No.449557

リスタート

紗雪の過去話です。

オリキャラによる過去介入、および過去改変を含みます。
オリジナルを重んじる人はご注意ください。

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2012-07-09 00:04:36 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:1983   閲覧ユーザー数:1961

 

「ん…」

目を覚ましてまず始めに見えたのは、見慣れない天井だった。

しばしの逡巡のあと、「あぁ、そうか…」と、目覚めた少女――黒羽紗雪は呟いた。

まだ寝ていたい衝動もあるが、そう言ってはられない。言ってはいけない。

――それはもう彼女の幻想ではあるが、いまだ彼女の中にこびりついた習慣であり、まだ抗えぬほどの強制力をもっていた。

天井同様に見慣れない部屋。家具やなんかは最低限なものだけで殺風景な部屋ではあるが、それでも、以前に比べれば何処か懐かしい暖か味を感じる空間。それはきっと部屋ではなく、ここに住んでいる人達の『ぬくもり』だろう。

クローゼットを開ければ、そこには紗雪のために揃えられた衣服が群れを成していた。

どれも新品の卸したてで、ここ数年お下がりしか着ていなかった紗雪にとっては少し眩しくもある。

「えっと…」

延ばした手がおろおろと空を泳ぐ。

言うまでもなく、どれを着ようか迷っているのである。

なんて贅沢な悩みだろう。私には不相応かもしれない…

そう感じつつも、こんなところで時間をくっているわけにもいかなく、紗雪は白色のワンピースを手に取った。肩紐の、涼しげなデザインのワンピース。

それは、新たな門出にと、兄が選んで買ってくれたものだった。

「あ、でも…」

紗雪は左の二の腕に手を添える。

――もう痛みはない。

薄紫色のパジャマのボタンに手をかけ、上を脱いで、綺麗にたたんでベッドの上に置く。

先ほど触れた箇所には湿布が貼れている。

その湿布をそっとはがす。

そこにはもう、痛々しい青い痕は残っていなかった。

「よかった…」

それを確認して紗雪は安堵する。

これならこのワンピースを着ても、特に何かが目立つわけでもない。奇異の視線は集まってこない。

手早く着替えを済ませ、部屋をあとにする。

その先もまた見慣れない廊下。階段。

紗雪がこの家に引っ越してきたのはつい二日前のこと。まだ慣れないのも無理もない話。

階段を降りると、鼻腔を朝餉のいい匂いがくすぐった。

その匂いにハ、となる。

紗雪は慌てて居間へと続くドアを開け、

「ごめんなさい!私…」

開口一番。頭を下げて謝罪した。

けれども何も返ってこない。いつもなら罵声のひとつやふたつは飛んでくるのに。

――いつも?

「あ…」

その『いつも』がもうないことを思い出し、紗雪は顔を上げる。

居間には誰もいなかった。

ただ、食卓の上には二人分の朝食が用意されていた。

鯵の開き、出汁巻き卵、薬味の大根おろし、沢庵、胡瓜、茄子の漬物盛り、それらが折りたたみ式の蝿帳(はいちょう)の中に並べられている。

台所からは味噌汁と炊きたてのご飯の香り。炊飯器の傍らにはご飯と味噌汁をいれる御椀もちゃんと置かれていた。

食卓に近づくと、鯵や卵焼きからほのかに湯気が上がっている。どうやらこれが用意されてからそれほど時間は経過していないようである。

食卓の匂いに誘われ、くぅ~…と、紗雪のお腹が可愛らしく小さな鳴き声を漏らす。

昨夜まで紗雪は体調不良でちゃんと食事を摂れていなかった。正直、すぐにでもご飯と味噌汁をよそって、いただきます!といきたい心境だった。

水場にはすでに二人分の食器が片付けられている。だから、この食卓にあるのは自分と、多分、この家の家主の分であろうことは想像に難くない。

しかし、だからといって新参者の自分が家主の許可もなく、勝手に食べてよいものなのだろうか?

「そんな所で眺めてないで食べればよかろう?せっかくの朝餉が冷めてしまうぞ」

「はう!?」

背後からの声にビックリして振り向けば、ドアの向こうから意地悪な笑みを浮かべてこちらをうかがっている小柄な家主の姿があった。

彼女の名は相楽苺。黒いミニスカートのワンピース。腰に赤いベルト巻き、腕にはワンピ同様の黒色のぴったりとしたアームウォーマー。足にはやはり黒のニーハイソックス。髪型は桃色のショート。容姿は見た目だけで言うなら紗雪と同年代かというほどの幼い外見だが、れっきとした成人女性である。そしてこの相楽邸の主であり、紗雪の新しい保護者でもある。

――そう。新しい保護者。

「え、あ、その…おはようございます、相楽さん」

突然の彼女の登場に慌てる紗雪だが、ほどなく、気を持ち直して頭を下げた。

「うむ。おはよう、紗雪。では、冷める前に朝餉にしようかの」

「あ、私がよそいますから、相楽さんは座っててください」

言って返事を待たずして、紗雪はキッチンへと小走りでむかう。

「その様子だと体調はだいぶよくなったようじゃな。ならば任せよう」

紗雪のてきぱきとした動きで察した苺は、蝿帳をたたみ、脇へ置き、自分の席に腰を下ろした。

「どうぞ」

「すまんの」

お盆に乗せて運んできたご飯と豆腐と揚げの味噌汁を苺の前に置き、紗雪も用意された自分の席――苺の向かいの席についた。

「「いただきます」」

手を合わせ、二人は同時に口にした。

苺はまず大根おろしを出汁巻き卵の横に添え、醤油を数滴。紗雪は静かに味噌汁を啜った。

「――美味しい…」

一口飲んで思わず口に出てしまうくらいに、その味噌汁の出来は上々だった。

「最近は男も料理が出来ないともてないのじゃろう?その点で言えば安心じゃのう。まぁ、女として私の立場はないがの。かっかっか♪」

冗談めかして笑い、苺は大根おろしと一緒に出汁巻き卵にかぶりつき、幸せそうな顔を浮かべた。

味噌汁は朝早くからやってる星身商店街で評判の豆腐屋で買った絹漉しと油揚げを具材に、出汁は煮干から取り、辛口の淡色味噌に甘口の白味噌をブレンドしたほんのり甘く口当たりのいい味に仕上がっている。

出汁巻き卵は市販の本だしを使わずに、保存してあるかつおぶしから取った出汁を使い、食感よくふわふわに焼き上げられている。

鯵の開きは、これまた星見商店街の昔ながらの魚屋で購入したものだが、油のよくのった上質なもので、漬物も既製品ではあるが、ちゃんと厳選して選んである良い品である。

これだけの品揃え、この朝食を用意した人物が食に拘っているのは想像に難くないだろう。

かちかちと、お皿と箸がかち合う音だけが小さく響き、無言の食事が続く。

別段、相楽家は食事中私語厳禁、とか、どこぞの高台の木々に囲まれたお屋敷のような制約はないのだが、互いに出会って二日。しかもその間紗雪は床に伏せっており、こうしてまともに顔を合わせて食事をするのはこれが初めてだった。

「具合はどうかの?見た感じではもうだいぶよさそうじゃが」

鯵の身を摘みつつ、柔和な微笑みで苺が会話の口火を切った。その手に鯵があるため、浮かべた笑みは滑稽にも見える。

「はい。もう大丈夫です。ゆっくり休ませてもらってありがとうございました」

食事する手を止めて、紗雪は丁寧に頭を下げた。

「いやいや。そんなかしこまって礼を言われることでもなかろう」

その態度に苺は苦笑いを浮かべ、摘んでいた鯵を口へ運んだ。

「体調もよくなったので、今日からはちゃんと家のことやりますね」

紗雪のその言葉に、苺の胸中にイタミがはしる。

彼女はこれまでそれを強要されてきたのだ。住まわせてもらう代償として。

そのせいでこの相楽家でも、住まわせてもらうかわりに家事全般を自分が担う、と考えているのだろう。

「そうじゃの。今日の夕飯の時にでも分担して決めようかの」

「分担、ですか?」

苺の返事に紗雪は不思議そうな顔を浮かべる。

別段不思議なことではない。一緒に住んでる者達で家事を分担するのは当たり前のことだ。今の紗雪にはそれすらも判らない。以前の環境が紗雪の思考をそこまで追い込んだと言える。

「うむ。まぁ、あやつらはバイトだのなんだので忙しいからの、穴をあけることも多いかもしれんが。特に上のは出張も少なくない。がしかし、忙しい中でもこうして朝餉を用意していくのは感心感心♪」

いつにも増して上出来な朝食に苺はとてもご満悦なようだった。

「今日の朝食は兄さんが?」

「当番じゃったからの。冷め具合から察するに、私達が起きる十五分ほど前に出ていったようじゃの。おかげで冷め切る前にいただけたわい」

これは別に計算してでのことではなく、たまたまタイミングがよかっただけのこと。

「料理、上手なんですね」

「私があまり上手いほうではなくての、任せているうちに自然と上手くなりおった。昔は焦げた目玉焼きを平気な顔して食卓に出していたのにのー。継続は力なり、とはまさにこのことかもしれんの」

「ふふ…」

かっかっかと、軽快に笑う苺に紗雪から失笑が漏れる。

失笑とはいえ、これが苺に見せた初めての笑顔かもしれない。

砕けた表情に、自然と苺の表情も柔らかくなったのだった。

 

「夕飯を作りたい?」

肩越しに振り返って苺はオウム返しに問い直した。

朝食のあと、居間でお茶を片手にテレビを楽しんでいた苺の元へ、洗い物(自分でやると言ってきかなかった)を終えてやってきた紗雪が開口一番にそう言ったのである。

「はい。えっと、その、兄さん達にお礼をしたくて…でも私、今はそれくらいしか出来ないと思うから…」

「そうか」

その動機は苺にとって嬉しい理由だった。やらなくてはいけない、という染み付いた悪性ではなく、純粋にそうしたいから、そうしてあげたいからという想い。それは紗雪の願いでもある。

「ならば今夜の食事はおぬしに任せよう!」

「あ、はい!頑張ります!」

紗雪は破顔してぱっと笑顔を咲かせた。二人きりの朝食はどうやら功をそうしたらしい。

――こうなることを望んで、一足先に朝食を済ませて出かけたというのはここだけの話。

「それで相楽さんに相談したいことがあるのですが…」

ある程度打ち解けることには成功したが、やはりまだ遠慮は抜けないようで、紗雪は伏せ目がちに言う。

「二人の好きな食べ物ってなんですか?」

「カレーじゃな」

間髪いれず。電光石火。まさに答えは即答だった。神域で。

「カレーですか…」

自然と口元に手を添えて、紗雪はメニューの工程を脳内で反芻する。

カレーは別段難しい料理ではない。むしろ料理の登竜門に近い。当然紗雪にも作った経験はあるのだが…

一口にカレーと言っても種類は様々である。発祥の地であるインド風を始めとして、日本風のカレー、欧風カレー、タイカレー、スープカレー、キーマカレー、カレーの王○様、マーボーカレーなどなど。その上、辛さの具合に加えて家庭の味という壁もある。

故に『カレーが好き』と言われても、それがどんなカレーなのか、そうそう想像出来るものではない。

ちなみに、紗雪が作ったことのあるカレーは市販のルーを使ったごくごく初歩的なものだけである。

「どんなカレーですか?」

「それが拘っておるのか、拘ってないのか曖昧な奴でのぉ、市販のルーを混合させるだけの時もあれば香辛料を使って味を調節することもある。具も豚の時もあれば鳥や牛、魚介の時もありおる。あれはおそらく、その日のノリで決めておる。長年見てきた私の結論じゃ。しかし、不味かった時がないというのは褒めていいところじゃな♪」

苺の答えは紗雪を混乱させるばかりだ。これではどんなカレーを作れば一番喜んでくれるか判ったもんじゃない。

「そう難しく考えるでない。おぬしが作ったカレーならどんなカレーでも嬉しいに決まっておるわ」

紗雪の心中を見透かしたように、苺はにかっと歯をみせて笑ってみせた。

「そう、でしょうか…?」

「おぬしがそうしたいと思って作ったカレーならば問題はない」

「ん?」

苺の言っている意味が解せず、紗雪は小首を傾げた。

「ともあれ、ならば作戦会議といこうかの。この相楽苺、及ばずながら協力するぞ」

「はい。よろしくお願いします!」

と、深々と頭を下げる紗雪に、

「うむ。任せるがよい」

苺はない胸を張って自信満々に応えたのだった。

 

あのあと、作戦会議という名目のお喋りはお日様が空の真上を過ぎる頃まで続き、そろそろ昼食にしようということでお開きになった。

夜は紗雪が支度をする、ということで、お昼は苺が用意することになり、自慢にならない料理の腕を披露した。

そうは言っても、けして下手というわけではなく、誰かさんと比べたら劣るから自慢は出来ないだけで、腕前は普通程度にはある。食べられる物を食べられない物に練成しちゃうくらいの破滅的な腕ではけしてない。そも、それならば紗雪にお願いしている。

ちなみに、昼食のメニューは素麺だった。

そりゃ失敗しないだろうと思うだろうが、世間は広い。麺と麺がくっつかないように混ぜることを知らず素麺が饂飩のような太さになったり、茹ですぎてでろでろに融かしたりする輩も存在するのだ…きっと…

昼食を終えると、二人はさっそく夕飯の買出しに出かけることにした。

目的地は星見商店街。相楽家が昔から御用達している古き良き雰囲気の商店街である。

まず始めに購入するのは肉。会議の結果、鶏肉に落ち着いた。理由は使用される頻度。苺の記憶上、鶏肉の比率が少し高めなので、個人的な趣向の現れなのではと解釈した結果である。

「おー苺ちゃん、いらっしゃい!」

肉屋を訪れるとカウンターのむこうから景気のいい野太いおっさんの声が迎えてくれた。

「ん?見慣れないお嬢ちゃんだな。隠し子か?」

「違うわ!」

肉屋のおっさんのボケに反射的ツッコむ苺。

紗雪は恥ずかしがってか苺の後ろに隠れようとするが、苺という名の防波堤は背丈が低いので到底隠れられるわけもなく。しかし、その行動は実に愛らしく、肉屋のおっさんの表情は綻んでいた。

「わけあってウチで預かることになった娘じゃ。まったく、私はまだまだ生娘じゃぞ?」

「あー、そうだな。そろそろ誰かに嫁に貰ってもらわないと干からびちゃうな」

「余計なお世話じゃっ!」

お客さんとお肉屋さん、という構図は間違いない。だのになんだろうこの漫才は?と、紗雪の頭は混乱していたりする。

同時に、どこか懐かしくも感じていた。老夫婦にお世話になっていた頃、おばあちゃんがお店の人と仲良くお話していたっけ、と。

「あの、えっと、黒羽紗雪です」

苺の後ろから出て、紗雪は肉屋のおっさんにほのかに紅い頬で頭を下げる。

「そうか。紗雪ちゃんっていうのか。いやぁ、ちゃんと挨拶出来るなんて感心だなー。苺ちゃんとこのボウズどもに爪の垢でも煎じて飲ませなくちゃな」

「あやつらはすでに手遅れじゃな」

遠い目をして嘆息をつく苺。それに「違いない!」と肉屋のおっさんは一頻り大笑いしていた。

「あぁ、そうだ。おじさんは肉屋の弦さんで通ってる。紗雪ちゃんも気兼ねなく弦さんって呼んでくれ」

「はい。弦さん」

緊張しながらも出来るだけの笑顔で言えば、肉屋の弦さんはだらしなく表情を崩していた。だがやおら、真剣な顔を浮かべて、

「苺ちゃん」

「何じゃ?」

「こんな可愛い子家において、思春期のボウズどもは大丈夫なのか?」

と、なんとも下世話な問いを投げかけてきた。

「詳しく理由は話せんが、もともと下のとは私の所に来る前に一緒に暮らしておる時期があったのじゃ。あやつにとっては妹みたいなもんじゃ。上のも下のに連れられて以前から会っておったからの、似たようなもんじゃろ」

そうは応えたものの、苺の中には一抹の不安が生まれていた。

確かに年頃の男女が一つ屋根の下。血縁なくとも兄と妹に近しい関係――

――いや。ちょっと待て。血縁がないなら男女の関係になっても問題はないはずだが…

「俺は理性がぶっとんで襲っちゃわないか心配だよ」

「はぁ…」

そういう心配かと、苺は呆れてため息を漏らし、ほどなく、妖艶に笑ってみせて、

「これだけ綺麗なおねーさんが一緒に住んでおるのに間違いがないのじゃ。それは杞憂じゃろ」

「…で紗雪ちゃん、今日は何をご所望で?」

「無視するでないっ!」

必殺のボケをスルーされては、もう真っ赤な顔で声をあげるしかない苺おねーさんだったのでした。

 

肉屋で鶏もも肉と、ついでにカレールーを購入したあとは、八百屋で野菜類を物色。カレー用にじゃがいも、人参、玉葱、食感のアクセントにエリンギを購入。付け合せのサラダ用にレタスや胡瓜も仕入れた。

それでカレーの材料は揃ったのだが、苺は紗雪を連れて商店街を練り歩いた。

魚屋に顔を出し明日の朝食用に鮭を買い、和菓子屋に顔を出しおやつにとドラ焼きを買い、酒屋に顔を出しジュースやお酒の配達を注文し、商店街の大概の店舗に顔を出したと言っても過言ではない。

そのおかげで二人の両手にはビニール袋がたくさんだ。

病み上がりの紗雪にはなかなかの重労働ではあるが、紗雪はこの疲れを心地よいと感じていた。だって楽しかったのだ。苺といろんな店を回って、他愛もない話をしたことが。

「さて、少し寄り道がすぎたの。私も手伝うから早々にカレーを完成させてしまうぞ」

両手の荷物を食卓の上に置いて苺は言う。

現在時刻は四時を少し回ったくらい。煮込む時間を考慮しても、夕飯時には充分間に合う時間だ。

「はい。じゃあ、早速始めましょう」

紗雪はキッチンにむかい、袋の中身を並べ始めた。

今日作るのはオーソドックスなチキンカレーである。下手に冒険して失敗してしまったらアレなので無難でいくことになったのだ。

まずは鶏肉の下ごしらえ。一口大に切って塩胡椒。これは紗雪が担当。

苺はその間に野菜の皮をピーラーで剥き剥き。そしてそのままじゃがいも人参を乱切りにしていく。

鶏肉の下ごしらえを終えた紗雪はニンニクを摩り下ろし、玉葱を微塵切りにして、 バターを布いたフライパンで炒め始めた。飴色になるまでしっかり炒めて、苺が用意しておいた寸胴にすら見えるくらいの鍋の中に投入。水と固形コンソメ、ローリエも入れて火にかける。

「お、大きな鍋ですね…」

さすがにその大きさに面食らったようで紗雪は苦笑している。

しかし、買い物中妙に買う量が多いと感じていたが、これで納得がいった紗雪だった。

「あやつらはよく食べるからのー。特に上のは3倍は食う」

玉葱を炒めていたフライパンに今度はオリーブオイルを布き、下ごしらえしておいた鶏肉を皮面から焼き始め、ほどよく焦げ目がついたところで乱切りにした野菜をいれて更に炒める。野菜にほどよく油が回ったら、それを鍋へいれてぐつぐつと煮込みを開始。

ここまで来ると苺に手伝うこともなく、「私用を済ませる」と自室へ消えていってしまった。

紗雪は鍋とにらめっこしながら、時折、丁寧に灰汁をすくっていく。灰汁があまり浮かんでこなくなったあたりでちょこっと隙間を作って鍋に蓋をし、弱火でじっくり煮込む。

手持ち無沙汰になった紗雪は自室から文庫を持ってきて、キッチンに適当な椅子を運んで読書を始めた。無論、鍋への注意は怠っていない。

コトコト。グツグツ。鍋の音をBGMに時が静かに流れていく。

こんなゆったりとした気持ちで食事を作っているのは何年ぶりだろう?と、紗雪は思考を回転させるが、思い出されるのは厭なことばかりですぐさま思考を停止した。

もうあんなことにはならない。ここはそういう場所のはず。

――本当に?――

しかし、不意に心の闇が鎌首をもたげる。

――本当にここにいれば厭なことはない?――

思い返せば、始めはとても友好的だった。あの老夫婦のご子息だ。いい人に決まっている。そう思っていた。

でも、それはいくばくも経たないうちに、徐々に崩壊していったのだ。

 

黒羽紗雪は戦災孤児である。十数年前に起きた『大いなる冬(フィンブルヴェド)』と呼ばれるマホウ戦争の犠牲者。戦争で両親を亡くした紗雪は黒羽という性の老夫婦に引き取られることになる。彼女が今名乗っている苗字はその老夫婦から貰ったものなのだ。

黒羽老夫婦はとても優しく、紗雪を大事に育ててくれた。一人では寂しいだろう、ということで戦災孤児を育てている施設――聖者の教誨から、新たにもう一人の養子もとった。

それが現在、紗雪の兄にあたる人物の片方――芳乃零二である。

初めは零二に心を開かなかった紗雪だが、段々と打ち解けていき、二人は仲睦ましい兄妹となって、黒羽老夫婦の元で健やかに、そして幸せに暮らしていた。

――けれど、その幸せは長くは続かなかった。ある日突然、黒羽老夫婦は事故によって帰らぬ人となってしまった。

そうなれば、親族間で養子にとっていた紗雪と零二をどうするかという話になり、老夫婦の子息が一人だけなら、と申し出た。

なら紗雪を連れて行ってください、と零二がその座を譲ることになったのだが、これが紗雪の不遇の始まりだったのだ。

始めのうちはご機嫌取りだったのか、笑顔の仮面で応対していた黒羽夫婦だが、だんだんと言動が辛辣になってゆき、数ヶ月した頃には、もう紗雪は奴隷同然の扱いになっていた。

炊事洗濯家事全般は当然として、その他雑用までも様々。ちゃんと出来なければ罵声を飛ばされ、時折体罰もあった――いや。それは体罰と言うよりは虐待に近いものだった。苛々すれば瑣末なミスでも紗雪を叩き、それを見た夫婦の娘も紗雪を叩くことはダメではないのだと感じ、夫婦よりも無秩序な暴力を振るうようになっていった。

不幸中の幸いがあるのならば、それは性的虐待がなかったことだろうか。

紗雪は元々体が丈夫な方でない。そんな彼女がそれだけの状況下にいれば体調不良になるのは必然ではあるが、黒羽夫婦は医療費がかかるからと紗雪を満足に病院へは連れていかなかった。

今思い返せば、それは虐待の露見を恐れて、という側面もあったのかもしれない。

体調不良が重なり、学校とも疎遠になり、いつしか、紗雪は孤独になっていた。周りにいるのは敵ばかり。頼れる者なんかいやしない。

そんな最中、不意に零二がやってきた。

「やっと会えたよ」

ベッドに横たわる紗雪に、零二は満面の笑みを浮かべてみせた。

訊けば、零二は以前から紗雪に会わせてくれと何度か黒羽家を訪ねてきたらしい。しかし黒羽夫婦がそれを許さなかった。

会いたいのに会えなくて途方にくれている中、一人の少年に声をかけられた。その少年は週に何度かやってくる炊き出しの手伝いをしている少年で、何故か、以前から零二を気にかけてくれていた少年だった。

 

「どうした零二?今日はお前の好きなピロシキだぞ?」

施設の隅っこ、ブランコに座って意気消沈気味の零二に、少年は紙で半分包装されているピロシキを差し出す。

「あ、うん。ありがとう。兄ちゃん」

零二は差し出されたそれを受け取るが、それだけで口に運ぼうとはしなかった。

少年はその様子に嘆息を漏らし、ブランコの柵に腰を下ろして、自分用に持ってきていたピロシキを一口かじった。

空はまるで零二の心象風景のように曇天で、かつ、月読島では珍しいくらいの冷えた日で、天気予報では何年かぶりに雪が降るかもしれないと言っているくらいだった。

少年はピロシキの咀嚼を続ける。

零二は依然として見つめたまま口には運ばない。

ほどなくして、ピロシキを食べ終えた少年は包装されていた紙をくしゃくしゃに丸めた。

けれど、その場からは動かなかった。留まり、無言のまま曇天の空を仰ぐ。

「――相談があるんだ…」

零二がそう口にしたのは、果たしてどれくらい刻がたったあとだっただろうか。

「面倒くさいのは勘弁な」

「たぶん面倒くさいけど、話す」

少年がああいう憎まれ口を叩くのはだいたい冗談であることを知っている零二は、かまわず事を話し始めた。

それは無論、紗雪のことに他ならなかった。

 

「兄ちゃんがお前の両親にこーしょーしてくれたんだ!」

零二は自分のことのように自慢げにそう言った。

つまりはそういうことである。少年は零二より長く生きている分知識もあった。それを駆使して黒羽家の閉ざされていた門を開かせたのだ。

それから零二は頻繁に黒羽家を訪れるようになり、都合があった時はあの少年も連れてくるようになっていた。

零二達の訪問は紗雪にとっては嬉しいことである反面、憎たらしいことでもあった。

だってそうでしょう?自分はこんなに苦しい目にあっているのに、兄は嬉しそうに、楽しそうに外界の話をする。それを妬まずに、憎く思わずにいられるものか。

それでも紗雪は二人の前では笑っていた。それは仮面の時もあれば、本当の時もあった。

巻き込みたくなかった。もし兄が今自分が置かれている状況を知れば、どうにかしようと行動するのは想像に難くない。

兄と言っても同じ歳。まだ子供。やれることには限界があり、それで兄は苦労するだろうし、苦悩もするだろう。自分のせいだ、と自暴自棄になって酷いことになってしまうかもしれない。そうなれば、それはきっと露呈させてしまった自分の弱さ――責任になるだろう。

これ以上の負担は避けたい、という気持ちと、大切な兄に負担をかけたくない、という気持ち。

二つの心がごちゃまぜになって紗雪は情緒不安定な日もあった。そんな日は、虐待を繰り返している黒羽家の人々でさえもあまり寄り付かなかった。

零二が訪れるようになってから数ヶ月ほど経った頃、家の者は週末を利用して1泊2日の旅行に出かけ、紗雪は独りだった。

「紗雪~?」

それは完全な不意打ちだった。部屋で着替えてる最中、チャイムも鳴らさず、誰に断るでもなく勝手にはいってきたのは零二だった。

そして、彼の目の当たりにすることになった。紗雪の体に刻まれた現実を。

 

零二は方々を駆け回った。

黒羽夫婦に問い正しても知らぬ存ぜぬ。

学校や警察に相談してもろくに取り合ってもらえず、いつも返ってくる答えは『現状維持』だった。

所詮子供なのだと零二は痛感した。

でも紗雪のためにも諦めるわけにはいかないし、自分はそうするのだと決断したのだ。ならば諦めるという選択肢はない。

進退窮まった零二は強行手段――無理矢理黒羽家から紗雪を連れ出すという術にうって出たが、これもまた失敗に終わってしまう。

その行為は当然のように騒ぎになり、零二は警察に保護されそうになった時、思わず逃げ出してしまった。

あてもなく彷徨う零二は、知らず、一本の大樹の元へとやってきた。

それは立派な桜の木。何故だか、幼い頃よりずっと大好きな桜の木。特筆するほどの思い出があるわけでもないけれど、零二は学校やバイトの帰りによくこの桜の元を訪れていた。

その習慣がそうさせたのか、零二はたどりついた桜の大樹の幹に背中を預けて、座り込んだ。

頭に巡るのは紗雪のことばかり。

あの時、自分が黒羽家に行けばよかった。

行けばいつも笑っていたから紗雪はきっと幸せなんだと思ってた。

体に刻まれた痛々しい青い痕が網膜に焼き付いて離れない。

自分が気づいてやれなかったから紗雪は傷ついた。傷つけた。

だっていうのに、自分はなんだ?

正直、自分は幸せだった。

教誨での生活は慣れたものだった。そこには毎日笑顔があった。

兄と慕う少年に連れられて相楽家に引き取られたあともなんの不満もなかった。

そんな時にも、紗雪は独りで辛い目にあっていた。

それが判っても助けることすら出来ない。

ホントに、芳乃零二の何処に紗雪の兄と名乗れる要素があるのか?

――何処にもない。自分はただ、環境によって兄になっただけで、紗雪の兄として誇れることは何一つもやっていない。

それを厭というほど痛感する。

酷く。とても酷く胸が痛む。

そのせいで呼吸も曖昧だ。

頬を涙が伝う。

ただ悔しくて泣くしかない自分が情けなくて、余計に胸が痛んだ。

『本当にもう出来ることはないのかな…?』

声は、零二のすぐ耳元でした。それは春のようにほんわかとした少女の声だった。

途端、零二を暖かい何かが包み込んだ。

胸の痛みが嘘のようにひいていく。

これはまるで。

母親に抱かれているような感覚だった。

『よく考えてみて。もう頼れる人は本当にいない?あなたは誰かに遠慮していない?』

遠慮している?

自分が?

誰に?

少女の声に零二は自問自答をする。

――あぁ。そうか。灯台下暗し。自分がお世話になっているからと、これ以上迷惑はかけられないと疎遠にしていた人がいた。

よくよく考えてみれば、自分が一番頼りに出来る人物に他ならない。

どうしてこんなことを失念していたのかと、零二はまた自分を責めて歯噛みした。

『ほら、その手はすぐそこに差し伸べられてるんだよ。顔を上げるんだよ』

少女の声に無意識に反応して、零二は伏せていた顔を上げた。

「よう、家出少年。探したぞ、バカ」

頭を掻きながら嘆息混じりに悪態を吐く兄の姿があった。

その瞬間、堪えていたものが爆発して、零二の目から大粒の涙が次々と溢れ始めた。

「に、兄ちゃん…俺、俺さ…」

「悔しいか…?」

「え!?」

兄からの意外な言葉。零二は涙を拭うのをやめて彼を見上げた。

「世界ってのは優しくは出来てないんだよ。本当に護りたい存在(もの)があるなら強くなくちゃいけないんだ。色々とな」

零二から視線をはずし、少年は月を仰いだ。その表情は悲哀に満ちていた。

「警察からウチに連絡はきてる。だから事の顛末は知ってる」

「ごめん、なさい…」

「ばーか」

少年は零二の前にしゃがむと、ぴん、とおでこにデコピンを炸裂させた。

「お前は何も悪いことしてねぇだろうが」

何事かとおでこを押さえてきょとんとしている零二に少年は言う。

「しかしまぁ、なんであと一日我慢出来なかったかね?」

少年は頭をわしゃわしゃと掻いて立ち上がる。

「兄ちゃん、意味が判らないよ!」

つられて零二も立ち上がって苦情の声をあげる。

「さっきも言っただろ?世界は優しく出来てないって。お前のやったことが正しくても、それを裏付けるもんがなけりゃ世間的に正しくはならないんだよ。黒羽の家の連中に紗雪が酷いことされてるって証拠が必要だし、法的バックアップも必要だ」

「は?…え!?」

一人話を進める兄についていけない零二は目を白黒させ、

「ちょっと待って兄ちゃん!それなんで知ってるの!?警察から俺が言ってたとか訊いたの?」

「訊かねぇよ。応対したのわんこ姉だし」

「じゃあなんで知ってるんだよ!?」

「そりゃ前々から気づいてたからな。言ってなかったか?」

「初耳だよっ!」

あっけらかんと言う少年に、さっきまでの悔し涙とかいろいろ吹き飛んじゃって、もうツッコまずにはいられない零二だった。

 

訊けば、元々零二を家にあげなかったことに対して少年は疑問を持っていたらしい。

かといって一般人の、しかも成人してない子供が大っぴらに調査するわけにもいかず、知れず、紗雪に会いに行く度にそれとなく調べていたらしい。

そうして確証を得たのは2週間前で、その旨は紗雪にも伝えてあったらしい。

――そういえば、あの時、あまりのショックにそのまま出ていってしまったけど、紗雪に呼び止められたような、と零二は思い返す。

そして、今日までの2週間の間に、少年は方々に根回しを済ませたらしい。

少年の根回しは実に周到で、その翌日、紗雪は一時的に聖母の教誨に預けられることになり、それから数日後に、相楽家に養子として迎え入れることとなった。

ここからは余談になるのだが、周到すぎた根回しのせいで黒羽家父は仕事場での立場がなくなり依願退職。噂が広がり母はご近所から陰口をたたかれ、娘は学校で「そんなことしてたなんて酷い!」と自分がいじめられるはめになり、黒羽家は月読島から逃げ出すように早々と引っ越していってしまった。

「因果応報だろ?オレにあいつらに同情する余地なんざねぇってのw」

とは、後の少年の弁である。

 

紗雪が相楽家に住むことにはなったのはそういう経緯からだった。

故に、いかに兄達を信頼していようとも、この不安はどうしようもなく襲ってくるのだ。

「…大丈夫。もう、大丈夫…」

紗雪は自分を抱きしめるように小さくなり、言い聞かせるように「大丈夫」を繰り返す。

ほどなくして気持ちは落ち着いてきた。

「あ、カレー…」

蓋を開けて中を覗き込む。いい頃合だった。

紗雪はフライパンにオリーブオイルを流し、辛口8、甘口2の割合でルーを入れて炒め始める。

ぷくぷくと泡だったところにお湯をいれて延ばし、鍋へと移し、最後に隠し味の醤油とインスタントコーヒーを少々。あとは再び煮込むだけ。

「二人とも、喜んでくれるかな…?」

脳裏に浮かんだ顔はどちらもぶっきらぼうで、紗雪は思わず苦笑していた。

自分の作ったカレーで笑顔の食卓。それは些細な願い。本当に、本当に些細な願い。願いなんていうほど大層なものじゃないほどに些細。

でも。

それでも。

必ずしも叶うというわけではなかった。

少年が口にした通り、世界はそんなに優しくない。

そう。

――本当に?――

 

時計の針は八時を回った。

食卓には大皿にツナサラダとそれを取り分ける小皿。付け合せのらっきょと福神漬け。そして、カレーを盛るための空の皿が四枚。

席に座っているのは紗雪と苺の二人だけだった。

上の兄から連絡があったのは六時頃。仕事が長引いて今日は夕飯時には帰れないとの電話を苺がうけた。

下の兄から連絡があったのは七時半頃。急遽休んだ同僚のかわりにバイトに出ることになったと、これもまた苺にメールで知らせた。

二人とも苺に連絡したのは単に紗雪がまだ携帯を持っていないからで他意はないので、あしからず。

今宵のカレーは言うまでもなく彼らのために作ったものだ。だのにその二人が帰ってこないなんて、と紗雪は意気消沈していた。 

「せっかく作ったのに、という気持ちも判らんでもないが、今日食べなくては悪くなるというわけでもあるまい。明日にでも食べてもらえばよかろう?」

機嫌を伺うように苺は笑みを作って言う。

「そう、ですね…食べてくれないって言ってるわけじゃないですもんね…」

自分がワガママを言っているのだと気づいた紗雪は曖昧に笑ってみせて、席を立ち、二人分の皿を持ってキッチンへとむかった。

そうして並べられた二人分のチキンカレー。味見をした紗雪は改心の出来と称している。

それ故に、余計に一緒に食べられないのが残念で仕方がなかったのだ。

「では、いただくとしようかの」

早速苺はスプーンですくって口に運んでパク、と一口。

「おぉ!美味い!これはあやつにもひけはとらんぞ」

二口。三口。苺のスプーンは止まらない。雰囲気を読んで気をつかったのではなく、事実、紗雪のカレーは美味しかったのだ。

「ありがとうございます」

その様子には当然、紗雪は嬉しそうに微笑み、「いただきます」と口にして自分も食事を開始した。

やはり改心の出来。作る工程はこれまでとあまり変わらないのに、ここまで味が違うのは作った時に込めた『気持ち』のせいなのかもしれない。実に曖昧な隠し味ではあるが、紗雪にはそれくらいしか思い当たる節がなかった。

カレーも美味く出来たし、相楽さんも嬉しそう。

そう思えば、想像した食卓とはちょっと違っても、紗雪の心は軽やかになっていった。

「おかわりじゃ!」

ものの数分で空になった皿を差し出して苺は言う。

「はい。ちょっと待ってくださいね」

紗雪はそれを受け取りキッチンへ向かう。その表情はやはり嬉しそうだった。

炊飯器を開けてご飯をよそい、カレーをかけようとおたまに手をのばした時。

「昼間の買い物で紗雪も立派な相楽家の一員として馴染みになれたし、こんなに美味いカレーが食えたのじゃ。今日は良い日じゃよ」

「え…?」

背中に聴こえた柔和な苺の声。

相楽家の一員。

馴染み。

――じゃあ、昼間必要のないものまで買って商店街を隅々まで歩いたのは、全部、自分のため。私が相楽家の一員であることを、内でも、外でも、そうであるとさせるため…

「あ…」

そう思うと、自然と紗雪の双眸から涙が零れた。

ここはやっぱり優しい場所だった。

相楽苺という人間は、パっと湧いて出た黒羽紗雪を本当の家族として迎えてくれたのだ。

まだ少し怖いけど、それよりも優しい場所なのだと思う気持ちの方が断然大きい。

嬉しくて。嬉しくて。なんか涙が止まらない。

「どうした?紗雪?具合でも悪くなったか?」

皿を脇に置き、肩を震わせてその場から動こうとしない紗雪を不思議に思い、苺はその傍らに歩み寄った。

「どうした紗雪!?何を泣いておる!?何処か痛いのか!?」

彼女の様子に苺は慌てて問いかける。

それに紗雪は無言で首を振る。

声にしたい。

けど、泣いているせいで声帯がうまく動いてくれない。

それでも紗雪は心配をかけまいと、精一杯の声を紡ぐ。

「私、ここにいて…いいんですね?……兄さん達と一緒に、暮らして…いいんですよね?」

「やれやれ。何かと思えばそんなことか」

苺は肩をすくめて言い、紗雪の頭を静かに、柔らかく、優しく撫でてあげた。

「あやつの言う通り、世界というのは優しいものではないと私も思う。じゃがな、そんな中でも誰しも安らげる場所はあるものじゃ。私はな、紗雪にとってこの家が、そういう優しい場所になれるようにと思っておるよ」

「相楽、さん…」

紗雪の顔は涙と鼻水とでぐしゃぐしゃだった。

「じゃから、おぬしは何も心配せんでいい。もう不安を抱え込まんでいい。涙を堪えぬともよい。素直に生きるのじゃ。自分の人生に悔いが残らぬよう、精一杯な。ここからがおぬしの再出発じゃよ、紗雪」

「う…うわああああぁぁあぁぁああぁぁあぁあぁぁぁ…っ!」

苺の胸に抱きついて紗雪は羞恥を捨てて大声で泣きじゃくる。

「うんうん。辛かったな。苦しかったな。寂しかったな。よくこれまで頑張ってきたな。もう大丈夫じゃ。私や兄達がおぬしを今度こそちゃんと護ろう。約束じゃ」

胸に抱いた紗雪の頭を撫でながら言う苺は、まるで母親のような慈愛の笑みを浮かべていた。

黒羽紗雪は世界の犠牲者である。

戦争により両親を奪われ、事故により育ての親を失い、そして虐待の日々を生きた。

それでも、彼女は幸せな未来を夢見た。

それは本当に些細な夢。

大切に想える『家族』と一緒に、笑って暮らしたい。

そんな些細な夢。

だけど、遠く。遠く。自分では手の届かない夢だと諦めかけていた。

でも今、それが目の前にやってきた。

夢は叶うかもしれない。

そう想えば想うほど、紗雪の涙は止まらなかった。

 

翌日。

紗雪は涙で少し腫らした目で起床した。

今日は自分が朝食を作る気満々だったので、目覚ましをセットして早起きだ。

「朝は一緒に食べられるといいけど…」

そう呟いて、紗雪はベッドから起き上がった。

 

着替えて居間に行ってみると、やはりまだ誰も起きてない様で人気がなかった。

ただ、食卓に何か紙切れが一枚置いてあった。

「なんだろう?」

不思議に思った紗雪がその紙切れを手に取った。

そこには、男らしい殴り書きのような字で、こう書かれていた。

 

紗雪へ。

カレー食った。いや。マジ美味かった!こりゃオレもうかうかしてられねぇな。

昨晩は帰れなくてごめんな。お前が相楽家に来てからまともに喋れてないのもすまんと思ってる。ほんとごめん。

でもって今日も早いんで朝飯はいらないよ。

そのかわりといってはなんだが、今日は夕方前にはなんとか帰ってこれそう…いや。絶対帰ってくるからお前の歓迎会をしよう!オレと零二がお前にご馳走を振舞ってやる!だから楽しみにしててくれ。

それじゃ紗雪、いってきます

 

「…兄さん」

ぶっきらぼうな字。でもそれが彼らしく、紗雪はその紙切れを抱きしめていた。

到底感動しえる文面ではないが、それでも紗雪にとっては嬉しくてたまらないものだった。

だってそこには。

願っていた未来が。夢が。

もう。

そこまで来ているのだと書いてあったのだから。

 

 

 
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