うなれば、この義勇軍は生存に特化した軍なのだ。

攻撃は北郷一刀と司馬懿仲達が担う。この軍はひたすらに守ることに特化させれば良い。

それこそ、毎日の訓練で関羽や張飛とある程度の手合わせをさせているのも、その防御力を底上げする為だ。

 

 そもそも攻撃力に関しては、一刀一人で十二分処か有り余る程だ。

彼が所属する部隊に最も求められるものは生存力であり、攻撃力でも機動力でもない。

生存力さえ最初にしっかりと上げておけば、それ以外の能力値は経験で十二分に補える。

 

 

 

「……ん? 土煙が上がっているな」

 

「! 本当ですね。こちらに向かっているようですが、いったい何処の何方でしょうか?」

 

「……どうやら、黄巾党のようだな。その前にあるのは――馬車、か」

 

 

 一刀の眼は数里先に見える黄巾党の一団と、それに追われる馬車の姿を捉えた。

あのままでは一里程度で追いつかれてしまうだろう。

中にいったい誰が居るのかは分からないが、この時期に護衛もつけずに馬車で移動するなど愚の骨頂だ。

或いは、護衛は居たものの既に殺されてしまったか……どちらにしろ、あのままでは殺される。

 

 

 

「……助けますか? 一刀様ならば、十二分に間に合う距離ですが」

 

「そうだな。あの程度の数ならば俺だけで十分だろう。愛紗は訓練を進めておいてくれ」

 

「御意」

 

 一刀は愛紗に訓練を先に始めておくように告げると、そのまま走りだした。

蜃気楼には悪いが、たまには自分で走らないと体が鈍ってしまう。

真紅の眼を愉悦に歪ませながらも、彼はその両足で思い切り地面を蹴る。

それこそ、弾丸のような速度で彼は跳んでいく。

 

 もはや今の一刀は蜃気楼以外の馬などまさしく足手まといの速度を誇る。

蜃気楼でさえも、彼が本気になれば足手まといになるかもしれない……それ程にその脚力は突き抜けている。

たかが数理先に辿り着くことなど一分も要さないだろう。

 

 

「ん? ありゃなんだ?」

 

「おい、あれ――」

 

「―――さようならだ」

 

 

 一刀はほんの二十秒程度で馬車の後ろまで辿り着くと、その勢いのまま片手に氣刃を形成し、振った。

十丈を超える程の長さを持つその一撃は、範囲内に居た黄巾党全てを完全に葬った。

まさしく、瞬きする間に決着はついてしまったのだ。

そのことに気付かない馬車の乗り手は、そのまま劉備達の居る天幕の方へと向かっていた。

 

 

 

「……随分と必死だな」

 

 

 一刀は自分が全く気付かれなかったことに若干の驚きを感じながらも、そのまま黄巾党の死体に氣で火を着けた。

普通は後方に最大限の注意を払うものなのだが、あの馬車の乗り手にはそうする余裕も無かったようだ。

あまりにも呆気なく終わってしまった掃討に一刀は若干の欲求不満を覚えながらも、死体を見つめる。

 

 

 

「ふぅ……もう、完全に化け物になってしまったな」

 

 

 人殺しが罪なのは、人間が生きていく上で普遍の決まりだ。

しかし、竜にそれは適応されない。竜は人間を殺しても、生理的な罪悪感を抱けないのだ。

だからこそ彼はその罪を忘れないようにしなければならない。

感じられない罪は、理性で数えていくしかない。

 

 北郷一刀が人間のような死に方ができないことは、十年前から決まっていたことだ。

多くの命を直接奪い、それに罪を感じることなく進んでいく。

彼が二度目の死を迎えた日から、彼は命を奪うことの罪悪感を失った。

だからこそ、その重さを忘れないようにしなければならない。

 

 

 

「―――思春」

 

 

 北郷一刀が完全な竜となる為には逆鱗である思春が必要だ。

彼女を通して人間の感性を思い出すことで、彼は心置きなく人間を辞めることができる。

最後の枷となるそれを完全に取り払った時、彼は完全なる竜になるだろう。

愛紗が望んだ、外史を正史から完全に切り離し、独立した世界を生み出す程の力を得るのだ。

 

 一刀は知らない。愛紗がこの世界の管理者であることも、彼女がこの世界を彼だけの為に用意したことも。

誰よりも彼と共に居た、“最初の愛紗”がこの世界を生み出したのだ。

それを知らない彼は、ただただ思春を想う。

彼が天に再び舞い上がる為の春を、想っている。

 

 一刀にとってのこの世界との繋がりは思春であって、愛紗ではない。

彼をこの世界へと呼んだのは彼女だったのに、彼は思春の下へと降り立った。

彼を誰よりも求めたのは彼女だったのに、彼は思春の求めに応じた。

愛紗がそれをどう思っているのかを彼は知らない。それ故に、気付けない。

 

 

 

「……いっそ、死ねたら楽なものを」

 

 

この世界は酷く歪で、世界そのものすらもが彼を求めている。

あまりにも強大過ぎる竜を求める歪み達は、既に彼に目を付けてしまった。

この世界でも有数の歪みが、その欲望を満たす為に北郷一刀という存在を求めている。

 

関羽雲長としての自分を捨て司馬懿仲達となってまで彼を求めた愛紗に、飼われ、愛されたい呂布奉先、道具として使われたい荀攸公達、真名の重みに拘る太史慈子義―――数えだせば、キリがない。

この世界は歪みに歪み、彼を求め続ける。

どんなに彼が望んでも、どんな道を進んでも、この世界は彼を離してはくれない。

 

 この世界を生み出した愛紗がそれを望むからだ。管理者である彼女がそれを欲するからだ。

だから、彼はこの先幾度も苦しまなければならない。

真名という鎖で彼を必死に縛り付け、縋ろうとする哀れな歪み達を愛し、苦しみ続けなければならない。

 

 彼は死によってのみ、漸くそれから解放されるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こ、この度はた、助けていただきありがとうございましゅっ」

 

「あわわ!? 朱里ちゃん噛んじゃってるよ!」

 

「はわわ!? も、申し訳ございましぇん!!」

 

「……随分と賑やかだな」

 

「あはは……そうだね」

 

 一刀が黄巾党から助けた馬車には二人の少女が乗っていた。

二人はこの乱世を収める王の器を劉備に感じて幽州に来たらしいが、その途中で黄巾党に襲われてしまったそうだ。

そこを一刀が助けた訳だが……彼は事前に劉備と口裏を合わせて彼が助けたことを黙ってもらうことにした。

 

 一刀の眼には、この二人の少女はかなりの頭脳を持つ者に見える。

それこそ、彼が求めている人材に違いないと思える程のものだ。

一刀は飽く迄十年の鍛錬とこの時代に何が起こるのかを知っているというアドバンテージしか持たないが、この二人はそんな彼とは違う本物の天才に違いない。

 

 一刀はそんな二人が彼に対して下す純粋な評価を知りたかった。

そのことを話すと、劉備は苦笑しながらも賛同してくれた為、彼は機を見て聞くつもりだ。

聞くまでもなく、彼がどのような人物かを言ってくれる可能性もあるが、一応念には念を押しておく。

 

 

「りゅ、劉備様。私達は是非とも貴方のお力になりたいのです!」

 

「どうか、この力を貴方の夢を叶える為にお使いください!!」

 

「えぇと……気持ちは嬉しいんだけど、先に二人の名前を聞いても良いかな?」

 

「「あっ」」

 

 劉備の言葉は実に正しい。

名を聞いていない者の仕官を許す王など、普通は居ないものだ。

未だに名前も名乗っていないことに気付いた二人はそのことに気が付くと、急に青褪めた。

劉備に無礼を働いたことで、自分達が登用されないと思ったのだろう。

 

 劉備玄徳がそのような細事を気にする器量と思っている訳でもなかろうに、中々に不器用な娘達だ。

一刀は早速二人の弱点を見つけてしまい、思わず苦笑する。

この二人は彼の眼に引っかかる程の能力を持っているが、自信がまるで無いのだ。

 

 この自信の無さをどうにかしなければ、二人は大成しないだろう。

慎重と臆病は同一の状態を示すが、自信が無い状態は、そこにすら至っていない。

この問題を解決するには、ひたすらに経験を積んでもらうしかない。

幸い、今の時期ならばその経験を十二分に与えることができる。

 

 

「わ、私は姓を諸葛、名を亮、字を孔明とも、申しましゅ!」

 

「私は姓を龐、名を統、あ、字を士元と申しましゅ!」

 

「……なに?」

 

 一刀はこの時点で聞くことができる筈もない言葉を聞いてしまい、思わず言葉を失った。

諸葛亮孔明と龐統士元がこの時点で劉備の下にやってくる筈が無いのだ。

三顧の礼はどうした、と思わず頭を抱えたくなるが、それは頭の中だけに留めておく。

この世界が歪んでいるのは分かり切っていた筈なのだから、この程度で驚いていてはこの先やっていけない。

 

 驚くよりも、この時点で諸葛亮と龐統が劉備の下に来たことを喜ぶべきだろう。

一刀が為そうとしている天下三分の計において最も重要な二人がこの時点でここに居るのは強みだ。

臥龍と鳳雛が劉備の下に来たのならば、それだけで千人力だ。

 

 一刀と愛紗だけでは限界がある為、彼女達も加わってくれるのならば大歓迎である。

それこそ、寧ろこちらからラブコールをかけるくらいには欲しい人材だ。

そんな二人が向こうから来てくれたのは、まさに行幸である。

二人もまた女性であったことに関しては、一刀はもう気にしないことにしていた。

 

 

「諸葛亮ちゃんに、龐統ちゃんだね? 愛紗ちゃんと鈴々ちゃんはどう思う?」

 

「私は反対です。どの程度の能力があるのかも、何処の者かもはっきりとしない者を迎え入れるのは危険です」

 

「鈴々は別に構わないのだ。人手は多い方が良いのだ!」

 

「う~ん……一刀さんはどう思う?」

 

 劉備としては既に受け入れるつもりなのだろうが、やはり関羽は反対する。

一刀としては、関羽の意見も張飛の意見も正しい為、どちらかに肩入れするつもりはない。

しかし、今回を逃しては諸葛亮と龐統を見す見す手放すことになる。

それは危険過ぎる判断だ。

 

 二人は頭の回転が速く、理解力も非常に高い筈だ。

そんな二人がこの義勇軍の歪さに気付かない道理はなく、それを握られたままここを去られては、後々大きな禍根となる。

この状況では受け入れるか、殺すしか道は無い訳だが―――劉備はそれを分かっていないだろう。

その分は一刀が負担しておくしかない。

 

 

「劉備は水鏡という人物を知っているか?」

 

「?……人物鑑定で有名な司馬徽さんのことでしょう?」

 

「その通りだ。それでだな……この二人の服装は、その司馬徽の営んでいる塾のものだった筈だ」

 

「えっ!? それじゃあ二人はそこの!?」

 

「恐らく、な。しかも、諸葛亮孔明に龐統士元と言えば、確か司馬徽が臥龍と鳳雛の号を与えた二人の筈だ。その通りならば、俺はこの二人を受け入れても良いと思う」

 

 一刀の言葉に劉備は顔色を変えた。

無理もない……水鏡女学院に通う者と言えば才女ばかりであることは、一刀ですら知っているのだから。

それ程に水鏡の名は有名で、彼女が育て上げた者達は実に有能になることもまた、周知の事実である。

 

 その中でも、水鏡が臥龍・鳳雛と称したのが諸葛亮孔明と龐統士元であることを知っているのは、一刀だけである。

このアドバンテージを生かさずに見す見す二人を手放すのはナンセンスだ。

一刀は是非とも劉備に二人を登用して欲しかった。

 

 

「はわわ!? どうしてそれを!?」

 

「先生しか知らない筈なのに!?」

 

「教えてもらえる機会があった、とだけ言っておこう。それで、関羽は納得したか?」

 

「確かに水鏡女学院に通っていたのならば能力は問題無いでしょう。北郷殿の御言葉を信じることにします」

 

 少しばかり納得がいかないようだが、関羽も賛成してくれた。

これで二人を迎え入れる準備は整ったも同然であり、後は劉備が二人にそれを告げるだけだ。

この時点で臥龍・鳳雛の双方を手元に置けるのは劉備にとって大きな前進となる。

後は、この自信の無い二人に経験を与えてやるだけだ。

 

 諸葛亮の方は既に一刀を警戒し始めているが、これは仕方のないことだ。

一刀は二人にある程度能力を見せつけておく必要がある。

内政においては諸葛亮が、軍事においては龐統が中心となって貰う。

その時、彼がどの程度のことをできるのか、最初から見極めさせる為には、少しばかり警戒されても構わない。

 

 この一刀の行動は、二人の観察眼を鍛える為のものでもある。

彼女達が一刀を見誤っていたならば、それを反省し、以後は更に注意して観察を行うようになるだろう。

曹操や孫堅本人に加え、その配下達を見誤ることが無いように、既に訓練は始まっているのだ。

 

 

「うん! それじゃあ二人共よろしくね! 私のことは桃香で良いよ?」

 

「はい! 私の真名は朱里と申します!」

 

「私の真名は雛里と申します! で、でもいきなり真名を預けてくださって良いのですか?」

 

「うん。だって、二人は私の理想の為に共に協力してくれるんでしょう? もう、私の大切な仲間だよ」

 

 笑顔でそういう劉備の真意を二人は理解できただろうか?

一刀は理解した。劉備は言外に二人に絶対の忠誠を求めているのだ。

真名で縛り、真名で縛られることで諸葛亮と龐統を逃げられなくした。

劉備は真名の重さを良く分かっている……だからこそ、一刀に自分の真名を呼ぶように強いることはしない。

 

 一刀は未だに劉備達の真名を受け取ってはいない。

関羽に関しては愛紗絡みで仕方ないことかもしれないが、張飛と劉備に関しては特に理由が無い。

彼が真名に縛られることを恐れているが故の拒絶であることは、明白だ。

 

 そして、そんな彼に真名を呼ぶことを強いることをしない劉備は理解しているのだろう。

一刀はそのように縛らずとも彼女を見捨てはしないことも、彼女を軽視したりはしないことも、分かっているのだ。

言うなれば、劉備の中では一刀だけが完全に別格の存在なのだ。

彼女が彼に真名を預ける時―――それは彼女が彼そのものを求める時だけであろう。

 

 

「あ、ありがとうございます! が、頑張りましゅ!」

 

「あわわ!? 朱里ちゃん、また噛んだよ!?」

 

「はわわ!?」

 

「……コホン。関羽と張飛も自己紹介をしようか」

 

 このままでは埒が明かない気がした一刀は取りあえず関羽と張飛に自己紹介をさせることにした。

はわわもあわわも要らないので、この二人にはやはり自信をつけることが最優先事項だ。

もっと自信を持っていれば、その能力を十二分に扱える筈なのだから、勿体無い。

 

 一刀とは違い、本物の天才である諸葛亮と龐統は、今後蜀の建国などに十二分に貢献するだろう。

そんな二人がこのように自信の無いままでは、それも叶わない。

今の内にできる限り育てておかねば、後々苦労しそうだ。

 

 

「私は姓を関、名を羽、字を雲長と言う。真名は愛紗だ」

 

「鈴々は姓を張、名を飛、字を益徳って言うのだ! 真名は鈴々なのだ!」

 

「はわわ……宜しくお願いします、愛紗さん、鈴々さん!」

 

「宜しくお願いします!」

 

 関羽がいきなり真名を許したことに一刀は驚いたが、そこに謝罪の意味も籠っているのならば納得がいく。

何処の誰かも分からない、と彼女が言った二人が司馬徽に号を与えられた者であったのだから、無理もない。

関羽よりも遥かに何処の誰かがはっきりとした二人であったのだ。

 

 そういう意味では彼女の態度は実に正しいものだ。

謝意を込めた真名など一刀ならば死んでも受け取らないが、諸葛亮と龐統はそこまで厳格ではない。

簡単に関羽と張飛の真名を受け取った時点で、その程度は知れている。

そこに、劉備のような絶対の縛りは無い。

 

 この世界の多くの者は真名を軽視する傾向にある。

神聖だ、絶対だ、と言いながらこうも簡単に真名を許し、受け取ってしまう。

真名を許すのは良いだろう。しかし、受け取ることは相手の呪縛を甘受するということだ。

それを十二分に理解した上で、真名は受け取るべきである。

少なくとも、劉備はそうしている節がある。

 

 

「それで……北郷殿は、名乗らないのですか? 言い出しっぺですが」

 

「ああ、そうだったな。俺は姓を北郷、名を一刀と言う。異国の者故真名は持たない」

 

「真名が無い?……珍しいですね。宜しくお願いします、北郷さん」

 

「あわわ……宜しくお願いします」

 

「こちらには名乗れる真名が無い。だから、そちらのことも孔明、士元と呼ばせて貰うぞ」

 

 真名が無いことを伝えた途端に、二人の眼が一刀を見極めようと色を変える。

そのことに苦笑しながらも、彼はそれを甘受した。

真名とはその人そのものを表す名である。それを持たない者は、自分の眼で見極めるしかない。

一刀としては、できればそれを真名を持つ者にも行って欲しい所だが、まだそこまでは望めない。

 

 

「はい、分かりました。あ、あの……雛里ちゃんはちょっと男性恐怖症の気があるので、無礼なこともしてしまうと思いますけど、宜しくお願いします」

 

「了解した。士元にはこちらからはあまり近づかないようにしよう。近づく場合も、声を先にかけてからにする」

 

「そうして頂けると助かります」

 

「あわわ……ありがとう、朱里ちゃん」

 

「士元も、何か困ったことがあれば、後からでも言えば良い。俺にできることならば、気を付ける」

 

 どうやら士元は孔明の後ろに隠れ、孔明が彼女を支えていたようだ。

この関係性は余計に士元の自信を奪う可能性があるので、その内改める必要がある。

しっかりとした相互依存の形に持っていけば、互いが互いの為に動け、相乗効果を齎す。

いくらでも伸ばしようはある。

 

 

「顔合わせもこれで終わったみたいだし、まずは二人には休んで貰おう? 二人に手伝って貰うのはその後で、ね」

 

「「「御意」」」

 

「で、では後程伺います!」

 

「うん、また後でね」

 

 劉備の言葉で、この場はお開きになった。

取りあえず一刀は兵達の訓練があるので、愛紗の処に戻ることにする。

孔明と士元の案内は関羽と張飛がしてくれるそうなので、任せておけば良い。

あの二人の訓練は、午後から始めれば問題ないだろう。

 

 

 

「あっ、一刀さん。ちょっと良いかな?」

 

「ん?……どうした?」

 

「その……今夜も良いかな?」

 

「……ああ、構わないぞ」

 

 劉備はあの日以降、一刀に良い意味で依存するようになった。

今までもそうではあったが、一人で抱えられない時は彼に相談したり、その温もりを求める。

独りでは抱えきれないことなどいくらでもある……それは曹操や孫堅も同じだ。

その負担を軽減する為に臣下は居るものだ……ただ劉備の場合はそれが一刀であるだけのこと。

 

 寂しくなった時、十年前のように幼い表情で劉備は一刀を求める。

彼女にとって目標である彼に寄り添い、その力を分けて貰う為だ。

誰よりも優しく、その理想の為に理想を穢すことも厭わない彼のように彼女はなりたかった。

だから、その目標に縋る。

 

 彼女は北郷一刀という人間ならざる精神の持ち主のようになることはできない。

劉備玄徳は何処まで行っても人間でしかなく、竜である彼のように強くはなれないのだ。

だからこそ、彼女もまた大きな歪みであり、いずれ、彼にとって災厄になるかもしれない。

 

それでも、一刀は劉備の傍に居られるだろうか?―――その答えは、彼自身にすら分からない。

 

 

「えへへ……ありがとう」

 

「なに、他人には中々見せられない弱さもあるものだ。ただ、できれば関羽などにもそういうことは打ち明けておいた方が良いぞ」

 

「うん。でも、愛紗ちゃんは生真面目だから余計な負担になっちゃうかなって……」

 

「ぷっ……違いない。軽く聞き流せる程度の不誠実さも時には必要なものだ」

 

 

 一刀は関羽が劉備の悩みなどを聞いた時に、それを生真面目に解決しようとする姿を想像し思わず笑った。

そんな彼の姿すらもが、劉備には美しく、愛おしいものに見えていることを彼は知らない。

彼は彼女が求めているものを、まるで見透かしているかのように示す。

そんな彼に、彼女は益々依存してしまうのだ。

 

 かつて一刀は劉備の理想を甘い果実だと評したが、それは寧ろ彼自身である。

その果実は高い中毒性を示し、一度噛り付いてしまえば二度と手放したくなくなってしまう。

彼がその鋭さの奥に隠している優しさに気付いてしまった者は、それを際限無く求めるだろう。

 

 北郷一刀の持つ優しさに気付く者はそう居ない。

それに気付く者は彼や愛紗と同じような歪みだけであり、既にその多くが彼を求め動き始めている。

彼は何処にも行けぬ者を誰よりも愛し、慈しむ。

だからこそ、彼の下には歪みが集う。

 

 

 

「一刀さんはそういうの、得意だよね」

 

「相手が何を望んでいるか、考えて動いているからな」

 

 

 一刀は気付かない――彼のその唇も、笑顔も、真紅の瞳も、鎧の下に隠れている逞しい肉体も、何もかもを己が物としたい衝動を劉備が抱えていることに。

いつもは硬質な彼の声が、震える彼女を慰め鼓舞する時は何よりも優しく、甘い声になることを知るのは劉備だけだ。

彼女だけが知っている、北郷一刀の甘く、病みつきになる味だ。

 

 独占するつもりはない。彼の優しさは彼女と同じくあらゆる者に注がれるべきだ。

だが、彼女は一番でありたい。北郷一刀にとって何よりも優先されるべき位置に居たい。

彼が彼女の夢を後押ししてくれた。彼が今の彼女を形成した。

そんな彼に依存してしまう彼女に罪は無い。

 

 ただ、誰にも罪が無いからこそ辛いのだ。

誰よりも一刀が幸せであることを、彼に殉ずることを望んだ愛紗が生み出したこの世界は、誰よりも彼を傷つける。

誰も悪くないが故に、苦しまなければならない。

歪みに歪んだこの世界は、ただひたすらに北郷一刀を求め続け、彼を貪る。

 

 

そう―――世界はいつだって残酷なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 煌々と燃え盛る炎が、月明かりを歪めて視界を赤くしていく。

深呼吸をすれば、鼻腔を余すところなく血と炎の匂いが―――戦の匂いが満たす。

崩れ落ちてきた煉瓦を片手で破壊すると、彼女はその真紅の眼を細めた。

彼女の背後にある城の中には、もう生きている者は誰ひとりとして居ない。

 

 

「……終わった」

 

 方天画戟を片手に、彼女――呂布奉先はそう告げた。

彼女の視界は、見渡す限り炎と真二つにされた死体で一杯だ。

死体の無い場所をゆっくりと進みながらも、彼女は後ろを振り返る。

そこにあるのは、業火によって燃えていく城と、その中に居た者達の死体だけである。

 

 全身を返り血で真っ赤に染めた呂布は、足元にある黄巾を見やるとニヤリと笑った。

ここは涼州で蜂起した黄巾党の主力部隊三万が“先ほどまで居た”場所である。

既に一人たりとも生存者の居ない城は、黄巾党の死体で埋め尽くされている。

城外も、城内もひたすらに死体の海が広がっている光景は、まさしく阿鼻叫喚の地獄であった。

 

 

 

「ふふ……」

 

 

 この地獄のような光景を生み出したのは、呂布奉先ただ独りである。

誰の手も借りず、まさしく独りの圧倒的な暴力のみで涼州の黄巾党の主力は全滅した。

本当に、文字通り全滅した……一人も生き残れなかったのだ。

たった独りを相手に、三万人が殲滅されたのだ。

 

 顔色一つ変えずにその殺戮を行った呂布は、不意にその表情を変えた。

まるで親に褒めてもらえるのを期待する子のような、あまりにも無邪気な微笑みが彼女を彩る。

全身を返り血で染めながら、彼女は吐き気を催す程に綺麗に笑った。

 

 

 

「竜……きっと、喜んでくれる」

 

 

 八年前に会った竜は、彼女の成長を祝福してくれるに違いない……そう思ったが故の微笑みだった。

今しがた三万人を一人残らず殺し尽くした痛みなど彼女には無い。

ただ、それすらも彼女を飼ってくれ、愛してくれるであろう竜の為だけに行ったのだ。

 

 この戦い……否、一方的な殺戮は、呂布を一躍無双として祭り上げるに十二分なものだ。

たった独りで三万を相手に取り、全滅させることなど彼女にしかできない……皆がそう思うだろう。

その名声に伴う実力を身に着けた今の彼女ならば、きっと竜は受け入れてくれるに違いない。

 

 

 

「!……援軍、漸く来た」

 

 

 呂布奉先は何処にも行けぬ竜だ。

戦う理由は内側に無く、ただ本能の赴くままに力を求める獣だ。

彼女は竜と共に居ない限り真の意味では孤独だ。

だからこそ、あの日交わした約束は絶対に守って見せるし、絶対に守らせる。

 

 竜の為に彼女はかつて殺戮を恐れていた理性を振り払った。それまでずっと邪魔だった理性を振り払えた。

ただただ己の欲望のままに武の極みを追及し、竜に愛される為だけに戦い続けた。

そして、今や彼女は三万人を相手にして無傷で殲滅する程の武を手に入れた。

 

 竜は絶対に彼女を受け入れてくれる筈だ。

受け入れてくれない筈が無い。受け入れないならば、あのような甘い言葉を吐く筈が無い。

もしも受け入れてくれないならば―――

 

 

 

「く……くく……はは……ははははははは!!」

 

 

 そんな筈が無い。あの竜が彼女を受け入れない筈が無い。

そのような可能性を考えることそのものがおかしいことであり、故に彼女は笑った。

あの竜は誰よりも歪みを愛することができる存在だ。歪みを愛せてしまう存在だ。

だから、呂布奉先にすらも愛を与える。

 

 あの竜は彼女を飼ってくれる。

必死に愛を強請る彼女をそっと抱きしめてくれる。その余りにも強過ぎる武を使ってくれる。

彼は、彼女が依存することを許してくれる。

彼女を罰してくれる。彼女に褒美を与えてくれる。

彼女を―――愛してくれる。

 

 

 

「もうすぐ……もうすぐ、会える」

 

 

 呂布奉先は笑う……誰もが見惚れてしまう程に美しく、誰もが吐き気を催す程邪悪に。

その真紅の瞳はただ竜のみを映し、それ以外のものを無視する。

あまりにも強大な力を得てしまった彼女にとって、竜以外のものなどどうでも良い有象無象でしかないのだ。

 

 確かに彼女はこの乱世を良く思わないし、早く終わらせたい。

しかし、彼女にとってそれは竜以上に大事なことか?―――答えは否である。

乱世がどう動くかなどどうでも良い……ただ、竜が彼女を愛してくれさえすれば良いのだ。

空虚であった彼女が武の追及以外で、初めて抱いた欲求なのだ。

だから、彼女はそれを満たす為に彼女は進む。

 

 

 

 

―――あの甘い果実を掴みとる為に。

 

 

 


 
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