【13】
1
華琳は玉座に座り、軍議の始まりを待っていた。
より具体的には、最後のひとりの到着を待っていた。
玉座の間には彼以外の面々はそろっている。春蘭、秋蘭、桂花、風、季衣、流琉――それに凪、真桜、沙和の三人にも出席を許した。
「あんの精液男――いったいどこほっつき歩いてんのよ」
桂花は見るからに苛立っている。また同様に機嫌がよくないのは春蘭であるが、彼女と桂花が不機嫌であるその理由は少し違うのだろう。
桂花は確かに男嫌いで今待っている男も例に漏れないのだが、彼女は『彼の能力』は認めており、よって彼女が今苛立っているのは軍議が始まらないことによって『仕事が進まない』ことに対してである。
他方春蘭は、そもそも彼のことが気に入らないらしい。よって軍議であろうがなかろうが、『彼に待たされていると云う事実そのもの』が気に入らないのだろう。
そんなふたりを愛らしく思いながら、華琳は悠然と構えている。
見れば風がこちらを見て微笑んでいた。ただ彼女の場合、表情と内心はまるで一致していない。と云うより、その表情から内心を読み取らせない。それは軍師として、或いは政略家として稀有な才能であって、こうしてこの場に味方として立っていることを頼もしく思う。
「風、一刀はどうしたの?」
「もうすぐ帰ってくると思うのですよ。ほら、噂をすればー」
足音が響いてくる。
そして、玉座の間にその男が現れた。身体の線を際立たせる、漆黒の軽鎧を纏って。
「アンタねえ! いったいいつまで遊んで……」
気色ばむ桂花の語尾が萎んでいく。その理由はひとつ。
「すまない。遅くなった」
虚は、ひとりではなかった。
目を見張るような美少女を傍らに連れて、けれども何事もないかのような顔で現れたのだ。
「……お兄さん」
風は呆れたような声を出す。
「一刀……その子は?」
華琳はなるべく平静を装ってそう問うた。
よもや、今まで、夜通しで、その美少女と遊んでいましたと云うわけでもないのだろうから。
「紹介する。徐庶元直だ。万徳と共に俺の副官を務めさせる」
虚は手短にそう少女のことを紹介した。
白と藍を基調にした丈の短い服は、肩と背中が大きく露出しており、白く華奢な少女の体躯を強調している。風よりも更に髪の色は淡く、神々しささえ感じさせる美しさを、彼女は持っていた。
「お初にお目にかかります曹操さま。徐庶と申します」
薄く艶っぽい唇から、鈴の音のような声が発せられる。
「私は曹孟徳。一刀、あなたの判断であなたの麾下に加えると云うのなら何も云わないけれど――」
「文武共に優れている。経験は俺の傍らで積ませるさ」
そう虚が云うと、徐庶は熱っぽい目で彼を見上げる。華琳はそれを見て、桂花が自分に向けるまなざしを思い出した。
それにしても――。
「風に慧、次はその子? とやかくは云わないけれど、腎虚で倒れたりするのはなしよ」
華琳がそう云うと、徐庶はみるみるうちに頬を朱に染め、縮むように俯いてしまう。
「華琳、誤解を招くような物云いはよしてくれ。俺は誰にも手を出してない」
「ふふふ、お兄さんは焦らし上手なのですよー」
風が軽口をはさむと、虚は呆れたように肩をすくめ、徐庶はそっと窺うように虚を見上げている。
――ああもう。可愛いわねあの娘。
ただ、こちらから迫ろうとは思わない。
華琳が所有しているのは虚の身体、そしてその身体に宿るもの全てであって、彼の麾下にある将は、あくまで彼のものである。
無論、向こうから求めるのであれば歓迎するのだが。
「……華琳さま」
桂花が咳払いをしながらこちらをうかがう。
「そうね。皆揃ったことだし、始めましょうか」
その一言で場の空気が張りつめる。
心地良い緊張だった。
「桂花、報告なさい」
「は。もう知れ渡っていると思いますが、南陽は宛が黄巾軍によって落城しました。その際、南陽太守は戦死、黄巾軍はそのまま宛に入って占拠しており、敵の総大将は張曼成と名乗っています。現在、長社防衛に当たっていた左中郎将、皇甫嵩が二万の軍勢を連れて宛の奪還に向かいました。それによって減じた長社防衛の人員を補うため、洛陽より援軍一万が派遣されたようです。援軍は数日中に到着する模様」
桂花が淡々と報告を終える。
「風、ではあれを説明してちょうだい」
「はいはいー」
いつもの間延びした調子で答えると、風は咳払いをひとつ。
「現在散発的に黄巾の略奪が続いているのですが、そろそろ大きな動きが来るのです。これ以上もたもたしていると、冀州の方が押され始めますからねー」
「ふむ、それでその動きとは?」
秋蘭が問う。
「宛、長社、陳留での三面作戦。恐らく宛で黄巾軍と皇甫軍が接触したその直後、長社、陳留に攻撃があると思われるのですー。近頃、暴れる黄巾賊の数も目に見えて減ってますからねー」
その言葉に、夏侯姉妹が目を見張り、季衣と流琉が息を呑む。
「私も同じ考えよ。相手の兵数は、そうね――」
華琳が不敵に微笑みながら、言葉を切ると、
「十五万、その前後と云ったところだろう」
虚が口をはさむ。
「根拠は?」
秋蘭が虚に問うた。
「宛に四万五千、長社攻めに四万、陳留攻めに七万。計十五万五千。この作戦に最低限必要であろう数だ。敵は冀州に二十五万と云う大兵力を割いている。こちらには必要限度の兵力しか残していないだろう」
「それでも十五万か」
思案顔の秋蘭に、春蘭が声を上げる。
「雑兵が十五万集まろうが二十万集まろうが同じことだ! ただ貫き、打ち倒すのみ!」
けれども、云い放った春蘭を桂花が睨み付けた。
「馬鹿ね。籠城するに決まってるでしょ」
その言葉に春蘭が眉根を寄せる。
「賊ども相手に引きこもれと、そう云うのか!」
「当然でしょ? 陳留の兵力は五万。七万くらい相手に出来るわ。でもね、長社には援軍が入っても一万五千しかいないの。もし長社が落ちればすぐにこっちへ敵の増援が流れてくるわ。だから、兵力は温存するの」
「ふむ。だが桂花、それではジリ貧ではないか?」
そう問う秋蘭に風が答える。
「いえいえー、それは大丈夫なのですよ」
「どう云うことだ?」
「陳留から宛へ一万の援軍を出しますからー」
「……なるほど」
秋蘭はそれで納得が云ったらしい。彼女の読みの速さ、理解力の深さに微笑みながら、華琳は春蘭の方に目を向ける。納得顔の妹の横で、姉はまだわけが分からぬらしい。
ただ、ここで疑問を口にしたのは季衣だった。
「でも風ちゃん、兵力が足りないのに、一万も出しちゃって大丈夫なの?」
「大丈夫よ、季衣」
桂花が優しく諭す。
「相手が仕掛けてくるであろう三面作戦の要は宛での勝利。宛で勝ち、そのまま長社、陳留を呑み込む算段でしょう。だから、こっちは逆に宛を速攻で落とす。その後、取って返した援軍で陳留に迫る敵の背後を突くわ」
「その……落とせるんですか?」
流琉が恐る恐る問う。
「落とせますよー。相手が野戦を選んだ場合には、その日にでも。相手が籠城した場合でも数日中に決着がつくでしょう。宛にはお兄さんに向かってもらいますからー」
風が穏やかな眼差しを虚に向ける。
虚はその眼差しには応えず、ただ冷静な視線をこちらに向けた。
華琳はふっと笑んでそれに応える。
「宛への援軍、総大将は春蘭に任せるわ。一刀は軍師として自分の隊を率い、それに続きなさい」
「わかった」
「か、華琳さま!」
春蘭が声を上げる。
「あら、不満なのかしら? 思い切り戦いたかったのでしょう、春蘭」
「それは、そう、ですが」
「一刀は武官としても優秀――なのを知っているのは私と、凪くらいかしらね」
「はっ」
凪が鋭く返事をし、尊敬のまなざしで虚を見る。
――凪も時間の問題ね。もしかしたら、もうすでに……。
そんなことを思いながら、凪に視線を向け発言を促す。
「恐れながら申し上げれば、虚さまの武芸の腕は春蘭さまと同等か、あるいは――」
「な、馬鹿を申せ! 私があのような優男に負けるとでも云うのか!」
流石に武人としての誇りが許さぬのか、春蘭が声を上げる。
「ならば春蘭、今回の戦で一刀の力量をあなた自身の目で確かめればいいでしょう」
「は! この夏候元譲。喜んで援軍総大将の命、お受けいたしましょう!」
華琳は愛しい部下の威勢のいい声に、満足げに頷いてみせた。
「桂花、兵の準備は?」
「は、すでに完了しています」
「では、一刀と春蘭は準備が整い次第すぐに出発なさい」
「わかった」
「御意!」
心地いい返事に華琳は淡く笑む。
「一刀」
「ん? なんだ?」
「凪、真桜、沙和をあなたの隊につけましょう」
その言葉に三人が三様に驚く。
中でも凪は嬉しそうだった。
「いいのか? こっちの守りもあるだろう」
「重要なのは宛を迅速に落とすこと。この三人がいれば援軍の犠牲も少なく済むでしょうしね」
「華琳がいいなら異義はない」
虚はそこで言葉を切った。
「あんのー、ちょっとええ?」
そこに言葉をはさみこんだのは真桜である。
「なにかしら」
「そもそも前提として、敵は三面作戦なんて仕掛けてくるん?」
確かに、もっともな質問かもしれない。
どうやらこの問いには風が答えるようである。
「風とお兄さん、それから華琳さまと桂花ちゃんはそう読んでいるんのです。それに今回の作戦通りに動けば、仮に敵が三面作戦ではなく、他の動きをとったとしても、こちらは柔軟に対応できるのです」
「そうなん?」
「長社一転狙いで来たなら、宛は皇甫嵩さんに戦線維持を頼み、援軍部隊は長社へ。陳留からも長社へ出れば叩き潰せます。陳留一転狙いで来た場合には、長社から朱儁さんに出てもらい、お兄さんたちは宛を落とした後に戻ってくればいいのです。宛に一転狙いが来た場合には、長社、陳留から増援を更に送れば詰みなのです。他にも色々敵さんの動きは想定できますが、宛に向かうのがお兄さんと春蘭ちゃんですからねー。敵の動きは尽く封殺できるのですよー。ちなみにこれはお兄さんの策なのですー。お兄さんは鬼畜ですからねー、相手を縛り上げるような策がお好きなようなのですー」
風は口に手を当てて笑う。
「ただ敵さんは大兵力が売りですから。豪華に三面作戦でくると思いますよー。三面作戦が最もこちらの行動を制限できますからねー」
「真桜、分かったかしら」
「了解や、しっかり働かしてもらうで。よろしゅうな隊長」
真桜がそう云うと、虚は怪訝な顔をする。隊長、などと呼ばれたのがしっくりこないらしい。
思わず華琳が吹き出すと、虚が批難がましい半眼を向けてくる。
「今回の作戦目的は宛の奪還、長社、陳留の防衛――そして出来るなら、恐らく陳留侵攻軍にいるであろう首魁張角を討ち取ること」
華琳の言葉に、桂花が目を見開く。
「首魁は冀州にいるのでは――」
「陳留(こちら)にいると云うのが一刀の読みよ?」
そう云うと桂花が虚に視線を向ける。
「根拠はなに?」
「冀州は兵数が多すぎて諸侯の的になっている。狩人が来ても、碌に動けない間抜けなイノシシ――統率された精兵ならまだしも、雑多な弱兵ばかりで鈍重な大所帯を集めればそうなることは目に見えていたはずだ。あれは囮だよ。二十五万の雑兵を使った、派手な囮。黄巾軍の主要な将もこっちに集まっているだろう」
「そう云うことよ。仮に張角がいなかったとしても、ここで黄巾の主要な将をことごとく討ち取ってしまえば、あとは率いる者のいない烏合の衆が残るだけ。派手に叩き潰してあげるわ。――それじゃあ皆、準備を始めなさい。解散!」
華琳の言葉に皆が慌ただしく散っていく。
その様を見ながら、華琳は思う。
黄巾の乱――これは確実に動乱の時代の開幕を呼び込む。
そして、決して一筋縄ではいかない。
冀州の雑兵たちを相手にしている連中は侮っているかもしれないけれど――長社で見た兵の統率は見事なものだった。
華琳は不敵に笑む。
けれども、と。
――我が覇道の妨げとなるなら、容赦なく掃滅してあげるわ。
2
「準備終わりました。いつでも出られます」
万徳はいつもの固い調子でそう報告した。
「わかった。策は向こうに着いてから調整するが、大まかな流れはさっき云った通りだ。ご老体には本陣で茶でも啜っていてもらおう」
「そうおっしゃられると思いまして、よい茶葉を用意してあります。皇甫嵩さまも気に入られることでしょう」
「気が利くな」
「は、ありがたきお言葉。では私はこれで」
「ああ」
何かを察したように万徳は潔くその場を去っていった。
虚は背後から感じている視線に応えるように振り返る。見遣った先では、楽進、李典、于禁の三人娘がこちらに歩いてくるところである。
三人は虚の前に立つと礼をとった。
「虚隊長、この度隊長の隊に加えていただけましたこと光栄に思います」
楽進は持ち前の生真面目さを練り上げたような挨拶を始める。その様子に、虚は淡く笑う。
「堅苦しいのはよしてくれ楽進。肩がこる」
「は。ご命令とあらば心がけます」
「凪ぃー、そう云うのがカタいって隊長は云うてるんやで? な、たいちょ?」
「真桜ッ、流石に馴れ馴れしすぎるぞ。すみません隊長。真桜も悪いやつではないのですが――」
「かまわないさ」
虚は軽く肩をすくめてみせる。
「仕事をこなしてくれる分にはな」
「云うやないの隊長。まあ、いっちょまかしとき。ばっちり働かせてもらうさかい」
「期待している」
云うと李典は大槍を掲げ、力こぶを作って笑みを向けてきた。彼女の持つ大槍がどう見てもドリルであることには、もう何も云うまい。
神里の得物にしても銃なのだ。いちいち疑問を差し挟んでいては無駄に疲れるだけである。
「むー、隊長ー、凪ちゃんと真桜ちゃんばっかり構ってちゃ嫌なのー」
「ん? 誰だ、おまえは」
訝しむような視線を向けてやると于禁が目を丸くする。
「ええー!? ちょっとちょっと、隊長ぉー」
「冗談だ、于禁」
「隊長ひどいのー」
頬を膨らませる于禁に、楽進、李典が目を細めて微笑んでいる。この三人は相当に仲がいいらしい。聞いたところによると、大梁義勇軍はこの三人で率いていたようだから、仲がいいのも当然かもしれない。
「楽進、身体はもう大丈夫なのか?」
「はい、自分、回復だけは早いもので」
「装備も直っているようだな」
長社で見たときは胸当てが大きく陥没していたはずだ。
「そらウチがソッコーで直したからな」
「なんだ、李典は鍛冶師なのか?」
「ちゃうちゃう、ウチがホンマに得意なんは絡繰りや。ただ、この螺旋槍作るときに武器や防具のこしらえ方も相当勉強してなあ。まあ、元々金属の扱いは絡繰りの方で慣れとったし? 今となっちゃ、かなりの腕やと自負しとるで。凪の手甲や胸当ても、沙和の双剣もウチの作や。中々のもんやろ?」
虚はじっと楽進の装備を観察する。
確かに――悪くない。
長社では波才に凹まされていたようだが、それでもこの薄さでこれだけの強度を保っている点、李典の技術は並みのものではないだろう。
虚は指の背で凪の装甲を叩きながら確かめる。
やはり、悪くない。
「あ、あの、隊長」
楽進が囁くように云う。
「ん?」
「たいちょぉ、いくら装備の上からや云うても、女の身体を軽々しく弄りすぎやで。隊長は慣れとんのかもしれんけど、凪は見ての通りウブやねんから手加減したってーな」
にやにやと笑いながら李典は楽進の頬を指でつつく。
「照れてる凪ちゃんかわいーの!」
于禁に至っては抱きつく始末。
「ああ、そうだな。悪かった」
「い、いえ。その、別にかまわないのですが。えと、突然だったもので」
「たいちょ、あらかじめ云うといたら、凪の身体撫で放題やて」
「ば、馬鹿! そう云う意味で云ったんじゃない! 私は装備の話をだな!」
「凪ちゃん顔真っ赤なのー。すりすりー」
――収拾がつかんなこれ。
虚は微かに眉根を寄せる。
「す、すみません隊長。出陣前にご挨拶させていこうと思ったのですが、このようなことに」
「かまわないさ」
「凪ぃ、まだまだかったいでぇ? ほな隊長。挨拶もさせてもろたし、ウチらはそろそろ戻らせてもらうわ」
「たいちょ、またねーなの」
三人娘はこちらに礼をとると、潔くその場を去っていった。
虚は三人娘を黙って見送った後、踵を返し、部隊の先頭――自分を待っているであろう愛馬のもとに向かう。
こちらの世界にやって来てまだそれほど時間は経っていない。にもかかわらず、虚はすっかり馴染んでいた。本来であれば、もっと戸惑ってもいいはずである。
考えないようにしていたことだ。
そもそも一介の大学生でしかなかった自分に、この時代の武将を圧倒できるほどの武芸の腕がある筈がない。しかし、虚の脳ははっきりと己に宿る力を自覚していた。
くらりと眩暈に近い感覚に襲われる。
毎度そうだった。記憶の中の曖昧な部分について考え始めると、それを遮ろうとしているかのごとく、眩暈や頭痛が起こる。
だからそこで意図的に思考を中断する。
そう、いま集中せねばならないのは黄巾の乱――その鎮圧なのだから。
自分にはその中で戦う力がある。それが分かっているだけで良いではないか。
「顔色が悪いわよ、一刀」
視線を上げると、愛馬黒王号の傍らに未来の覇王が佇んでいた。
「見送りか? らしくないな。主のすることじゃない」
「別の用事があったの。ここに来たのはそのついで」
「そうかい」
虚は淡く笑む。
「……なによ」
「いいや、別に」
「ねえ、一刀」
華琳は黒王号を撫でながら話し始める。
「以前、話してくれたでしょう。あなたの世界の歴史の話」
「頼らないんじゃなかったのか?」
「頼らないわよ。ただ、興味はあるわ。ひとつの物語として」
華琳の美しい横顔に宿った感情がなんであるのか、虚にもいまいち掴みかねた。
「潁川で波才は敗北し死んでいるはずだ、俺の知る歴史では。すでにこの世界の歴史は俺の知識と大きくずれている。未来視の真似事はできない」
「そう、安心したわ」
小さな主がこちらに向けた笑みは、いつか見た優しい微笑だった。
「きみが俺のことを案じていてくれたとはな」
「あら、誰がそんなことを云ったのかしら?」
「おや、勘違いだったか」
「ええ、それも甚だしい、ね」
蠱惑的な笑みを浮かべ、華琳は小首をかしげる。
「陳留(ここ)に攻撃があれば、恐らく波才、そして首魁の張角が軍を率いてくるだろう」
「数を揃えても所詮は賊。全力で迎え撃ってあげるわ」
「籠城だぞ。夏候惇じゃないんだ、くれぐれも飛び出したりしてくれるなよ」
「わかっているわよ。あまり曹孟徳を舐めないで欲しいわね」
挑戦的な半眼で、華琳はこちらを見上げてくる。
「――すぐに戻る」
不意に吹いた風が、伸びた虚の髪をたなびかせた。
「当然よ。黄巾賊相手に手間取ったりしたら許さないわ」
「ふ……御意」
虚は片膝をつき、華琳の白い手を取る。
「我がしもべ虚に命ずる。曹孟徳の名のもとに、宛の賊徒どもを完膚なきまでに撃滅せよ」
小さな主の言葉に、虚はその白い頬を歪ませた。
「了解した――我が主」
3
もう一刻もすれば、空は朱色に染まるだろう。
行軍は思った以上に順調で、予定よりも早く、宛近郊にある皇甫嵩軍野営地に到着することが出来た。
「おお、見えたぞ」
傍らで夏候惇がそんな声を上げた。声音を聞くに機嫌は上々らしい。が――。
「夏候惇は皇甫嵩将軍に会ったことはあるのか?」
虚がそう問うと、途端に彼女は眉根を寄せて、あからさまに不機嫌な表情を作る。
――嫌われたものだな、俺も。
「……ないこともない」
夏候惇はぶっきらぼうに答える。
「華琳さまのお父上の知己でな。剛毅快活な御老だ」
「そうか」
ならば合流は上手くいくだろう。
夏候惇の話ぶりから察するに、皇甫嵩の人柄も悪くないようだ。面倒な相手だとそれだけ連携が取りづらくなる。ただ今回は、その心配をする必要はなさそうだった。
「……虚」
そんなことを考えていると、非難がましい声が届く。
「なんだ?」
「貴様、その馬はどうにかならんのか」
夏候惇は顔をしかめながら黒王号を見やる。
「貴様に見下されるのは気に食わん」
通常の馬よりふた回りほど大きい黒王号に乗っていると、どうしても夏候惇を見下ろす格好になってしまう。それが彼女にとっては気に喰わぬらしい。
「一万歩譲って私はいいとしてもだ。その高さでは華琳さまをも見下ろすことになろう」
「その華琳の許可を得て俺は黒王号に乗っている。大体、華琳の絶影号はそう大きな馬でもない。見下ろすことになるのは俺だけじゃないだろう」
「貴様は高すぎると云うておるのだ」
「文句は華琳に云ってくれ」
「それは云えん」
「なんだそれ」
「貴様は華琳さまの臣としての自覚が足りん」
夏候惇の言葉に、虚は淡く笑む。
「俺は臣と云うのは正確じゃないな」
「――なに?」
「いや、なんでもない」
「ふん、わけのわからんやつめ」
そう云うと夏候惇はこちらをぎろりと睨んで、馬の腹を蹴り、先に行ってしまった。
赤い衣に黒い髪。
曹孟徳が誇る夏侯姉妹の片割れが、馬を駆って戦場へ向かっていく。
比べるようなことではないかもしれないが、それでも彼女は華琳の陣営で最も忠義に厚いひとりだろう。彼女が華琳に抱いている親愛の情もまた、その忠義と同じだけ大きなものに違いない。
だが、虚と華琳はそのような関係ではないのだ。
そこにあるのは忠義ではなく服従。
親愛ではなく契約。
他の家臣たちと比べ、もっと残酷で、緊密がゆえに疎遠な関係が横たわっているだけだ。
ただ、それを夏候惇に説明したところで何が変わるわけでもないし、彼女に上手く説明できる気もしなかった。下手なことを云えば、きっと話がこじれるばかりだろう。
そんなことをぼんやりと思いながら、虚は黒王号の腹を蹴った。
戦の時は近い。
4
野営地に着いた虚たちを出迎えたのは、白い無精ひげを生やした体格のいい老人だった。
「夏候元譲、我が主曹孟徳の名代として参陣仕りましてございます、皇甫嵩左中郎将閣下」
礼をとる夏候惇の隣で、虚もうやうやしく礼をとる。
「はっはっは! よせよせ元譲。左中郎将閣下だと? そのような口上、そなたの口には相応しゅうないわ! 背筋がかゆうなるぞ」
皇甫嵩は白い無精ひげをなでながら豪快に笑う。
「孟徳嬢は息災か、元譲」
「はっ、近頃は頭痛も治まっておりますようで、臣下一同安堵しております」
「それはよい知らせだのう。して――元譲。そなたの傍らに控えるは何者ぞ」
皇甫嵩の問いに夏候惇が答える。
「これなるは虚。先日我が主が召し抱えました軍師に御座います」
「――虚に御座います。これは副官の徐元直」
改めて礼をとると、虚は短く名乗り、傍らに控えさせていた神里を紹介した。
「そなたが噂の真黒の虚旗を掲げる男か。顔を上げよ」
「は」
虚は顔を上げ、真っ直ぐに皇甫嵩を見据える。皇甫嵩はじっと虚の眸を見つめると、愉しげに口角を釣り上げた。
「……ほう。孟徳嬢も面白い男を抱え込んだものだの」
見聞するような皇甫嵩の目からは先ほどのような笑みは消えていた。
「そうか、軍師か……ふ、まあよい。して虚よ。軍師と云うからにはワシらに策を授けるとそう申すのだな」
「仰せとあらば」
「くっくっく……威勢のいい若造だわい。よかろう、時に余裕があると云うわけでもない。さっそく軍議としゃれ込むかの。よいな、元譲」
「は」
「うむ。そうとなればここに呼ばねばならぬ者たちがいる。ここに来る途中義勇軍を拾っての。総兵力はそなたらと合わせ、三万五千となった」
皇甫嵩は護衛の兵を呼ぶと、義勇軍の将を呼ぶよう指示を出した。
その間に、夏候惇は陣の設営を急がせる。
日は傾き、あたりはもうじき夕闇に呑まれようとしていた。
※
空は朱色を過ぎて群青に染まり始めている。宛城攻略軍の野営地にも、夜の足音が聞こえ始めていた。
薄闇に染まりゆくのは軍議のために設けられた席も同じであったが――その中に、淡く光を放っているのではないかと思えるほどの美少女が座っているだけで、場の陰気さはひと息に払拭されると云うもの。
神里は露出した白い肩をややすくめながら、用意された椅子に座っている。
「あの、虚さん?」
背後に立った虚に呼びかけると、彼は面倒そうに顔をしかめた。彼の云いたいことは分かる。下らない質問はするな――これだ。
だが状況がおかしすぎる。
もうじき義勇軍の面々が呼ばれ軍議が始まろうと云うにもかかわらず、もうけられた椅子に座っているのは神里であって、肝心の虚は神里の背後に我関せずと云った顔で佇んでいるだけ。ちなみに夏候惇将軍は隣の席で、ぶすっと黙り込んでいる。
「今回の策はおまえのものだ」
「ち、ちがいますっ」
そう、まるで違うのだ。
始まりは行軍の途中で、彼が神里に「韓忠を討て」と云ったこと。
神里にはそれだけで、彼がどのような策をとろうとしているのかがすぐにわかった。だから答え合わせをさせて欲しいと彼に乞い、彼の考えているであろう策を述べてみせたのだ。
その結果が現状である。
策自体は彼のものであるにもかかわらず、神里は軍議の席に座らされ、虚は「おまえの好きにやれ」と云うばかり。
これまで仕官の経験もなく、しかも着任したのは一昨日である神里に、彼は軍議での発言をも丸投げしたのだ。もし、この席で神里が妙なことを口走れば、虚の、ひいては曹孟徳の沽券にかかわると云うにもかかわらずである。
信頼されている――そう思うと嬉しくなるのは事実だ。憧れの人から「おまえに任せる」と云われるのは、胸に迫るものがある。
そこで神里ははたと気づく。
これは同じなのだ。
虚ろが自らの部隊をひたすら無策に突撃させて、最強であり絶対忠実な部隊を作り上げたように。いまは神里を軍議の席に突撃させて、育てようとしてくれている。
――経験は俺の傍らで積ませるさ。
陳留で彼が云った言葉を思い出す。
もう始まっているのだ。
「やれるな?」
「――はい」
神里は虚の顔を見上げて、神妙に頷いてみせる。すると彼は神里の被った帽子の上から、そっと頭を撫でてくれた。子ども扱いされているようで心外である反面、どうしようもなく嬉しくて頬が熱くなる自分を感じる。
「待たせたの」
席を外していた皇甫嵩が戻ってくる。
「年を取ると、ちこうなっていかんわい。ん? なんだ虚、そなたなぜそのように控えておる」
「は、我が副官徐元直に妙案あり。お許しいただけるならばこの場はこの者に任せたく思います」
「ふむ、真黒の虚旗――その傍らをまかされし者か。面白いの。よかろう、許す。見目良き娘がおれば、場も華やかになろうと云うものよ。がっはっは!」
神里は大笑いする皇甫嵩から目を伏せ、思わず服の裾を押さえる。
虚以外に下着を見せるわけにはいかない。
神里は、氣を練るための衣装とは云え、自分が丈の短い衣服を着ているのは重々に承知している。だからさり気なく下着を見せない術は心得ているのだ。
勿論、神里だけではあるまい。丈の短い衣服を着る女性と云うのはえてして、下着を見せず立ち振る舞う術を心得ているもの――余裕のない戦場でもなければ隙を見せることもないのだが。
なぜか虚は平常時であってもその隙を見逃さず指摘してくる。彼の副官になってから五度は「下着が見えている」と、しかつめらしい顔で注意された。
これはもう彼が目ざといだとかそう云う問題ではない。
そうではなくて、彼の前ではこちらの警戒心が下がってしまっているのだ。
神里はそこに、ひとつの解を見出す。なぜ虚隊の兵士が彼に心酔するのか、なぜ万徳が彼に服従するのか。
――それにしても私、虚さんに下着見られすぎだよ……。
人知れずうなだれる神里であったが、次の瞬間響いた声に、気を取り直して顔を上げる。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって」
現れたのは、穏やかな声をしながらも何処か間の抜けた様子の女性。虚の様子をうかがうと、彼はいつになく真剣な様子で彼女を見つめている。
まさか、と思いながらも、神里の視線が向かうのは女性の胸部。
腰部には少々自信があるけれども、胸部においては今一女性的に成熟していない神里にはまるで勝ち目のない、対男性用籠絡誘惑兵器マ・ニュウが誇らしげに彼女の衣服を盛り上げている。
「妙な勘違いはするなよ、神里」
虚の声が背後から届く。
「……わかってます」
意図せず声が不機嫌になる。
――絶対見てたもん。
現れた女性は他にふたりを伴っていた。ひとりは黒髪をひとつに結った麗人でその立ち振る舞いから武官であることが分かる。こちらの女性もマ・ニュウを装備しているようだが、もう構うまい。
そしてもうひとりは、小柄な――。
「……元直ちゃん」
水鏡女学院での同級生。
他者の追随を許さず、ずっと首席でい続けた天才であり、師・水鏡をして天下が取れると云わしめた稀代の才女。
「真名は許したはずだよ、朱里」
「うん、そうだね、神里ちゃん」
朱里は小首を傾げて淡く笑む。
「あれ、朱里ちゃん。お友だち?」
先頭に立っていた女性が朱里に話し掛ける。
「桃香さま」
それを黒髪の麗人がたしなめた。
先に挨拶をしろと云いたいのだろう。神里はその気配を察して椅子から立ち上がる。その際盗み見た虚の眸は、ぞっとするほど冷酷な光を宿していた。
「あ、ごめんなさい。この度皇甫嵩さんと一緒に宛城攻略に参加させていただくことになりました――」
そこで女性は微笑んで。
「劉玄徳、と申します」
そう名乗った。
彼女の挨拶にまずは夏候惇が応じる。
「陳留が州牧、曹孟徳さまの名代として参陣した、夏候元譲だ」
それに神里が続く。
「はじめまして、徐元直です。えっと――」
云いよどんだその間隙を埋めるように、背後から漆黒の声が響いた。
「虚だ。曹孟徳のもとで軍師のようなことをしている。お初にお目にかかる。劉備殿、関羽殿、そして諸葛亮殿」
虚の挨拶に、その場にいた者たちの顔色が変わる。
「どうして……」
劉備が呟く。
関羽と呼ばれた麗人も、それから小柄な同級生も言葉を失っていた。夏候惇は訝しげに虚を睨んでいる。ただ、皇甫嵩ひとりがいやに愉しげだった。
「あなたがたは、自分たちで思っているよりも名が知れている。劉備殿の麾下の将で、この場に現れたのはふたり――ひとりは軍師、もうひとりは護衛。であれば軍師の方は『伏龍』諸葛孔明殿。護衛の方は文武に優れた関雲長殿であろうとお見受けしたまで。――鳳士元殿と張翼徳殿は留守番か」
劉備、関羽、そして朱里の顔が驚愕に塗りつぶされていく。
虚が今云った『あなたがたは、自分たちで思っているよりも名が知れている』との言葉――これは詭弁だ。神里とて師より破門された後、漫然と世を彷徨っていたわけではない。
少なくとも、有力な諸侯、名の知れた人物のことは把握していたつもりである。
曹操を始め、袁紹、袁術及びその客将孫策、涼州の馬騰、董卓、幽州の公孫瓉――しかし、劉玄徳などと云う名は聞いたことがない。
黄巾の乱に乗じて立ち上がった、駆け出しだろう。
だから少なくとも、『名が知れている』と云うのは嘘だ。
恐らくは、虚が独自に調べさせていたと云うことなのだろう。劉備、関羽の実力のほどは分からないが、『伏龍』と名高い朱里については、彼が注目していておかしくない。
否――朱里が使えるに足る人物だと見定めたのであれば、劉玄徳と云う女性は一角の人物なのかもしれない。
「はっは! 虚よ、あまりからかわんでやれ。――さて、では始めるとするかの」
皇甫嵩の促しに、その場の面々が席に着く。神里の背後に佇む、漆黒の男以外は。
「ではまず、現状の確認からさせていただきます」
初めに口を開いたのは朱里だった。腕を組み、瞑目した皇甫嵩が発言せぬものと悟ってのことだろう。
日は随分と傾き、席の中央に燃える炎がその役割を発揮し始める。
「敵黄巾軍の兵数は四万五千。現在宛城を占拠している敵軍は、城門の前に布陣。野戦を仕掛けてくるつもりのようです」
「ふん、望むところだ」
夏候惇が不敵に笑えば、
「まったくだの」
皇甫嵩がそれに応じる。
「数では向こうが上回りますが、所詮は賊徒。兵の質、将の質はこちらと比べるまでもありません。ゆえに、今回は素直に勝負を挑みたいと思います」
「どうするのだ」
皇甫嵩が朱里に問う。
「はい。前曲に我々義勇軍五千と皇甫嵩軍より五千の一万を配置、後曲本陣には残る一万、右翼左翼には曹操軍よりそれぞれ五千ずつを配置。戦闘開始と共に前曲がひと当てし、そのまま後退。敵前曲を突出させ、それを左右の騎馬隊で分断、その後包囲殲滅します。そのまま勢いに乗せ、味方前曲は敵後曲の正面に突撃、騎馬隊は横撃を掛ける」
「ふむ、悪くないの」
確かに、悪くない。彼我の戦力を考慮に入れた素直、そして丁寧な策である。
純粋な野戦、しかも相手は烏合の衆。無駄な奇策を弄せば、義勇軍、皇甫嵩軍、曹操軍と、精兵でありながらそれでも寄せ集めでしかないこちらは碌な連携も取れず、かえって混乱を招くだろう。
ひとつひとつ積み上げ、確実に勝利を掴みとる道筋を迷いなく示してみせたのは、流石に諸葛孔明。更に云えば、駆け出しの義勇軍でしかない劉備軍が前曲を務めることで、戦功をあげ、飛躍の時を引き寄せたいのだろう。
ただ、ここで神里は駆け出しの義勇軍の現実を悟る。恐らくは優秀な細作が育っていないのだろう。でなければ、朱里が今回の策を提示するはずがない。
この策は、敵の三面作戦を読んでいない者の策。
恐らく朱里が同じく曹操陣営にいたとしたならば、導き出せたであろう三面作戦と云う解。しかし弱小義勇軍ではそもそも得られる情報が少なすぎるのだ。
判断材料となる情報が少なければ、いくら朱里と云えども読み切れぬ部分は出てくる。天才諸葛孔明と云えども、神ではない。
「虚さまッ!」
掛け声ひとつ、若い兵士が転がり込んでくる。
「控えろ、軍議中だ」
「き、緊急の報せにございますれば、ご容赦くださいませッ」
虚はその伝令兵に冷徹な視線を落とす。
「云え」
「はッ!」
その伝令は身をただし、背筋を伸ばす。
「突如現れました黄巾軍が、長社及び陳留に向け侵攻を開始! 数日中には戦闘に入るかと思われます!」
その場にいた曹操軍以外の面々が驚愕を露わにし、声を詰まらせる。
だが、虚は冷酷に伝令兵へ問う。
「長社に四万、陳留に七万だな」
「は、御意にございます」
「わかった、さがれ」
虚の言葉に、兵士は足早に駆け出していった。
「虚、そなた読んでおったのか」
伝令の言葉にまるで動じぬ虚に、皇甫嵩が問う。
「は、進言申し上げる前に報せが来てしまったようですが」
「ふむ、なるほど。つまり徐元直の策はこれを踏まえてのこと、と申すのだな」
皇甫嵩はこちらに視線を向けてくる。
「はい」
「よかろう、申してみよ」
神里は息をひとつ吸って気を落ち着かせる。
「前曲に我ら曹操軍騎馬隊一万、後曲に本陣、左翼に義勇軍五千、右翼に皇甫嵩軍から五千を配置。敵を右翼左翼で押さえている間に、我々は突貫し、敵の主たる将、及び総大将を討ち取ります」
神里の言に、朱里が顔色を変える。
「神里ちゃん、流石に無茶だよ」
「普通ならそうだよね」
朱里が眉根を寄せる。恐らくこっちの物云いが気に喰わなかったのだろうと、神里は思う。しかし、皇甫嵩の反応は中々よいものだった。
「出来ると申すか、徐元直」
「はい。ここ援軍に参りましたのは曹操軍でも追随を許さない突破力を持つ夏侯惇隊及び虚隊。兵たちは皆精強であり、黄巾の賊徒を貫くなど造作もないこと。また兵を導く将の武も大陸の頂を争うほど高く優れたものですから、黄巾の将を討ち取るなど、赤子の手を捻るよりも容易いことです」
神里が云うと、皇甫嵩は獰猛な笑みを浮かべる。
「ワシが知っておるのは元譲の腕のみであるが、他の者の腕は如何に」
「虚さまも夏候惇将軍に比肩しうる武の持ち主。万の黄巾賊に単騎無手で突撃し、無傷でおられたお方です」 皇甫嵩は喉を鳴らして笑う。
「噂は真実であったか。己を軍師と称しておきながら、単騎突撃を平気でやってのけるか虚よ」
「我が主曹孟徳の道に必要とあらば、百万の敵にでも仕掛けてみせましょう」
無表情に虚が答える。
「はっはっは!! よい! よいぞ、虚! 徐元直よ。己が上官をして、敵兵のただ中へ突撃させるか」
「長社、陳留へ黄巾の進行が始まった今、この宛戦線に求められるのは最小損害、最短時間で勝利することです」
「ゆえに、早々に敵将を縊ると申すか」
「はい。そのために必要であるなら、我が上官虚にも突撃を具申します」
「気に入ったわい! いいだろう徐元直。そなたの策を採用する」
皇甫嵩の言に神里は礼をする。
「さて、話はこれで終わりじゃ。劉備、何かあるか」
「い、いえ」
「ならばこれにて解散とする。ワシは下がるぞ。何せ年寄りの朝は早いからの。がっはっは!」
腰に手を当て、豪快に笑い飛ばしながら、皇甫嵩は去っていった。
直後、夏候惇も「私も下がる」と虚に云い残しその場を辞した。
その後、残された面々の間に云いようのない沈黙が漂ったのは云うまでもない。
5
「酒がある」
静寂を破ったのは以外にも、最も愛想のなさそうな漆黒の男だった。その言葉のすぐ後、一体どこに控えていたのやら、万徳が静かに現れ、酒瓶をひとつと人数分の酒盃をおいたまた下がっていった。
酒瓶には達筆な字で『老龍』と書かれていて――神里は思わず驚愕の声を上げてしまった。『老龍』は陳留で一二を争う高級酒であり、豪商が商談の場にこぞって用意する酒だと云うことで有名だった。
軍師として文官仕事をこなし、更に武官としても働く虚は、いくつか副業を持つことを許可されているらしいから、彼が『老龍』をそこらの安酒が如く振る舞おうが驚くべくもないのだが――貧乏野宿の続いていた神里の身からすれば、『老龍』の実物を目にすると云うことは、それこそ山野を歩いている最中に龍を見かけるようなものであって、思わず「本物ッ?」と声を上げてしまったのだ。
神里が『老龍』の希少性を説明した時の、劉備陣営三者の反応はまた三様であった。
劉備は素直に「わー、すごーい!」と凡百の乙女のように喜び、関羽は「戦の前夜に酒など」と眉根を寄せ、朱里は何も云わぬまま困惑した表情を浮かべていた。きっと虚と云う人間がよく分からずに、困っていたに違いない。
結局劉備に押されるまま他のふたりも酒盃をとり、いま軍議の場は和やかでささやかな酒宴の体となっている。
「朱里ちゃんと元直さんが同級生だったなんてねー」
劉備が呑気な声でそう云うと、
「まさか、同い年じゃないだろうな」
虚がおもむろにそんなことを云った。
「……どう云うことですか、虚さん」
神里がにこりと笑って上官の顔を覗き込む。
「深い意味はない」
よそを向く虚。
はっと目を見開き、「はわわ……」と胸を押さえる朱里。
「心配する必要はない孔明殿。俺の意図は逆だ」
それはつまり、神里の予想通りであったと云うわけで――神里はぎろりと虚を睨む。強気に出られているのは酒のせいだろう。
――どうせ、老けて見えますよ、私は。
年の割に大人っぽい。当たり障りのない言葉で云えばそうなる。確かに朱里よりはふたつみっつ年上に見えるかもしれないけれど――それでも劉備や関羽よりはずっと年下に見えるはずだ。――はずだと神里は自分に云い聞かせる。
「それにな、孔明殿」
未だ胸を押さえたままの朱里に虚は言葉を続ける。
「女人の価値は乳房の大きさで決まるものにあらず。その胸の奥に抱えた心の気高さにより決まると云うものだ。そうしょぼくれていては、愛らしい顔が台無しだぞ」
ここで今日初めて虚が、ささやかながら笑みを見せる。伸びた黒髪の間から覗く、白い微笑は妖しくもあり、美しくもあった。
「はわ、はわわ、はわわわわわわわわ……」
そんな笑みを向けられた朱里は頬を手に当て俯いてしまう。赤いたき火の炎がなければ、いま彼女の顔が何色になっているのか、よく分かるだろう。
ただ虚の言葉はそう真剣に捉えてはいけない。彼は神里と初めて会った時にも、神里を評して「見目良い娘」などと、さらりと云ってのけたのである。
そして彼を見ていればわかるとおり、彼には『そう云うつもり』が全くないのだ。無意識のまま、息を吐くように口説きにかかるのだから、たちが悪い。更に云えば、基本的に笑わぬくせに、そう云う時に限って珍しく微笑んだりするものだから、よろしくない。
否、大変よろしかったりするのだが、それゆえによろしくないのである。
「あはは、ねえ、朱里ちゃん。美味しいお酒のお礼に、今度虚さんに朱里ちゃんの作ったお菓子を食べさせてあげようよ」
空気を読んだのか読んでいないのか、おもむろに劉備がそんなことを云い出す。
「無理無理、無理です!」
「え、どうして?」
「私にお菓子の作り方を教えてくれたのは元直ちゃんなんです! 元直ちゃんの方がずっと上手で……」
朱里の語尾が萎んでいく。
「そんなことないよ朱里。卒業前は私だって負けちゃいそうなくらい上手になってたよ」
「……それこそ、そんなことないよぅ」
朱里が服の裾をきゅっと掴んで首を振る。
「それに陳留はいま甘味がすごく流行ってて、競争がとても激しいんです。特にくっきーと云う焼き菓子の作り方を、最近どこかの職人が公表したらしくて、色々な種類が出ているそうです」
流石にお菓子の情報は早いなあと、神里は苦笑する。
ただ次に口を開いたのは意外な人物だった。
「ああ、それなら私もきいたことがある」
関羽である。
「あれ、愛紗ちゃんお菓子に詳しかったっけ?」
「どういう意味ですか、桃香さま」
「う、ううん、そうだよね、愛紗ちゃんだって女の子だもんね」
劉備は大慌てで墓穴を掘り進んでいく。
「そうですよね、どうせ私は武具を振り回してばかりの汗臭い女。菓子の話などするべきではなかったのです」
「そそそ、そんなことないよ!」
慌てて手を振って否定する劉備だが、関羽はむくれたまま。劉備の動きに合わせてそのマ・ニュウがぶるんぶるん動き、たき火の火に照らされて、ものすごい影を作っている。
劉備軍のやり取りを見かねた神里が話をもどそうとする。
「そのクッキーを陳留に広めた職人、知ってますよ、私」
そう云うと三人の目の色が変わる。
やはり甘味に弱いのは乙女共通の性質らしい。
「さ、さすが神里ちゃん。そんなすごいお菓子職人さんと知り合いだなんて」
朱里が感心したように眸を輝かせる。
きっとこの後自分が云うことを聞けば朱里はもっと驚くに違いない。そんなことを思いながら神里は言葉を続ける。
「その職人さんね、虚さんだよ、朱里」
「――ぶっ!」
背後で虚が噴出する。
見れば、鼻から酒を吹き出していた。戦場での凛々しい横顔が、今は鼻の穴から透明の液を垂れ流す間抜けなものに変り果て――それでも、やはり中々に良い男であった。
「馬鹿、あれを巷に広めたのは流琉だ」
「でも典韋さんに教えたのは虚さんだって」
「おまえ、昨日の今日でいつ聞いたんだそんな話」
「昨日の今日です」
自分でもわけのわからない答えだと思いながら、それでも酒の勢いで押し通す。
「知も武もあり、料理までできるとは」
関羽が感心したように云う。
「愛紗ちゃんはお料理壊滅的だもんねー」
もう劉備はわざとやっているとしか思えない。
それからしばらくの間、劉備陣営の漫才に神里がさり気なく助け舟を出すと云う時間が続き、そして、明日のこともあろうと云うことで、互いに健闘を祈り、その場は解散となった。
ただ、神里は思う。
今、劉備軍は友軍である。
しかし、いずれ彼女らが飛躍の時を迎え、有力勢力の一角を担うに至れば――。
刃を交えなければならなくなるのだろうなと。
6
「――虚さん」
ささやかな酒宴も終わり、天幕に戻ろうとした虚を呼び止める声があった。駆け寄ってくる衛兵を制止し、虚は彼女に応える。
「孔明殿。何か用か?」
そう声を掛けると、諸葛亮は一度視線を下げ、そしてこちらの目をじっと見つめてきた。
「黄巾党の三面作戦――読めていたんですよね」
「……ああ。だがそちらにもこちらと同じだけの情報量があれば、孔明殿も同じ結論に至っていたはず」
諸葛亮は否定しない。それがこの場で何の意味も持たないことを知っているからだろう。
「あなたは。虚さん、あなたにはどこまで見えているんですか。この乱れた世のどこまで――」
虚はじっと諸葛亮の目を見る。
真剣な少女の目。
そして、懸命な軍師の目。
劉備を支えるために、必死なのだろう、この健気な目をした少女は。
天才、諸葛孔明は。
「孔明殿。俺のような男にそんな目を向けるべきじゃない」
やや言葉を崩す。諸葛亮の顔を見るに、その意図は伝わったようだ。
「答えて……ください」
「――俺は曹孟徳の従僕にして、走狗だ。世の先を見通せるほど目はよくない。ただ少し、鼻が利くだけでね」
「正直にお話しします。虚さん、私はあなたが恐ろしいです」
諸葛亮の言葉に虚は苦笑する。
「天下の伏龍の云っていい言葉じゃない」
「ここでは、ただの朱里です」
「俺は曹操の狗、きみは劉備の臣下。この意味の分からない孔明殿じゃないはずだ」
諸葛亮は唇を引き結ぶ。
「私は水鏡女学院で一生懸命勉強しました。ずっと一番でした。がんばって勝ち取った――そのことを誇りに思っています。その矜持も、桃香さまを支えるために必要なものだと思っています」
「ああ、その通りだ」
「桃香さまにお仕えするまでにも、色々な人を見て、色々な人と話をしました。嫌な云い方をすれば、たくさんの人たちを見定め、値踏みしてきたんです」
「己が仕えるに足る者かどうか」
「……はい」
少しの間の後、諸葛亮は迷いのない目で肯定した。この少女は今、偽りなく己の内面を吐露している。それだけでこの少女が虚と云う男にどのような幻想を抱いているのか、おぼろげながら想像出来た。
神里と同じではない。
しかし、彼女が見ているのは虚の虚像だと云うことに変わりはない。
洒落にもならない。
しかし、ここで彼女との会話を切って捨てるべきではないだろう。幻に対してであったとしても、彼女は真剣なのだ。それを叩き潰すのは『違う』のだ。
「桃香さまを見て、すぐに悟りました。あの人には知も武もない。でも、誰にもない深い慈愛を持っている。民に愛される優しい輝きを持っている」
諸葛亮は言葉を続ける。
「愛紗さんには勇ましく清廉な心が、鈴々ちゃんには純粋で頼もしい心が見えました」
でも、と。
「あなたには、何も見えない」
「……そうか」
「ごめんなさい、私、とても失礼なこと、云ってますよね」
「かまわない」
虚は肩をすくめる。
「虚さんの目を見ていると、空を見ているような気になります」
「……」
「じっと見ていると、吸い込まれて、呑み込まれて、青い青い空に『落ちて行って』しまいそうな、そんな気持ちになるんです」
夜風が諸葛亮の帽子を飛ばし、ふわりと虚の手元まで運んだ。
「だから私は訊かずにはいられませんでした。その空のような眸を通して、あなたはどれほど高いところから、どれほど遠くを見ているのか。どれだけ時代の先を見ているのか、訊きたくてたまらなくて、我慢が出来ませんでした。答えをもらえるとは、限らないのに」
自嘲気味に諸葛亮は笑う。
やはりこの少女は、虚と云う男を見誤っている。
しかし、今それを云ったところで仕方がない。
「俺はしがない走狗だ」
「……」
「この狗の嗅いだ匂いの話であれば、少しだけ」
その言葉に諸葛亮は視線を上げる。
「徐州は、豊かでいい土地だ」
少女の目が見開かれる。
「益州も悪くないが、もう少し後。共食いを始めた頃がいいだろう」
彼女の眸に宿る感情は――。
「揚州は名家の腸で腹を満たした虎が押さえる。北は我が主である覇王が制し――」
そして。
「天下は三分される」
「……そんな。私、まだ、誰にも」
少女はまばたきもしない。
「これは少し――ズルだ。それに、そうはならないよ」
虚は諸葛亮に歩み寄ると、すっと屈んで、彼女の頭に帽子をのせてやる。
「朝廷は遠からず力を失う」
「――ッ」
「形式が失われるのは恐らくもう少し先のこと。だが、実質的な権力や威光が失われる日は、もうすぐそこに迫っている。最後の権力者が倒れると共に道連れとなるだろう。俺の鼻が嗅ぎ取ったのは、その先に待っているであろうおびただしい量の血の臭い――それだけだ」
「そう……ですか」
息を吐くように諸葛亮は云う。
「みんなが笑って過ごせる国。泣く者のいない国――」
「ん?」
「それが、桃香さまの理想なんです」
「いい理想だ」
虚は躊躇わずに肯定する。
皆が笑って過ごせる。泣くものがいない。
その素晴らしさを虚は震えるほど理解できる。
そしてそれを目指す者の、悲しさを理解できる。
「はい。……虚さんは、曹操さんのところに?」
「なんだ、引き抜きか?」
淡く笑んで云うと、諸葛亮は迷いなく首肯する。
「あの、一緒に来ませんか、私たちと」
彼女の言葉に虚は首を横に振る。少女はその答えをどこか予想していたようだった。
「云っただろう、俺は曹孟徳の走狗。彼女と俺は、血の鎖で繋がっている。俺のこの身体、そしてこの身体に宿る全ては曹孟徳のものだ」
「……そうですか」
諸葛亮は、諦めたように微笑む。
「ごめんなさい、変な話をしてしまいました」
「気にすることはない。変な話を聞くのは得意だ」
「ふふっ。でもすっきりしました。虚さんの目を見ていると、胸の内を話してしまっても受け止めてもらえるような気がして。他の陣営の軍師さんにこんなの――私、軍師失格ですね」
「ならば、次からはもっと近しい者に話すといい。ため込み過ぎると胸が詰まって息が出来なくなる。窒息寸前のむくれ表情(がお)じゃあ、愛らしい顔が台無しだ」
「もう。お上手なんですから、虚さんは。それじゃあ……私はこれで失礼します」
諸葛亮はぺこりとお辞儀をする。
「最後にひとつだけ助言をするなら」
「はい?」
「曹孟徳とは争わない方がいい」
そう云うと諸葛亮は口に手を当てておかしそうに笑った。
「おやすみなさい、虚さん」
「ああ、おやすみ」
虚は去りゆく彼女を見送るのもほどほどに天幕に入った。
だから。
去り際、こちらを振り返って呟いた彼女の言葉を聞くことはなかった。
《あとがき》
ありむらです。
まずは、ここまで読んでくださっている読者の皆様、コメントを下さったかた、支援をくださった方、お気に入りにしてくださっている方、メッセージをくださった方、えっとそれから……兎に角応援して下さっている皆様、本当にありがとうございます。
皆様のお声が、ありむらの活力となっております。
さて今回で劉備陣営を少し顔出しです。
次回か、もしくは次々回で黄巾はおしまいですね。
では今回はこの辺で。
コメント、感想、支援などなどじゃんじゃんください。
その全てがありむらの活力に!
次回もこうご期待!
ありむら
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独自解釈独自設定ありの真・恋姫†無双二次創作です。魏国の流れを基本に、天下三分ではなく統一を目指すお話にしたいと思います。文章を書くことに全くと云っていいほど慣れていない、ずぶの素人ですが、読んで下さった方に楽しんで行けるように頑張ります。
魏国でお話は進めていきますけれど、原作から離れることが多くなるやもしれません。すでにそうなりつつあるのですが。その辺りはご了承ください。
あと私の描く一刀さんは悪鬼と相成りました。皆様が思われる一刀さんはもういません。ごめんなさい。
それでもいいじゃねえかとおっしゃる方。
ありむらは頑張って書き続けます。どうぞ、最後までお付き合いの程をよろしくお願い致します。