いつからこんなことが始まったのかはもう解らない。けれどそれは今現在まで確かに続いていて、そしてこれからも永劫続いていくであろう神事。
ピジョンブラッドの双眸がふっと眇められ、瞬きすら適わぬ刹那の後に、視線に射竦められたように身じろぎしなかったその痩躯は宙を舞っていた。堅い拳を皮膚の薄い部分に叩き込む鈍い音が響くのは石造りの、窓ひとつない地下室。数拍置いて、その床に人間一人分の身体が打ち付けられる振動が走った。
華奢に見えるとはいえそれでも造りこまれた肉体、そこには無数の傷とそれに付随する流血、くすんだ青や、紫と緑がないまぜになったような痣が刻まれていた。白磁の肌に描かれた暴力の烙印の中でひときわ目立つのは、随所に散った美しい弧をなぞる歯型、その四つの犬歯の痕か。
「初流乃」
青年を殴りつけた鳩の血色の瞳の主は、至極優しく甘やかな声で彼の名を呼んだ。静謐の部屋によく響くヴァリトン。
「返事くらいしないか、初流乃」
くくっ、と喉の奥で笑って、それからゆっくりと靴の踵を鳴らして青年―――ジョルノの元へ近付くDIO。
「死んだか?」
いっそ愉快さすら孕んだ声音。倒れ込んだジョルノの反らした喉元へ囁きかけると、そこはぴくりと確かに脈を打った。僅かに睫毛が震え、ペリドットに似た瞳は左右にぶれてから焦点を見つけたらしい。辛うじて空気が行き来している、という程度の呼吸音が、乾いて罅割れた唇から不規則に漏れていた。
くくっ、と男はもう一度満足気に笑みを溢して、そしてそのまま靴先でジョルノの脇腹、ちょうど肋骨のした辺りを蹴りつける。勢いこそないものの、青年は声にならない悲鳴を上げ、そしてその身体を捩った。そこは昨日、この男から受けた裂傷がある場所だった。
それを知っているからこその攻撃に青年の意識は白む。傷口が熱を持つのを自覚すると同時に、身体全体は冷えていく感覚。傷口が本格的に開いて失血が始まったのだろう。いつからこの感覚に慣れ始めたのだろうか、もう思い出すことすら出来ない。
ジョルノは荒い息をひとつ吐き、そして父を見遣った。光を失くしても力を失わないその視線の先では、DIOが肢体を折って跪き、ジョルノの脇腹の傷に手を伸ばしていた。
次の動作を予測してジョルノが身構えると同時に、伸ばされた指先は熱っぽい傷口に遠慮も躊躇もなく触れ、僅かに粘性を帯びた赤黒い液体を纏わせ、そしてそのまま血色の薄い唇までそれを運ぶ。あまりに猟奇的な一連の動きがどこまでも美しく、ジョルノは目を離すことが出来ない。
どこか淫猥な水音が響く数分間、この数分間だけがジョルノの休息だった。
陽が落ちて、父が目覚め、ひとしきり食欲と知識欲と有り余る諸々を満たしてから、彼はジョルノを呼ぶ。「初流乃、おいで」。どこまでも優しく慈愛に満ちた声で、そして不相応に、どこまでも猟奇的に乱れ狂った眸で。そうして陽が昇る前まで、この地下室で毎晩DIOは息子を嬲る。この行為は嗜虐欲を満たすものなのか、征服欲を満たすものなのか、あるいは性欲に近いものなのか。
ジョルノには判じ難い。そもそも、父のことを理解しようなどと試みたことなどない。自身が育った場所では神を指す言葉を名に持つ父、それを理解しようなどと。
だからジョルノは毎朝、ラー神の加護たる日光を避けるように去った父を横目で見遣り、打ち棄てられた地下室でなんとか命を繋ぐためだけの処置を己のスタンドで施す。やろうと思えばすべての傷口を塞ぎ完璧なコンディションに持っていくことだってもちろん可能だ。だがその行為は、日没を迎えた後の父の機嫌をひどく損ねるものであることを既に学んでいる。だからこうして、放っておけば絶命に至るであろう傷や欠損のみを創造して再生し、痣や擦過傷や噛み痕は残す。
総ては神の思し召す侭に。らしくもない考え、その敬虔の真似事のような思考にジョルノは自嘲した。
失血に伴う鼓動の加速と液体を啜る音は途切れることなく続く。
なにが神だ、それを言うなら自分はプロメーテウスだ。
人間に火を与えたことで大神ゼウスの怒りを買い、カウカソス山の山頂に磔にされた哀れな神。罰として毎日ハゲタカにはらわたを突かれ、痛みと後悔に苛まれながら、神であるが故に死ぬことすら叶わず、朝を迎えればまた回復した躰でハゲタカを受け容れる。
ぼくは、プロメーテウスだ。
「どうした、なにを考えている? 初流乃」
僅かに熱を持った声が石造りの壁に反響する。吸血鬼である父はいつ触れてもひどく冷たいが、食事のあとはその餌の体温の残滓なのか、どこかヒトらしい温度を持つことをジョルノは知っていた。
己の神たる父のこと、己の投影たるプロメーテウスのこと、アドレナリンの過剰分泌で最早痛みすら忘れていること、自分の赤黒い血で満足気に笑う父への、
「……なに、も」
応えたいこと、答えるべきことはたくさんあったはずなのに、もうジョルノの身体はその役目を為さない。肺が潰れたか、気管が歪んだか、舌根が落ちたか、声帯が圧されたか、それとももう言葉を選ぶ脳ごとやられてしまったのか。
それを考えることすらもう億劫だった。いまここに在るのは、敬愛と畏怖の対象であり、近くて遠い父と、その前に無様に転がる自分だ。
イカロスは蝋で固めた羽で太陽に近づき地に堕ちたと言うが、自分もそうなのだろうか。いや、その前にこの父を太陽に喩えるなどと。笑いが込み上げそうな発想だったが、笑う余裕など残されてはいない。
「……初流乃」
父の声が遠い。ひどく遠い。ひどく遠いが、それがどこか切なげな雰囲気を纏っていることだけはしっかりと伝わってきた。
神の声とは、こういうものなのだろうか。
まさか。
薄れゆく意識の中でジョルノはまた笑おうとして失敗した。
父の立ち上がる気配がする。この部屋に時計は無いが、そろそろラー神が顔を出し地を舐める頃合いかもしれない。
ほんの少しの違和感のあとに、頬に温かな感触がした。温かいとは言ってもあくまで相対的なもので、実際は血を失って体温の下がったジョルノよりは高い温度だが、彼はそれがなにかという思索に於いて常に同じ希望的観測を抱いていた。
「では、またな、初流乃」
父が去っていく足音。地下室での反響。白んでいく意識の中で、その時ジョルノは確かに、DIOが止めたであろう世界の中で己が間違いなく、なんの語弊も無く世界で一番愛すべき神の御許に在ったこと、そしてその神の祝福を頬に受けたであろうことを確信して、今度こそ笑った。
いつからこんなことが始まったのかはもう解らない。けれどそれは今現在まで確かに続いていて、そしてこれからも永劫続いていくであろう神事。
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無駄な暴力と無駄な愛と無駄な思索の無駄親子。